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知恵と知識1502-2-610-2/2メルマガブログ転送

http://blog.goo.ne.jp/2005tora
「株式日記」ブログ

(孫引き)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140709/268407/?P=1&rt=nocnt

日経ビジネスオンライン

(見出し)
「なぜ、頭の良い若者ほど、 プロフェッショナルになれないのか?」

 

(引用開始)

なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?

***(前略)


***なぜか「知性」を感じさせない「高学歴」の人物

田坂教授は、5月に、新著『知性を磨く「スーパージェネラリスト」の時代』(光文社新書)を上梓されました。この連載『知性を磨く スーパージェネラリストへの成長戦略』では、ビジネスパーソンは、いかにして、日々の仕事を通じて「知性」を磨いていくべきか、そして、「七つのレベルの知性」を垂直統合した「スーパージェネラリスト」へと成長していくことができるかについて、伺いたいと思います。

 まず、この連載第1回のテーマは、「なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?」です。

 最初から、随分、刺激的なテーマですね?

田坂:そうですね。正確に言えば、「なぜ、高学歴の人物が、必ずしも、深い知性を感じさせないのか?」と言うべきですが、実際、高学歴を誇る人物を見ていて、たしかに「頭は良い」とは思うのですが、あまり「賢い」とは思えない人物がいるのではないでしょうか? 「頭は良い」が、「思考に深みが無い」人物です。

***深みの無い「新事業企画」

Q例えば、どのような人物でしょうか?

田坂:例えば、ビジネスの現場で、次のような場面を見かけたことがないでしょうか?

 ある若手社員が、社内会議で、新事業企画について見事なプレゼンテーションをする。弁舌は爽やか。立て板に水。頭の回転は速い。話も論理的。プレゼンのスライドも見やすく、選び抜いた言葉を使う。さすが、偏差値の高い大学を、優秀な成績で卒業しただけある。本人も、このプレゼンで、自分の提案する新事業企画が、十分な説得力をもって説明できたと思っている。

 しかし、なぜか、その会議に出席した中堅のマネジャー諸氏からコメントが出ない。皆、悩ましく思いながら、言葉を選んでいる。そして、ようやく、一人のマネジャーが、全員の気持ちを代弁するように言う。

「理屈では、たしかに、そうなのだけれど……」

 経験豊かなマネジャーは、誰もが感じている。新事業開発というものは、この若手社員が語るほど、簡単に理屈で割り切れるものではない。市場規模の数字や事業戦略の論理の向こうに、顧客の生の声や思いというものがある。そのことは、一度でも新事業開発に真剣に取り組んだ人間ならば、誰もが分かっていること。ただ、そのことを説明しても、まだ経験の浅いこの若手社員には、おそらく理解できないだろう。熟練のマネジャーは、皆、そう思っている。

 思わず、この若手社員が聞く。「何が、問題なのでしょうか?」
  その質問に対して、マネジャーの一人が、言葉を選びながら答える。

「何と言うか、この企画は、少し深みが足りないんだね……。
  新事業企画には、数字などのデータには現れない要素が沢山ある。
  もう少し、そうした『目に見えないもの』を
  考えてみたらどうかな……」

 ビジネスの現場で、こうした場面を見たことがないでしょうか?

Q思い当たるシーンが、心に浮かびますね……(笑)。

 

***(中略)

 

 

***なぜ、博識が、知性とは関係無いのか?
 
Qそれは、なぜでしょうか?

田坂:なぜなら、「知性」の本質は、「知識」ではなく、「智恵」だからです。
 
Q「知識」と「智恵」…。その違いが良く分かりませんが…。
 
田坂:では、端的に述べておきましょう。
 
 「知識」とは、「言葉で表せるもの」であり、「書物」から学べるものです。
 
 「智恵」とは、「言葉で表せないもの」であり、「経験」からしか学べないものです。
 
 すなわち、「智恵」とは、科学哲学者マイケル・ポランニーが
暗黙知」(Tacit Knowing)と呼んだものであり、「言葉で表せないもの」であるため、
「書物」や「文献」をどれほど読んでも、決して身につかないものなのです。
 
