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ブログ「バンコク時事周覧」

(見出し)
アメリカは北朝鮮の暴力主義に対抗できるのか。
2013-12-16
(引用開始)

 
(引用)
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/world/snk20131216510.html
張氏処刑までの数カ月、数多くの死刑執行 米国務長官「不安定さの証だ」(産経新聞) - goo ニュース
(本文)
 中国大陸や朝鮮半島には、1910年の併合によって日本政府が廃止するまで、
世にも恐ろしい残酷な刑罰が存在していました。
北朝鮮は、伝統的な刑罰の残虐さに加えて共産主義由来の弾圧・粛清体質をも受け継いでいるのですから、
反逆者のレッテルを張られた張氏処刑の光景もまた、正視に絶えない凄惨なものであったそうです。

  アメリカのケリー国務長官は、この事件に関連して北朝鮮の金正恩政権の不安定さを指摘すると共に、
北朝鮮の核兵器の保有も許さないと、厳しい口調で批判しています。
これまで、オバマ大統領やケリー国務長官をはじめ、アメリカ民主党のリベラル派の人々は、
北朝鮮を”話せばわかる相手”として扱ってきました。
その思想的な背景には、近代以降の理性崇拝があり、
全ての人間には天より授けられた理性が備わっており、理性ある限り、
理を尽くして説明すれば、人種、民族、宗教…の違いこそあれ、あらゆる人は、
それを理解すると信じていたのです。
しかしながら、”理性崇拝”は、力を信じる者に対しては無力となります。
言葉によって説得するよりも、物理的な力を用いる方が確実に相手を強制できるのですから…。
近現代国家の基礎となる民主主義、基本的な自由と権利の相互尊重、
法の支配…といった近代以降の価値は、全て人間の理性の働きに依拠しています。
一方、力を信奉する者達が造る国では、
理性の衣を纏ったイデオロギーもまた自己正当化の道具に過ぎず、
暴力こそが支配の手段となります。
北朝鮮のみならず、中国や韓国…にも、御しがたい暴力主義を見出すことができます。

  リベラルな人々は、人間性を信じるが故に暴力主義に対しても寛容です。
暴力主義もまた、多様な思想の一つに過ぎず、普遍的な理性によって矯正可能と考えるからです。
しかしながら、暴力主義者は、理性の矯正が及ばないところに安住しているのですから
(むしろ、理性が及ぶと体制が崩壊する…)、対話と説得を基調とするアプローチには無理があります。
力しか信じない者の暴力主義にどのように対処するのか。
実のところ、近代以降、普遍性を以って人類に広がった諸価値は、
暴力主義の台頭によって挑戦を受けています。少なくとも、”話し合い”という美名の下で、
暴力主義を理性で抑え込もうとする方法は限界にきているのではないでしょうか。


(引用終了)


(私のコメント)

上記の「理性崇拝」というのはフランス革命以来の啓蒙思想からくるものだ。
それまで西欧世界を支配していたキリスト教がプロテスタントによって権威が揺らぎ、
戦乱が続いたのが理性崇拝啓蒙思想が生まれた元になっている。
強い宗教であるキリスト教に対抗したから理性至上主義も
ほとんど宗教的イデオロギーになってしまった。

今まで血筋によるつながりによって貴族が階級を形作っていたが、
それを頭の良し悪しで階級を作る社会にしようとしたのが理性主義だ。
例えば共産党は自分たちを「大衆の前衛」と規定している。
彼らは、共産主義の素晴らしさを愚民である大衆は知らなくて良い、と考える。
少数の優秀な共産党員がそれを知っていれば良い。
その優秀な共産党員が大衆を指導すればよいのだ。
つまり理性の優秀なものが過去の貴族の立場に立てばうまく行く、と考える。
創価学会なども同じような考えを持っている。
また、今の日本の新聞テレビを作っている人間も同じ考えを持っている。

ところが人間というものは頭がよかろうが悪かろうが未来がどうなるか分からないのだ。
だからどんなに頭が良くても将来のことについて判断すると必ず失敗する。
失敗しないまでもある確率で実現したりしなかったりする。
お釈迦様が言うようにこの世の中は諸行無常なのだ。
方丈記に書かれているように水の流れのように有為転変の世の中なのだ。
少しくらい頭が良くても何の役にも立たない。

ところが愚民達の指導者を気取るエリートはそれを認めようとしない。
そこで彼らは自分たちをエリートであるが故に無謬性をもつと信じ込んでしまう。
無謬性をもつのは神様しかいないから頭の良い人間は神様だ、ということになる。
だから理性主義は宗教の一種なのだ。

こういう連中にとっていちばん困るのは暴力だ。
そもそも理性というものは人間の心の中の1部でしかない。
東洋では人の心を「知情意」と分けて考えるが、身体も影響力を持っている。
身体の動きが主になる暴力は人間の本能的心と直結して動くから理性の出番がない。
理性主義者が嫌うのはそのためだ。

ただし暴力は悪いものでなく、使い方による。
柔道の創始者嘉納治五郎先生が言うように「精力善用自他共栄」なのだ。
武道は暴力を善用しようとするものだが、それを行うときにいろいろ考えてる暇がない。
ほとんど、いつも理性抜きで、とっさに行動しなければならない。
そこで日ごろから修行して心を整えその時でも良い方向正しい方向正義の方向に、
暴力が使えるようにしようというわけだ。

そこにもちろん宗教的な自然に対する畏敬の念などの信心が含まれる。
だから理性主義者が嫌う宗教や身体を伴う修行鍛練が暴力をコントロールする。
理性主義者では暴力をコントロールできない。
憲法第九条の信者は単なる理性主義で、
改正論者は暴力を含めた総合判断ということになるだろうか。

理性主義に反対するのがエドマンド・バーク流保守主義で、
過去からの知恵の蓄積を大切にし、歴史的に残ってきたものを大切にし、
未来に対しては懐疑的に漸進的に考え、理性主義のように個人中心でなく、
共同体を尊重する。三人寄れば文殊の知恵、和を尊ぶのだ。

人間の歴史は暴力によって作られてきたと言ってもいいぐらいだ。
暴力をどうコントロールするかそれが個人も社会も、国家も問われているのだ。

(私のコメント終)