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ブログ「ねずさんのひとりごと」


(引用開始)

百田尚樹さんの「海賊と呼ばれた男」がベストセラー殿堂入りしたそうです。
***(中略)

出光佐三氏は、終生「社長」でも「会長」でもなく
「出光商会」の一介の「店主」を押し通したといいます。
彼は四無主義を提唱し、それをつらぬきました。
四無主義というのは、
(1) クビを切らない
(2) 定年を設けない
(3) 出勤簿を作らない
(4) 労働組合をつくらない
というものです。
戦後、欧米からマネジメント手法として輸入され、いまではごくあたりまえになっている、
リストラ、定年制、勤怠管理、労組とは正反対の思想です。
もっというと、昨今の、すぐにリストラだの若年定年制だのと、
部下の首ばかり切りたがる「西洋かぶれ型経営者」とは、まったく異なる経営哲学です。

出光佐三氏にいわせると、「社員は、雇用しているのではなくて、家族」なのです。
佐三氏は、これを「人間尊重主義」、「大家族主義」の経営哲学と呼んでいます。
旧来の日本的哲学です

出光佐三氏は、明治18(1885)年、福岡県赤間村(現・宗像市)で生まれました。
生家は、地元で藍問屋を営んでいて指折りの資産家だったといいます。
そして出光家の先祖は、大分にある宇佐八幡宮の大宮司だったそうです。

ところが、小学校に入った佐三は、病弱でひどい近眼でした。
そのため本が読めない。視力が弱くて体力がないのです。
だから佐三は、本を読んで学ぶかわりに、なぜか、
どうしてかを必死で考える習慣を身につけたといいます。

16歳で旧制福岡商業に入学しました。
福岡商業では、ストライキの首謀者などをしました。
ついに学校側を屈服させたのですが、このことによって先生のミコを悪くして、
卒業時の成績は下から二番目になってしまいました。

20歳で、神戸高等商業(現 神戸大学)に入学した佐三は、
そこで二人の師匠に出会ったそうです。
ひとりは、水島鉄也初代校長です。
水野校長は、
「カネの奴隷になるな。
『士魂商才』をもって事業を営め」
と教えてくれました。

武士の商法という言葉があります。
明治維新のあと、官職を失った多くの武士が
「生き馬の眼を抜く」という商業界にあって、財産をなくし、路頭に迷いました。
もともとは、それを茶化して言われた言葉が、その武士の商法です。

そういう時代への反省から、明治の終わりごろには、
国内には拝金主義が台頭しました。
義理人情や筋道や道理や正しさではなく、
とにもかくにも「儲かりさえすれば良い」という思想と行動です。
そんな時代にあって、水島校長は、人を大切にせよ、
武士道の精神をもって商売に励め、と教えてくれました。

江戸の昔「もし期日に返済なくば、人前で笑われても異議なく候」と
借金の証文に書いた武家と、とにかく儲かればよいという商家では、
その基盤となる考え方がまるで違います。
だから、武家の流儀では、商売には向かないというのが、一般の考え方でした。
水島校長は「それでも武家の心を失ってはならぬ」と説いたのです。
そして「男子たるもの、国家に貢献できる事業を営め」と生徒に語りました。

もうひとり、佐三はなくてはならない人との出会がありました。
それが内池廉吉教授です。

教授は、
「これからの商人は、生産者と消費者を直結し、その間に立ち、
相手の利益を考えながら、物を安定供給することにその価値がある」と
教えてくれました。

この時期、佐三の実家では、商売が傾きかけていたのです。
家からの仕送りもなくなり、佐三は家庭教師のアルバイトをしていました。

彼が教えた子供の親に、日田重太郎という名の大変な資産家がいました。
日田重太郎の趣味は、神社仏閣の巡拝です。
たまたま佐三の実家の出光家が、宇佐八幡宮の大宮司の家柄だったことから、
佐三は宗像神社を無条件に尊敬してくれていました。

明治42(1909)年、神戸高等商業を卒業した出光佐三は、
神戸で小麦粉と石油を扱う酒井商店に丁稚として入店しました。
酒井商店は、小麦粉と機械油を売っている従業員4、5名のこじんまりした商店です。

高等商業といえば、いまの大学です。
その高等商業の卒業生なら、昔は学士様と呼ばれ、
官庁の職員や大企業で重用してくれました。
ところが出光佐三は、大企業ではなく、中小というより、零細な商店を選んだのです。

