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読んだ本の紹介
辻貴之著「強い日本を取り戻す」
五回目です。

(前回まで)

戦前の日本のことを「天皇を戴く国粋主義」「右翼ファシズム」というが、
それは外見だけで、実質は共産主義(コミュニズムマルキシズムだった。
戦後の日本は戦前の偽装マルキスト達が戦争責任を「国粋主義ファシズム」に押し付け、
生き残った。
それらのサヨクと言われるものは戦前から現在に至るまで、一貫して日本の支配層となっっている。

日本を敗戦という滅亡に導いたのは天皇を隠れ蓑にした、
左翼思想であったことを再認識すべきだ。
戦後の日本人はそれを勘違いして、負けた原因は日本の歴史文化伝統にあるから、
それを悪いものだと捨て去ってしまった。
本当はそれらが正しく、マルクス主義や共産主義の思想が悪かったのだ。

戦後サヨクは国民を洗脳し、だまして主導権を握り、
相変わらず日本人に集団自殺的自虐を強い、
彼らの理想とする社会主義の国を日本に作ろうとしている。
戦前は全体主義統制経済、暴力肯定で、戦後は軍隊放棄、平和憲法礼賛、
極端から極端に走るだけで結局反日と言う内容は同じなのだ。

具体的にサヨクと言うのは何かというと、
全体主義統制経済、暴力肯定、階級闘争史観、平等至上主義だ。
そして思想の根底に日本否定、日本破壊願望がかいま見える。

これの何処が悪いか、というと、
イデオロギー優先のために
「国民の幸せ」という視点がおろそかになる事。
極端に言えば理想のためなら国民が犠牲になっても仕方がない、
というような倒錯した考えになる。
エリートが観念的に考えるから理屈ばかりが先行し、現実から乖離してしまう。
設計主義的に物事を扱おうとするから、現実に足を取られてしまう。

当時の支配層は官僚主義的で、失敗しても責任をとらず交代もせず、無責任が横行し、
その上エリートの無謬性を守るために一般国民に尻拭いさせた。
海軍の特攻作戦を推進した海軍指導部は典型例だろう。
特攻作戦は「武士道とは死ぬことと見つけたり」と葉隠にあるので、
日本の古来からある非合理性と結びつけられる。
しかし、実際はマルクス主義のような西欧から学んだ非人間性が元になっている。
農耕民族と牧畜民族の文化は違うのだ。

話を戻すと、彼らは観念的に現実を見るので、
プラクティカルな判断ができなくなる。
こうした左翼的な考えの人はそれぞれが独裁者的狭量に陥るので
派閥争いが激しくなる。
昭和に入ってからの陸海軍は派閥争いが激しかったのもそのせいだろう。

逆に外に向かってはセクショナリズムや暴走を起こす。
そして敵のスパイを呼び込んでしまう。

こういう状況になると極端な話の方が大衆に受け入れられやすくなり、
正論が真っ先に攻撃され潰されるようになる。
現実に即した正論が潰されると、正論を言う人がいなくなるし、
正論が何かもわからなくなる。

ではどんな政治が望ましいのか。
聖徳太子の十七条憲法にあるように、
「民は天皇の大御宝(おおみたから)」として、共通の基盤のもとによく話し合うのが原点だ。

極端に革命に向かって走り出すような事はしてはいけないのだ。
まず政治の原点は中道を行くことだ。
次に世の中は矛盾や格差があることを容認し、それを少しずつ少しでも良い方向に
導いていく根気強さが必要だ。
そしてそういう良い方向に引っ張っていける優秀なリーダーを発掘しないといけないのだが、
これがなかなか難しい。


(今回はここから)

上記「強い日本を取り戻す」と言う本の、第五章から。
前回は第三章まで解説した。
第四章は現在の安倍内閣の話だが、目新しい内容でないので省略。
唯、書いてある内容で面白いのを一つだけ取り上げる。

現行憲法戦勝国が敗戦国に押し付けた憲法なので、
日本悪玉論で出来ている。
これが戦前からのマルクス主義的自虐反日思想と相性がとても良いのだ。
こういう背景で、現在の日本のサヨクは現行憲法が大好きなのだ。
日本社会に悪意を抱くものは憲法改正に反対する、と断じて良い。

