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1503-11-639-3/11メルマガブログ転送資本主義自由経済の未来

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http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ytgw-o/270308.html
谷田川惣ブログ

(見出し)
「日本古来の“ほどほどの精神”」

(引用開始)

自由経済」と「資本主義」の違いをご存知か。
 
自由経済とは経済の需要と供給を市場に委ねるということ。
 
資本主義とは、「商売をする人」と「お金を出す人」が別々であること。
 
まったく意味が違う。
 
「資本主義自由経済」とは、商売をする人とお金を出す人が別々の仕組みと、
 
市場に委ねる経済を組み合わせたもの。
 

これに対してマルクスは異を唱えた。
 
マルクスの経済論(資本論)は読んでみるとめちゃくちゃ難しいが、
 
要するにこういうことを言っている。
 
資本主義はお金を出す人がいる以上、そこに利潤が発生しなくてはならない。
 
要するにに利息だ。
 
利息がなければお金を出す意味がない。
 
利潤が発生する以上、経済は拡大していかなくてはならない。
 
その仕組みの中で経済が発展していくということは、
 
金を出している人が膨大な利潤の還元を受け続けるわけで、
 
構造上、お金を出している人と、商売をしている人、
 
普通に働いている人の経済格差はどんどん広がっていくことになる。
 

そこでマルクスエンゲルスは、全体の中でごく一部の資本家と、
 
その他大多数の労働者の間に格差が生まれ、
 
いずれ世の中の大多数を占める労働者は革命を起こすだろうと予言した。
 

一方で、だからこそお金を出す人、一部の資本家に税金をかけて、
 
労働者に還元するようにしなくてはならないと言っているのが
 
最近流行のピケティだ。
 

ただし、マルクスの予言はいまだに的中したことはない。
 
共産主義国家になったのは、
 
ソ連や中国、北朝鮮ベトナムキューバなど貧乏な国ばかりで、
 
豊かな経済先進国で革命が起こったことはない。
 
これはなぜだろうか。
 
もちろん、まだ資本主義の過程で、
 
いずれは共産主義革命が起こるという考えもあるかもしれない。
 
お金を出す人と、商売をする人を分けた資本主義では、
 
名目の経済は拡大し続けなければならないというのは事実であり、
 
マルクスの命題はいまだに解決はされていない。
 

しかし、ここで一つ考えてもらいたいのは、
 
資本主義国である戦後の日本は凄まじい経済発展を遂げ、
 
国の経済規模は何倍にも膨れあがった。
 
そのときに格差は広がっただろうか。
 
その頃の日本は1億総中流社会などといわれ、格差が目立たなかった時代で、
 
むしろ、経済発展をしなくなった現代に格差社会などと言われるようになっている。
 

マルクスの命題」の解決のヒントは戦後の日本にあるのではないだろうか。
 
戦後の日本経済は社会主義などと揶揄されることもあるが、とんでもない。
 
規制や国の管理が強かった部門は発展せず、
 
自動車や電化製品をはじめ世界と戦っていた部門は大きく発展した。
 
日本はまぎれもなく資本主義自由経済の国である。
 

では日本型資本主義とは何か。
 
それは何でも「ほどほど」の精神だと思う。
 
資本家、経営者の儲けはほどほど。
 
従業員の給料もほどほど。
 
松下幸之助ビルゲイツにはならず、
 
本田宗一郎はカルロスゴーンにはならなかった。
 
資本家や経営者はほどほどに金持ちとなった。
 
日本で資本主義自由経済が貫かれたら、
 
誰に指示されることなく何でもほどほどの社会が出来てしまった。
 

この根本精神には日本古来の和の精神があるだろう。
 
いま世界の資本主義国家が注目すべきなのは、
 
ピケティではなく日本のほどほど精神ではないだろうか。
 

(引用終了)

(私のコメント)
私が本が出たら必ず買って読む評論家の中野剛志さんも同じようなことを言っていた。
すなわち、「道徳」というものが、経済活動に取って重要だ、という。
共産主義が廃れ、(すたれ、)新自由主義が行き詰まりを見せてきた現在、ではどうするか。
今人類はどうすべきかの回答を迫られているが、答えは全く見いだせないでいる。
まだ世の中は混沌としていて、もう少し時間が必要なのだろう。

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
キリスト教の精神が資本主義に影響してその発展を助けた、といっている。
こういう原則に立ち返って考えることが今必要なのだろう。
(参考)
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ウィキペディア
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

論旨[編集]
 
オランダ、イギリス、アメリカなどカルヴィニズムの影響が強い国では、非合理性を持った合理主義によって資本主義(ここでいう資本主義とは近代資本主義のことである)が発達したが、一方で非合理性を持たない実践的合理性の顕著なイタリア、スペインのようなカトリック国や、他方でドイツ等では、資本主義化が遅れたと称するこうした現象は偶然ではなく、資本主義の「精神」とカルヴィニズムの間に因果関係があるとヴェーバーは考えた。ここでいう資本主義の「精神」とは、単なる拝金主義や利益の追求ではなく、合理的な経営・経済活動を非合理性のうちで支える精神あるいは行動様式(エートス)である。
 
ヴェーバーによると以下のようになる。
 
カルヴァンの予定説では、救済される人間は予め決定されており、人間の意志や努力、善行の有無などで、その決定を変更することはできない(つまり善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれない)。全知全能なる神の意思は人間には不可知なので、自分が救済されている選ばれた人間かどうか、予め知ることもできない。
 