 例えば、「直観力」「洞察力」「大局観」などと呼ばれる能力。
 これらの能力は、「知性」と呼ばれる能力の重要な核を成していますが、
これらは、「職業的な勘」や「プロの直観」などという言葉があるように、
永年の「職業経験」や「現場経験」を通じてしか掴めないものです。
 
 そして、直観力、洞察力、大局観だけでなく、実は、「知性」と呼ばれる能力の核心は、
「経験」を通じてしか身につかない、人間としての極めて高度な能力なのです。
 
***「知識」と「智恵」の混同という病
 
Qなるほど。「知識」は「書物」で学べるが、「智恵」は「経験」を通じてしか学べないということですね……。
 
田坂:そうです。しかし、残念なことに、最近の世の中を見渡すと、
この「知識」と「智恵」を混同するという病が広がっています。
 
 すなわち、「知識」を学んで「智恵」を掴んだと思い込む、という病です。
 
Qそれは、どのような病でしょうか?
 
田坂:例えば、最近、私は『ダボス会議に見る世界のトップリーダーの話術』という本を上梓しましたが、
この中で、「話術の一つの要諦は、言葉を『粒』のように話すことである」と述べています。
 
 しかし、ある読者が、この本を読み、この言葉にマーカーを引き、さらには、ノートに書き写したとしても、
それは、ただ、「話術の一つの要諦は、言葉を『粒』のように話すことである」という言葉を
「知識」として学んだにすぎません。
 
 従って、もし本当に、この読者が、「言葉を『粒』のように話す技術」を
「智恵」として身につけたいと思うならば、実際に、誰かに対して話をするという「経験」を数多く積み、
言葉を「粒」のように話す訓練を何度も重ね、その技術を、
文字通り「体」で掴んでいかなければならないのです。
 
 しかし、それにもかかわらず、ただ、「話術の一つの要諦は、
言葉を『粒』のように話すことである」という言葉を「知識」として学んだだけで、
話術の「智恵」を掴んだと錯覚するならば、この読者は、決して話術を磨いていくことはできず、
話術のプロフェッショナルになることはできないでしょう。
 
 もちろん、一人のプロフェッショナルとして歩むために、相応の「知識」を身につけることは、
絶対に必要です。
しかし、書物を通じて、どれほど豊かな「知識」を身につけても、
それは、「経験」を通じて獲得される「智恵」ではない。
プロフェッショナルを目指す人間は、まず、そのことを、深く理解すべきでしょう。(中略)
 
***なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?
 
田坂:さて、ここまで、「知性とは何か?」という問いを掲げ、「知性」と似て非なる二つの言葉、
「知能」と「知識」について述べてきました。
 ここで、もう一度、この二つの言葉と「知性」との違いについて述べておきましょう。
 
 「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力のこと。
 「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力のこと。
 
 「知識」とは、「言葉で表せるもの」であり、「書物」から学べるもの。
 「智恵」とは、「言葉で表せないもの」であり、「経験」からしか掴めないもの。
 「知性」の本質は、「知識」ではなく、「智恵」である。
 
 そして、「知能」と「知識」。この二つの言葉と「知性」の違いを理解するならば、
今回の連載第1回の冒頭に述べた言葉の意味を理解して頂けるでしょう。
 
 なぜ、「高学歴」にもかかわらず、思考に深みの無い人物がいるのか?
 なぜ、「高学歴」にもかかわらず、深い「知性」を感じさせない人物がいるのか?
 
 それは、ある意味で、当然でしょう。
 
 なぜなら、現在の我が国の「学歴社会」とは、「知能」の優秀さと、
「知識」の豊富さによって評価される社会だからです。
 
 しかし、高い「知能」を持つということが、深い「知性」を持つことを意味しません。
 また、豊かな「知識」を持つということが、深い「知性」を持つことを意味しません。
 従って、高い「学歴」を持つということが、深い「知性」を持つことを意味しないのです。
 
Qなるほど。なぜ、高い「知能」を持ち、豊かな「知識」を身につけ、
「高学歴」を誇る人物が、必ずしも、深い「知性」を感じさせないのか?
 その疑問には答えて頂いたと思いますが、では、どうすれば、
その「知性」を磨くことができるのでしょうか?
 
