メルマガブログ転送集団と個人1403-19-386-3/22
白井裕一014/03/14 (金) NPO法人百人の会 <h100prs@oregano.ocn.ne.jp>
(引用開始)
人間の言動は、二層構造に成っている。
論理と感情である。
分かり易い言葉で云えば、「口先だけ」と「肚の内」というところである。
理詰めで説得しようとしても、相手の心を動かさない限り、
どんなに論理が整合していても上手くいかない。
逆に、不条理で理不尽であっても、相手が好意を抱いていた場合は、
一も二も無く賛同してくれることもある。
「人間とは感情の動物」なのである。
だから、左翼と対峙する際には、左翼の「肚の内」まで理解した上で、
攻略の為の戦略と戦術を練らないといけない。
左翼が左翼たらしめている感情的な大元は何か。
日本に於ける左翼の感情的な大元は何か。
「死にたくない、死なせたくない」これに尽きる。
平和問題にしても、脱原発問題にしても、この命に対する思いが底に有る。
左翼の通底には「人命絶対至上主義」が存在することをきちんと認識することである。
それに対抗するものが「劇的なる動物=人間」という概念である。
人間は、個々の命のみによって「生きている」のではない。
もっと大きな枠組み、物語の中で生かされているのである。
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」である。
人命とは、絶対的に惜しんではならないのである。
自らのたった一つの命を、もっと大きな存在の為に投げ打つこと。
この尊さを我々は再認識、再評価しなくてはいけない。
我々が、何故、神風特攻隊の英霊に対して涙を流すのか。
そして、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」、三浦綾子の「塩狩峠」に感動するのか。
また、アニメの「宇宙戦艦ヤマト」やアニメ映画(注・漫画版にあらず)「風の谷のナウシカ」に心を動かされるのか。
それは、人間はたった独りの存在では有り得ず、独りで生きられないからである。
家族、一族、地域共同体、国家、そして世界、宇宙という大きな存在の中で
「生かされている」ことに他ならない。
「死にたくない、死なせたくない」と云う概念は、大東亜戦争の敗戦によって、
日本の”國體(国体=国柄)”へのアンチテーゼ、もしくはカウンターとして誕生した。
戦時下という非常時に於いて、あまりにも人命が損耗したことによる反動である。
またGHQによる、工作も有った。
だが、いわゆる「戦後レジーム」が日本の隅々まで浸透したのは、
日本人の心の奥底へ「死にたくない、死なせたくない」という言葉に
深く共鳴したことによるものだろう。
いみじくも日本社会党の鈴木茂三郎による「教え子を二度と戦場に送るな!」というスローガンは
今もその神通力を失っていない。
だからこそ、1972年の連合赤軍による総括と云う名の元の仲間内のリンチ(私刑)に
何人も命が奪われたことは、
日本国民が左翼運動に関して幻滅させることの決定打に成ったのだ。
また、左翼運動が、何とか命脈を保ち、活路を見出そうとした食料問題、環境問題、自然保護問題、
反原発問題、いずれも「生命」に関わる問題である。
この左翼の脊椎とも云える、「死にたくない、死なせたくない」という感情を
どのように克服させていくか。
ここが我々の取り組む難問である。
ちなみに世界的な左翼の感情的な大元とは何か。
「既存秩序への挑戦」に他ならない。
フランス大革命による王制の打倒、
(資本家階級・ブルジョワジーと労働者階級・プロレタリアートの最終階級戦争=社会主義革命)、
ロシア革命の帝政打倒、
支那の国共(蒋介石の国民党政府対毛沢東の共産党人民解放軍)内戦、ベトナム戦争、
キューバ革命、皆この図式に他ならない。
だが、日本に於いては、珍妙な現象が現在進行している。
戦後のほとんどを保守政党たる自民党が政権を担当しておりながら、
大マスコミ、教育界、言論界に於いて確立された、いわゆる「戦後レジーム」が、
平成26年の日本に於いては「既存秩序」として君臨している。
それに対する挑戦が、インターネットによって勃興し、最早、無視出来ない程の広がりを見せ始めた。
つまり、左翼は、いわゆるネトウヨが体制側、体制の補完勢力と思っているが、
これは誤認なのである。
ネトウヨは、明らかに”現体制”の「戦後レジーム」に対するレジスタンスであり、反逆なのである。
ネトウヨとは反体制運動に他ならず、それゆえに若者が参集し、雑草のように根強く、
しぶといのである。
(引用終了)
(私のコメント)
上記の記事は、なかなか面白いものの見方をしている。
日本の戦後が「死にたくない死なせたくない」という素朴な願いから出発したのは確かだ。
日本人が戦後のアメリカの洗脳工作に積極的に参加したのも、
戦前からのマルクス主義やコミンテルンの共産主義工作が浸透したのも、
基本的にはこの考えが影響している。
戦後の日本は共同体というものが戦争で人を殺す道具となったのを見て、
国家、地域社会、家族、などを悪いものと考えて解体しようとした。
しかし人間はひとりで生きる動物ではなく集団で生きる動物だ。
そこで戦後70年を経て、個人が優先するか集団が優先するか、選択を迫られる時がやってきた。
だが、この命題は、上記の様に聖書にもあり、また論語などにもこの命題は提示されている。
古くから論じられてきたのだが、過去の歴史からみると集団がかなり優先されているのだ。
