ブログ転送吉田松陰

(私のコメント)

吉田松陰先生の言葉。
何度も取り上げているので耳タコだろうが、やはり書きたくなります。
相田みつをの言葉にある通り、
「精一杯の魂を打ち込んで」仕事をするということは、
日本人の宗教になっている。

松陰先生は武士としての仕事を全うした。
仕事に打ち込むことによって禅宗の言う「無私」の境地に達している。
時々こういう偉人の話を聞くと心が洗われるのは、
そういう無私の心に触れるからだろう。

(私のコメント終)

(引用開始)
先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」vol.0596 相田みつを
2013/10/11 (金)

わたしは無駄にこの世に生れてきたのではない。

  また人間として生れてきたからには無駄にこの世を過したくはない。

 私がこの世に生れてきたのは

  私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。

 それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない。

  その仕事が何であるかを見つけ、

   そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに

    人間として生れてきた意義と生きてゆくよろこびがあるのだ。

              <相田みつを
 

(引用終了)

(引用開始)


http://matome.naver.jp/odai/2136677037722655201

・幕末の奇人吉田松陰「狂うことの大切さ」

自らを「狂愚」と名乗った松陰


のんびりしている社会に向かって、西洋が攻めて来て国に災いをなす、などと言えば、狂人扱いされる。

吉田松陰安政元年(1854)3月、弟子の金子重之輔(重輔・かねこしげのすけ)とともに、
再来したペリー艦隊の黒船に密航を企てます。
特に周到な計画も立てずに、盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、黒船のデッキに乗り込みます。

当然追い返されました。
牢屋へ入れられても全然めげない

ちなみに松蔭は、生涯で何回も牢獄に入れられていて、最終的には前科5犯です。

・入獄および謹慎中を勉学の好機として驚くほど多くの本を読み、自らも原稿を書き、
さらに松下村塾を継承して多くの青少年を教えた。

・そして、潔く死刑に

「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。
悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、
“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」

・「狂う」ことで常識を打ち壊す

現状に満足せず、常識という壁をいつも自らの行動で壊してきた松陰

考えすぎると何もできないということ。
だからこそ狂愚を愛したのでしょう。

狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、
本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」を指します。


「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂

・「狂」の精神は弟子にも受け継がれる

吉田松陰が彼らに教えたのは「狂」という字でした。

その精神は高杉晋作久坂玄瑞を中心とする子弟に受け継がれ、幕府との武力対決へと進んだ。
それは理性よりむしろ狂で特徴付けられる運動であったといってよい。
山縣有朋は自分の名前を変えて山縣狂介とする

高杉晋作は東洋の一狂生(普通は一書生と言いますよね)と名乗ります。

・次の世代に向けて、吉田松陰はこんな言葉を残しています。

「諸君、狂いたまえ」

常識を疑い、分別を忘れ、狂ったように自分の信じる道を往く。
世の、有名無名の変革者には、常に狂があった。
(引用終了)

(引用開始)
吉田松陰留魂録

私は三十歳で生を終わろうとしている。

 未だ一つも事を成し遂げることなく、
このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、
実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、
五十、百歳にも自ずから四季がある。

 十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、
いずれも天寿に達することにはならない。

 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、
それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、
穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

 同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

(引用終了)