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ブログ「日本を安倍晋三から取り戻す」

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(見出し)
「2014-11-02 07:26:47NEW !
テーマ:書評・オススメ本
竹森俊平「世界デフレは三度来る 上」 ① 」

(引用開始)

19世紀終わりから21世紀初頭にかけての、経済政策・経済論戦の変遷をたどる大著です。経済だけでなく、歴史物語としても十分に楽しめる壮大なストーリーです。近代資本主義の発生以降に生じた2回のデフレと1回のインフレ、そして未遂になるだろうと書いている3回目のデフレについて書かれています。

上下巻で1000ページ以上もの大著ですが、より面白いのは上巻です。

竹森俊平氏は慶応大学の教授で、経済書は他に「経済論戦は甦る」などで有名です。

重要な箇所を引用しながら、自分の感じたことを書いていきます。

まずは、「序」です。

P.3
 「スピーチのはじめにアメリカの学者はジョークを言い、日本の学者は謝罪を述べる」という言葉があるので、
ここでは謝罪から始める。
それは題名についてである。ここで「世界デフレ」というのは、ヴィクトリア朝に発生した一回目のもの(1873-1936)、
大恐慌」として知られる二回目のもの(1929-1936)、
そして二十一世紀の初めに可能性をいわれ、結局、未遂に終わりそうな三回目のものである。
 題名からすると、本書はデフレだけを扱うようだが、実際にはインフレも扱う。
すなわち、1970年代の世界的な「高インフレ」を、起承転結の「転」の部分に盛り込んで、
都合、四部構成にしている。こうすると、十九世紀後半から今日までの歴史を中断なく展望できるからである。
それは一言でいって、インフレとデフレのあいだの経済変動に焦点を当て、
財政、金融政策によってその経済変動を管理するという思想がどのように深まったのかを振り返り、
さらにその思想が日本においてどのように受け入れられたのかをテーマにした「歴史物語」ということになる。

(中略)

 本書の題名について、もう一つ謝らなければならないのは、三回目が「きたる」というのは不正確だという点だ。

つまり、三回目は二十一世紀の初めに「くる」と喧伝されたが、実際には来たらず、このまま回避されそうである。

 

この本は2006年発刊なので、この時点での「世界デフレ」は回避されそうだったのは事実なのですが、
その後はリーマンショック、そしてギリシャに端を発するユーロショックにより、
本物の「三回目のデフレ」がまさに来るような気配があります。

その後、「第一部 金の十字架」では、ヴィクトリア朝のイギリスは、
市民が紅茶をすすりつつ世界中の物産を注文できる一方で、工業力でアメリカやドイツに追いかけられ、
国内投資が減って海外への投資が増えてデフレになっていくことが書かれています。
今の日本と似ているような気がしてなりません。

第一部の見どころは、アメリカを舞台とする大統領選(ブライアン対マッキンリー)における金本位制を巡る論争と、
日本を舞台とする松方正義VS福沢諭吉の経済論争、そして国立銀行の設立と日本における金本位制VS銀本位制論争です。

二つ目の見どころに焦点を当てて、福沢諭吉の経済認識について書かれた文章を引用したいと思います。

P.74
(前略)
 それで明治10年に西南戦争が勃発すると、その戦費の調達のために、明治政府は不換紙幣の大量増発に追い込まれた。
その時、財政を仕切っていたのは大隈重信である。
このころから福沢は大隈と協力関係にあり、時には言論によって大隈を援護した。
たとえば、不換紙幣が大量に増発されて兌換がますます遠のくのは嘆かわしいことだとする世論に対して、
福沢は、通貨など不換紙幣で十分だという開き直った議論をして、大隈を援護する。
明治10年の『通貨論』がそれである。不換紙幣を正当化するというのは、当
時の欧米の経済学界においても革新的な立場だった。

 

福沢の通貨論は革新的だったと書かれていますが、著者の竹森氏は他の書籍で、
最初の不換紙幣発行者としてジョン=ローを挙げています。
この人物は、新大陸(ニューオーリンズ)でミシシッピ計画の事業を起こし、
バブルを発生させました。
ゲーテの戯曲「ファウスト」にも似たようなエピソードがあります。
皇帝をそそのかして、悪魔メフィスト=フェレスが不換紙幣をばらまいて景気を回復させたエピソードです。

竹森氏は経済理論だけでなく、こうした深い教養に裏打ちされた記述が魅力です。

 

P.79
 「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、
政府の経済は、たとえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。
なぜなら政府は本来、元手があるわけではなく、ただ毎年国民の財を集めて、
毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に余裕が生じるくらいならば、
始めからこれを取りたてずに国民の手元に残しておいたほうが、経済にとり都合がよいからである。
このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とするべきことは、
ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、
天然の人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、
また自然にそういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。
その生産活動から生じた利益が誰の手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。
政府は極貧にして借金が山のようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。
なぜならば、その借金はすなわち人民の借金なのだから、
払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」

 この文章が明確に述べているように、人的資源をフルに活動させることこそが、
経済政策の目的であるべきだというのが福沢の主張である。財政が緊縮型か、
積極型かによって、その目的の達成に違いが出てくることも、福沢はもちろん認識していた。
それで、この文章のように赤字財政でも構わないという主張をするわけである。
それはもちろん福沢の目的意識が、「自分は、国中に身体障害者や病人の他は、
手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(前掲書)というところにあったからである。

 

なんと、世界でも最も早い時点で、ケインズ型の財政政策を主張していたことになるのです。
福沢諭吉がここまで経済について深い洞察をしていたとは、この本を読むまで知りませんでした。

今の日本の経済学者や政治家は、100年以上前の福沢諭吉の認識に負けているといわざるをえません。

 

(私のコメント)

財務省とその犬のマスゴミは「国の借金一千兆円、国民一人あたり300万円」などという。
しかし、この論理はウソゴマカシなのだ。
彼らはずる賢いから個別の数字などは正しくして「ウソでないでしょ」と言い張るのだが、
論理としては間違いだし、誤解されることを狙っているのだ。
他のことでもマスゴミの論調はそういう論調が多いから気をつけないといけない。
だが、明治10年すでに福沢諭吉がそのウソを論破しているというのは驚きだ。
国家と各個人の家計とは全然別の性質のものだが、それをわざと混同させようとしている。
国家は貨幣の発行権と徴税権を持っているから個人のサラリーマンのふところとは全く違う。
また、彼らは借金はいけない、と言う道徳律をうまく悪用して、皆の考えを間違った結論に導こうとする。
マクロ的な道徳律は又違うのだ。
これを同じに考えて間違えた人に新井白石が居る。
新井白石儒学者でとても偉い人だが、経済は儒学とは別の理屈で動くことを知らなかった。
そのため、元禄期に繁栄をもたらした萩原重秀を敵視し、死なせてしまった。
福沢諭吉はその他でも大変良いことを言っている非常に卓見を持った人だ。
江戸時代の教育を受けているから儒学的素養をもっているが、
新井白石と違って陽明学的なのかもしれない。
つまり、プラグマティズム的な考え方をしていたのだろう、と思う。
福沢諭吉を改めて見なおした。


(私のコメント終)