田坂:真に「知性を磨く」ためには、二つのことが求められます。
 
 一つは、「答えの無い問い」を問う力を身につけることです。
 容易に答えの見つからぬ問いに対して、決して諦めず、「割り切り」に流されることなく、
その問いを問い続ける力を身につけることです。しかし、それを身につけるためには、
日々の仕事を通じて、不断に、精神のスタミナとエネルギーを高めていくことが求められます。
 
 もう一つは、「知識と智恵の錯覚」の病に罹らないことです。
 書物を読み「知識」を学んだだけで、「智恵」を掴んだと錯覚することなく、
歳月をかけて経験を積むことによって、深い「智恵」を掴んでいくことです。
しかし、その錯覚に陥らないためには、自分が何かを語るとき、「これは書物で学んだ知識か、
それとも、経験から掴んだ智恵か」を自問しながら語ることが求められます。
 
 この二つのことを心がけるだけで、我々の「知性」は、確実に磨かれていきます。
 
Q「知識と智恵の錯覚」に陥らないということは、良く分かりました。いっそ
 しかし、このことを頭で分かったつもりになって、実践しなければ、
それ自身が、まさに「知識を学んで、智恵を掴んだと思い込む錯覚」なのですね……(笑)。
 
田坂:その通りです。それこそが、今日の話の本当に「怖い部分」なのですね……(笑)。

***(後略)


(引用終了)


(私のコメント)
高学歴の人は学んだことと現実が違った場合、現実が間違っており、学んだことが正しいと思ってしまう。
折角苦労して暗記したのに間違った知識だ、なんて思いたくない、という要素もあるだろう。
理科系の実験が伴う場合は追試験すればわかるが、経済学はそれが出来ない。
経済学者には非常に優秀な高学歴の人がいるが、経済政策では失敗ばかりしている。
その失敗は庶民に及ぶから被害甚大だ。
今の日本の現状は財務省の間違った高学歴の人のおかげだ。
彼らは知能と知識は豊富だが、知性は無いのだ。
知性は上記の田坂教授の言う通り、自分のやっていることが正しいか問い続ける事が必要だ。
それは自己否定にもつながるから相当つらい作業だが「経験から掴んだ知恵」を身につけるには大切な作業だ。
書物から学んだ知識は本を読んで覚えればいいのである意味簡単で楽だ。
共産主義者、マルキストの有名人には主に学者や先生などの知識人が多い。
300万人の同胞を殺したカンボジアポルポトも先生の出身だ。
共産主義革命は労働者が自然発生的に立ち上がって行うものとマルクスは言ったが、大概はそうなっていない。
労働者階級でなく、マルクスを専門に勉強した人間が指導している。
そしてやってみれば現実は勿論理屈どおり行かない。
すると、勉強で得た知識のほうが正しく、現実が間違っている、と考えて虐殺に走る。
正しい理屈どおりの人間以外は間違っているのだから殺せ、ということになる。
こういう高学歴の優秀な人の理屈理論優先の政策で沢山の人が被害をこうむる。
別に共産主義マルキシズムだけでなく、歴史的には勉強エリートの被害は沢山の事例がある。
現実の世界は答えのない世界で、そこを試行錯誤で泥沼をかき分けていくしか無い代物なのだ。
そうして現実に磨かれて得たものが知性となるのだ。
お手本にするなら泥沼をかき分けて結果が出たものを参考にすればいいのだが、学歴エリートはそれをしない。
彼らは理想から考えて理屈を構築する。
そうすると、理想に引っ張られて現実に生きる人々に対するおもいやりや配慮が完全に抜け落ちる。
それらは経験からくる知性教養の範囲で勉強で身につかない世間知だ。
彼ら学歴エリートは勉強の専門家だから勉強だけさせておけばいいので実務の仕事をさせてはいけないのだ。
財務省の役人や経済学者は常に自分を疑う知性を持った、錯覚の知恵を持たない人だけにすべきだ。

 

(私のコメント終)