1806-22-1297-6/28メルマガブログ転送ルーズベルトとスパイ

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(見出し)
FDRをまだ褒めそやすアメリカ人歴史家が多い。しかしF・D・ルーズベルト大統領
ほど劣悪で莫迦な大統領はいなかった。「歴史修正主義」が正しかった

(私のコメント)
フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、アメリカ32代大統領で、任期は1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)だった。
丁度日本が敗戦の道を歩む時期の敵の親玉だったわけで、この人によって日本は滅亡した。
だが、日本はこの人と戦ったのではなく、実はこの親玉の背後に隠れたソビエトロシアのスターリンと戦ったのだ。
スターリンは当時世界に蔓延していた共産主義マルクス主義宗教信仰を利用して、世界各国に謀略を張り巡らせた。
ルーズベルト大統領は就任するとすぐソビエトロシアを承認したように、一貫して容共的だった。
そこをうまく利用されて側近は皆ソビエト共産党シンパだった。
ルーズベルト自身は共産主義を理解するほど頭の良い人でなく、理解するふりをしてインテリらしく見せようとしただけだ。
母親のサラという人の影響が大きいのだが、この母親の祖先はシナでアヘンなどを売って儲けた資産家でシナびいきだ。
後に日本と戦った蔣介石国民党政権に莫大な援助を与えて、日本と敵対した。
父方の祖先はオランダのユダヤ系で、代々民主党支持だった。
日露戦争当時大統領だった26代セオドアルーズベルトは遠縁のいとこに当たる。
セオドアの方は共和党で、日本に対して融和的だった。
一般に共和党の大統領は親日民主党反日だ。
オバマ大統領は民主党で親中反日で、今のトランプは共和党だから反中親日だ。

フランクリンDルーズベルトは大統領就任してすぐ「ニューディール政策」を行い、経済を立て直そうとした。
だが、大規模な公共事業は財政赤字に比べて回復は思わしくなく、打開するためには戦争を必要としていた。
かれは実は戦争をしたくてしょうがなかったのだ。
それで日本をことさら追い詰めて挑発した。
その対象が中国満州問題だった。
FDRの前任者大統領である、ハーバートフーバーは共和党だったが、日本に理解を示していたから、それほど軋轢はなかった。
だから、この大統領になってから日本は追い詰められたのだ。
日本はアメリカとソビエトの連合軍に敗れ去り、それが現在も続いている。
ソビエトは崩壊したが、共産主義はしぶとく生き残り日本のマスゴミや教育を支配している。
日本はまだ敗戦による勝者支配が続いている。

 

(私のコメント終)
(引用開始)

2018年6月26日 火曜日

◆「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 6月26日

 「ベルリンの壁」を造語したチャーチルは、それで敗北を認めた
  FDRは二人の共産主義スパイに操られ、米国外交を完全に誤った

  ♪
渡辺惣樹『第二次世界大戦 アメリカの敗北 』(文春新書)
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 FDRをまだ褒めそやすアメリカ人歴史家が多い。しかしフランクリン・D・ルーズベルト大統領ほど劣悪で莫迦な大統領はいなかった。
FDRは神聖ローマ帝国の版図をごっそりとスターリンに贈呈し、さらにシナを共産主義者に売り渡した。
ところが戦後のアメリカでは、FDRはJFKを超える偉大な大統領だったとし、真実をいう歴史家やジャーナリストに「歴史修正主義」というレッテルを貼る。マッカーサーニクソンらが展開した共産主義のスパイ摘発も、左翼ジャーナリズムが「赤狩り」などと批判している裡に有耶無耶になり、ハリウッドは依然として赤の巣窟である。
 だが、そのねじ曲げられた嘘も、いよいよ歴史学的に通用しなくなった。
長らく覆い隠されてきた歴史の真実が、遅きに失したとはいえ、つぎつぎとあらわれてきた。
 真珠湾が日本のだまし討ちではなく、FDRが暗号を解読しながらハワイの司令官には知らせず、意図的に日本の奇襲を誘い出して、一気にアメリカの世論を対日参戦にもっていった陰謀であったことも、いまでは広く知られる。
 これまで薄々は気づいていたが、証拠がなくてFDR批判に精彩を欠いたのも、アメリカが機密情報を公開しなかったことが大きい。
 フーバー元大統領はFDRに騙されていたことに気がついて、長い年月を掛けて『裏切られた自由』(邦訳はやはり渡辺惣樹氏、草思社)を世に問うた。
 そしてもう一つ。
 FDR政権に潜り込んだ共産主義のスパイが、巧妙に上役に取り入って政権を操り、外交を操り、いずれもがスターリンに繋がっていたことだった。そして「ヴェノナ文書」の開封によって、すべての謎が白日の下に晒された。
 「歴史修正主義」が正しかったのである。
 米国を誤った道に陥らせた世紀のスパイはFDR政権で高官になりあがったホワイトとヒスである。
 
 本書は渡辺氏が、出そろった証拠を適宜駆使しつつ、この二人の大物スパイの行状に焦点を充てながら近現代史の再叙述を試みる意欲作である。
 まずはホワイトである。
 「かれはモーゲンソーの右腕としてたちまち頭角を現した」。
というのも、FDRは無学で歴史に無知であり、そのうえ「勉強嫌いで、専門のはずの歴史学でも戦史本を読む程度であり、経済学には全くの無知だった。FDRは『馬の合う』お友達モーゲンソーを財務長官に登用した。モーゲンソーも出来の悪い学生であり、経済学の素人だった。それがホワイトの出世に有利に働いた」のである(37p)。

 フーバー元大統領は戦後のドイツを視察して食料援助をきめた功労者、ヒューマニストだが、トルーマンはフーバーの報告に基づいてドイツ緊急援助を決め、怪しげなモーゲンソー計画を取りやめて、『マーシャルプラン』に移行した。
 「トルーマンは、ただただドイツを憎む二人の男(モーゲンソー、ホワイト)の復讐心がつくった」戦後復興計画の愚かさを認め、とくにモ?ゲンソーを「煉瓦頭の能なし、くそもミソも分からないきちがい野郎」(57p)と罵っていた。
 なぜこれほど彼らはドイツを憎んだか。
ふたりともユダヤ人であり、復讐心に燃えていたからだ。「敵の敵は味方」とばかりにスターリンに機密を売り渡していた。まわりにもスパイはごろごろといた。
 けっきょく、病気がちのルーズベルトの信任があつかったので、国務省の頭越しに、外交は、モーゲンソー財務長官が仕切る場面が多く、「対日最後通牒であるハル・ノートの原案はハリー・ホワイトが書き、ドイツ農業国化政策(モーゲンソー・プラン)は、モーゲンソーとホワイトが立案した」(192p)。
 ヤルタ会談勝利者スターリンだが、「FDRが人生最後の場面で、その夢(国連をつくり代表となること)の実現のためには何もかも犠牲にしても構わないと覚悟していることを、二人のスパイ(ホワイト、ヒス)を通じてわかっていた」(147p)。

 ▲ホワイト、ヒス、そしてモーゲンソー

 もう一人のスパイ、アルジャー・ヒスは苦学してハーバード大学に学んだが、同大学教授でFDR政権に影響力を発揮したユダヤ人のフェリックス・フランクファーターの薫陶を受けた。
 「多くの門下生を」フランクファーター教授はFDR政権中枢に送り込む役割を果たした。なかにはディーン・アチソンらがいた。
 すでにヒスがスパイであることはFDRに伝えられたが、それを伝えたバールにFDRは、『その辺の湖に飛びこんで頭を冷やせ』と叱責した。

 チャーチルもまた敗北者となって英国を没落させた。戦後、訪米したチャーチルトルーマン大統領は大統領専用車に招待し、地元の大学で講演をさせている。
 「バルト海のシュテェチン(現ポーランド)からアドリア海トリエステ(現イタリア)まで、ヨーロッパ大陸を横切る『鉄のカーデン』が降ろされた。(中略)西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」
チャーチルは吠えたが、時すでに遅かった。
 「英国はナチスドイツとの戦いで国富の四分の一を失った。英国の対外負債は140億ドルにも上り、ケインズは、『英国の外貨資産は底をついた。五年以内に国家破産する』と警告していた(1945年4月)。その結果がブレトンウッヅ体制であり、世界を支配する通貨はポンドからドルに完全に取って代わられた。チャーチルの『敵の的は味方』とする単純な思考がもたらした英国の没落であった」。(321p)。

 そして、本書にはもう一つの深読みがある。
アメリカは英国の没落を究極的に意図して対のではないのか、という中西輝政氏が提議しているFDRのかくされた意図、つまり世界通貨の覇権をにぎるためには英国を対独戦に挑ませ、その国力を破壊することではなかったのか、という深読みの発想も下敷きになっている。


(私のコメント)

アメリカは第二次世界大戦において、本土が戦争に巻き込まれることはなく、戦争の勝利しましたが、ヨーロッパとアジアは大変な戦争被害がもたらされた。ヨーロッパと日本が戦災で疲弊した半面で、アメリカは武器を売りつけて大儲けをした。その意味では濡れ手に泡のうまい話だったのです。

アメリカのFDルーズヴェルト政権は、ロシアの共産主義政権とは親密な関係であり、FDルーズヴェルト政権は共産主義のスパイに乗っ取られた政権だとも言えるようだ。ロシアの共産主義政者を資金援助したのも、中国の共産主義政権誕生に力を貸したのもアメリカであり、FDルーズベルト政権は親共産主義政権だった。

戦後の間もない頃は、アメリカから共産主義かぶれのアメリカ人がやってきて、日本では公職追放が行われて、共産主義者が大学教授などに入り込んでしまった。ソ連が崩壊するまでは、共産主義が進んだ政治体制だと信じ込まされていて、学生たちは共産主義の大学教授にイデオロギーを吹き込まれてしまった。

私が大学生の頃は、そのような学生運動が一番盛んな頃であり、日本も共産主義政権がいつ誕生してもおかしくはないような冷戦体制だった。日本人の多くはソ連や中国のような独裁体制は望んでいなかったが、共産主義に対する幻想はマスコミなどを通じて揺るがなかった。インテリほど共産主義にかぶれていた。

しかし私はソ連共産主義体制は経済的に破綻しており、行列を作らないと物資が手に入らないような体制は先がないことは見抜いていた。ソ連は独裁体制であり情報を統制していては、近代工業化に適応できないことは明らかだ。だからソ連は70年あまりで崩壊した。

アメリカは共産主義中国の誕生にも大きく関わってきましたが、これほどソ連や中国の共産党政権に深く関与したにもかかわらず、アメリカは戦後まもなく中ソの共産主義と対決することになった。冷戦の始まりですが、朝鮮戦争でそれは表面化した。ヨーロッパでも鉄のカーテンがひかれて、アジアもヨーロッパも分断された。

アメリカでも共産主義者への追放運動が起きましたが、多くのソ連のスパイが摘発された。アメリカは大きくぶれる国であり、同盟から敵対関係になる事は珍しくない。日本もアメリカの気まぐれな外交に振り回されてきた国であり、アメリカの動向には注意していかなければなりません。

このような事が起きるのは、親共産主義民主党と、反共主義共和党という二つのアメリカがあるからであり、民主党政権では中国には融和的であり、共和党政権では中国に非融和的なのは、イデオロギー的な対立があるからだ。太平洋戦争に突入したのも、日本に原爆を落としたのも民主党政権であり、米民主党反日外交は歴史の因縁が絡んでいる。

この事は、2004年の株式日記にも書いてきましたが、二つのアメリカは水と油だ。


反日民主党のF・D・ルーズベルト大統領は日本へ18発もの原爆投下を承認していた。しかし共和党は日本との戦争にも反対し、分割占領にも反対していた。 2004年11月29日 株式日

 


(引用終了)

(優秀メルマガブログ紹介)

(見出し)
今回「第六章「日本文化」の神髄」
(本の紹介)

山村義明著
日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか


(私のコメント)

(前回)

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1806-10-1285-6/10メルマガブログ転送山村義明著神道説明8
今回「第六章「日本文化」の神髄」

(私のコメント終)

 


(引用開始)

