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(見出し)
木下元文
近代を超克する(17)対デモクラシー[10] デモクラシーを超克する

(引用開始)


 近代的な価値観を超克するために、西欧政治学を参照し、政治上におけるデモクラシー(民主主義、民衆政治)について検討してきました。歴史に名を残す論者たちの政治論は、参考とするに十分な内容を兼ね備えていました。
  日本の政治を考える上でも、西欧の政治制度を考察することは役に立つでしょう。

 

政治制度の分類
 
 西欧における政治制度の代表的な分類として、君主制・貴族制・民主制があります。それらの堕落した形態として、独裁制・寡頭制・衆愚制があります。
  前者の三つの政体は、そのままでは堕落して後者の三つの政体へと変化します。政体そのものが変更されることについては、革命と呼ばれることがあります。
  君主制・貴族制・民主制の三政体を合わせた混合政体という政治制度を考えることもできます。

 

民主政体
 
 デモクラシー、つまり民主政体は、民主主義と呼ばれることもあります。
  民主政体には、数多くの欠陥があります。大きく分けると、自由と結びついた欠陥、平等と結びついた欠陥、多数と結びついた欠陥の三つがあります。
  民主政体における自由は、欲するままの無秩序な生活をもたらします。詐欺師が民衆の支持を得ることになり、民衆は優秀な人物を引きずり下ろします。ときとして、独裁者を招いてしまうこともあります。
  民主政体における平等は、人々の不満をかき立てます。平等が進めば、少しの不平等でも我慢ができなくなり、不平不満はいつまでも続きます。気に入らない格差を破壊した上で、平等という名の専制が始まります。何を等しいと見なすかの基準が、等しくないと見なされた人たちへ襲いかかるからです。民主主義における平等によって、他者への危害の肯定が生まれるのです。
  民主政体における多数は、数の多さを根拠として猛威をふるいます。人の質ではなく、人の量によって知性が保障されるのです。実に馬鹿らしいが故に、非常に恐ろしい事態です。この事態は、人間の誇りを打ち砕き、多数派は少数派を良心の呵責なく踏み潰すようになります。少数派は、多数派の悪意によって排除されるか、多数派の善意によって同化を強制させられます。
  自由・平等・多数を肯定する民主主義という恐るべき政体によって、人々は古いものを嫌悪するようになります。祖先や子孫のことを考えなくなります。ひどいときには、同時代の仲間からも離れて孤独になり、物質的享楽に引き込まれます。
  デモクラシーでは、道徳を護ることではなく、道徳にとらわれないことが善きことのように吹聴されます。世論は不安定に揺れ動き、大衆は気に入らないやつを非難して絶望に追い込みます。
  集団リンチ大好き人間は、こう言うのです。「民主主義万歳!」と。
  つまり、人類は進歩してデモクラシーへ到達したのだ、歴史は終わったのだという恥ずかしい話ではないのです。世界の豊穣性が、そのような単純な解答を許さないのです。世界の豊穣性を理解できない者のみが、デモクラシー礼賛という痴態を晒すことになるのです。


混合政体
 
 混合政体とは、君主制と貴族制と民主制の異なった要素を組み合わせた政治制度です。混合政体では、三政体の各要素が抑えあったり助けあったりして調和します。そのため、多くの状況において適切な対処が可能になります。それは、試行錯誤の連続になります。
  君主制は、特に世襲君主に顕著ですが、継承による共通の権威が備わります。貴族制は、徳に基づく政治を目指します。徳のある者を選ぶという点から、投票制は貴族制に適していると見なせます。民主制は、国の民のためという視点が要請されます。これらの三政体がうまく作用し合うことで、混合政体は安定を得ることができるのです。
  ここで注意が必要なのは、混合政体なら必ずしもうまくいくわけではないということです。混合政体が堕落することは、ありえるのです。贅沢・欲望・不満・虚栄・奢侈などがはびこれば、混乱がもたらされます。油断は禁物です。政体の安定は、制度や慣習や道徳を尊重する国民の健全性にかかっているのです。
  国家は、生きている者たち・死んでしまった者たち・生まれてくる者たちの組合です。祖国の護持のためには、堅実な混合政体を築きながらも、危機に際しては国民の団結力が必要になるのです。

