中野剛志先生の「日本思想史新論」の解説1204-5-96/8

中野剛志先生の「日本思想史新論」の解説の続きです。
前回はこの本の書評を紹介しましたが、今回も書評の引用を続けます。
私がまとめるより分かりやすいかもしれないし、書評の書き方の勉強になるかなと思うわけです。
(今日はここから)

宮崎メルマガの多田氏の書評。

(引用開始)
1.この本の副題には「プラグマティズムからナショナリズムへ」とある。
これが著者の書きたかったことである。

(私の注;プラグマティズムは江戸時代の伊藤仁斎などの思想のこと、
ナショナリズムは会沢正志斉の思想の事を云うのだと思います。
そういう思想の流れが福沢諭吉まで続いている、と言うのが著者の主張です。

従来からの定説では、会沢正志斉は狂信的な排外主義思想とみなされてきた。
福沢諭吉はそれに全く対照的な文明開化、開国主義者と位置付けられた。)

2.丸山真男司馬遼太郎などの戦後民主主義のイデオローグ達は、
会沢正志斉などの水戸学が唱導した尊王攘夷論を非合理的な観念論として非難攻撃した。
更に、大東亜戦争の敗戦の責任まで押しつけた。

その延長線上に今日のTPPやグローバリズムを第二の開国として賛美する論者がいる。
こういう現代の開国論者は福沢諭吉を思想的援軍にしようとするが、
福沢諭吉は実は水戸学と何ら変わらない尊王攘夷思想の持ち主だったということを証明する。
著者はまさに戦後の民主主義思想、近代主義、を理論的に余すところなく粉砕してゆく。

(私の注;著者がこの本を書いた目的は、現在の日本の新聞やテレビなどの論調と戦うためなのだ。
現代は危機的であって、幕末の会沢正志斉と同じ立場に居るのだ、と言うのが著者の認識だ。
私が一生懸命この本を読んだのも極めてアップツーデイトだからです。
教育勅語を否定する戦後の思想も著者が戦おうとする思想と同じで、だから取り上げるのです。
別に江戸時代の思想を教養として勉強しようと言うわけではない。
現在の問題の解決に役立つ、という視点です。)

3.幕末の尊王攘夷論とは、外国の侵略という国家的危機の中で生まれた極めてプラグマティックな思想だ。
その代表格が会沢正志斉の書いた「新論」だ。
著者は「新論」の思想が観念的な排外主義でなく、優れて先駆性、戦略性、論理性を持ったものだ、と言う。

新論を生んだ水戸学はどうしてそういうプラグマ(実用的、実務的)思想を持てたのか。
それはすでに江戸時代に、実証的な「古学」と言うものが用意されていたからだ。
その古学を代表とする学者が伊藤仁斎荻生徂徠達なのだ。

4.新論が説く尊王攘夷論は決して観念論でないから明治維新の革命イデオロギーとなれたのである。
著者は、伊藤仁斎荻生徂徠、会沢正志斉、福沢諭吉、この四人を直列させることによって
我々は戦後日本を支配してきた開国物語の呪縛から解放され、
実学という日本のプラグマティズムを回復し、
そして日本のナショナリズムを健全な姿で取り戻すことが出来るのだ、と書いている。
これが、この本の趣旨だ。

5.著者は次のように言う。

「維新後においても、水戸学の尊王攘夷思想のような
プラグマティズムに裏打ちされたナショナリズムの精神を継承した思想家がいた。
それが福沢諭吉だ」

…この本は…「福沢諭吉の文明開化論が尊王攘夷論と対立するものだ、という通説を破壊する」

6.また、尊王と言う点について著者は次のように語る。
福沢諭吉は「帝室論」「尊王論}などの著書があり、それらにおいて、皇統の連続性が語られている。
福沢諭吉にとって国家国民の独立と万世一系の皇統の連続と神聖性は全て一体のものである。
「新論」も同じく、古学から水戸学までの尊王思想の中心は皇統の連続性にあり、
勿論それを前提に説いており、当然これは福沢と同じだ。

(私の注;戦後の民主的イデオロギー評論家は水戸学について、尊王思想が気に入らなかったのだ。
大東亜戦争の天皇を中心とする軍国主義のトラウマが尊王思想を忌避した。
その為に攘夷の主張を深く考えず頭から否定した。
攘夷は「日本の独立を守る」と言う意味で、外国人を打ち払う排外主義ではないのだ。
だから、会沢正志斉や幕末の志士たちにより攘夷開国で国論がまとまった。
それが引き継がれて福沢諭吉の開国論につながった。

なお、戦後のイデオローグが教育勅語を否定するのは軍国主義のトラウマという点で「新論」批判と同じなのだ。
教育勅語も会沢正志斉も福沢諭吉大東亜戦争のフィルターを外してみる時が来たのだ。

しかし、そういうこだわりを持った思想はどうしても偏って観念的になってしまう。
彼らは攘夷論を観念的だと批判するが、彼らこそ観念的なのだ。

それと、前回説明した、サヨクの進歩主義、理性主義からすると、
江戸時代の思想家などは野蛮で遅れた人間たちで、
自分達は進歩した新しい最高の理性だと決めてかかっている。
時運たちの考えることは進歩していて彼らより素晴らしい理性なのだ、とうぬぼれている。
まともに内容をよく検討したのは著者が初めてかもしれない。

進歩や理性でうぬぼれているだけで考えは観念的だから、
TPPやグローバリズムなどの今起きつつある現実に対応できなくなっている。
それを著者は「実学」で現実的論理的に解決しようと提案しているのだ。)

今日はここまでにします。