(前回の要約)
第五章 「日本神話」と「祭り」の世界

1.「古事記」と「日本書紀」は、両方合わせて「記紀」と総称する。
成立してから約1300年経つ。古事記天武天皇日本書紀持統天皇の時代に成立したと言われる。

2.記紀面白い見所が沢山あるが、ベストテンを選ぶと次の通りになる。
天地開闢、天地の始まりに関する神話
古事記にある「天地開闢の時に高天原に成りませる三柱の神が現れた」という記述

②いざなぎいざなみの国産み神話
天神(あまつがみ)による「修理固成」の命

③いざなぎいざなみの黄泉の国神話
死と蘇り

天照大神須佐之男命(スサノオノミコト)および月読命(つくよみのみこと) 三貴子誕生。
宇気比(うけい)誓約神話

⑤天の岩戸(天之岩屋戸)神話
天の明暗

⑥出雲のヤマタノオロチ神話
大国主命による国生み、国づくり神話と国譲り神話

⑧高千穂への天孫降臨神話
邇邇芸命(ににぎのみこと)と三種の神器の神話、海幸彦山幸彦などの日向(ひゅうが)四代神話

⑨神武東征
日本国家の誕生と成立

⑩倭建命(日本武尊)(やまとたけるのみこと)の東夷、熊襲征伐
武勲と悲劇

3.日本書紀は漢文で書かれている。当時の強大な帝国である唐を意識したものだ。
日本書紀の編纂を始めた天武天皇は、663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)後の日本再建を目指していた。
日本を立て直すために「倭」を「日本」に変え、飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)と呼ばれる初の律令と官制改革、暦や姓の制度を制定した。
白鳳文化」と呼ばれる建築などの文化、万葉集に代表される和歌を推奨した。
4.西洋の神話と比べた日本神話の特徴は「自然と神と人の関係」に価値観を置いているところだ。

日本神話の神道的精神のエッセンスがあるとすれば次の八項目になる。
①自然と人と神は一体でお互いに影響しあい、それぞれ大切にすべきものだ、ということ。
②国や社会は漂えるもの(ただよえるもの)だから「修め」「理り(つくり)」「固め」「成す」ものであること。
③武芸芸術文化技術を一体として大事にし、自らを磨くこと。
④労働を貴び、働く神々と人の関係を大切にする。
⑤身体だけでなく、心と魂、それに伴う技術を磨き、常に美しく仕上げること。
真に美しい魂は、常に現世の時空間から自由になれ、亡くなった後は人も神になれること。
⑥自らの家族や友人、恋人、配偶者との協力と話し合いの「和」を大事にする。
⑦人間は生きている限り、知力を尽くして明るく自らの困難を切り開き、ときには相手と戦う「武」も否定するべきではない。
⑧常に自らの足元の地域を大切にすること。個人の事よりも周囲のことを大切にして、自分に対しては神々に誓いを立てる事。
これは本来の日本人そのものの生き方と思想です。

5.日本人は言葉を大切にし、和歌をよんだり、祝詞(のりと)を唱えることで八百万の神々と交流を図ることが出来ると考えた。
(私の注;これを言霊信仰という。)
日本語の一音一字に意味がある言葉は世界的に見ても極めて貴重で珍しいものだ。
英語の子音には意味がないが、例えば「ひ」という言葉には「日」「火」という意味がありそのままで通じる。

6.日本は災害の多い国で地震津波、台風、噴火、洪水、等々あって、その為日本人は世界でも有数の自然信仰を持つ国となった。
神道の教えはこの「自然への畏れ」が一つの元になっている。
逆に、自然は日本人に多くの恵みを与え、生活を助けてくれている。
日本人は「自然からの恵み」「自然への畏れ」を信仰として持ち、自然の偉大さに比べれば人間は小さく「大きな存在によって活かされる存在」と理解している。
この為、日本人は「自然と共生し、共存しなければ生きていけない」と気づいている。
これらが神道の教えになっている。
日本人はこの日本列島で数千年の間、自然に逆らわずに秩序正しく働き、さらにお互いが困った時に助け合える民族であり続けた。
そうして、日本列島で繁栄したのだが、その繁栄の元は上記の神道による教えとそれに伴う伝統文化「しきたり」に従って生きてきたことにある。

7.日本列島の中心線に沿って、地震が極めて起きやすい大断層がいくつもある。
注目すべきなのは、この中央構造線断層帯の真上や周辺には必ずと言っていい程、「古社」と呼ばれる古い神社や「一宮」と呼ばれる神社がある。
これらの「古社」は交流があり、又神社の氏子を中心に助け合い組織が形成された。
活断層により地震が起き、日本列島がばらばらになることを防ぎ、又日本人の心をつなぐことを神道は懸命に続けてきた、ということになる。
地震は逃げられないから「自らが活かされていることに感謝し、今を一生懸命に生きること」を古代から日本人は考えた。
いざ災害になったら、心を合わせて前向きに復興に立ち向かう強い精神性を育むほうがより健全だ。
その強い精神性の役割を帯びてきたのが日本の神社であり、神道の本質でもある。

8.山、鉾、屋台などは神様の「依り代」だ。
神様の「依り代」(よりしろ)は神様が降りてきたりする居場所そのものや乗ったりする乗り物の場合がある。
神道では、基本的に自然の中の木々である「神籬(ひもろぎ)」や、岩や石などの「磐座(いわくら)」そして幣帛(へいはく)や玉串など何かの「依り代」がないと神は降りて来られない、ということになっている。
御神輿(おみこし)は神様ののりもので、英語では「ポータブルシュライン」という。
日本では、神様と共に踊りや催しもので神々に喜んでもらう、すなわち神様をもてなす、というのが基本的な考えだ。

9.生産過程の最終段階で地域の共同体に住む人々がより集まり、気分を一新して(禊祓)力を合わせて物事や災厄の悪い状況を変えようとするのが祭りだ。
つまり、地震や台風などの自然災害の時の共同体の対応を予行演習しているのだ。
(第五章終)


(今回はここから、引用開始)
第六章日本文化の神髄
1.大嘗祭(だいじょうさい)
新しい天皇陛下皇位継承の儀において元も重要だと言われる儀式。
記紀に書かれている神代に遡れるもの。
毎年11月23日に行われる新嘗祭(にいなめさい)を新しい天皇が最初に行うのを大嘗祭という。
2.神楽
天の岩戸にお隠れになった天照大御神の気を引くために、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が舞を踊る神話が最初と言われる。
古事記では「榊と笹の葉を持ち、胸を開き、裳裾のひもを女陰の前に垂らして神がかりして踊った」とある。
神楽には宮中で行なわれる「御神楽(みかぐら)」と民間の「里神楽」がある。
御神楽では天宇受売命の子孫と呼ばれる猿女氏(さるめし)が」11月23日の新嘗祭の前日に執り行われる鎮魂祭で舞を踊ってきた。
里神楽は、巫女神楽出雲流神楽伊勢流神楽獅子神楽などがある。
3.歌舞伎
歌舞伎の始まりは出雲阿国で恐らく巫女神楽が元になっているのだろう。
建て直された歌舞伎座には歌舞伎稲荷神社がある。
4.能狂言
そもそも能は当初は神々に見せるもので、人々が見るようになったのは観阿弥世阿弥父子が現れた室町時代からだ。
5.シンプルイズベスト
神道は簡略に次ぐ簡略、省略に次ぐ省略を重ねて物事を常に単純化させる思想がある。
キリスト教などの宗教は、物事の成り立ちを精緻に理論化し、細かく複雑化させるが、神道は極めてシンプルに考える。
「清浄」「美しい」「明るい」というような感覚を重視し、理屈は考えない。
単純素朴なものほど真理があり、真理は感じるもので理屈でない、と考える。
例えば、月が美しく輝いているとき、そこに神々を感じとれる感覚だ。
その点、能は単純性において極めて神道的な芝居だと言える。
能の演目は
1.神(翁(おきな)、三番叟(さんばそう)など神楽に近い演目)
2.修羅物(武将が出てきて戦いなどを演じる)
3.女(源氏物語などを題材にした恋愛物など)
4.物狂い(「隅田川」や「三井寺」の狂女などが出てくる演目)
5.鬼(「安達ケ原」「紅葉狩り」などの鬼が出てくる演目)
昔は一日に上記の五番の能を演じたから、見るのも大変だった。
能はどこかに神がある、という意識がないとその良さが分からない。
(私の注;能舞台の奥の羽目板に大きく松が描かれているが、あれはそこに神がおわす、ということになっている。)
特に最初の「神」は「翁」という演目から始まる。
「翁」は天下泰平、国土安全、五穀豊穣を祈願する神事です。
能が完成する以前の古形を残している祝言の舞いで、能の根本芸だと言われる。
演じる能役者は神職が行うのと同じような精進潔斎して舞台に臨む。
6.日本刀
日本刀の最初は記紀の神話の世界で、スサノオの命が出雲の「簸の川(ひのかわ)」でヤマタノオロチを退治して、その尾から剣が出てきたのが始まりだ。
その剣を「天野叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」という。
その後、日本武尊(やまとたける)の代になって「草なぎの剣」と言われ、今は熱田神宮のご神体になっている。
日本の伝統文化には必ずといってよいほど、神道の精神が入っている。
刀剣には神々が宿る、とされ、実際に神社に奉納されて祀られた刀も多い。
日本刀は平安時代から大きく変わった。
記紀古事記日本書紀)は「刀」の表記はなく殆ど「剣」です。
平安時代頃に切っ先鋭く、反りの入った現在の日本刀が出来上がり、鎌倉時代に完成した。
なお、「剣(つるぎ)」は両刃で「刀(かたな)」は片刃になっている。
7.神道の葬送について
「死んだら天国に行く」というのは、キリスト教イスラムユダヤ教などの他界観で、しかもそう簡単には天国に行けない。
仏教は涅槃や浄土に行くためにお葬式をし、仏弟子になって戒名を付ける。
神道は亡くなると「自然回帰」する、という考え方で、現在行われている樹木葬や散骨葬はそれに近い。
神道では人が亡くなると「帰幽」と言って、葬式は「帰幽祭」と呼び、この神道による葬儀を「神葬祭」と呼ぶ。
「帰幽祭」とは、神社の神主が、帰幽された方の生前の功績を称え、「帰幽奏上に関する祭詞」「霊魂安定詞」「大祓詞」などを唱える。
そして、白木の「霊璽」(れいじ)に故人の霊魂を移す、という「遷霊祭」(せんれいさい)が執り行われる。
神葬祭は、今は基本的に火葬で行われていますが、昔は土葬だった。
本来の日本人は、身体は山や海などの自然、または自分たちの祖先のもとに帰る、と考えた。
国学者柳田国男は「日本人は根の国に帰ることを考えた。根とは地下のことではなく根本の意味で、根の国は祖先の国、民族の故郷である。」と言っている。
8.茶道や生け花にも神道は生きている。
生け花は、きれいな花を活けることによって、そこに神様が降りてくる、と考えたものだろう。
9.日本の伝統文化の中心に神道があり、その周辺に「間」ができる。
その「間」は、日本的な曖昧な時空間や場所を指し、何もかも包含するような寛容性を持ちます。
多くの日本人がイエスかノーかの二者択一的な考え方をあまりしないのがその表れです。
これは日本人の欠点として、指摘されてきたが、人間はわからないことが多いから「間」というものを重視するからそうなるのです。
例えば、「お茶の間」は、家族や来客がお茶を飲んで団らんするような大きな空間です。
茶道ではその空間を極端に狭い「間」で抹茶を飲む。
華道では花と花との「間」を重視する。
この「間」は時間的なものを含み、「間が良い」「間抜け」という言い方をする。
神道では、八百万(やおよろず)の神々のもとに、自然や人が集まり緩やかに共存し、共に栄える、と教える。
時間的にも空間的にも、神々や人との間は、「間が大事だ」と言う考えを日本人は持っているが、これは神道的な考え方だ。
(第六章終)

 

 

 

 

 

 

1806-19-1294-6/23メルマガブログ転送般若心経

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親子チョコ?(親子で、ちょこっと。。。)
「日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか 単行本 ? 2000/7/1小室 直樹 (著)」の解説
(見出し)
本来の仏教からは、完全に逸脱している「般若心経」
2018-06-16