代議制
 
 代議制とは、国民が代表者を選出し、その代表者が政策を決定する制度のことです。この制度は、民主制と貴族制の合成になります。つまり代議制は、制度論的には間接貴族制かつ間接民主制ということになります。
  ただし、代議制を間接貴族制と呼ぶ場合と、間接民主制と呼ぶ場合では、相違が生まれます。間接民主制と呼ぶ場合には、代議士は民衆の奴隷となります。民意に従えと言われるようになるわけです。間接貴族制と呼ぶ場合には、代議士は精神的貴族となります。代議士は、自身の判断によって政治を行うことが求められるのです。
  そのため、民主政体において代議制を採用する場合、代議制は間接民主制とも呼ばれることになります。一方、混合政体において代議制を採用する場合、代議制は間接貴族制とも呼ばれることになります。

日本の伝統的な政治
 
 日本の政治について考えてみます。日本の政治は、日本の歴史に根ざした政体によって行われてきました。日本の政体は、神道・仏道(仏教)・儒道(儒教)という三道の一致の上に築かれてきました。
 


 政治における三道は、神道天皇の道を、仏道は衆生の道を、儒道は聖人の道を指し示しています。この三つの道の調和において、日本人の政道は行われてきたのです。
  西欧の政治制度に当てはめれば、神道君主制に、仏道は民衆制に、儒道は貴族制に類似性があると言えるかもしれません。その三つの制度の調和が政治に安定をもたらすのですから、西洋で言う混合政体が日本の政治制度となります。
 


 世の中がうまく治まるには、試行錯誤しながら、なんとか調和を模索しなければなりません。それは容易ならざる営為でしょうが、日本人が昔から普通に行ってきたことでもあります。日本の政道において、君主制・貴族制・民主制の異なった要素は、互いに助け合いながら日本史を紡いできたのです。
  つまり、天皇の道と、衆生の道と、聖人の道は、それぞれの特徴を踏まえた上で交じり合ってきたのです。皇道・易行道・王道の交差と言い換えることも可能です。もし、これらの一つだけしか日本になかったならば、日本史の安定性は大きく崩れていたと思われます。日本は和の国だと言われるように、それぞれの道が交じり合い、調和し合った上で、秩序を保って成り立ってきたのです。
 

 

(引用終了)

(私のコメント)
著者の木下元文さんという人はコンピューター技師が本業の人で、政治学者ではない。
ネットではこういう学者専門家大学教授でない人がどんどん出来ているから頼もしい。
こういう人たちは学者のように専門分野がないのでいろいろな情報を重ね合わせて新しい解釈を生み出している。
上記の記事でも西洋の政治思想と日本の歴史的な政治の仕組みを対比している。
学者だったら、西洋政治史はそれ専門、日本の思想史はそれ専門だった。
学者は批判を恐れて自分の専門以外の分野に足を踏み入れることに慎重だ。
それはそれで良いのだが、読者としては物足りない。
上記の説明を聞くと、江戸幕府が250年の泰平を築いたのはそれなりの政治的な根拠があったことだ、と分かる。
江戸幕府は君主(将軍)、民衆(士農工商)、貴族(上級武士)の混合政体だが、うまく機能した。
なお、君主、民衆、貴族とは西欧的に言えば、それに当てはまるが全く同じ、というわけではない。
しかし、この体制は国内的にはうまく統治出来たのだが、外国が迫ってきたときに、対外的な対応がうまく出来ず滅びた。
どうしてか、と言うと政治の決定権は貴族=上級武士=儒学にあったが、儒学が外国侵略に対してうまく機能しなかった。
対外的なプラグマティックな対応は儒学でなく、吉田松陰先生のような兵学の分野の問題なのだ。
徳川家康は三浦按針ヤン・ヨーステンを外交顧問にしてスペインなどの折衝にあたったが、彼は戦国を生き抜いた人だから、こういう現実的な対応が出来た。
幕府政治の行き詰まりを打ち破り、明治維新を達成したのが民衆=衆生=仏の政治勢力だった、という図式だろう。
現実的には仏教が影響したことは無いが、それは上級武士の信奉する儒学朱子学)以外の思想宗教と解釈したらいいのではないか。

どの政体にしても、現実に対応して悪戦苦闘、試行錯誤してゆくしか無いので、キレイ事でやろうとしても上手く行かないのだ。
現代では「貴族」の部分が弱いのだが、案外今のサヨク陣営は逆説的に貴族を狙っているのかもしれない。
彼らはキレイ事で世の中を回そうとしている。
安倍さんも財政再建だのグローバリズムだのキレイ事で現実に対応しようとしない。
その意味では安倍さんは幕末期の失敗した貴族政治=朱子学信奉の幕府幹部と似ているし、サヨクとも似ていると言えるだろう。
キレイ事の反対は「泥沼をかき分けるような仕事」ということで、民衆=衆生=仏はそれをやっている。
この部門から又時代を変える人々が出てくるかもしれない。
(私のコメント終)