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1510-22-806-10/28メルマガブログ転送太宰治論

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岩田温 mag2 0001648403 <mailmag@mag2.com>


(見出し)

太宰治の知られざる顔

(引用開始)
私の数少ない趣味の一つは、芥川賞の受賞作を読むことだ。最後まで読み通す場合もあるが、途中で投げ出してしまうことも多い。同時代を生きる作家たちが、この時代状況の中で、いかなる作品を書き上げるのか。そしてまた、いかなる作品が評価されるのか。文学に詳しいわけでもないが、何となく興味本位で芥川賞受賞作を読むのが、趣味というか、習慣になっている。
 今年の受賞作も読んだ。芸人でもある又吉直樹の『火花』は、よく行く本屋でも山積みとなっていて、ベストセラーとなっているという。
 小説を読んだが、特に面白いというわけでもなく、感銘を受けることもなかった。小説の中身というよりも文体が面白かった。一文、一文が非常に長く、作家として、独特の文体を確立していると感じた。
 だが、何よりも興味深く感じたのは、又吉直樹太宰治に多大なる影響を受けているという事実だった。
 又吉は自らの太宰経験を次のように綴っている。

「中学生の頃、太宰治の『人間失格』を読み衝撃を受けた。そこに書かれていた幼少期から少年期までの主人公大庭葉蔵の振る舞い方は自分自身が世界に向き合う時の方法そのものだったからである。
 なぜ誰も知らないはずの僕のやり方がここに書かれているのだろう? この人は一体なんなのだろう?  そのような感覚が最初の印象であり、ということはだ、ここに書かれている凄惨な出来事が今後自分自身の人生にも起こるかもしれないという恐怖も感じた。 『人間失格』を読んだ多くの人が、僕と同じようにこれは自分の物語だと感じるらしい。」(『確かにお前は大器晩成やけど『其の七「ほらっ、マニアックナイト」より)

 恐らく又吉の太宰経験は、多くの人々に共有されている太宰経験なのではないだろうか。太宰が描き出す自堕落な主人公に、自らのある部分を重ね、まるで自らが描かれているかのような錯覚に陥る。
 書くいう私にも、同様の太宰経験がある。太宰が故郷について描いた『津軽』の一節だ。『津軽』では、やたらと酒を探す太宰の姿が描かれていて、酒飲みとしては非常に共感するのだが、とりわけ次の一節がいい。

「前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、
どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、
未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みといふ弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。
世の中に、酒といふものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め…(略)…」

 話の筋とは全く関係がないのだが、忘れられない一節だ。世間で多くの酒飲みは、二日酔いに苦しんでいる。そして、二日酔いの惨めな自分と朝から一生懸命働く人々を対比し、自己嫌悪に陥る。だが、決して酒を飲むことをやめない。朝、「酒さえなければ」と夢想しながら、夜には、再び酒を飲んでいる。太宰は自身の弱みを次々と曝け出し、その弱さを小説家としての強みとする。
 こうした太宰を嫌悪したのが三島由紀夫だった。
 三島は、まるで蛇蝎の如く太宰を憎みながら、次のように云う。

「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない。
 私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強みになることぐらい知っている。しかし弱点をそのまま強みへもってゆこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。どうにもならない自分を信じるということは、あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押しつけるにいたっては!
 太宰のもっていた性格的欠点は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。」(『小説家の休暇』)

 三島由紀夫太宰治への憎悪は相当なものだ。殆ど、全面否定と言ってよいくらいの否定の仕方だが、見方によっては、三島由紀夫太宰治は似ている。
 三島由紀夫が壮絶な自決を遂げた事に関して、若き日の江藤淳は、極めて冷淡だった。人工的に作りだされた事件で、リアリティーを感じないというのだ。
 『人間失格』では、大庭葉蔵が、体操の時間に鉄棒をする際に、わざと失敗して、皆から笑われる場面がある。計画的失敗によって、笑われようという企みだ。企みは成功し、皆の大笑いが起こる。だが、予想していない事態に陥る。自分が最も馬鹿にしていた竹一という少年が、葉蔵に向かって「ワザ。ワザ。」と囁くのだ。
 皆を笑わせるための演技が成功したと感じた瞬間に、馬鹿にしていた少年が、その演技がわざとやった演技であることを見抜いていた。こうして葉蔵は震撼する。
 この場面を踏まえながら、江藤は云う。

太宰治の『人間失格』の主人公大庭葉蔵に『ワザ。ワザ。」といったのは、『白痴』同様の竹一であった。三島氏にというより事件の全体に、さらにそのなかにまきこまれたわれわれにむかって「ワザ。ワザ。」というのは、いうまでもなく実在そのものの『低い声』である」(昭和四十五年十二月二四日『毎日新聞』『江藤淳文芸時評 上巻』新潮社、四七三頁)