(私のコメント)
前回は宗教を「啓典宗教」とそれ以外の宗教とに分ける考え方を解説したものだった。
(引用)

【「啓典宗教(revealed religion)」】とは、【啓典(正典)を持つ宗教】である。【ユダヤ教】、【キリスト教】、【イスラム教】は啓典宗教である。【仏教、儒教ヒンドゥー教道教、法教(中国における法家の思想)などは啓典宗教ではない】。

「啓典」とは、【最高教典】のことである。

 「啓典」は、【絶対である】か、【ほとんど絶対である】。
イスラム教における【『コーラン』(クルアーン)】、キリスト教における【『福音書(ふくいんしょ)』】(『新約聖書』の「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の四福音書)、ユダヤ教における【『トーラー』】(モーセ五書。『旧約聖書』の最初の五巻。すなわち、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)は啓典である。

 この意味での啓典は仏教にも儒教にも、ヒンドゥー教にも、道教にも法教にもない。ゾロアスター教マニ教などにもない。

(引用終)
キリスト教に入信すると、「あなたは神を信じますか」と聞かれる。
「はい、信じます」と答えないとキリスト教徒になれない。
ここで言う神とは啓典宗教として絶対的経典となる「聖書」に定義された神を信じるか、と聞かれているのだが、日本人は得てして誤解する。
自然に何となく畏敬の念を抱く直観的な神を想定してしまうのだ。
そうではなく、「信じるべき神」とは聖書に書かれた論理的に存在が証明されている神のことだ。
当然聖書を読んでどういう神か知ったうえで「信じます」といわねばならないが、日本人はそういう理解がないのではないか。
では、日本人の理解する神とは何か。
それを端的に表すのが下記の「般若心経」だ。
般若心経には日本人の宗教観が現れていて、啓典宗教の絶対的最高経典とは異なる。
このブログによれば、それはインドの仏教とも違うそうだから、日本独自のもの、ということになる。

(引用)

さて、昨日のところで、日本へと伝わった「仏教」が、その当初から国家統制下にあった、つまり僧尼は国家から免許を交付される「国家公務員」でしかなかく、
鑑真が伝えた、本来の仏教が重視する仏教徒の務めである「戒律(かいりつ)」が、やがて無くなってしまい、
本来の仏教とはまったく異なった「日本独自の仏教」へと発展していきます、と書かせて頂きました。
(引用終)
上記の引用の通り、律令制度を取り入れたのだが、全て日本に合わせて変えられてしまった。
例えば、鎌倉時代以降の日本を支配した「征夷大将軍」は令外官といわれて、律令制度には無い職種だ。
このように日本は外国の文物を皆日本に合わせて作り替えてしまう。
仏教もそうで、日本的に変わった例として、般若心経はそれを良く示している、という。
般若心経で説いているのは「我々の住む世の中というのは、全て空である」ということだ。
啓典宗教の「神を信じるか」という話とは全く違う、ということが良く分かる。
神様がいる、というのと「空」だ、というのでは真逆のことだ。
ただし、「空」とは「無」ではない。
「無」だとニヒリズム、すなわち「価値の喪失」に繋がってしまう。
般若心経の言う、「空」とは無でもなく有でもない、無でもあり有でもある、それらを超越したものだ、という。
禅宗ではそれを「直指人心」「見性成仏」「不立文字」と言って理屈でなく、感じ取るものだ、と教える。
そこに理屈で確立した神を信じる、という要素は無い、というよりそれを全く否定している。
そして、本来のインドの仏教は大変な修行をしてその境地に達する、ということになるが、日本の仏教は「お経を唱える」又は「お経の題名を唱える」だけでよい、としてしまった。
なお、大変な修行を要する、という点では仏教が南方に伝わったビルマやタイの仏教である小乗仏教上座部仏教)が本来の仏教からすれば正当であることを示している。

日本の仏教は、ますます一神教の神、啓典宗教の神からは遠くなってゆく。
(引用)

啓典宗教においてはどの宗教においても、例えば【神が存在しない】といったらこれはキリスト教徒ではない、イスラム教徒ではない、ユダヤ教徒ではない。そのため、キリスト教の神学テキストなどを読んでみても、【神の存在の証明】にそれはもう厖大(ぼうだい)なページが割かれている。
(引用終)

上記引用の通り、啓典宗教である一神教では「神が存在する」ということが前提になる。
逆に、日本仏教の般若心経は「この世は空である」すなわち仏様さえもない(無いというのでなく空)、と言っている。、
だから、キリスト教徒になることは「この世は空である」を否定し「聖書経典に書かれた神を信じる」ということになる。
(引用)
この古代ギリシャから始まり、以後、近代に至るまで西洋哲学の中心となった「存在論オントロジー)」は、簡単に言いますと、その対象が「在るのか無いのか」という問いに対して、「在る」のであれば、その普遍的な根本となる原理を頭を使って考え認識していくという学問になります。

で、本文中に書かれていた「啓典宗教は、存在論、すなわちオントロジー(ontology)に貫かれている。」という部分は、「啓典宗教」においては、まさしく「神が存在するのかしないのか」というところから出発し、「神は存在する」とした上で、そこから世界の普遍的な根本となる原理を考えていこう、という流れになっていて、その際に、矛盾が生じないように論理的に考えていく作業が行われます。

つまり、「啓典宗教」というのは、非常に論理的に構築されているものということになります。
(引用終)
般若心経は上記引用の通り、「存在論」の否定から始まっているがら、真っ向から対立するものであるが、重要なのは「存在論」が非常に論理的数学的に構築されたものだ、という点だ。
ここを日本人は見誤るから気を付けないといけない。
大東亜戦争で負けたのも、明治維新で黒船に結局勝てないで開国したのもこの論理的、ということが分からなかったからだ。
ないしは分かっていても日本的に解釈してしまったからだ。
これは長くなるので話をここまでにするが、日本と日本人の歴史文化を理解するうえで重要なことだ。
現在の北朝鮮や中国、トランプさんの動きの背後には、こういう宗教を理解しておかないと分からないことも多い。
共産主義マルクス主義なども宗教から一番遠いようだが、実は宗教そのもの、新興宗教の一種と理解した方がよいのだ。
もう少し当ブログの宗教に関する部分を引用してみよう。

 

(引用)

一昨日のところで、「般若心経」、正式名称は「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみったしんぎょう)について書かせて頂きましたが、そこで説かれている教えを簡単に示しますと、次のようになります。

まず、「色不異空、空不異色」、「色即是空、空即是色」、すなわち「物質 = 空(くう)」という真理を悟ることが重要である、と説き、続いて、

その真理を悟る仏も、悟ろうとする菩薩(=修行者)も、「智慧波羅蜜」に依拠している、と説き、続いて、
 
だから、「智慧波羅蜜」という呪文を唱えよう、そうすれば成仏できる、と説いています。

波羅蜜(はらみつ)というのは、大乗仏教の経典である「般若経」に書かれた「6つの修行」のことで、①布施(ふせ:人々に施すこと)、②持戒(じかい:戒律を守ること)、③忍辱(にんにく:耐え忍ぶこと)、④精進(しょうじん:努力すること)、⑤禅定(ぜんじょう:いわゆる座禅のこと)、⑥般若(はんにゃ:知恵の意。「論理的」に考え真理を悟ろうということ)、であり、その中で最も重要なのが⑥の般若、つまり「智慧波羅蜜」という修行になります。


(引用終)
上記を要約すると、般若心経は
1.「物質は空である」という真理を悟こと
2.その心理を悟る仏と悟ろうとする修行者である菩薩は、「波羅蜜」に依拠している。
3.「波羅蜜」とは知恵によって真理を悟る、すなわち論理的に考えて真理を悟ろうとすること、を言うのだが、それを修行によって達成する、という意味も含む。

つまり、修行によって智慧を働かせ、真理である「空」をさとる、ことになる。
そういう悟るための修業をしているのが菩薩で、皆そういう修行をしよう、というのが般若心経の趣旨になる。

ところがここから急に話が変わってしまうのだ。
4.「波羅蜜」の呪文を唱えれば仏様になれる。
という文言が最後に付け加えられていて、般若心経の最後のところでどんでん返しがあるのだ。
どうして呪文を唱えたら真理が悟れるのか、論理的な説明がない。
ここが、実は日本仏教だ、ということだ。

(引用)
呪文を唱えるだけで、仏になれる、とは、本来の仏教では説かれてはいません(笑)

「呪文を唱える」ことと、「仏になれる(成仏)」こととの間には、何ら論理的な、「数学的」な要素がありません。

仏教の信仰の問題とは関係なく、私たち日本人は、このことを理解しておく必要があります。
(引用終)
呪文を唱えればよいなら、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも成仏できるし、何より般若心経を唱えれば成仏できることになる。
じつは武士たちは、これがとても都合が良いのだ。
武士は敵を殺さないといけないが、殺すと恨みをかって「たたり」があるといけない。
例え敵でも殺すのはうしろめたいが、般若心経を唱えれば殺された敵でも成仏できるのだから心の呵責を軽減できる。
日本で般若心経が一番普及した背景にはこんな事情もある。

啓典宗教である一神教は神の存在が生命線だから、こういう曖昧な呪文なんてことでは成り立たないのだ。
「呪文を唱えれば神が現れたり、神になれる」なんて説いたら、だれも入信してくれないのだ。
「じゃ俺がぶん殴るから呪文を唱えてみろ」なんて言われたらお終いだ。
そこで啓典宗教であるキリスト教は何世紀にもわたって巨大な理論的構築物をこしらえて、どんなことにも答えられるようにした。
所が、その巨大理論である神学哲学は日本には入らなかった。
なぜならどんなに理屈を言っても結局「神を信じるかどうか」になってしまうからだ。
つまり、神が存在する、という前提で巨大な理論的建造物が出来上がっているのだ。
般若心経とは根本のところで逆方向に進んでしまっている。
それでは、どうして日本は呪文を唱える、という方向に行ってしまったのか。
それは、私見だがプロとアマの違い、エリートと非エリート、知識人と一般大衆、専門と一般人例えば僧侶と信徒、というような区分けをすればわかるのではないか。
般若心経で言えば波羅蜜(知恵)で修行する菩薩はプロ、エリート、知識人、専門家だ。
そして呪文をとなえて成仏するのはアマ、非エリート、一般大衆、信徒ということになる。
これは、共産主義なんかにも言えることで、東大を出たエリートなど働かない知識人に限って共産主義が大好きで、頑強に信じてしまう。
ところが、共産主義は労働者階級「独裁」を説くのだが、その労働者階級は共産主義者にならない、という不思議な矛盾がある。
これは啓典宗教と般若心経で簡単に説明がつく。
つまり、エリートにとっては啓典宗教はとても都合がよいのだ。
どうして都合が良いかといえば、最高経典を勉強したり暗唱して良い成績を修めれば社会の一番上に行けるからだ。
簡単に言えば、記憶力が高い人間が一番偉い、ということになるからだ。
逆に記憶力のそれほどない一般人は、呪文のほうがありがたいのだ。
前の共産主義で言えば、労働者階級は独裁なんて事よりも今日の糧の方が大事だ。
独裁より今豊かで幸せならよいのだ。
これは般若心経のように、呪文で悟った気分に(当面だけだが)なれた方が良いのと同じだ。
落語に「小言念仏」という演目があるが、一般人はあれでよいのだ。
念仏を唱えて安心成仏、有り難い気分になれば、神が居ようと居まいと、この世が空であろうと無かろうと関係ないのだ。

但し、ここで注意しておかないといけないのは、西洋キリスト教文明は論理的な説明、数学的な説明がしっかりしている、ということだ。
そして、それと反対に日本はそういう論理的数学的な理屈展開に弱く、安易な呪文の方に行ってしまう、という欠点があることだ。
ここを知っておく必要がある。
長くなるのでここまでにします。


(私のコメント終)
(引用開始)