全世界の主権国家が皆保有している権利を日本だけ許さないというのは、
偏見であり差別だ。
戦勝国と敗戦国の関係を永遠に固定化し、
日本国民を先天的に危険な民族と決めつけ、永遠に信頼しないという
国際的に一級下の奴隷的階層に押さえ込んで置こうとしているのだ。

さて、第五章に進もう。

第五章は家族と言うものの大切さを説いている。
まず、現行憲法は家族の尊重を捨て、個人の尊厳を強調し、
各種の共同体を否定して国民をバラバラな個人にしようとしている。
これはスターリンソビエトが行った共産主義的政策と同じものだ。
憲法学者マルキストだから個人の尊厳だけを極端に強調する。
そして家族制度を古い封建的な個人の抑圧の制度として無くそうとする。
だが、家族というのは人間の本源的本能的動物的な属性といえるものだ。
無くそうとするなら人間をやめないといけない位密接だ。

そして家族には文化の伝承を伴う。
共産主義的人間を作るにはそれが邪魔になる。
そこでレーニンやスターリンは家族をバラバラに解体し、
個人を国家に直接結びつけるようにした。
しかしこれは上記のような人間の本質に反するのでソビエトでは失敗に終わった。
なぜ失敗したかというと家族なしで育てられた子供は非常に粗暴になってしまうのだ。
1番困ったのは軍隊で上官の言うことを聞かず暴れる人間が増えたのだ。

幼児期に家族内で愛されると愛情ある人間になる。
この愛された経験のない子供は憎悪型の人間になる。
このため他者との信頼関係が築けず人間不信になる。
人間は愛情を始めとする生物的基盤の充実が不可欠なのだ。

そして人間に不可欠な家族という組織は、さらに国家によって守られる。
国家と家族は同心円状の関係にあって互いに守り合う関係だ。
人が家族に愛着を持つなら同時に国に愛着を持つ関係になる。
家族から愛情を受けて育つから、逆に人は家族を愛するようになる。
家族を愛する延長線上に国を愛する気持ちが生まれる。

教育の原点はここから出発して、より良い家族を作れる人間を育てることなのだ。
より家族を作るという事はより良い国を作るということにつながる。
そこで学校教育は自分、家族、自国に自信と誇りを持つようにさせることが大切だ。
これと全く逆のことを共産主義ソビエトはやって失敗し、
現在の日本はマルキストによって同じ失敗を繰り返している。

マルキストに支配された日教組などによって、
ソビエトと同じことを今の日本ではやっている。
例えばいじめの問題。
「いじめは100%学校の責任だ」
日教組の息のかかった有名な教育評論家の言っているが、
これは共産主義教育そのものなのだ。
子供たちを国家管理に置こうとしているわけだ。
子供の教育は第一時的に家族両親が責任を負うものだ。

こうした偽善的意見が通用すれば現場の教員の士気は間違いなく落ちる。
叱ることができない状況、理念大連合が勝ち、現場の教師は完全に孤立している。
ゆとり教育で学力が全く不足しているのに平等に進級させる。
個性の尊重、押し付け禁止と称して無責任な教育が横行する。
義務の重要性を無視し権利の主張だけ教えている悪教育。
過激な性教育を施して欲望だけを肥大させる悪教育。
これらの権利だけ、欲望だけの人間は自己中心的な人間になる。
相手を思いやるような子供は育たなくなる。
こういう人間たちで構成される殺伐とした社会が将来出現する。
この教育の結果としての悲惨な国がマルキスト達の理想郷だ。

こうして教育の目的である、より良い人間にするのでなく、
子供を壊すことが学校教育で蔓延している。
アメリカではゆとり教育に良く似た試みを行い完全に失敗した。
そしてどうしたかというと「0トレランス」という考えを導入した。
トレランスとは「寛容」という意味だ。

つまり厳罰主義を導入したのだ。
具体的には学校内での行動に関する詳細な罰則を定めておき、
これに違反した場合は速やかに例外なく罰を与えることにするのだ。
これによって生徒自身の持つ責任や義務を自覚させるのだ。
もし改善が見られない場合は別に作られた問題児を集めた教育施設への転校又は
退学処分を科すというものだ。

1990年代から導入を始め、現在は学級崩壊などの教育問題は沈静化している。
これから分かることはマルキスト日教組の言うことの逆が正しい、ということだ。

 

(要約引用終了)