なぜこんな小さな会社を選んだのかと、学友たちはいぶかりました。
それどころか佐三は、「お前は気違いだ。
学校のつらよごしだ」とさえ非難されてしまいます。
高等商業を卒業しながら、丁稚奉公に出るなど、学校のメンツを汚してるというのです。

しかし佐三は、周囲の非難などまったく意に介しませんでした。
なるほど大企業に入れば、収入も多いし生活も安定します。
しかし大企業では、仕事の一部しか担当できない。
自分が将来、独立して事業を営もうとすれば、
仕事の基礎から終わりまで、全部を覚えなければなりません。
そうであれば、小さな商店の方が、
むしろ、なにもかも担当させてもらえますから、仕事を速く覚えられます。
それだけじゃありません。
これからの時代は、必ず石油の時代になる。

酒井商店は、油を扱っていたのです。
こうして佐三は、大学を出ていながら、小学校卒がなるような丁稚になり、
前垂れのはっぴ姿で自転車に乗って集金に駆け回りました。
それは、いまでいったら、かっこ悪いことかもしれません。
けれど未来の独立を夢見る佐三にとって、それは、夢を叶えるためのプロセスでした。

ところが独立自営を夢見て走り回る佐三に、困難がやってきました。
実家の藍屋の商売がいよいよ傾き、もうやっていけなくなってしまったのです。

それは、佐三が、一日も早く独立開業しなければならないということでもありました。
丁稚奉公では、給金はタカが知れているのです。
ところが丁稚奉公では、なるほど仕事は幅広く覚えるけれど、
給金が安く、独立開業のための資金が貯まりません。
いまどきのように、ベンチャー向けの開業資金融資制度なんて
オイシイ制度はまったくなかった時代だったのです。

そんな佐三のもとに、ある日、日田重太郎が現れました。
日田は、当時のカネで六千円(現在のお金でだいたい1億円)を、
「貸すのではなく、もらってくれ」と申し出てくれたのです。
「京都にある家が売れて、六千円の現金ができたから、それを君にあげよう」
しかも、「貸す」のではなく「あげる」です。

ただし条件が三つありました。
第一に、従業員を家族と思い、仲良く仕事をすること。
第二に、自分の主義主張を最後まで貫くこと。
第三に、自分がカネを出したことを人に言うな、
です。

佐三は迷いました。
「自分にできるだろうか・・・」
そして決意しました。
「水島校長の言われる、人道主義と士魂商才の商人となろう。
そうなることで、この日田さんへの恩返しをしよう!」


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ここに大切なポイントが2つあります。

ひとつは、日田氏の大金の寄付は、もちろん佐三の人柄を信頼してのことだということです。
佐三の実家は、このときすでに傾いていることを日田氏も知っています。
1億円のキャッシュをあげれば、そのお金は、単に実家の借金返済に遣われ、
佐三は丁稚のままでいる、あるいはどこかに逃げてしまうというリスクもあったのです。
にもかかわらず日田氏が寄付しようとしました。

金も大事だけれど、それ以上に、人を信頼すること。
そしてその人への信頼を通じて、国のために役立つこと。
それが昔の日本人に、普通にあった普遍的価値観だったのです。

第二に、日田氏の条件は、
3つとも無形のもの(=インタンジブル)なものであるということです。
拝金主義というのは、「いま、カネを持ってる、いまカネを稼いでいる、
いま贅沢な暮しをしている」というように、とかく上っ面だけしかみようとしません。
とにかく「いま」さえ良ければ、何をやっても構わないと考える。
日本の近くにある歴史のない国など、国をあげてそれをやっています。

ところが伝統的な日本的価値観では、過去現在未来にまたがる普遍性を大切にします。
そうなると、いまこの瞬間に金を持っているということよりも、
もっと大切な価値があるということを大切にするようになります。
そしてこの場合、自力で人道主義と士魂商才を、
新しい資源エネルギーの未来に向けて実現しようとする男への投資こそが、
まさに価値ある行動となるのです。
明治の終わりごろの日本には、まだまだそういう無形のものを
大事にするという日本人本来の文化的価値観が、色濃く残っていたのです。

明治44(1911)年6月、佐三は福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に、
出光商会を設立しました。
このとき佐三、25歳です。
後の出光興産の旗揚げです。