(前回からの続き)
最澄が開創したのが、あの有名な「比叡山延暦寺」です。
その天台宗の最高経典は法華経です。そして、「根本法華」として重視される「般若心経(はんにゃしんぎょう)」という経典がありますが、僅か300字足らずの本文に「大乗仏教」の心髄が説かれているとされ、複数の宗派で読誦(どくじゅ)経典の一つとして広く用いられています。

ちなみに、この般若心経の正式名称が「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみったしんぎょう)で、インドの修行から支那へと持ち帰ったのが、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)になります。

それでは、ここで、折角ですので、その般若心経には、どういったことが説かれているのかを確認しておきましょう。

以下は、Wikipediaからの抜粋ですが、ところどころ解説を入れておきます。

「 観音菩薩が、深遠なる「智慧波羅蜜」を行じていた時、

智慧は知恵、波羅蜜波羅蜜多は修行。

〔命ある者の構成要素たる〕五蘊はすべて〔いかなる本質、実体をも〕欠いていると明らかに見て、

五蘊(ごうん)とは人間のさまざまな感覚。それが皆、「空(くう)」であることを発見した、という意味。

すべての苦しみと災い〔という河〕を渡り切った。

※一切の苦しみを超越した、という意味。

「シャーリプトラよ、

※シャーリプトラ=舍利子という名の弟子で、観音菩薩がその弟子に語りかけている。

色(肉体)と〔実体を〕欠く〔というあり方〕とは異ならない。〔また、実体を〕欠く〔というあり方〕と色とは異ならない。

※「色不異空、空不異色」とは、物質は「空(くう)」に他ならない、「空(くう)」は物質に他ならない、の意。

色は〔実体を〕欠いている。〔また、実体を〕欠いている〔ものこそ〕が色である。

※「色即是空、空即是色」とは、物質は「空(くう)」であり、「空(くう)」は物質である、の意。さきほどと同様のことを、別の言い方をしているのですが、本来の仏教における非常に重要な部分になります。

受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)もまた同様である。

シャーリプトラよ、

すべての現象(一切法)は〔実体を〕欠いていることを特徴とするものであるから、

生じることなく、滅することなく、汚れることなく、汚れがなくなることなく 

増えることなく、減ることもない。

ゆえに「(実体を)欠くということ」の中には、

色は無く、受、想、行、識も無い

眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、

色、声、香、味、触、法も無い

眼で見られた世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い

無明も無く、無明の滅尽も無い

老いと死”も無く、“老いと死”の滅尽も無い

「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い

「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い

「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い

「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い

知ることも無く、得ることも無い

もともと得られるべきものは何も無いからである

菩薩たちは、「智慧波羅蜜」に依拠しているがゆえに

心にこだわりが無い

こだわりが無いゆえに、恐れも無く

転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。

過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧波羅蜜」に依拠するがゆえに

完全なる悟りを得るのだ。

それゆえ、この「智慧波羅蜜」こそは

偉大なる呪文であり、

偉大なる明智の呪文であり、

超えるものなき呪文であり、

並ぶものなき呪文であり、

すべての苦しみを除く。

〔なぜなら〕真実であり、偽りなきものだからである。

〔さて、〕「智慧波羅蜜」という呪文を説こう、

すなわち呪文に説いて言う:

“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え)

〔以上が〕般若心経〔である〕。」

さて、如何でございましたでしょうか?

この般若心経が説いていることを御理解いただけましたでしょうか?

簡単に申し上げますと、この世のすべては「空(くう)」である。「空(くう)」は「無(む)」と同義ではなく(⇒勘違いしてしまっている日本人が多いのも事実ですが。。。)、「有(ゆう)」でもあり「無(む)」でもあるという概念です。言い換えますと、「有(ゆう)」でもない「無(む)」でもない、それらを超越したところにあるのが「空(くう)」です。

何となく、わかったような、わからないような感じがされるかと思いますが、そのご説明は明日以降にさせて頂きますとして、この「空(くう)」こそが本来の「仏教」で最も重要な考え方であり、それはもう、大変な修業をし、厳しい「戒律」を守り、その境地に達することで、「輪廻転生」という未来永劫グルグルと廻り続ける、「生まれ変わる」というスパイラルから「解脱(げだつ)」し、輪廻転生しない状態、すなわち「永遠の死」とも言える状態になることを目指すのが、本来の「仏教」の教えです。

ですから究極のところ、「仏教」が教えていることは、実在論の否定であり、「仏(ほとけ)さえもいない」とも言えるんです?
ところが、その「仏教」本来の教えが、支那へと伝わるところで変質し、さらに支那から日本へと持ち込まれると、もっと変質してしまいます。

その典型が、仏教の総本山とも言える比叡山延暦寺を開山した最澄以降の日本の高僧たちが、ことごとく修行に必須である「戒律」を撤廃していき、さきほどの般若心経にも見られるように、修行なしでも、単に呪文(=念仏)を唱えれば成仏できるという「日本オリジナルの仏教」へと変えてしまったことです。

 

 

 

 

 

 

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短足おじさんの一言
2018-05-28 15:02

元中国人から見た中国 BY 石平氏
(見出し)

『元中国人から見た中国』

(私のコメント)

(要約)
1.習近平は「中華秩序」を復興させようとしています。
中華秩序とは中国皇帝が世界を指導すること。
この中華秩序の元になっている思想は、儒教から来る中華思想だ。
2.中華思想の中核を占める儒教の特色は二つあって、一つは天命思想、もう一つは中華思想です。
天命思想は、皇帝の統治が天(儒教による森羅万象全ての元)が命じたものだ、という権威付けのこと。
中華思想は、対外侵略を正当化する為の理論で、中華とは一地域のことでなく、世界全体のこと。
天命を受けた天子(皇帝)が、自らの徳をもって諸民族を教化して文明に導く使命を持っている。
(私の注;ここはキリスト教とよく似ている。アメリカも共産主義コミンテルンも同じ。侵略の言い訳はどこも同じになるのだろう。
彼らには侵略する、という考えは全く無いので、その点もキリスト教の宣教師と同じだ。)
3.日本はシナ文明を多く受け入れたが、文化としては上記のような本質的な部分は受け入れなかった。
シナ文明と日本が全く違うのはなぜか。それは日本が意識してシナ文明を受け入れようとしなかったからだ。
4.日本は儒教に対して江戸時代まで冷淡だった。
(私の注;後醍醐天皇は当時の最新思想だった朱子学を学んで実践しようとして失敗した。足利尊氏は結果的にシナ思想を粉砕した)
律令制度も隋唐の軍事的脅威が薄れると、形骸化した。
儒教は受け入れなかったが、仏教は全面的に受け入れ、国分寺をつくり、仏教経典の輸入解釈など国家プロジェクトとして普及に努めた。
5.儒教を受け入れず、仏教を受け入れたのなぜか。
儒教中華思想だから、精神的に中国の属国であることを受け入れなければならない。
仏教はインドで生まれたもので、中国も日本もインドから学ぶ点では同じ立場だ。
仏教によってシナ文明と一線を画することが出来た。
6.仏教はその後日本化して、例えば「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という思想が起きた。
仏教では成仏できるのは、菩薩などごく一部に限られているから、この思想は仏教ではない。
むしろ、神道の「八百万の神」草木国土のどこにも神が宿っている、という考えに近い。
7.江戸時代は儒教が盛んにになり、仏教は大衆化したが傑出した思想家は出なくなった。
儒教も最初は朱子学などが主流だったが、次第にそれに飽き足らず、原典に遡って(さかのぼって)解釈するようになった。
また、本居宣長のように儒教が入っている以前の日本の方が良かったんだ、という考えも出てきた。
本居宣長の主張する「もののあわれをしる」とは「草木国土悉皆成仏」と同じで、全てのものに霊性、魂があるのだ、という。
これが日本人の本来の心だ。
8.シナ皇帝は天命によって統治するが、日本の天皇は「天孫降臨神話」で神の子孫が統治することになっている。
だからシナのように易姓革命(天命が別の人に下る)が起きて皇帝が入れ替わることもない。
(要約終)

 

(私のコメント終)
(引用開始)

(前略)


 しかし情報誌「あすへの選択」のインタビュー記事は『元中国人から見た中国』、こんな視点で見ると実に面白い。日本の思想史とは別に、元中国人から見た中国の考え方と日本の対応策、こんな事が実に良く分かる。
そこで思想史の部分を除外し、中国に関する部分を抜粋し考えてみたい。
尚このインタビュー記事は大変面白いので末尾に全文を引用しておきます。


<以下上掲情報誌より抜粋引用>
 
編集部ーー根つ子になる精神のところでは独立していたということですね。

 石 それは、今日的意味があるんです。
 習近平は「中華民族の偉大なる復興」というスローガンを掲げ、「中華秩序」を復興させようとしています。復興とは、いつの時代に復興するのかというと、アヘン戦争以前の清朝最盛期の時代です。中国は近代になって、中国を中心とする天下の秩序を西洋列強と日本に潰された、あるいは奪われたと考えていて、その失ったものを取り戻したい。その中には尖閣・沖縄も含まれます。だからこそ、どんどん出てくるわけです。もちろん、そんな勝手な主張を日本が認めることはあり得ない。
 また、天下を取り戻すというからには当然、「天子」が必要です。だから、習近平は天子すなわち「皇帝」にならざるを得ない。現に、中国国内では習近平を全知全能の偉大なる指導者として「神格化」する動きが広がっていて、まるで毛沢東文化大革命をやった時のように、老人にも幼児にも礼賛させています。人民日報に至っては「習近平思想が世界を指導すべきだ」とまで主張しています。「そんなこと誰も頼んでないよ」と言いたい。
 ただ、中華秩序を取り戻すということは、アメリカが主導する世界秩序や価値観でさえ潰さなければならないということだから、習近平の中国は、軍事、経済、外交、文化、あらゆる面で「力」を持とうとしているのは事実です。それに対抗するためには、日本にも強固な国防体制や外交戦略が必要ですが、それと同時に、やっぱり精神の独立が必要だと思うんです。

天命思想・中華思想

ーー その精神の独立のプロセスというものを、少し紹介して下さい。
・・・中略
その特色(注:中華思想の中核を占める儒教のこと)は二つあって、一つは天命思想、もう一つは中華思想です。
 天命思想とは、天が森羅万象の主ではあるけれども、人間世界を直接支配しないで、代理人に命じて統治させる。その代理人が天子すなわち皇帝です。しかも、皇帝の一族は代々その地位を受け継ぐことができる、という考え方です。
 なぜそういう考え方が必要だったかというと、王朝に権威をもたせるためです。漢王朝の皇帝は、日本の天皇とは違い、神話とは何の関係もない。だいたい漢を創ったのは劉邦というならず者ですからね(笑い)。

ーー もう一つの中華思想とは。

 石 これは対外侵略を正当化するための理論です。
 武帝は中国の国内を安定化させた後、全面的に侵略戦争を始めます。ベトナムを占領し、朝鮮半島の大半を占領し、アジアの多くの地域を占領して版図を広げた。中華とは地球上の限られた一地域ではなく、天下すなわち世界そのものです。また、天命を受けて天下を治める天子は、天下というものを無限に拡大できる。天下には境界線は無い。だから、中華が行う侵略は侵略ではない。
 さらに、天子は世界のすべての地域を支配すべき存在だから、天子としての皇帝は、自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明に導く大いなる使命を背負っている。だから侵略された方は、天子様が来たらむしろ喜んで受け入れないといけない。

ーー なんとも迷惑な話ですが、中国では王朝が何度も交替していますよね。

 石 皇帝の失政によって天下が乱れた結果、誰かが反乱を起こして前の王朝を潰し、新しい王立てる。それが易姓革命で、これも天命思想の一種です。
 例えば、天が代理人として指名した劉一族が堕落して徳を失えば、天が別の代理人を指名する。現実には、天が指名するのではなく、実力で劉一族の天下を覆して天下を取った者が、「俺が天から指名された新しい天子だ」と名乗る。中国の歴史は延々とその繰り返しです。
・・・以下略・・・
<抜粋引用ここまで>


 最初に中国はアヘン戦争以来、西欧・日本に潰された、あるいは奪われたと考えていて、その失ったものを取り返したい。その中に尖閣・沖縄も入っている。こんなくだりです。
こう見てくると中国が尖閣に執拗に侵入を繰り返すのも、沖縄に傀儡知事を擁立し、何とか沖縄を独立させ、その次は併合を狙っているのも良く分かります。


