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ブログ「思想界の最右翼ー大江戸回帰派」


(要約して引用開始)
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一般的に「反韓」「排韓」「ヘイトスピーチ」などと称される在特会ほか
行動する保守運動」勢力による行動は、自らの置かれた境遇や不満、
鬱積(うっせき)を晴らす場としてのはけ口などと言われてもいるが、
現代日本で唯一「愛国心の発露」である。

 日本に住む外国人とりわけ支那人(中国人)や朝鮮人への敵愾心を剥き出しに、
排撃を主張するのは愛国心などではないとする向きもあるが、
それを主張する運動体こそは「新しい右派運動」のスタイルであり、
新しいナショナリズムである。

 しかも、それが一種の運動体として定着したことが凄い。
以前なら特定の「誰か」が呼びかけた運動に参加者が馳せ参じるというスタイルであったが、
それが今では「誰も」が呼びかけるスタイルとなった運動体として毎月毎週のように定着化した。
その規模の大小に限らず、これは「社会への定着化」である。

 また、在特・行動する保守は若年層といった特定の年齢層で一括りにされがちだが、
年齢層も多種多様である。

 元から右派的な考え方を持っていた人、以前は左派の運動に携わった、
もしくは左派的な考え方を持っていた人でそこからの「転向組」、
ノンポリから馳せ参じた人々…。

 街頭におけるデモに対して、反日勢力の妨害(カウンター)も盛んだが、
少なくとも紛れもない事実として言えることは在特・行動する保守による愛国市民デモが
「能動的」であるのに比して、『レイシストをしばき隊』や『男組』
『のりこえねっと』といった妨害勢力のカウンターはデモに乗じた「受動的」な動きと言える。
***

一方が在日外国人は日本にタカるな、母国へ帰れ、出て行け!…と主張して
「現状を打破」しようとしているのに対して、もう一方のカウンター勢力は在日外国人と
「仲良くしようぜ!」「ヘイトをやめろ!」「レイシスト帰れ!」といったように
「現状を維持」することに汲々としている。

 言わば「現状打破勢力VS現状維持勢力」の衝突であり、遠い将来、
どちらがより能動的に運動体の裾野を広げるかと言えば前者である。

 愛国市民デモへの妨害勢力は欧米並に「人種差別的な言動を法規制せよ」だとか
「取り締まるための立法化」を喧(かまびす)しく主張するが、
そうした国際基準・標準で言うなら、閣僚からして移民への厳しい規制を主張し、
排外的な政策を打ち出す極右政党を選び、警察からしてヘイトスピーチ的な言動が
飛び出す欧米社会こそは日本も追随・模範とすべき新しい世界基準ではないか。

 今はまだ日本型…の排外主義とされているが、
やがて欧米並の主張と運動体へと発展・拡大することが見込まれる。
 在特・行動する保守の愛国市民デモこそは、その前段階的なステップであり橋頭堡であり、
次世代、次々世代の若者を魅了する排外主義運動の発祥である。
その芽は着実に芽吹き始めた。

 排外主義的な運動の台頭は不満のはけ口という側面もあるにせよ、
それのみにとどまらない。

 一種の享楽であり、生き甲斐であり、使命感であり、日本人としての責務である。

 言ってみれば「日本の全て」を背負った行動であり、その自負心がある以上、
如何なる罵声や雑音、妨害にも屈さない。
***
外国人(事実上の移民)と、事実上の移民(外国人)を受け入れる体制が存在しなければ、
こうした運動も隆盛しないわけであって、見方を変えれば非常に、
とてつもなく「面白い時代」である。

 一昔前、「外国人参政権の付与が国を滅ぼす」というのが愛国陣営の総論であった。
参政権が欲しければ帰化せよ」と…。これが本格的な移民という形で
日本への同化を促すこと自体が国を滅ぼすことに繋がるトンでもない売国・亡国であるとの総論に
ステップアップする段階に突入したと思う。

 早い話、開国開国で国を開いて外へ外へと進出することに一辺倒であった時代から、
今度は国を閉ざす「鎖国」を志向し始めるのは自明である。

 日本人が海の外に夢を見出した時代から、内に夢を見出す面白い時代である。

 
(引用終了)
(私のコメント)