これは日本人の特性であって西洋人やシナ人とは考え方が違ってくる。
忠孝という言葉があるが、日本人は君主と親とどちらを優先するかというと君主ということになる。
君主というのは集団優先ということだ。
シナ人は忠より孝、つまり親の方を優先する。
ただし個人優先という意味ではなく家族と言う集団を公の集団より優先させる、ということだ。
一方、西洋人のキリスト教は非常に強い帰属意識を持つが、ここでは深入りしない。
日本人の日本に対する帰属意識は現在衰えたとは言え、かなり強い。
なぜ強いのか。
それは災害の多い日本の国土が日本人の心に影響を与えている。
災害が多いため助けあわないと生きていけない、つまり集団が必要なのだ。
災害に対する危機意識があるから、どうしても日本人を意識せざるを得ない。
下記のブログの引用にあるように集団というものは、帰属意識が必要だ。
そして、それとは別に人間以前に動物レベルの属性でもあるのだ。
また、個人の生命は有限だが集団は生命の連鎖としては無限だ、ということも集団の特徴だ。
死ぬことに関しても集団は重要な役割を持っている。
神道の神様は死者が神様となるから無限に増殖していくが、これは動物的群の理屈にあっている。
こういう点から見ると日本人と言う集団は「死にたくない死なせたくない」
という個人レベルの思いから、だからこそ集団が大切だと言う考えに変わってゆくのではないか。
そこで大事なのは、福沢諭吉の言うように「一身独立して一国独立す」という考えだ。
しっかりした賢い個人がいなければ立派な集団は作れない。
集団のために死ぬかどうかは独立した個人の判断によるからこそ強く貴いのだ。
サヨクや新自由主義グローバリストは「世界市民」などと言って集団の範囲を広げようとするが、
これもうまくいかないだろう。
なぜなら集団のもつ助け合いの機能が働かないし、集団に対する信頼や忠誠心が生まれてこないからだ。
世界市民で納得するのは、神道と言う無の宗教を持つ日本人だけで、
イスラムやカトリックが世界市民の中に共存することはないだろう。
(私のコメント終)
http://eco.genv.sophia.ac.jp/book/kyokusoc/kyokusoc-chap6.html
「個性と集団」から要約引用
電車に乗っている人々も集団だが帰属意識は無い。
だが、電車が止まったり災害に遭ったりしたら帰属意識が生まれる。
運命的な集団意識が生まれてくる。
また帰属意識のない電車に乗り合わせた集団でも100%バラバラの個人では無い。
電車に乗るにはやはりマナーが必要だ。
つまり個人の制約と集団の利益のバランスが必要になってくる。
国家も電車と同じで個人と集団のバランスが重要になってくる。
そのバランスは上記の電車の例と同じで帰属意識が重要になってくる。
***
まず集団というのは人が自己の存在意味を確認する場だ。
人間は、集団により受け入れられ、集団のなかでの評価が高まる。
あるいは集団にとっての自己の必要性がより強く感じられることによって、
よりよい満足を得られる、あるいは喜びとなる。
これが、自己の存在意味の確認の重要な内容になっている。
集団というものが人間にとって必要不可欠な存在意義があるのだ。
***
集団は人間だけが持っている高度の知性の結果ということではない。
動物にとっての集団形式は、群である。
群という概念は集団という概念よりもより限定された内容を持っている。
群は特殊な集団である。
生命の生活形式の中にあらわれてくる集団なのである。
そして、人が集団を通して自己の存在意味を了解していくことは、
動物が本能的に群れる現象と強い類似性をもっている。
動物が群れることは、彼らが食糧を求め子孫を残すために努力することと同じレベルの行為である。
種の拡大保存のために不可欠の生態なのである。
人間は、空腹や乾きをいやすことによって精神的満足や喜びをえることができる。
性行為に伴っても同じように喜びをえられるようになっている。
これらの行為は、人間が知性をもっているか否かに関わらず、
それよりももっと低いレベルの生活行為に伴っている喜びである。
人間が、集団に一般的に帰属することによってえている自己認識に関わる喜び、
動物的にいえば、人が群れることによってえている喜びもまた、
質は異なるが生活形態のレベルとしては、食欲や性欲を満足させることによって、
えている喜びと大きくは違わないのである。
それぞれの動物がこれらの喜びを得るための衝動を失ったとしたら、
その種は直ちに滅んでしまうだろう。
***
生命の表現形態は個という形態と群という形態の二つがある。
そして、後者にこそ生命のより本質的な表現形式があると先に指摘した。
ここでは、時間という視野の中でこの問題を考えてみよう。
個体というのは、存在が有限である。
しかし、群は存在が時間のなかで制約を受けていない。
持続することが前提となっている。
もちろんそれは、限りなく存在するという意味ではない。
種そのものが時間の中で変化してしまうからである。
このような制約を持っていることは理解しながら、
個体の有限性という制約を持っていないという意味で、
群は、無限の時間の中での存在を前提にしているといってもよいだろう。
時間という視野の中では、この有限に対して群の無限性が対応しているのである。
個体が有限であることは、個体にとって逃れられない運命である。
一方、群に帰属しようという動機は無限なものに自らを一体化させようという動機に他ならない。
それはまた、個体の有限性を抽象的に乗り越えようという動機であるともいえる。
(引用終了)