沖縄問題に関しては、例えば以下のブログ
 「国内に植民地を持つ国 2018-02-08 16:40」
http://tansoku159.blog.fc2.com/blog-entry-1498.html

此処にこんな事を書きました。

今発売中の雑誌「WiLL3月号」(p252-259)に「沖縄・尖閣を守る実行委員会代表の恵隆之介さん」が興味深いことを書いている。題して『沖縄の天王山 名護市長選! 稲嶺市長「沖縄は中国にあげたらいい」!』。(注:稲嶺は本当にこう言ったそうです)
(良かったですね恵さん、選挙には勝ちました。シナの走狗稲嶺をやっつけましたね)

ここにこんな事が書いてある(p253-254)
>一方、中国人民解放軍の工作機関である国際友好連絡会(友連会)は、沖縄で公然と活動している。最近は、中国人観光客を送り出すことを目玉に沖縄財界への浸透を図っている。
 昨年六月にも上海を訪問した識者に対し、友連会幹部のR中将が中国人観光客の派遣増を表明しながら、交換条件として沖縄米軍基地の撤去を目指すよう発言しているのだ。
 中国は、さらに沖縄への出国ビザは富裕層に限定している。このため県民の対中国観は現実以上に期待値が高い。
・・・以下略・・・

更に沖縄問題に関しては青山繁晴さんがこんな話。
青山さんは5月初めに訪米し、テキサス州の田舎にある太平洋戦争博物館を訪問。そこでこんな事を言っています。

<以下ぼやきくっくりさんより引用>
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid2179.html
「Japan&China」の展示で、琉球処分について「日本は中国から沖縄を奪った(seize)」と書いてあった。
 僕は1年前に、沖縄が中国の一部だった歴史はありませんから、日本が奪うのは不可能だとカバノ館長に言った。
 そしたら「from China」を削除しただけで、どこからかは知らないが「奪った(seize)」という表現はそのまま。
 これは「併合」という意味ですと、こないだ(3月)館長が議員会館に来られた時に言った。
 そしたら書き換えますと言われて、僕がこのゴールデンウィークに現地に行くまでには間に合わないだろうと思ったら、展示を全部書き換えてくれていた。
<引用終り>


この太平洋戦争博物館での問題は単なる誤記では無く、中国から多額の寄付を受け、その意向で書いたもの。
中国の沖縄侵攻作戦はこんな所までじわじわ来ているという事です。


もう一つの中華思想の問題。
石平さんのこの発言に私も永年の疑問が解けた。
「中華とは地球上の限られた一地域ではなく、天下すなわち世界そのものです。また、天命を受けて天下を治める天子は、天下というものを無限に拡大できる。天下には境界線は無い。だから、中華が行う侵略は侵略ではない。
 さらに、天子は世界のすべての地域を支配すべき存在だから、天子としての皇帝は、自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明に導く大いなる使命を背負っている。だから侵略された方は、天子様が来たらむしろ喜んで受け入れないといけない」

この考え方は私もそこまではと思っていた。しかし中国のやっていることはまさにその通り。
今ではアフリカにまでチャイナタウンがどんどん出来ている。ある程度人口が増えたらそこも中国だと言い出すだろう。
実に中国とは恐ろしい国という事ですね。

 

最後に石平氏の文章全文を紹介します。

<以下全文引用>

明日への選択 5月号(平成30年)
インタビュー
日本はなぜ「脱中華」に成功したのか
               石平
サブタイトル
 われわれは決して中華世界の一部ではない。われわれはもう千四百年も前から「脱中華」を意識し、それに成功してきた。

2018-5-27石平0
日本人の凄いところは、天命思想を受け入れなかったことです。天皇天照大御神の子孫だから、天命を受ける必要がない。天皇を中心とする国体の確立によって、どんなに歴史の変化があっても、天皇に取って代わる不遜な輩が出て来ないことになったんです。

<以下本文です>

 いまや中国は軍事的にも経済的にも世界的な影響力を持つに至っているが、そうした中で日本が独立を維持して行くためには何か必要か。
 その問題を考える中で評論家の石平氏が最近上梓された『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)を読んだ。この本は日本思想史にフォーカスしたものだが、対中国ということを考える上で、意外に見落とされている精神や思想の在り方を考えさせられる。 そこで、執筆に至った経緯や独自の視点で見た日本思想の歴史を語っていただいた。


 誰も答えてくれない二つの疑問

 石(石平氏、以下同じ) 私はもともと日本思想史の専門家でもなんでもないんですけれども、中国から日本に来て、日本の思想にも関心があり、いろいろな本を読んできました。
 しかし、日本の歴史学者や思想家が書いているものを読むと、日本がいかに中国から影響を受けたかということばかり強調している。確かに、日本は昔から、儒教にしても、仏教にしても、あるいは漢字にしても、いろいろな形で中国の影響を受けてきたことは事実です。ならば思考パターンも少しは似ているはずだけれども、元中国人の私が、日本で生活してみますと、日本人の基本的な考え方や行動パターンは中国人とまるで違う。むしろ精神においては、日本人ほど中国と遠い民族はない。
 中国人は物事を利害・打算で考えます。目的のためにはどんな汚い手を使っても平気。倫理・道徳が大切だと声高に言い、腐敗はいけないと聖人君子みたいに言うけれども、中国共産党の幹部が腐敗摘発で捕まったらどうですか。汚職額は何百億元、愛人は十何人も囲っている。もう誰よりも汚い(笑い)。結局、倫理・道徳もなければ清廉潔白でもないからこそ、うるさいほど言うわけです。
 それに対して、日本人の心の根本にあるのは一種の美学と言いますか、「卑怯なことはしたくない」という潔さ。神社の境内に入った時に感じる、あのさっぱりとした感じと言ってもいい。しかも、道徳や倫理を中国人みたいにうるさく言わない。
 いったい、影響を受けているのに、こんなに違うのはどうしたことか。その理由を知りたいと思って様々な文献を読み漁りました。しかし、どこにもその答えは書いていない。日本の学者先生は、その問題意識すらないと思われます。
 だったら、もう自分で疑問を解くしかないということで、日本の思想史を読み直したわけです。

ーー(編集部、以下同じ) 読み直してどうでしたか。

 石 よく分かったのは、日本人は遠い昔から中華的なものを学んできたけれども、日本の精神や思想の形成史はむしろ一貫して、いかにして中国の影響から脱出して独自のものを作っていくかというプロセスなのです。
 私のもう一つの疑問は、江戸時代以前は、日本の代表的な思想家はほとんど仏教の世界の人間であるのに対して、江戸時代以降の代表的な思想家は儒学者ばかりなのはどうしてかというものでした。それも思想史を読み直す中で分かってきました。一言でいえば、「脱中華」です。

ーー 根つ子になる精神のところでは独立していたということですね。

 石 それは、今日的意味があるんです。
 習近平は「中華民族の偉大なる復興」というスローガンを掲げ、「中華秩序」を復興させようとしています。復興とは、いつの時代に復興するのかというと、アヘン戦争以前の清朝最盛期の時代です。中国は近代になって、中国を中心とする天下の秩序を西洋列強と日本に潰された、あるいは奪われたと考えていて、その失ったものを取り戻したい。その中には尖閣・沖縄も含まれます。だからこそ、どんどん出てくるわけです。もちろん、そんな勝手な主張を日本が認めることはあり得ない。
 また、天下を取り戻すというからには当然、「天子」が必要です。だから、習近平は天子すなわち「皇帝」にならざるを得ない。現に、中国国内では習近平を全知全能の偉大なる指導者として「神格化」する動きが広がっていて、まるで毛沢東文化大革命をやった時のように、老人にも幼児にも礼賛させています。人民日報に至っては「習近平思想が世界を指導すべきだ」とまで主張しています。「そんなこと誰も頼んでないよ」と言いたい。
 ただ、中華秩序を取り戻すということは、アメリカが主導する世界秩序や価値観でさえ潰さなければならないということだから、習近平の中国は、軍事、経済、外交、文化、あらゆる面で「力」を持とうとしているのは事実です。それに対抗するためには、日本にも強固な国防体制や外交戦略が必要ですが、それと同時に、やっぱり精神の独立が必要だと思うんです。

天命思想・中華思想

ーー その精神の独立のプロセスというものを、少し紹介して下さい。

 石 話の順序として、中華思想の中核を占める儒教について、まず説明しておきます。
 儒教といえば、日本人は『論語』をイメージするかもしれませんが、『論語』は孔子が人生の大事について語った貴重な談話の数々を弟子が書き留めたものです。思想体系というわけではないんですよ。思想体系としての儒教が成立したのは、前漢の七代皇帝・武帝の時代(紀元前一世紀前後)です。武帝は政治権力を正当化する「御用思想」として、儒教を国教的なイデオロギーに祭り上げます。その特色は二つあって、一つは天命思想、もう一つは中華思想です。
 天命思想とは、天が森羅万象の主ではあるけれども、人間世界を直接支配しないで、代理人に命じて統治させる。その代理人が天子すなわち皇帝です。しかも、皇帝の一族は代々その地位を受け継ぐことができる、という考え方です。
 なぜそういう考え方が必要だったかというと、王朝に権威をもたせるためです。漢王朝の皇帝は、日本の天皇とは違い、神話とは何の関係もない。だいたい漢を創ったのは劉邦というならず者ですからね(笑い)。

ーー もう一つの中華思想とは。

 石 これは対外侵略を正当化するための理論です。
 武帝は中国の国内を安定化させた後、全面的に侵略戦争を始めます。ベトナムを占領し、朝鮮半島の大半を占領し、アジアの多くの地域を占領して版図を広げた。中華とは地球上の限られた一地域ではなく、天下すなわち世界そのものです。また、天命を受けて天下を治める天子は、天下というものを無限に拡大できる。天下には境界線は無い。だから、中華が行う侵略は侵略ではない。
 さらに、天子は世界のすべての地域を支配すべき存在だから、天子としての皇帝は、自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明に導く大いなる使命を背負っている。だから侵略された方は、天子様が来たらむしろ喜んで受け入れないといけない。

ーー なんとも迷惑な話ですが、中国では王朝が何度も交替していますよね。

 石 皇帝の失政によって天下が乱れた結果、誰かが反乱を起こして前の王朝を潰し、新しい王立てる。それが易姓革命で、これも天命思想の一種です。
 例えば、天が代理人として指名した劉一族が堕落して徳を失えば、天が別の代理人を指名する。現実には、天が指名するのではなく、実力で劉一族の天下を覆して天下を取った者が、「俺が天から指名された新しい天子だ」と名乗る。中国の歴史は延々とその繰り返しです。

 日本は最初から「脱中華」だった

ーー そんな危うい思想が、古代の日本に、仏教とだいたい同時期に入ってきたわけですね。

 石 そうなんです。その時日本人はどう対処したか。儒教と仏教に対する態度の違いは、なかなか興味深いんですよ。
 日本人は儒教に対して、江戸時代までは冷淡でした。全面的に受け入れたわけでも、国家的なイデオロギーにしたわけでもない。だから例えば、科挙の制度は取り入れなかった。律令制度という中央集権システムは、隋・唐の軍事的脅威に対処するために取り入れたけれども、脅威がなくなった後はそれも形骸化して行く。要するに、距離を置いて適当に学んだんです。
 一方、仏教は全面的に受け入れました。飛鳥時代聖徳太子四天王寺法隆寺を建立し、『三経義疏』など仏教経典の注釈書を自ら著すほどで、国家的プロジェクトとして仏教振興政策を強力に進めました。奈良時代には、聖武天皇東大寺を建立し、世界一の大仏を造るほどのエネルギーを注ぎ込みました。それで日本は一気に仏教国家になった。