現代の日本の思想の流れをごく簡単に言ってみると、
「戦前が正しくて戦後が間違っている」
「戦前が間違っていて戦後が正しい」
と言うふうに言えると思う。

上記ブログの排外主義の行動に対する考えはこの2つの思想から離れて、
日本の現在の状況から出発している。
この点が非常に新しいし、面白い現象だ。

つまり
「戦前も戦後も正しいとか間違っているとかは脇に置いといて、取り敢えず現実に取り組もう」
という考え方が生まれてきたと言える。

そしてそれは
「戦前も戦後も正しい」
「戦前も戦後も間違いだ」
と言うような歴史から離れた、歴史を客観視する方向に向かうのではないか。

重要なのは、明治以後現在に至るまでの歴史をつないで考えることができるようになったことだ。
R100」という題名の映画が今話題になっている。
題名の意味は「 18歳以下見物禁止」をもじって100歳以下の人は見てはいけません、という意味だ。
つまりアメリカに敗北した日本がその敗北を歴史的に客観的に見るためには100年かかる、という意味だ。
これもまた敗戦というもの、戦争というものをどう消化してくか、
という日本人が当事者として格闘する物語だ。

このように歴史をよく考える事は重要なことだが、
それと同時に今ここにある問題を実践的に解決していくことも大切だ。
その解決にあたってはやはり日本の歴史や文化伝統などから正しい道を判断していくことが必要だ。
判断基準はマルクス主義や新自由主義グローバリズムなどでやってはいけない。
そう言う理屈から出発した新規のものは必ず失敗している。
そして判断基準である歴史伝統には戦後の経験も含まれてくる。


戦後の経験と言うのは、戦後の平和というものが、
アメリカの軍事力を背景とした幻想世界だった、というものだ。
だが、その幻想世界もリアルなものだった、と容認されるようになるだろう。
戦後はアメリカの洗脳教育や敗戦による国家指導者への不信感などと、
東西冷戦などの世界情勢などによってその思想が形成された。
戦前も世界情勢に翻弄され、日本という国に神州不滅幻想を抱いたのではないか。
そう言う事では両方共同じようなものだ。

現実に取り組もう、と言う点で重要なのは
排外主義は理屈抜きで基本的には生活感覚から出発していることだ。
ここは非常に大切で、例えば世界市民とか自由平等とか言う理想から出発してないのだ。
このリアルな実質的な損得勘定から出発した運動は非常に強いように思われる。
理屈は後からついてくる。
昔からこういう生命の危険といえば極端だが、こういうものにつき動かされて歴史は動いてきた。

実際に新大久保の「朝鮮人帰れデモ」に参加してみると爽快な気分になる。
日米戦争、または大東亜戦争がよみがえって今現実に継続しており、
その兵士として戦いに参加しているような気分になる。
つまり靖国神社英霊達と同列に立っているわけだ。
そればかりでなく尊皇攘夷をとなえた明治維新の志士たちとも繋がる感じがする。

その意識が爽快な気分の源泉ではないか。
歴史や日本人の心につながった一体感、共に戦う、というのは何か気持ちが良い。
特攻隊だけでなく、イギリスの航空兵もドイツのナチス親衛隊もソビエトの戦車隊も
ハンニバルもシーザーも忠臣蔵の面々も何か皆のために、という大義で戦った。

人間はパンのみにて生くるにあらず、


何かそういう崇高なものとの一体感、高揚感というものは人の大切な部分ではないのか。
昔の武士は元服してその一員となった時、やはり高揚感があったと思う。
そういうものが武士としての矜持や誇り、修行を生んだものと思う。

サヨクの理性を信奉する人たちは、この感情をシニカルにせせら笑うだろうが、
理屈抜きに人間の感情や意思に基づいて、人は出発すべきなのだ。
近頃、右寄りのブログを批判して「愛国ポルノ」と言うそうだが、
なかなか面白い表現だ。
そう言うサヨクは「理想ポルノ」「理屈ポルノ」かもしれないから同じようなものだ。

それは置いておくとして、
気持ちがいい、という点ではポルノと共通するものがあるのだろう。
人間の原初的な感情から出てくるものを、勿論行き過ぎは良くないが、大切にすべきだろう。

これから先どうなるかは分からないし、
あまり偉そうな事は言えないのだが、
私は今のところ、小林秀雄が言うように明治維新から現在までをひとまとめにして、
外国に翻弄された時代だと総括すればいいと思う。
そこでこれからの日本は江戸時代の物の考え方を参考にすればいいのではないだろうか。
もちろんそのままというわけでなく、時代精神の話です。
これを説明し始めると話が長くなるのでこれから先はおいおい考えて次回以降に書いていく事にします。

 


(私のコメント終)