事務所の正面には水島校長の揮毫による「士魂商才」の額を掛けました。
商品は、日本石油下関支店の機械油です。
佐三は、その特約店の資格をとったのです。

ところが、売れない。
理由が二つあります。
ひとつは石炭から電気モーターへの切り替えの時代で、
機械油の需要そのものが減っていたという環境です。
もうひとつは、佐三の商売の姿勢です。

機械用の油ですから、当然、営業の相手は工場や商店です。
商売人同士のお付き合いですから、袖の下はあたりまえだし、値引きもあたりまえです。

ところが「士魂商才」を掲げる佐三は、
「そんなことまでして売る必要はない!」とにべもないのです。
おかげで日田からもらったお金は、3年で底をついてしまいました。

さすがの佐三も、憔悴しきって日田を訪ねました。
「申し訳ない。廃業したい」と申し出る佐三に、日田は言いました。
「三年で駄目なら五年、五年で駄目なら十年と、なぜ頑張らないのですか。
さいわい神戸にまだ私の家が残っています。
それを売れば当面の資金には困らないでしょう。」

日田の断固とした姿勢に、佐三は慄然としました。
日田さんは、本気で命がけでワシを信じてくれている。
こうなりゃ、なにがなんでも前に進むしかない!
日田さんに家を売らせるわけにはいかん!

倒産寸前の佐三は必死に考えました。
単に目先の売上げの確保ではない。
もっと抜本的に、強気で士魂商才を実現するにはどうしたらよいのだろう。
佐三は考えに考えます。

そこで、「海賊」をやった。
このことは、百田尚樹さんが小説「海賊と呼ばれた男」の
タイトルにしたことでも有名です。

ただ、「海賊」といっても、船を襲うのではありません。
夜中の十二時から二時ごろにかけて、
漁船がエンジン音を響かせながら帰ってくるのを待ち構えたのです。

漁船のエンジンは「ポンポン蒸気」と呼ばれるツーサイクルの焼き玉エンジンです。
焼き玉エンジンには、燃料油として「灯油」が使われます。
佐三は、帰ってくる漁船が岸辺に着く前に、伝馬船で漁船に近づいて、
海の上で「灯油」の代わりに「軽油」を売ったのです。

軽油は、灯油より下級です。
ですから軽油で漁船の焼き玉エンジンを回すと、クサイにおいがでます。
けれど値段は灯油の半額なのです。

当時の燃料油店というのは、油を元売りから買ってきて消費者に売りました。
小売りは特約店の仕事です。
特約店は、下関、門司、小倉、博多など地域別に分かれて、それぞれに縄張りがあります。
陸にあがった漁師たちは、その港を縄張りとしている特約店で燃料を買う。
そしてその縄張りは、同業の特約店が、荒してはならないというのが、しきたりです。

だから佐三は、「縄張りのない」海上で、油を売ったのです。
文句を言われると、「海に下関とか門司とかの線でも引いてあるのか」と言い張りました。
佐三が「海賊」と呼ばれたゆえんです。

多少ニオイがあっても、値段が半値の軽油販売は大当たりしました。
佐三はさらに工夫し、揺れる船上での油の販売のために、
「計量器付給油船」という海上給油装置まで開発しています。
そして事業を軌道に乗せました。

いったんは廃業まで決意したこの年(大正3年)、
佐三は南満州鉄道への車軸油の納入に成功しています。
当時、南満州鉄道で使う油は、スタンダード社などの外国の油が独占していたのです。
独占は癒着を生み、癒着は高いコストとして跳ね返えります。

佐三は、そのからくりを見抜き、満鉄当局に粘り強く交渉したのです。
国産油の品質の良さを実験とデータで示し、それを使うことが、
満鉄に利益をもたらし、国益にも適うことを具体的に示したのです。

さらに大正8(1919)年には、貨車のトラブルが続出してた南満州鉄道に、
酷寒でも凍結しない「ニ号冬候車軸油」を納入して、
満鉄から感謝状と銀杯を受領しましt。

ところが、大正13(1924)年、第一銀行(現みずほ銀行)が、
突然、25万円の借入金引き揚げを要請してきたのです。
いわゆる「貸しはがし」ですが、実はもっと手が込んでいます。