ーー それほど対応に差があったのはどうしてですか。

 石 結局、中華に対するスタンスからだと思います。儒教の世界観においては、あくまでも中国が中心です。もし儒教を全面的に受け入れていたら、中国の精神的な属国になって、日本は李氏朝鮮みたいになっていたでしょう。
 一方、仏教は一応中国を経由して伝わったけれども、インド発祥です。仏教は日本や朝鮮、東南アジアにも広がった普遍性をもつ世界宗教で、中国も仏教を学んだ一つの国に過ぎない。仏教の世界においては、中国も日本も対等の立場なんです。だから、仏教を全面的に受け入れることによって、中華を相対化できる。
 よく知られているように、推古朝の日本は、聖徳太子の主導で、隋の場帝に対して「日出づる処の天子」の国書を送り、独立国家であることを示しました。それと同時に、仏教の世界に身を置くことによって中華文明を相対化し、一定の距離を置いて自分たちの精神的独立を保った。これが「脱中華」のスタートだったと思うんです。

 仏教も日本的に

 石 それ以降、仏教が日本に広がると、たくさんの思想家が出てきました。平安時代には最澄空海、さらには源信空也鎌倉時代には法然親鸞栄西道元日蓮、一遍、それから室町時代には蓮如が出てきました。最澄空海から蓮如までの七百年間、日本人の心を導く役割を果たしたのは仏教です。
 面白いのは、そういう中で仏教の教えも日本的なものになって行った。
 例えば、人間は誰でも成仏することができる(「天台本覚思想」)。草木でも、石コロでも、皆成仏できる(「草木国土悉皆成仏」)という考え方が出てきます。これらはもともと仏教にはない考え方です。本来の仏教では、成仏できるのは菩薩など限られた存在だけですからね。
 いったい、どうして日本人はこのようなことを堂々と言えたのか。その世界観の根底にあるのは、結局、神道の考え方なんです。八百万(やおよろず)の神というように、日本の神は山にも川にも海にもどこにでもいるでしょう。日本の仏教はその神道の考え方の影響を受けて発展して行くんです。

ーー 一方、その神道はどうなったのですか。

 石 普通は神道のような土着の宗教は、高度な宗教が入ってくると、排斥され淘汰されて行くんですが、日本の神道は懐が深いんですよ。仏教と融合して行く。
 例えば、平安末期には、仏様が日本人を救うために日本にやって来て、日本の神々に変身したという考え方(「本地垂迹説」)が出てきます。さらに室町時代になると、今度は立場が逆転して、日本の神々が、仏様に変身したという考え方(「反本地垂迹説」)が出てきます。

 朱子学への懐疑 国学の発展

ーー 最初は儒教より仏教に重きを置いて脱中華を図り、その次は仏教も日本化して、独自のものになって行ったと。ところが、江戸時代になると、今度は儒教が表舞台に出てきますね。

 石 代表的な思想家も、林羅山山崎闇斎伊藤仁斎、荻生根株、中江藤樹など、みんな儒学者です。
 逆に、仏教の思想家が消えたのは、日本では平安時代から、仏教の大衆化と簡素化が進み、思想が無用の長物になったからです。とにかく一般大衆を救済するために、形式や修行の手続きが省かれ、念仏や題目までが簡素化された。それで、もう空海最澄のような大思想家は出てこなくなってしまったんです。
 一方、儒教が表舞台に出てきたのは、江戸幕府ができて、林羅山が家康のブレーンとして政治の中枢に食い込んだのが大きかったんですが、羅山は儒教の一種である朱子学の専門家でした。
 朱子学南宋の時代に、朱熹という儒学者が体系化した学問です。その主旨は、人間はそれぞれ心の中に宿る「天理」に目覚めて、その邪魔になる欲望をできるだけ切り捨てて行けば、誰もが完璧な聖人君子となれるというもので、これが壮大な思想体系になっている。 そう言うと何か立派な学問のようだけれども、朱熹がこれを造ったのは、南宋がとても哀れな王朝だったことと関係があるんです。南宋女真族の金に押されて淮南に移り、さらに臣下の立場を取った。皇帝が周辺民族に頭を下げるなんて中華思想ではあってはならない。しかし現実があまりにも惨めだからこそ、壮大なる思想体系を造って、その惨めさを補おうとしたわけです。
 しかし、日本人はこれも相対化してしまうんですね。
 例えば、伊藤仁斎は最初、朱子学に感激して熱心に学ぶんですが、やがてノイローゼになり、「こんな堅苦しい思想は日本人になじまない」と、儒教の原典に戻ろうとします。原典の『論語』や『孟子』を読むと、孔子孟子朱子が言うようなことは何一つ語っていない。そこから仁斎の朱子学に対する離反が始まります。
 荻生徂徠はそこからさらに、孔子でさえも間違った解釈をしているんじやないかと考えて、尭・舜など古代の聖王・先王の時代にまで遡って学んで行きます。
 このように原典に戻って読み取ろうとする知的探究の方法論は、じつは賀茂真淵本居宣長といった国学者の方法論とも似ています。
 真淵は、儒教が素晴らしいものであるならば、どうして中国の政治は何千年も乱れ続けているのかと。また、日本人はもともと素朴に生きていたのに、仁義礼智信など人為的に作られた儒教規範が入ってきて理屈っぽくなり、政治が乱れて行った。その思想的汚染を洗い流して、日本古来の精神を取り戻す必要がある。そのためには『万葉集』などの古典を読み直すべきだ、と考えました。
 そして宣長になると、もう「漢心(からごころ)」を完全に捨てましょうと。漢心に汚染される以前の日本人の精神を書いたのが『古事記』であり、『万葉集』 であり、『源氏物語』であり、「もののあはれを知る」ということに至る。「もののあはれを知る」とは、さっきの「草木国土悉皆成仏」にも繋がるんです。つまり、すべてのものには霊性、魂があるんですよと。だから、雲一つ見ても、草一つ見ても何かを感じ取ることができる。

ーー それが、日本人本来の心だと。

 石 ええ。私はこうした日本の思想史をずっと追って行く中で、飛鳥時代から日本は中華の影響を受けながらも、いかにして中華を脱出するかという知的格闘を続けてきたことが分かりました。そういうプロセスがあったからこそ、日本人は日本人たり得るのであり、中華とはまったく違う日本文明がある。もし日本人がそういう知的格闘をしていなかったら、もうとっくに小中華になっていたと思います。

 古事記の成立自体が「脱中華」たった

ーー 結局、日本は中国の影響を受けてきたというけれども、うまく取捨選択した。また受け入れたものも日本的なものに昇華させて行つたということですね。

 石 その通りです。なかでも日本人の凄いところは、天命思想を受け入れなかったことです。『古事記』の成立は七ニ一年ですから、時期的には中華の思想が入って来てから後のことですが、これは天命思想を受け容れないという日本人の意志表明だったのではないでしょうか。
 『古事記』を読めば、天皇の原点は「天命」ではなく「天孫降臨神話」にあることが分かります。天皇天照大御神の子孫だから、天命を受ける必要がない。あるいは皇族以外の誰か別の人が天命を受けることもない。だから、易姓革命も生じない。いわば『古事記』の成立によって、天皇を中心とする日本の国体が確立した。国体が確立したことで、日本ではどんなに歴史の変化があっても、天皇に取って代わる不遜な輩が出て来ないことになったんです。
 中国人がどうしても理解できないのは、家康はどうして天皇家を潰さなかったのかと。京都の御所は家康が三百人の兵を派遣すれば占領できたはずだと。しかも、家康は天皇から将軍に任命された。日本の国のかたちが中国や朝鮮とまったく違ったことはそこに象徴されています。これは決定的に重要なことです。

ーー 天皇を中心とする日本の国体こそ、「脱中華」の象徴だと。

 石 その通りです。 
最初の話に戻りますと、習近平の中国が「中華民族の偉大なる復興」へ向けて進む中で、日本は日本民族を存続させるために、対抗しなければなりません。そのためには強固な国防体制や外交戦略が必要です。しかし、同時に必要なのは、精神の独立です。
 つまり、われわれは決して中華世界の一部でもなければ、中華文明の一部でもない。われわれはもう千四百年も前から「脱中華」を意識し、それに成功してきたからこそ今日の日本がある。このことを今一度、確認してほしいと思いますね。
     (四月五日取材。文責・編集部)

 

 

 

 

 

 

(引用終了)

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苺畑より


(見出し)
トミー・ロビンソン逮捕に見る報道規制の恐ろしさ

(私のコメント)
イギリスはイスラム移民の犯罪を隠蔽したいと国家警察裁判所ぐるみで動いているようだ。
こと記事ではどうしてそうなったのかが分からないが、事実としてイスラム移民はそういう特権を持っているらしい。
丁度これは、日本のヘイトスピーチ規制法と同じものだろう。
安倍さんはこの法律をいとも簡単に短期間で成立させた。
薄ら笑いを浮かべて保守を足蹴にしたのた。
薄ら笑いとは、手も足も出ない人をなぶりものにしたのと同じようなものだ。
これから移民が増えるので先手を取って法律を作ったのだろうが、これからの日本も英国と同じようになるだろう。
日本人が官憲によって厳しく規制されて、移民が大手を振って歩くようになるだろう。
強姦されても日本人は我慢しなければならない。
丁度英国で行われていることが起きるのだろう。
アフリカのある部族は伝統的に男が成人に達すると、他の部族の人間を殺してこないといけない、というそれが成人の証という文化があるそうだ。
実際にイタリアで事件があって調べたらそういう背景があったそうだ。
多文化共生、異民族と暮らす、ということはこういうことも容認しないといけないのだ。
(引用)
https://blogs.yahoo.co.jp/tfjtoday_nanminwatch
難民ウォッチ

事件からすぐに逮捕された29歳のInnocent Oseghaleのアパートからは、血に染まった衣服、大型キッチンナイフ、肉切包丁、および被害者女性の所持品が。その後、さらに2人の共犯者と見られる人物が逮捕されたものです。

Meluzziは、心臓が発見されていないことについて驚いていないといいます。

シエラレオネの少年兵たちは、勇敢さを得るための儀式として人間の心臓を食するのです」彼は言います。

「ナイジェリアンマフィアの場合、儀式的な食人は例外ではなく、むしろ規則です。彼らにとっては通常のことですが、レイシストと呼ばれるのを恐れて誰もこのことを話しません。われわれはこれらのことに慣れる必要があります。これは氷山の一角に過ぎず、今後大きくなっていくのです。」

心臓は「最良の部位であって、アミニズム信奉者たちにとっては勇気と長寿を注入してくれるものであって、一種の気付け薬」だとか。
(引用終)
数十年後の日本人は安倍さんを亡国宰相として恨むでしょう。
(私のコメント終)
(引用開始)

トミー・ロビンソン逮捕に見る報道規制の恐ろしさ

Author:苺畑カカシ Posted on: May 28, 2018 Post categories:狂ったメディア
数週間前、トミー・ロビンソンは「私はもう長くない」という題名のビデオを公開していた。この場合の「長くない」は自分がネット上で人々に情報を提供できる時間はそう長くはないだろうという意味だったのだが、今となってみれば、彼のジャーナリスト生命だけでなく彼自身の命がもう本当に長くないかもしれない状況となっている。

センサーシップ(censorship=検閲)が恐ろしいのは報道や言論の自由が失われることによって、今起きている現実がその場でどんどん政府に都合のいいように書き換えられていくことだ。これについてゲイトストーンが書いているので参考にしながら私の意見を書いていこう。

トミーが逮捕されて数時間後にはすでに13か月の禁固刑という判決が下され、トミー(本名スティーブン・ヤクスリー・レノン)は即座にフル刑務所に送還された。そしてメディアや一般人に対してこの件に関しての報道を一切禁じる報道規制が敷かれた。

英国のメディアは驚くほどこの命令に従順だった。スコティッシュデイリーレコードScottish Daily Record、バミンガムライブ Birmingham Live、ザ・ミラー The Mirror、ブレイトバートニュースBreitbart Newsなど、次々にすでに報道された記事を削除していった。興味深いのは左翼系とされるザ・インディペンデントthe Independentだけは何故か記事を取り消さなかった。それというのも同紙はトミーのサッカーフーリガンというイメージを守る続けることが期待できたからなのだろう。

