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新世紀のビッグブラザー三橋貴明ブログ
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/page-4.html

(見出し)
「無駄を許容する心」

(引用開始)

(前略)
 また、今回の土砂災害において、広島市の避難勧告が遅れたのではないかとの指摘がでています。
避難勧告が出たのは、土砂崩れが相次いだ「後」のことだったのです。
***(中略)

わたくしは、別に現地で調査したわけではありませんので、
広島市の避難勧告の件や被害想定の件を批判したいわけではありません。
現地で懸命に救援活動が続いている中、第三者が遠くから「ああだ、こうだ」と論評するのは、
傲慢極まりない話でございましょう。
 

 今回も広島県の災害の件を取り上げたのは、例えば、
 「被害想定範囲を極めて広くとっていたため、必要のない住民までもが避難させられた」
 「避難勧告が早すぎ、結局、土砂災害は発生しなかった」
  といったケースを、住民(国民)側がいつの間にか「無駄なことを!」と非難するようになってしまい、
自治体側に、
 「避難想定範囲の設定や、避難勧告は、できるだけ、効率よく、できるだけ、
住民から苦情が来ないように」
  という空気になっていやしまいか。という問題を提起したいのでございます。
 

 基本中の基本ですが、安全保障の強化と効率性の追求はトレードオフの関係にあります。
安全保障を強化すればするほど、システムは次第に効率的ではなくなり、余計なコストがかかります。
理由は、安全保障は、
 「いつ、起きるか分からない、あるいは、起きるか分からない非常事態」
  に備えるという性質を持つためです。
例えば、現在、各地の原子力発電所が対地震、対津波、対テロの安全保障強化を実施しています。
実際に見学すれば分かりますが、正直、「そこまでやるか・・・・」と思ってしまうほどに、
電源の維持、火災の防止、冷却水の確保などについて「多重化(二重化ではありません)」を
進めていっています。
 

 あの膨大な対策、膨大なポンプ、膨大な電源車、膨大な防潮壁は、
地震などの非常事態が発生しなければ「無駄」ということになります。
とはいえ、安全保障を強化するためには、「コスト」に目をつぶっても実施するというポリシーで、
各電力会社は安全対策を進めていっているわけです。
 

 バブル崩壊とデフレ化により、日本国民の間に「無駄を許容しない心」が生まれていませんか? 
効率化のみを「善」とし、安全保障の強化という「非効率」な行為を
「悪」としてこなかったでしょうか。
 

 もし、答えがYesだったとすると、有権者(国民)から選ばれる政治家は、
 「行政の無駄を削ります!」
 「公務員を効率化(非正規雇用への切り替えなど)により、税金を効率的に使います」
  などと叫んだ場合、喝采を浴びてしまうことになります。そして、
 「行政の無駄を削ります。抜本的に行政を改革します」
  などと主張して当選した政治家たちが、安全保障の強化という「非効率」な政策を
推進することができるでしょうか。
わたくしは、不可能だと思います。
 

 長い間デフレが続き、日本国民は「節約こそ善」「効率化こそ善」「切り詰めこそ善」、
そして「無駄は悪」という、偏った価値観を持つに至ったように感じます。
昔の諺にならえば、貧すれば鈍するです。
 

 現在、我が国の防衛、防災といった安全保障が危機に瀕しています。
日本国民を守る安全保障を強化するためには、まずは日本国民が、
 「安全保障を強化し、自分たちを守るためには、ある程度の無駄が発生しても当たり前」
  という普通の認識を取り戻す必要があると思うのです。
国民が無駄を許容する心を持ちえない国で、安全保障を強化することなどできるはずがありません。
 

 もちろん、安全保障強化のためにはどれだけコストを費やしてもいいという話ではありません。
要は安全保障強化と、効率化の間のバランスを取らねばならず、
現在の日本はバランスが「効率化」「コスト削減」「無駄排除」に傾きすぎてはいまいか? 
という話なのでございます。
 

 

 

 


***(後略)

 

(引用終了)

 

(私のコメント)
>効率化の間のバランスを取らねばならず、…「無駄排除」に傾きすぎてはいまいか? <

 


無駄だ、と言えばなんでも無駄。
カッコ良くニヒルに言えば、人間の存在や人生自体が無駄なんだから。
会社なら人間はコストだから無駄だし、国なら食糧援助のアメリカ人も無駄。
国家、国境、家族は無駄だとスターリンネオリベさんは言う。
九条平和教徒は「戦いは無駄、死のう」ということで究極の無駄排除だし、
畏れ多くも天皇陛下は無駄と共産党は言うし、脱原発も同じ。
「ムダがなくなれば幸せになれる」というのは、
サヨクの「あれがなければ幸せになれる」
といういつもの発想パターンに乗った考え方ですね。ではこっちはウヨクなんだから、
その逆に「あれがあれば幸せになれる」と考えるべきでしょう。
「あれがあれば」というのはつまり目的を持つことです。
中野さんはアタマがいい(と信じられている)大蔵官僚が財政再建などという馬鹿げたことを言うのは、
目的がないか又は間違っているからだ、と言っている。

彼らはアタマの良さを目的に使えないので、
国債が暴落する」「ハイパーインフレ」「年金改革」とゴマカシに使う。
戦前の真珠湾攻撃や暴支膺懲なども目的と手段が入れ替わってますね。
では話を戻して、正しい目的は何でしょうか。
三橋さんは前のブログで「国民が豊かで幸せになる」
「子供が自分より幸せな世の中で生きる」といったが、
これが目的としてはいいんじゃないかと思いますね。
保守というのはこういう目的のもとに合理と非合理のような相反する考えの中に
何とか現実的な回答を見つけてやりくりしていくもんでしょう。
保守政治家は理想と現実の間で大変難しい綱渡りを悪戦苦闘試行錯誤でやらなくちゃなんない。
かっこいいものでもないし、皆から喜ばれるとは限らない。

無駄か無駄でないかはそういう汗と涙の経験の蓄積から
大体此のくらいかと推し量るしか無いでしょう。
例を上げれば建設業界の談合なんかは災害対応で無駄かどうか再検討すべきでしょうね。
ところで、書いていてわかったのはサヨクがアタマで思いつく無駄というのは
大概ダメだ、ということ。

やはりアカヒ捏造犯罪自白嘘聞(別名朝日新聞)の逆が正しいというのは真理だね。

 

(私のコメント終)