どういうことかというと、儲かっている会社にいきなり貸金の引揚げを要求をし、
引揚に応じられないなら、銀行員を社長や役員に迎えろ、というものです。
まるでヤクザですが、いまも、いろいろな会社に銀行員が
親元の銀行から派遣されて役員などになっていますが、これがそれです。

さすがにこのときは佐三もまいったらしく、一時は自殺説までささやかれます。
ところが二十三銀行(現大分銀行)の林清治支店長(当時)が、
肩代わり融資を決めてくれたのです。
佐三は、ぎりぎりで窮地を脱しています。

もしこのとき、大分銀行の肩代わりがなければ、当時儲かっていた出光興産は、
出光佐三社長が引退し、商売のまったくわからない第一銀行の行員が
社長に就任していたことでしょう。
そのようになった出光興産が、果たしていまのような大手企業となり得たかは、疑問です。

そして佐三は昭和7(1932)年には、門司商工会議所会頭に就任し、
昭和12(1937)年には高額納税者として貴族院議員となりました。
佐三は、満鉄を経由して朝鮮、台湾に進出し、さらに支那事変の拡大と共に、
支那本土に営業網を拡大しましています。
そして出光商会は、この時期に、従業員千名程を抱える大会社に成長したのです。
こうして個人経営の出光商会は、昭和15(1940)年には改組して、
出光興産株式会社となります。

そして終戦。
日本は外地を失いました。
国内は焦土と化し、佐三もすべてを失なってしまいます。

昭和20(1945)年8月17日、出光佐三は社員二十人を集めて訓示しました。

愚痴はやめよう。
世界無比の三千年の歴史を見直そう。
そして今から建設にかかろう!
泣き言はやめよう。
日本の偉大なる国民性を信じよう。
そして再建の道を進もうではないか!

さらに1ヶ月後、佐三は驚くべき宣言をしました。
「海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしない!」というのです。

当時の出光の全従業員数は、約一千名です。
そのうち約800名が、外地からの復員です。
外地で力を伸ばした企業が、その外地の販路をすべて失ったのです。
資産もない、事業もない。
膨大な借金があるだけです。

どうやって復員者を受け入れるというのか。
どう考えても、やりくりできるはずがない。
多くの企業は、ガンガン人員整理していたときです。
それを出光佐三は約1千名の従業員の首を、誰ひとり切らないと宣言したのです。

いい加減なことを言ったのではありません。
それは考えに考えての結論でした。
そしてこの宣言は、佐三自身の決意の表明でもありました。
どうにもならないどん底に落とされても、なお道は必ずどこかに通じている。
「道、極まって尽きず」は、尾崎行雄の「人生劇場」の台詞です。

佐三自身、どうにもならない、廃業するしかない中で、
若い頃、事業のチャンスを得た男です。
その成功体験が、佐三自身の信念になっていたのかもしれません。
(以下続く)

出光興産は、復員者してくる社員のクビを切らないため、何でもしました。
ラジオも売りました。
醤油も売りました。
酢も売りました。
畜産や養鶏にも手を出しました。
思いつく限りのことに手を出したのです。

けれども付け焼刃の仕事は、どれもうまくいきません。
どうしようもなく追い詰められて、
一部の社員には自宅待機命令を出さざるを得なくなりました。
する仕事がないからです。

それでも佐三は、佐三は戦前に集めた書画骨董を売り払い、
銀行から可能な限り借金をして待機組にすら給料を払い続けました。

復員後、気力を失い、郷里に引きこもっていた青年がいたそうです。
その彼が、出光に辞職の手紙を書こうとした時、
父親が彼を烈火のごとく叱ったそうです。

「お前が兵隊に行っている6年間、出光さんは給料を送り続けてくれたんだ。
それが辞めるとは何ごとか! すぐ、出光さんにお礼の奉公をしろ。
6年間、ただで働いて、それから帰ってこい!!」

当時の父親の気迫が伝わってきます。
青年は思い直したといいます。

待望の石油事業に復帰する機会は、意外に早く訪れました。
GHQ(占領軍本部)が、旧海軍のタンクの底に残った油を処理し活用せよ」と
指令を発したのです。

それはタンクの底に入って、油を汲み取る作業でした。
タンク内にはガスが充満し、窒息や中毒の危険があり、しかも爆発の危険もあります。
普通なら誰もが請けない仕事です。
誰も請けない仕事だから、日本人にオハチが回ってきたのです。