現にイギリスにおいてトミー・ロビンソンに関して書かれた記事では、彼の名前の前に必ず「極右翼」とか反移民の市民団体である「EDL創設者」といった形容詞をつけ、彼のジャーナリストとしての行動にしてもわざわざ引用符を付け「報道」といったように書き、あたかも彼の行動はジャーナリストの報道に値しないという印象操作をするのが常だ。

英国版ブレイトバート紙は報道規制通知を公開。イギリスの専制ぶりを暴露した。

我々アメリカ人や日本人は言論の自由というものが当たり前だと思っている。テレビなどで放送禁止用語がったりコンプライアンスがどうのこうのという話を聞いても、それが自分に直接かかわってくるとは考えていない。ツイッターフェイスブックで外国人や他宗教の悪口を言ったからといって、まさか警察が夜明け近くに土足で家宅捜査をするなんてことは想像もつかないだろう。

昔のソ連だの今の中国だのといった国なら別だ。まさかそんなことが現在のヨーロッパ諸国で、ましてやイギリスで、起きるなんて信じられない。しかし実際に今それが起きているのだ。

先日フリートミーのデモに参加した人々も、デモに参加することで失業したり逮捕される可能性を口々に語っていた。フリートミーの署名運動に名前を連ねたら、当局に目を付けられる可能性もある。普段は歯に衣を着せぬ口調で話すイギリスのユーチューバーのカール・ベンジャミンですら、家族に危険が及ぶのを恐れてトミーの件に関してコメントできないと語っている。

「我が国は自由ではない。アメリカ人がとってもうらやましい。君たちは自分らがどれほど幸運なのか分かっていない。」

今はノルウェーでジャーナリストをやっているスエーデン出身のピーター・スワンソンもイギリスで記者活動をしたかったのだが、渡英早々イギリス当局から家宅捜査をされ、在英の自分の両親すらも危険にさらされるに至ったため、ノルウェーに移ったという。イギリスはもうそんな怖い国になり果てていたのだ。我々は単にそれを知らなかっただけ。

今回のトミー逮捕及び情報規制によって、イギリスがどれほどの警察国家及び専制国家になっていたのかがはっきりと暴露されたのである。
殉教者になりつつあるトミー・ロビンソン
Author:苺畑カカシ Posted on: May 28, 2018 Post categories:ヨーロッパ, 人権擁護法, 狂ったメディア, 移民問題
本日のドラッジリポートの第一面にトミー・ロビンソン逮捕及び報道規制に関する記事がいくつかでかでかとリンクされているのを見た。金曜日の逮捕から三日たって、やっとアメリカの主流メディアがトミー逮捕の件を取り上げ始めた。

記事の見出しは、Activest Jailed in London 活動家拘留される, Judge Orders Press Blackout 裁判官報道規制を命令, Robinson Silenced ロビンソン沈黙させられる、などだ。(数分前に見た時は「極右翼の活動家」とあったように思ったのだが、今見たらただの「活動家」になっていた。)

これまでアメリカでは、トミーの名前など聞いたことがない人がほとんどだったのではないかと思う。イギリスのパキスタン移民による大掛かりな集団強姦組織についても、アメリカ国内で知っている人は非常に少ないだろう。現地のイギリスでさえ10年以上も隠蔽されてきたことだから当然と言えば当然だ。

イギリス政府は今回のリーズ地区における19人のパキスタン人強姦集団の裁判に関しても、なるべく世間の目に触れないように内々に済まそうとしていた。彼らの裁判が行われる裁判所の前に主流メディアの報道員が一人も来ていなかったのもそれが理由。イギリスの主流メディアで政府に盾を付ける根性のある奴らはほぼ皆無。ところがトミーがそんなタブーを破って単独でしかもスマホで実況中継をしたことが裁判官の逆鱗に触れたのだ。

はっきり言ってトミー逮捕と報道規制は英裁判所及び政府による最大の失態だったと言える。

トミー・ロビンソンなど保守派の間では弱小な活動家だった。ルートンというイギリスの下町育ちのたかがサッカーフーリガン。若いころは傷害罪で逮捕されたこともあり、反移民を唱えるEDLという右翼団体を創設したが後に脱退。その後も単独で活動していた。放っておけば取るに足らない極右翼活動家で終わっていたものを、イギリス警察がやたらに弾圧しようとしたことで彼はかえって有名になり、より活発な活動家になってしまった。

そして今回の逮捕と報道規制がきっかけとなり、今やトミー・ロビンソンは世界中にその名を知られる「野蛮人移民から西欧を守る救世主」として知られるようになってしまったのだ。

世界中で「Free Tommy/トミーを釈放せよ」署名運動が起きている。デンマークやオーストラリアのアメリカ大使館の前でフリートミーデモが起こっているという話だし、日本ですらトミー解放の署名運動に参加している人たちがいる。

イギリス政府は今非常に微妙な立場に置かれている。このままトミーを拘留し続け、トミーが刑務所内で怪我をしたり死んだりした日には、彼が殉教者となり反政府運動のシンボルとなることは間違いない。だったらそうなる前に釈放すればいいかといえばそうもいかない。今釈放してしまえばトミー逮捕の理由が政治がらみのでっちあげだったことを認めることになる。どうやって政府の顔をつぶさずにこの問題を早期に片づけることが出来るのか、今やテレサ・メ首相は考えあぐねているのではないだろうか?

トミー・ロビンソンについてご存知ない読者諸氏のために拙ブログの過去ログを記載しておこう。リンクしてもなぜか色が変わらないのだが、イタリック文字をクリックしてもらうとリンクにつながる。

お行儀よいだけでは効果はない、マイロやトミーに見る自由主義活動
恥さらし、ピアース・モーガンのインタビューと称したトミー・ロビンソン攻撃
右翼に発言させるな!トミー・ロビンソンのテレビインタビューに怒る英左翼コラムニスト
テロ退治よりポリコレの方が大事、真実を報道するジャーナリストを罰する国イギリス

 

 

 

 

(引用終了)

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バブルですべてを失った人を見て、絶対に生き残る投資を決断
鈴木傾城
(見出し)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/05/20180520T1855160900.html

2018-05-20
バブルですべてを失った人を見て、絶対に生き残る投資を決断

(私のコメント)
1985年からバブル時代は私の40台の頃だが、どんどん給料は上がるし、全てにわたって景気の良い時代だった。
不動産で財を成す人も続出して私の会社でも外国のスポーツカーで通勤する人も居た。
噂では不動産で大儲けして、会社の給料は小遣いだった。
こういう人が巷にあふれていた。
私もゴルフ場の会員権を買ったりしたが、幸運なことにバブルがはじける寸前に偶然売却した。
もっと良いゴルフ場を買おうとして売ったのだが、新しいゴルフ場は何かの事情で買わなかった。
庶民が金持ちになって、外国にもどんどん出かけた。
今の日本はシナ人が来て喜んでいるが、本当はこちらが向うに行かないといけないのだ。
私がシナに旅行した時は、百円玉を上げると大喜びだった。
百円玉は向うの価値からすると3千円から五千円位の感じだった。
それだけ日本の国力が上だったわけで、今は逆ではないか。
庶民にとってバブル時代は幸せな時代だった。
幸せでなかったのは、東大出て役人になった連中だ。
彼らは収入が決まっており、民間が景気が良いのを指をくわえてみているしかなかった。
勿論、彼らにも天下りなど恩恵はあったのだが、エリート集団の人間が訳の分からない民間の馬鹿どもの後塵を拝するのが許せなかった。
だから、バブルつぶしの一生懸命になり、今に至るデフレの時代を作った。
庶民はその後ずっと苦しんでいる。

下記の記事はその時代の話だが、突然の金融引き締めでバブルが崩壊し、借金が返せなくなった。
その教訓として借金しないで財産を築いて行こうとする。
具体的には、借金しないで自分の貯金したカネだけで投資信託を買う方法だ。
だが、この方法は生き残るためには良い方法かもしれないが、財産形成には悪い方法だ。
特に若い財産の無い人は、借金を恐れてはいけない。
例えば、動物は火を恐れるが人は恐れない。
人はそれをうまくコントロールすれば多大の利益が得られることを知っている。
借金もこれと同じで自分の身の丈に合わせてコントロールすればいい。
バブル時代は突然コントロールの基準が変わってしまって、コンロの火が暴走して火事になったのと似ている。
バブル時代が特異な時代だったのだ。
レバレッジを掛けて投資をするのは、商売で借金するのと同じで普通の方法だ。
商売の借金は片方で儲けて返済しながら借金する。
決して儲け以上の借金はしない。
それと同じで借金はうまく管理しながら投資を行うべきだ。

 


(私のコメント終)
(引用開始)
鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編

バブルですべてを失った人を見て、絶対に生き残る投資を決断

以下コピペ禁止

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親子でちょこっと

 

(私のコメント)
アメリカという国は宗教国家で、どのような宗教勢力があるかを理解しないと分からない国だ。
キリスト教プロテスタントが建国した国だから、プロテスタントが主流なのだが、この記事にある通り、英国国教会の勢力も強いようだ。
トランプさんはプレスビテリアン長老派に所属しているそうだが、長老派というのはつまり信徒代表が教会の運営をする、ということだ。
カトリックのように法皇様を頂点とする組織でないから、植民地であるアメリカでは都合がよかったのだろう。
信徒代表が牧師さんより偉くなってしまうから、いわゆる反知性主義になるだろう。
つまり、信徒が神様と直接取引して聖職者の中間搾取を排除する、といえば分かりやすいだろう。
浅草の観音様は夥しい参拝客がいるが、浅草寺のお坊さんの話を聞こうとする人は居ない、というのと同じだ。
アメリカ人はこのような素朴な独立心があって、その基盤の上に民主主義が機能している。
福音派は人口の四分の一を占めるアメリカ最大の宗教勢力で、彼らに支持されないと大統領になれない。
勢力の中心はアメリカ南部だから、トランプさんが勝った州と大体重なるんじゃないか。
アメリカの本当の姿はここにあるのだろう。
マスゴミ報道などは南部でなく東部ニューヨーク、ワシントンが中心だから我々の得る情報は本当の姿でない。
だからこういうブログ記事は貴重で、よく読んでおいた方が良いだろう。
福音派は聖書を重視する宗派で、信徒が少人数で集まり聖書を読んで語り合う、というのが出発点だ。
アメリカ開拓者が圧倒的なアメリカ大自然の中で聖書をよりどころにしたのが原点だ。
ヨーロッパ大陸カトリックとは全然違う生い立ちだし、カトリックに対抗するプロテスタントとも違ってくる。
そんな宗派の争いなど大自然の中では無意味なことだ。
反面福音派は聖書を重視するから聖書の原理主義者だ。
先日アメリカのイスラエル大使館をエルサレムの移すということで、イスラムが反発して大騒ぎだが、これは福音派の聖書原理主義の為だ。
また、福音派は「人間は生まれながらに罪人だ」という原罪を信じている。
罪人だから刑務所に居るみたいにおとなしく、つつましく勤勉に生きないといけないのだ。
そして、キリスト様がその罪を償うために磔にあって死んだのだから、キリスト様を信じれば罪人を許され天国に行ける、という理屈だ。
新興宗教としてはよく出来ている。
だが、これがはた迷惑なのだ。
というのは、例えば、広島に原爆を落としたとき、爆撃機には福音派の牧師さんが乗っていたのだ。
原爆や東京大空襲は一般人を大量虐殺するのだから、戦争犯罪で、兵士も後ろめたい気持ちだ。
それを牧師さんが「あいつらは原罪があって殺しても良いのだ」と説教されて、任務を遂行したのだ。
だから、「この世界の片隅で」なんて映画はアメリカにとって非常に困る。
今でもアメリカ人の日本人に対する理解は、原罪がある罪人なのにキリスト様に帰依しない野蛮人、人間でない人間という見方がどこかにあるのだ。
シナや韓国はそれでもキリスト教徒が多いから、アメリカ人から見れば文明人で、日本人より上に見ている、と見た方が良いだろう。
このように日本人が考える常識と全くちがうアメリカ像がこういう情報から読み取れる。
なお、このブログにある韓国のキリスト教儒教に歪められていて面白い。
中国や韓国でキリスト教がどういう扱いを受けているか、お人好しのアメリカ人も段々分かってくるのではないか。