 三島由紀夫が最も嫌った太宰に似ているというのだから、これ以上辛辣な批判はないといってよいだろう。当時の江藤は、三島由紀夫太宰治に通じる人為性を見ていた。
 太宰治に関して、評価を一変させたのが福田恒存だ。
 ある時期、福田は太宰を徹底的に愛していた。太宰治論を執筆するに際して、その心構えを福田は次のように綴っている。

「ぼくがいまここに用ゐようとする方法は、対象にむかつてべたぼれにほれぬいてみようといふことだ。阿諛し追従し、背なかを流させてもらひ、脚をさすらせてもらはう、というのである。…(略)…で、ぼくは決心した─太宰治がてれくさくていへないやうなことを、その代理にばかづらしていつてやること」(「太宰治」『福田恒存全集 第一巻』文藝春秋、三一一頁)

 過剰といっていいほどの賛辞である。あまりに賛辞が過ぎると、慇懃無礼となるが、福田の評論は慇懃無礼といった内容ではない。太宰を正面からみつめ、極めて明るい太宰治像を描いているのだ。
 福田が描く明るい太宰治像は、我々が想像している太宰治像とは懸け離れている。
 福田によれば、太宰治芥川龍之介の生涯を「逆に」生きてきた。芥川は生から死へと向かったが、太宰は死から生へと向かっている。
 福田はその転換時期についても綴っている。
「昭和十三四年ころで、このころから太宰治の作品は変わつていつたのである。かれは『晩年』からしだいに離れていつた」(前掲書、三二八頁)

 衆知のように、太宰は幾度も自殺未遂事件を起こす。だが、その度に「生きよ」とばかりに現実に突き返された。当初、自らの存在が、社会の進歩にマイナスの働きをなしていると感じた太宰は、共産主義思想にかぶれる。社会にとってマイナスの存在である自分は、自身が死ぬことによって社会にとってゼロの存在となる。自殺とは革命運動以上に適切な社会奉仕ではないのか。
 これが太宰の自殺未遂の動機だというのが、福田の理解だ。
 この後、太宰は左翼運動から離れる。
 何故か。
 太宰はある思想に目覚めたからだ。

「人間を社会に役だつか役だたぬかといふ基準原理をもつて裁断する思想ではなく、他人に役立ちえぬもの、あるいは他人に厄介をかけるものをすら、救ひ愛さうとする思想にめざめたのである」(前掲書、324)

「おもひやりはかれの生まれつきの資質ではあつたが、それがはつきり自覚され、かれのみならず。あらゆる人間はそれによつてしか救はれえぬと信じきれたとき、太宰治の『芸術は、世のひとの生きぬく努力にそ〇ぎかける純粋な救援のごときもの」となつていつたのである」(前掲書、330)

 我々の太宰理解とは懸け離れた理解だが、この評論が発表されたのは、昭和二三年『群像』の六月号、七月号であった。
 太宰治玉川上水で山崎富栄とともに入水自殺を遂げるのが、昭和二三年の六月一三日であったから、福田がこの評論を執筆しているとき、太宰治は生きていた。そして、この評論の発表とほぼ同時に、太宰は死んだ。  死から生へと向かったと評された太宰は、そうした評論をまるで嘲笑うかのように、死んでいった。明るい太宰治像は、他ならぬ太宰治によって破砕された。福田は太宰治に関する評論を書かねばならなかった。
 福田は『群像』の十月号で、自らの太宰治論が「失敗作」であったと認めながら、太宰について再び論じている。
 この中で最も注目すべきは、太宰治の中期の作品に読者の注意を喚起している点だろう。そして、この時期が「結婚と戦争との時期」であることを福田は指摘している。
 福田は、結婚と戦争を通じて、「常識をまともにおのが精神のうへに適応せしめる時機」であったのではないかと問うのだ。
 しかし、太宰は、常識を自らの精神の上に適応することが出来なかった。
 何故か。
 福田は云う。

「反抗するにせよ、屈従するにせよ、それは意識的な行為でなければならぬ。太宰治には、じつはそれがなかつたのだ。かれのうちに生活者がゐなかつたからである。したがつて、かれの戦後の文学的活動は、一見さうみえるやうには、戦後のそれではないのである。そこには戦争の創痍はぜんぜんみいだされぬ、犯行も屈従もない。かれは戦争期を完全にブランクにしてゐる」(前掲書、342頁) 
 私は、先の太宰治論が「失敗作」であったとするならば、この第二の太宰治論は「大失敗作」であったのではないかと考える。
 何故なら、太宰治ほど。「戦争の創痍」を感じていた文学者は少ないからである。
 福田の太宰治論は、太宰治における戦争を無視することによって成立している。
 昭和二十三年に、福田が当初の太宰治論を発表したとき、そこに戦争についての言及は殆どない。
 わずかに戦争の時期に、「炉辺の幸福」と「一家団欒」を守り通したことが触れられるだけだ。あとは、戦争が終わり、「左翼思想」からも、「軍国主義」からも解放された太宰が、「直接に市民への奉仕をこころがければいい」とされているだけだ。
 福田の太宰治論に決定的に欠けているのは、太宰治と戦争、あるいは太宰治と敗戦という視点だ。
 太宰治は、祖国の敗北によって、満身創痍ともいえるような状況に追い込まれた文学者のひとりであった。
 太宰は言葉を奪われた。
 勝者の手によって、すなわち、アメリカによって、彼の作品から、次々と言葉が奪われていったのだ。
 言葉を奪われるということが如何なることを意味するのか。福田は、仮名遣いを重視するが、直接言葉が奪われていた現実を軽視していた。あるいは、占領軍の過酷な言論統制の実態を知らなかった。
 福田が占領軍の言論統制に関して、極めて杜撰な知識しか持ち合わせておらず、しかも、その実態解明に関して極めて消極的だった。
 江藤淳が被占領期における占領軍の言論統制の実態を研究しにアメリカを訪問したことに関して、福田は冷たく言い放つ。