佐三は「これで石油界に復帰する手がかりができた」と喜びました。
全社員を動員してタンクの底さらえ作業を開始します。

廃油にまみれ、泥まみれになり、鼻腔を悪臭がつく。
手足がただれる者も出ました。たいへんな作業なのです。
しかし誰もねをあげませんでした。
俺たちは石油屋だ、油の扱いは俺たちの仕事だ、という誇りに満ちていたとのです。

「底さらえ」作業は、約1年半に及びました。
そして出光興産は、廃油2万キロリットルの汲み取りに成功しました。

このときの丁寧な仕事ぶりはGHQと、
その背後にいる米国石油メジャーに強烈な印象を残しました。
これが、後に正式に石油界に復帰する足がかりとなり、出光蘇生の原点となっていくのです。
いまでも「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉なのだそうです。

昭和28(1952)年3月のことです。
この時期、イランは英国資本の油田を強制的に摂取して国有化したため、
英国と国交断絶状態になっていました。
英国海軍は報復のため、ペルシャ湾を航行するタンカーを監視し、
イランから石油を積み出そうとするタンカーを拿捕しようとしていました。

このことは、イランにとっても、肝心の石油を売ることができないという、
状況を招いてもいました。
いま、イランに行って石油を積み出せば、石油を安く仕入れることができ、
さらにイランと日本の国交を切り開くことができる。
佐三は、当時出光興産が所有していたただ一艘のタンカー
「日章丸二世」に密命を与えました。

「日章丸二世」が向かう先は、サウジアラビアということになっています。
しかし、船長と機関長の2名だけが、実はイランに向かうと知っていたのです。

成功すれば、一艘の積荷で、二億円の儲けです。
けれどタンカーが拿捕されて失敗すれば、4~5千万の赤字となります。
そしてえ出光興産は倒産します。

日本は、この前年に占領から独立したばかりです。
その日本が、連合国の一員である英国の横面を張り倒す行動に出るのです。

神戸を出航した「日章丸二世」は、18日後、
ひそかにイランのアバダンに入港しました。
英国の監視下にあった港に入港したのです。
このニュースは、まさに世界のトップニュースを飾りました。

そして世界中が注目する中、イランの石油を満載した日章丸は、
夜陰にまぎれ、他船との交信さえも一切止めて、
ひそかにペルシャ湾を抜け出します。
そしてインド洋を横断し、約一カ月かけて、無事、川崎に入港しました。

このニュースは、占領に打ちひしがれていた当時の日本人の心を奮い立たせました。
そして、世界に日本の海運技術の凄味を見せつけました。
また、イランと日本の信頼関係の絆を深めました。

これに対し、英国アングロイラニアン社が「待った」をかけます。
積荷の石油は、英国のものであるというのです。
そして東京地方裁判所に提訴しました。

裁判のとき、佐三は東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に次のように述べています。

「この問題は国際紛争を起こしております。
 私としては、日本国民の一人として、
 俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、
 裁判長にお誓いいたします」

日本人、ここにあり!です。

裁判に勝利した佐三は、昭和31(1956)年、徳山湾に日本一の製油所を建設しました。
その製油所建設の竣工式に、佐三は大恩人である日田重太郎を招待しました。

すでに82歳の高齢になっていた日田に佐三は、
「すべてあなたの御恩のおかげです」と述べました。

日田は、
「あなたの努力と神様のご加護ですよ」と言って、佐三に手を差し出しました。
佐三はその手をしっかりと握りしめました。

日田が神戸に住んでいた頃、佐三は神戸支店員を毎晩、日田家に派遣し、
年老いた重太郎の晩酌の相手を命じていました。
夏には軽井沢にある出光の別荘を日田のために提供していました。

淡路島で行われた日田の葬儀には、出光興産の「社葬」として、
佐三自ら参席し、生涯の大恩人に報いています。
佐三は、日田への恩を、生涯をかけて報いたのです。

昭和56(1981)年、95歳で出光佐三は人生の幕を下ろしました。
佐三を支え続けた側近の一人石田正實は、安らかに眠る佐三の横顔を見ながら、
「この人は、生涯ただの一度も私に『金を儲けろ』とは言われなかった。
40年を越える長い付き合いだったのに……」と呟いて落涙したそうです。
あとは言葉になりませんでした。

