ブログ
ZAKZAK夕刊フジ

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150115/frn1501151600009-n1.htm
(見出し)
「新聞襲撃事件と「表現の自由」についてコラムニストが論考(1/3ページ)」

(引用開始)

フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」襲撃事件は、犯人の2人を射殺して終わった。
表現の自由を守れ」と、現地で開かれた大集会を見てコラムニストのオバタカズユキ氏は違和感を感じたという。

***(中略)

 今回の襲撃事件の報があって、私はすぐに、その週刊紙がどんな風刺をしてきたのか知ろうとした。
グーグルで「charlie hebdo」を画像検索すると、同紙の表紙を中心に無数の風刺画が出てくる。
「muhammad」をアンド検索すれば、画面のものはイスラム教に対する風刺画にだいたい絞られる。

 当然のことながら風刺画に添えられた文字のほとんどはフランス語で、残念ながら私には読解力がないため、
これはと思った絵についてはできれば日本語、なければ英語で訳しているサイトを探した。
そんなこんなを一晩中やっていた。

***(中略)

そうしてみて改めて思ったのは、笑いは容易に他人と共有できない、という現実だ。
風刺週刊紙の風刺画をじっと見ても、どれひとつとしてクスリと来るものがない。
「風刺」は「笑い飛ばす」ことだけが目的ではなく、
<社会制度に見られる構造的な欠陥や、高官の言動にうかがわれる人間性のいやしさなどを、
露骨に非難せず、やんわりと大所高所から批評すること>(『新明解国語辞典第五版』)だとしても、
「これが批評ねえ……」という違和感ばかりが募ってしまう。

***(中略)

 

ネットで拾った限りだが、『シャルリー・エブド』紙の風刺画は、あまりにも露骨な非難に偏り、
ちっとも「やんわり」なんかしていないのだ。
さじ加減がどうのこうのといった次元ではなく、バケツでどばどば毒の原液をぶちまけている感じ。
人によってその感じ方は違うだろうから、個々でご覧になってほしいが、風刺というより侮蔑のオンパレードだと思った。
たいていは、自分の中のNGラインを超えていた。

 

***(中略)

だから日本人は遅れているとか、フランス人は進んでいるとか、そういうことを言いたいのではない。
ただただ私は、テロに走った過激派メンバーらの思いも理解不能だが、
表現の自由」を声高にする人々の思いも実はよく分からないという事実を書き残しておきたいのだ。

 「表現の自由」の価値づけが、自分と彼らとでは意外なほど違う。西洋文化にどっぷり浸かっているつもりでも、
いやいや全然そんなことはない、という「発見」は今回の事件の個人的収穫である。
テロ、殺しがいけないことは言うまでもなく、だ。

 理解不能なよその文化圏のあり様に口を出すのは違うと思うから、一般論として付記したい。
では、私にとって、「表現の自由」はどんなものか。それは無制限に守られなければならないものではない。
「自粛」という言葉はそれこそ際限なく委縮してくイメージをともなうので、「自制」のほうを使いたい。

 表現をする者には自制心が不可欠だと思う。からかいたい対象はからかってもいい。
が、まず、どんな反撃が来てもおかしくはないと、覚悟せよ。
そして、「笑い」が、相手を蔑むばかりの「嗤い」にならないよう、自己コントロールせよ。
自由な表現を続けたかったら、最低限のルールを自分に課せ。

 以上を、他人に強いるつもりはない。が、そんなことを自分の肝に銘じさせる事件であった。
(引用終了)

 

(私のコメント)

欧州の傲慢さを感じさせるね。

サヨクや特亜の「被害者砦」に逃げこむ戦法と同じだ。

千年以上もの宗教戦争の歴史だからおいそれとは収まらないだろう。
(私のコメント終)