予定説は、仏教などの因果論とは、まったく正反対の論理である。因果論においては「善行を働けば(因)救われる(果)」という、人間の神や仏に対する働きかけ(例えば寺院へのお布施や教会への寄付などの善行は、金によって神仏から救済を買う行為といえる)による救済が可能であるが、しかしそれはある意味、人間が神や仏を救済の手段や道具として使役し、人間の下位に置く発想であり、それは神の絶対性に対する冒涜である。そこでカルヴァン主義では神の絶対性を守るために予定説が採用されたのである。つまり予定説においては、神は人間の行為や意思や思惑に一切左右されることのない、人間の主として、絶対専制君主として、振舞うのである。
 
善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないとなれば、人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
 
キリスト教においては人生は一度きりである。仏教のように何度も生まれ変わる(輪廻転生)ということはない。死(第1の死)後に、再び肉体を与えられて臨む、最後の審判において、神によって救済される人間として選ばれなかった(予定説では「選ばれていなかった」)者は、さまざまな説があるが、ここでは完全に消滅するとする(第2の死)。そして救済や復活はもう二度とありえないのである。
 
しかし善行を働いても救われるわけではなく、予め救われているかどうか知ることもできず、もし選ばれていなかったら消滅し、もう二度と救済されない、という予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強い、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出し、一切の欲望や贅沢や浪費を禁じ、そちらへ向かうはずだった人生のエネルギーの全てを、信仰と労働(神が定めた職業、召命、天職、ベルーフ)のみに集中するという、禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)という精神・行動様式(エートス)を生み出したのである。
 
そうして人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献し、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。
 
しかし、この禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響で大事なことはそれだけではなく、なにより「利潤の肯定」、「利潤の追求の正当化」、つまり金儲けに正当性を与えたことであった。
 
世界史的に、それまで金儲けというのは、高く評価されるものではなかった。少なくとも積極的に肯定されるものではなく、正当性を持たなかった。
 
そしてプロテスタンティズム、ことにカルヴァン主義は最も禁欲的であり、金儲けを強硬に否定する宗教のひとつであった。金儲けに正当性が与えられない社会では当然、金儲けは抑制され、近代資本主義社会へと発展することは無いはずである。
 
しかし最初から利潤の追求を目的とするのではなく、行動的禁欲をもって天職に勤勉に励み、その「結果として」利潤を得るのであれば、その利潤は、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという、「隣人愛」の実践の結果であり、その労働が神の御心に適っている証であり、救済を確信させる証であるとする、ここでも因と果が逆転した論理を生み出したのであった。ここに最も金儲けに否定的な禁欲的な宗教が、それとは全く正反対の、金儲けを積極的に肯定する論理と近代資本主義を生み出したという、歴史の皮肉がある。
 
そして人々は「結果として」の利潤の追求に励むことになる。利潤の多寡は「隣人愛」の実践の証であり、救済を確信させる証であるから、より多ければ多いほど良いとされた。より多くの利潤を得るためには寸暇を惜しんで勤勉に労働しなければならない。そのため人々は時計を用い、自己の労働を時間で管理するエートスが成立した。このことを端的に示す諺が「時は金なり」である。厳格な時間管理の意識は『近代』的な価値観の特徴のひとつであるが、スイスなどのプロテスタント圏で時計産業が発達したのは偶然ではない。
 
それまでの人類の労働の在り方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、日が沈むと仕事を終えるというような、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが生産性の低いものであった。
 
こうしてプロテスタンティズムは、人類の中に眠っていた莫大な生産力を引き出したのであった。
 
また、サクラメントなどの、非合理な、呪術・魔術は、救済に一切関係がないので禁止され、合理的な精神を育てるようになった(呪術・魔術の園[ツァウバー・ガルテン]からの解放)。
 
節約(無駄を省くなどの支出の抑制)のために、収支を管理して合理的経営を行うのに不可欠な複式簿記の導入や、生産性を上げるために、科学的合理的精神に基づいた効率の良い生産方法の導入が図られた。
 
また、禁欲的労働によって蓄えられた金は、禁欲であるから消費によって浪費されることもなく貯蓄され(資本蓄積)、その禁欲ゆえに資本蓄積自体は既に存在した古典的資本主義と違い、獲得された資本蓄積が財貨財宝等の形に置き換えられて資本としての本質を棄損される事が無くなり、恒常的資本という性質を獲得し無限永遠に利潤追求のために不断に再投資されることになった。
 
このように、プロテスタンティズムが生み出した勤勉の精神や合理主義は、近代的・合理的な資本主義の「精神」に適合しており、近代資本主義を誕生させたのであった(ヴェーバーは資本主義の「精神」を体現した人物としてベンジャミン・フランクリンを挙げている)。
 
こうして(結果的に)プロテスタンティズムの信仰が近代資本主義の誕生と発展に作用したが、近代化の進展とともに信仰が薄れてゆくと(世俗化)、元々が宗教的なものであったことが忘れ去られ、利潤追求自体が自己目的化するようになった。また、「内からの動機」に基づくものであった利潤追求が、「外圧的な動機」によるものに変貌していった。いったん成立した現代資本主義社会は、外圧的な動機付けによってそれに適合した人間と資本主義の精神を再生産しながら、それでも動き続ける。ただしそれは人々の内面的な動機によって支えられたものではないため、そこに現代資本主義社会の存続の危機があるのである。
 
現代社会に生きる我々は、知らず知らずの内に、無自覚に、宗教的な生き方を強制されている。現代社会で当たり前とされる我々の労働の在り方というのは、実は地理的歴史的に見れば、決して普遍的なものなどではなく、きわめて特殊な、地域的時代的宗教的なものなのである。

 

 


(私のコメント終)