佐三は、終生「社長」でも「会長」でもなく「出光商会」の
一介の「店主」を押し通しました。
佐三のモット-は、
 「人間尊重」
 「大家族主義」
 「黄金の奴隷たるなかれ」
 「生産者から消費者へ」
というものでした。

彼は、若き日に師匠から教わった教えをそのまま、
生涯にわたって実践し抜いたのです。

佐三は、皇室を崇敬することが極めて篤い人でもありました。
また出光興産の東京本社には佐三の郷里の氏神である宗像神社があります。

佐三が逝去したおり、昭和天皇は、佐三に次の歌を贈られました。

 国のため
 ひとよつらぬき 尽くしたる
 きみまた去りぬ
 さびしと思ふ

 出光佐三逝く 三月七日
(以下続く)

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ありがたいことです。
会社は、ひとつの家族。地域も家族。国家も家族。それが日本流の考え方です。

私の友人で、鉄工所を営むある社長は、不況のあおりで工場の受注が減り、
売上がピーク時の5分の1になってしまいました。
けれど、彼は必死で従業員の雇用を守り続けました。
自分の給料なんてなくても、社員の給料を払い続けました。
彼は晩婚だったので、まだ幼い子供がいました。
当然、生活費がないと困ります。
なので彼は、夜間の運転手のアルバイトをして、自分の家族の生活を守り抜いています。

別な社長は、やはり社員の雇用を守りぬくため、
会社の売上はそっくり社員の雇用のために使い、自分の生活費は、
ある大手ショッピングセンターの夜間警備のアルバイトをして賄っています。

企業は、資本家(無産階級)と労働者(有産階級)との対立と闘争の場であると
説いているのは、共産主義です。
経営者が(CEO)と称して巨利を得、
景気が悪くなると生産調整と称して簡単にクビを切るのが、
個人主義を根本とする西洋風の企業です。

しかし、日本の流儀は違います。
日本人にとって、会社は「家族」です。
それが、西洋風でもない。共産主義風でもない、日本風の商家の考え方です。

なにごとも西洋かぶれするのではなく、私たちはいまあらためて、
日本流経営学というものを学んでみる必要があると私は思います。


 
(引用終了)


(私のコメント)

江戸時代中期末に活躍した米沢藩主上杉鷹山が次期藩主に遺したと伝えられる、
有名な「伝国の辞」(でんこくのじ)がある。
この思想が上記のような会社を家族と見る思想につながっている。
さらに、上杉鷹山はこの思想を初めて思いついた人と言う訳ではなく、
その又遠い昔から日本ではこういう思想が受け継がれてきたのだ。
日本は災害の多い国であり、かつ米を中心とした農業で成り立っている社会だ。
そういう背景から生まれてきた思想なので西洋に比較して日本独特のものだ。

西洋は都市国家で中心あり、民族間の殺し合いの多い戦争の多い国だ。
また狩猟民族であり牧畜民族でもある。
だから考え方が全く違うし、それらの社会ではそれぞれ正しいのだ。
日本はこれから先そういった日本の国民性を大事にして、
かつ西洋の良い部分も取り入れていく難しい作業をしなければならない。
その時西欧の表面的な技術的なものを取り入れるのでなく、
その背景となっている西欧の歴史文化伝統も一緒に考えなければいけない。
その文化が日本より悪ければ、言い換えれば日本の方がよければ取り入れないほうがいいだろう。

「伝国の辞」
1.国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべきものにはこれなく候。
1.人民は国家に属してる人民にして我私すべきものにはこれなく候。
1.国家人民のために立たる君にて君のために立たる国家人民にはこれなく候。

会社でも同じだ。
会社は、従業員、経営者、株主、顧客、取引先、と言う組織だ。
それぞれバランスをとって最大幸福を追求するわけだが、
何より国家というものがその上にあることを忘れてはならない。

この伝国の辞には記載がないが、
徳川幕府初期の頃に岡山藩主だった池田光政と言う人が言った言葉に、
この国は将軍様から民を治めるよう預かったものだ、
だから国を治め、民を安んじることができなければ将軍様に対して不忠となる。
殿様をやっている価値がないのだ、と言っている。
(出典井沢元彦著「逆説の日本史16巻」)

こういう背景は当然のことであるために伝国の辞には書かれなかったのだろう。
出光氏も当然国家というものを大切にしていた。
畏れるものが沢山ある中で最大限努力していくところが非常に尊いと思います。


(私のコメント終)