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日比野庵
(見出し)
エンブレム取り下げの衝撃

(引用開始)

(前略)

昨日のエントリーで筆者は、今後、新たに選考されるエンブレムに大きな影響を与えることはほぼ間違いない、と述べましたけれども、やはり思いっきり影響を与えていますね。
 
更に、今回のエンブレム撤去の最大の力になったのは、名もない一般のネットユーザー達の検証と追及でであり、本来ジャーナリズムが行うべき仕事を、一般国民が行った、と指摘しましたけれども、その事実に鋭く反応しているのが朝日です。
 
9月2日、朝日は「エンブレム酷似、ネット発の追及緩まず『検証』が続々」を掲載し、「ネット社会での徹底的な疑惑追跡に、『自由な発想にブレーキがかかる』との声もある」とさり気なくネット批判を紛れ込ませています。まぁ、これが品行方正な人格者がいうなら兎も角、数々の捏造を繰り返してきた朝日がいっても鼻白むだけですね。
 
朝日は、この記事で、疑惑の徹底追及は止めろといっているのですけれども、自分自身はというと、特に政府に対して、いつも徹底追及をやりまくっています。
 
けれども、朝日の主張するこの理屈に従えば、「マスコミの徹底的な疑惑追及に『自由な国会論議にブレーキがかかる』との声もある」とも言えるわけです。ですから、もしも、朝日が自分の主張を正当であるというのであれば、自分自身が行っている報道を一から見直す必要があると思いますね。
 
例えば、安保法制を"戦争法案"といってみたり、先日まで報道していた「安倍総理が訪中して日中首脳会談をやる」という類のいわゆる"トバシ記事"など、根拠を示さない記事は、まさに"自由な発想"で書いた記事にあたると思いますね。そして、それらの記事が掲載されたということは、朝日はそれらにブレーキを掛けなかったということです。
 
そんな自分の態度を棚に上げて、「自由な発想にブレーキがかかる」などと上から目線で語ったところで、何のことはない、その正体はただのダブルスタンダードだったということです。
 
確かに、これまで、朝日は"自由な発想"で記事を書いては世論を作ってきたという自負を持っていたかもしれません。けれども、今やそれらの記事は、ネットによって、その真偽、根拠のあいまいさ、捏造等々をどんどん暴かれ追及されるようになりました。
 
憎っくき与党を追及していた筈の自分達が、気づいてみれば、ネットによって追及されるようになった。この現実は大きい。しかも今回のエンブレム取り下げでは、ジャーナリズムな追及を自分達でなく、一般国民に取って代わられましたからね。要するに、ジャーナリズムの"お株"を奪われたわけです。
 
果たして、マスコミからジャーナリズムを取ったら、何が残るのかは知りませんけれども、これはある意味、自身の存在を否定されることでもあり、自身の存立基盤が危うくなるということだと思うんですね。
 
つまり、マスコミは、何を伝えているのか、何を伝えるべきなのかを真に問われる環境に置かれつつあるということです。その意味では、今回のエンブレム取り下げがマスコミに与えた衝撃は意外と大きいのかもしれません。

 

 

(引用終了)
(私のコメント)

上記の記事の通り、ネットとマスゴミが情報というフィールドでフラットになりつつある。
そのフラットな情報のフィールドでの考え方の基準は「それが正しいことか」ということになる。
その「正しいこと」とは何か、と言うとそれがよく分からない、と言うか箇条書きのようなものはないのだ。
無いけど皆知っているという不思議なものなのだ。
まあ、具体的に言えば、「お天道さまが見ている」とか「恥ずかしいことはするな」とか言う漠然としたものだ。
実は、この基準がわからない、ということがネットを含めたフィールドのミソだ。
勿論それを「道徳」などという言葉でいってもいいが、そんな理屈ぽい事はどうでもいいのだ。
単純簡単に「そんなことは道理に合わない」でいいのだ。
そこで、理屈抜きだとどうなるか。
理屈は頭の良い人だけしか分からない、と言う性質がある。
理屈抜きなら馬鹿でも分かる。
落語の与太郎さんは活き活きと活躍するが、理屈なんか全く無縁だ。
だが、「悪いことはしない」ということだけは理屈抜きで知っている。
だから、皆仲間に入れてくれる。
だが、朝日新聞などの頭のいい、高学歴の勉強エリートは世の中の人が理屈で動いてくれないと困るのだ。
何しろ、理屈ばかり勉強してきたから理屈抜きでは自分たちの存在感がない。
例えば、彼らは昔教育勅語なんかを攻撃排除した。
あれは、「ここに書いてあることは理屈抜きで大切なことなんだから天皇も小学生も守ろうね」と言っている。
つまり「正しいこと」の下に天皇も小学生もフラットに存在するわけだ。
そしてなぜ正しいか、理屈は書いていない。
この理屈抜きの正しさ、というのが朝日新聞やいわゆる左翼には困るのだ。

朝日新聞的「理屈」というものをもう少し考えてみよう。
「正しいことは何か」が理屈で分かるか、ということだが、彼らは優秀な頭で考えた事は正しい、と思っている。
新幹線は皆どう動くかも知らないし、馬鹿では作れない。
だが、そんなことは知らなくても愚民どもは利用すればいい、ということで、これと同じに、
「正しいこと」は頭のいい人が指図するから皆それに従えばいいのだ、と朝日エリートは思っているのだ。
頭のいい人の指図に従うことは世の中通常行われることで珍しいことでない。

では何処が違うか、と言うと皆がおりこうさんに理屈抜きでついて行くかどうか、ということになる。
つまり、「信頼」でついて行くので、理屈でついて行くわけでは無いのだ。

次に、注意すべきは理屈というものは何にでも付く、と言う性質がある、と言う事だ。
人が百人いたら、百の理屈がある、と言ってもいいくらいだ。
理屈で真理が分かるのだったら、哲学者なんかは一人でいいはずだがゴマンといる。
頭のいい人が真理に迫ろうとするのはいいのだが、頭の良い人は一人でない。
我こそは最優秀なり、と沢山出て来る。
その時、どの人のいうことが正しく、どの人のいうことを聞くべきか、決めなきゃなんない。

この決め方は色々あるが、大抵は「暴力」で決められるのだ。
勿論「話し合い」というのもある。
だが、歴史を見ると大概は暴力だ。
典型的なのはフランス革命だ。

少し長くなったのでこの辺で次回に続けよう。 


(私のコメント終)