 


(私のコメント終)
(引用開始)
(前略)

さて、本日はまず、冒頭に出てきた「福音派」から確認してみましょう。

以下は、Wikipediaからの抜粋です。

「 福音派(ふくいんは、英: Evangelical、エヴァンジェリカル)は、キリスト教プロテスタントを神学や信仰の姿勢によって比較分類する際に用いられる用語である。語源はギリシア語の「εὐαγγέλιον, euangelion: 福音)」である。」

「 福音(Evangelion エウアンゲリオンあるいはユーアンゲリオン)は、ギリシャ語 εὐαγγέλιον, euangelion に由来する言葉で「良い(euエウ- 、"good")知らせ(-angelion アンゲリオン、"message".)」を意味する。これを英語に直訳すると、good news となる。つまり、マラトンの戦いの勝利の伝令のような戦争の勝利や出産など、喜ばしいことを伝える手紙などを指した。イエス・キリストの十字架刑と復活(紀元後30年頃)の後、イエスの弟子(使徒)たちは「神の国(支配)が到来した」というイエスのメッセージを世界に広げるために布教を始めたが、これを弟子たちは「良い知らせ」と呼んだのである。」

アニメの『新世紀エヴァンゲリオン』の名前で覚えておくのも良いですね。

で、ここで左翼で反安倍な思想の持ち主の著書(なかなか良い書物をお書きになられているのですが、イデオロギーが強く出すぎるのが残念です)から、下記に引用してみますと。。。

『 2003年のイラク戦争を強力に推進した勢力に、米国の「キリスト教右派」がある。米国南部では、キリスト教右派は強い影響力をもっており、その地域にはわずかな距離のあいだに多くの教会が存在する。イランをイスラム原理主義の国とすれば、米国はキリスト教原理主義の国といえるだろう。恍惚とした表情で目をつぶり、体を揺らし瞑想を続けるキリスト教右派の信者の様子を見ていると、宗教的カルト集団を連想してしまう。

 キリスト教右派の主張は極端に原理的、復古的なものである。彼らは人工中絶の禁止を唱え、たとえレイプされて妊娠しても中絶は許されないと考え、「伝統的な家庭の価値」を標榜し、家族同士の結びつきを重んずる。さらに同性愛者、または異性間の、不道徳なアナル・セックスやオーラル・セックスなどの「異常な性行為」にも反対し、退廃、卑猥であるとする書籍、音楽、テレビ番組、映画など(とくにポルノに関係するもの)の禁止をも求める。

(画像あり;マドンナ)
また、キリスト教右派は、公共の場での信仰活動、たとえば学校で礼拝することを提唱している。公教育の場で、聖書の記述に反する進化論や地質学を教えることをやめ、聖書に基づく創造科学を教育科目にすることを訴える。

 共和党から大統領選挙に出馬する候補者は、キリスト教右派の支持を獲得することが重要である。…

 キリスト教右派は、イスラエル国益を守ることで、キリスト生誕のころのようにパレスチナユダヤ人が居住できるようになり、それがキリストの復活を早めると考えている。第二次世界大戦後にイスラエル国家が成立してから、中東で度重なる戦争を提唱するようになった。現在では、多くのキリスト教右派の重要人物が、ユダヤ系米国人が多いネオコンとともに、アフガニスタンイラクでの「テロとの戦い」を強く支持し、彼らとの連携を強めている。…

 「キリスト教右派」として言及されるのは、主に米国の福音派であるが、米国以外の福音派イスラエルを支持することはほとんどない。
筆者はイラク戦争後に、大阪でスペイン人のカトリックの修道女に会う機会があったが、
その際、彼女は、戦争を提唱する米国のキリスト教右派キリスト教ではないと怒っていた。
このように、キリスト教のなかでも、米国のキリスト教右派は特殊な存在となっている。』
詳しくはこちらをご参照❤

アメリカはイスラム国に勝てない (PHP新書) 新書 – 2015/1/16
宮田律 (著)
米国プロテスタントを分類してみますと、主に米国の福音派が「キリスト教右派」であり、主に米国のメインライン・プロテスタントが「キリスト教左派」となります。(※ご注意頂きたいのは、「福音派」や「主流派(メインライン)」という分類は、教理による教派区別ではなく、「福音派」は「聖書のみ」との原則のもとにゆるやかな一体感を形成する人々であり、「主流派(メインライン)」は必ずしも「聖書のみ」とは考えていない人々といった感じで、厳密に定義されている訳ではございません)
(画像あり;宗派別勢力図)
以下は、Wikipediaからの抜粋です。

「 メインライン・プロテスタント(主流派プロテスタント教会、英: Mainline Protestant)は、アメリカ合衆国プロテスタントのうち穏健主義者と自由主義神学の混合の教派である。

メインラインの教職者と教会員はだいたいにおいてポリティカル・コレクトネスな聖書翻訳を好んでいる。彼らは新しい思想と社会の変化を受け入れる傾向がある。これによって彼らは福音派の教会よりも左の立場となる。彼らはいっそう女性の教職者、牧師を認める。メインラインは同性愛者、両性愛者、性転換者に対して、ローマ・カトリックや保守的なプロテスタントほど教理的ではない。なおメインライン教会の戦争への態度については一致していない。アメリカ合衆国においてはどの教派も従軍牧師を米軍に派遣する。

メインライン教会が属する組織は世界教会協議会日本キリスト教協議会である。」
(画像あり;グラフ海外伝道師の推移)
で、現状では、メインラインとは名ばかりで、福音派が勢力を拡大する一方であるのに対して、明らかに劣勢に立たされている状況にあるのが「キリスト教左派」のメインライン・プロテスタントです。

こういったところにも、世界的な潮流である「左翼リベラル」が衰退している現実を見ることができますね❤
余談ですが、南朝鮮(韓国)のキリスト教も、このアメリカ南部の福音派の影響を強く受け、その後に変質し「カルト化」しました(笑)

(画像あり;アメリカ福音派の影響が強い地域、いわゆる南部と言われる地域、バイブルベルト)

『 韓国のプロテスタントは、カトリックが渡来して100年後の1884年に渡来しています。そして20年ほどの間に、カトリックの2倍近い信者数を獲得していきます。この優劣関係は以後もずっと変わりなく続いて現在に至っています。

 その理由は、一つにはプロテスタントの方が世俗的な色彩が強くて韓国人に親しみやすいこと、またカトリックは韓国人にはピンとこない母性的なマリア信仰を重視すること、などに見ることができるかもしれません。

 現在の韓国では、2013年でカトリック教徒は約546万人と公表されていて、プロテスタント教徒は直近の正確なデータではないのですが約915万人と推測されます。合わせて人口の約30%になりますが、韓国基督教総連合会(CCK)に入っていないカルト色の強い宗派を含めると、人口の40%を超えるんじゃないかと見られています。

 プロテスタントのうち長老派教会に所属する信者が約23%、メソジスト派教会に所属する信者が約14・5%で、それ以外のほとんどが福音派教会系の信者たちです。韓国の福音派教会は、戦後入ってきたアメリカ南部の福音派教会の影響下にできていったものですが、朝鮮戦争後に爆発的に信者数を増やしていきました。なかでも汝矣島(ヨイド)純福音教会は、家族5人でスタートして今では韓国で最大の信徒数を誇っています。単一教会では世界最大の教会といわれます。

そのほかに、韓国には異端派と呼ばれる教会が多数あります。異端派とはいわゆるカルトで、その大部分が「私は再臨したキリストだ」と自称する教祖を戴く、神秘主義の色彩濃厚な宗教団体です。統一教会世界基督教統一神霊協会)などもその一つです。

 自称イエス・キリストが韓国にはたくさんいるんです…

 30年ほど前までは30人いるといわれていました。異端派の信者数は韓国キリスト教徒の25%に達するといわれます。(30%とも)…

 韓国のキリスト教の性格は、福音派教会に最もよく現れています。福音派教会には、「儒教の現世主義」と「シャーマニズム神秘主義」の2つが強く結びついた宗教の典型を見ることができます。

 「キリスト教の神さまは祝福の神さまです。限りない福を私たちに与えて下さる神さまです」

というのが、福音派教会の主張です。朝鮮戦争で国全体が疲弊していた時代、当時の韓国は世界最貧国のレベルにありましたが、福音派教会の神さまはどんな願いもかなえて下さる神さまだ、神さまにお願いしたら本当にお金が入ってきた、病気が治った、子どもを授かったという評判が広がっていって一般庶民の注目を集め、高度経済成長時代に大躍進を遂げました。それで他の宗派も福音派の影響をしだいに受けていくようになり、多くが福音派の宣教や説教のやり方を取り入れていきました。

 福音派の牧師さんは、私たちは神さまから愛を受ける資格がある、それはかなえて欲しいことを唱える者に与えられるといいます。その場合、赤ちゃんがギャーギャー泣き騒ぐ例を盛んに使います。赤ちゃんが泣き騒ぐとお母さんはおっぱいを与えますね。ニコニコしていれば与えません。泣き騒いで訴えないと愛情はもらえません。ということで、激しく唱えよということになって、

「神さま!私に福音を下さい!」

と、大声でかなえて欲しいことを唱えるんです。…

 シャーマニズムに特有の熱狂的な様子は、韓国の福音派教会ではごく普通に見られるものです。両手を挙げて身体を左右に揺らしながら、「ああ神さま!」と大声で祈るんですね。祈っているうちに神がかり状態になって、「聖霊が降りてきた」「光が見えた」などと叫ぶ人もいます。

 とてもキリスト教とはいえません…

 トランス状態になるんです…そういう光景を見たという人に聞くと、あちこちを叩いたり、激しく身体をゆすったりしていて、とても怖いといっていました。…

 「自分はこれだけ善なのになぜ福が訪れないのか」

と祈る。そうやって嘆き訴えるんです。真夜中の教会に行くと嘆く人がいっぱいいます。神さまは自分の嘆きを慰めて下さり、熱心に祈れば福を与えて下さる、それで夜中に教会に行って思う存分嘆くんです。実際には嘆くことで自分を慰めているんです。

 キリスト教は本来は精神的な信仰ですが、韓国ではほとんどが現世利益の信仰になっています。…

 長老派などの正統的な教会では、説教を聞いていて眠たくなるだけだし、我々はみな罪人である、罪を悔い改めなさいといわれるので辛い気持ちになる。ところが福音派教会では、どんな罪びとであっても神さまは引き受けて下さる。どんな罪びとであっても、悔い改めてお祈りすれば救われる。福音派教会に多くの人たちが足を向けるのは、そういうところからです。

 正統派では「禁欲しなさい」というのに、福音派は逆に「求めなさい」という、だから救われた気持ちになるという人が多いんです。そして、求めるなら段階的に求めなさいといいます。たとえば、最初から100坪の家を下さいというと、欲張りだからかなえてもらえない。まずは50坪の家を与えて下さいとお祈りする、そうして少しずつ増やしていくことで、100坪の家でもかなえられる。福音派の牧師さんは、だいたいそういう説き方をします。』

詳しくはこちらをご参照❤

最後の痛言: 呉善花(韓国)が黄文雄(台湾)、石平(中国)に真意を問う 単行本 – 2015/4/17
黄 文雄 (著), 石 平 (著), 呉 善花 (著, 原著)
さて、本日はここまでとさせて頂きますが、以前も書かせて頂きましたように、現代アメリカ社会ではキリスト教の社会階層化が実際に存在しています。

最も上流として君臨するのは、イギリス女王を頂点とする「イギリス国教会」(聖公会)で、それに次ぐのが正統派であるプレスビテリアン(長老派)になりますが、トランプ大統領も、そこに所属しています。

詳しくはこちらをご参照❤
大間違いの織田信長 単行本(ソフトカバー) – 2017/8/19
倉山 満 (著)

また、ロイ・マーカス・コーンとトランプ大統領との関係は、以前にも書かせて頂いておりますので、そちらをご参照ください。

詳しくはこちらをご参照❤
世界の中国化をくい止めろ 単行本(ソフトカバー) – 2018/2/9
宮崎 正弘 (著), 福島 香織 (著)


続きは次回に♥

 

 

 

(引用終了)