「江藤氏の今度の旅行は、ただ国際交流基金の金を無駄遣ひすることが目的だつたとしか思へない」

連合軍総司令部は、『敗戦後三年間、広範囲にわたる事前検閲をやっていたのです」と、氏は言つてゐるが、そんなことは誰でも知つてゐる」

「江藤氏は私のところに聴きにくればよかつたと思ふ。事前検閲が書簡、私信、電報、電話にまで及んでゐたと、氏は言ふが、それは特殊の人の事であらう。電話の盗聴といふのは、その当時としては至難の業であつた」
(『福田恒存全集 第7巻』600頁)

 残念ながら、福田に聞いたところで、江藤が調査し、研究したほどの成果は上がらなかった。
 福田は「事前検閲が書簡、私信、電報、電話にまで及んで」いたことを「特殊の人」のことといい、江藤を非難するが、見当違いも甚だしいと言わざるを得ない。
 膨大な占領期の資料を調査し、優れた研究成果を発表している山本武利は、その調査結果に基づき、次のように指摘している。

「1945年9月から49年10月まで、即ちCCDの活動期での郵便、電報、電話の検閲量は…(略)…郵便は2億通、電報は1億3600万通開封され、電話は80万回も盗聴されていた」(山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』岩波書店、三九頁)
 
 CCDとは、Civil Censorship Detachment、すなわち民間検閲支隊(後に、民間検閲局)のことを指す。彼らは、占領下で不穏な動きをしそうな人物をウォッチ・リストに乗せ、彼らの動向を検閲によって探っていた。また、福田の想定に反し、一般国民の郵便等も開封され、検閲を受け、一般国民の世論調査が秘密裏に行われていたのだ。
 福田が想像している以上に、大規模で、徹底的な言論弾圧が行われていた。そして、その被害者の一人が太宰治に他ならなかったのである。
 私が太宰治の作品に検閲がなされていることを知ったのは数年前だった。プランゲ文庫の中に収められている「トカトントン」に検閲があることを知り、国会図書館に資料収集に赴いた。
 マイクロ・フィルムで、昭和二二年一月号の『群像』を読む。まずは、実際に印刷された雑誌の本文が読める。マイクロ・フィルムで読むのは大変だが、実際には、この部分には面白いものはない。実際に印刷された雑誌のマイクロ・フィルムの後ろの部分に私の欲しい資料はある。
 あった。
 この瞬間は、今でも緊張する。本文が抜き出され、黒々と太い線が引かれ、上にDeliteと書かれている。「削除」ということだ。
 一体、何が書かれているのか。
 これが明らかになるのが、その次の資料だ。英文で、どこ部分を何故、削除するのか、理由が書かれている。
 この資料によれば、検閲が行われたのは、昭和四六年一二月一七日、報告者は「Kitahara」と記されている。どんな人間だったのかは分からないが、姓から考えて、日本人であることは確かであろう。
 削除される部分については、次のように記されている。

(But this is onlypolitical.…(略)…)
(Such an impression may be called solemnity)

 削除されたのは二か所である。
 いつもこの研究をしていて奇妙な感覚にとらわれる。それは、我々の父祖が日本語で書き記した文章が削除され、その削除された文章を推定するには、英語で考えなければならないからだ。
 さて、一体、どのように翻訳しようかと考えながら、帰宅し、自宅にある文庫本と照らし合わせてみた。
 すると、何と奇妙なことに、この削除された部分が全て掲載されているではないか。
 問題となる箇所は次の部分だ。

 昭和二十年八月十五日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて、そうして陛下みずからの御放送だという、ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ、そうして、それから、若い中尉がつかつかと壇上に駈けあがって、
「聞いたか。わかったか。日本はポツダム宣言を受諾し、降参をしたのだ。【しかし、それは政治上の事だ。われわれ軍人は、あく迄までも抗戦をつづけ、最後には皆ひとり残らず自決して、以て大君におわびを申し上げる。自分はもとよりそのつもりでいるのだから、皆もその覚悟をして居れ。いいか。】よし。解散」
 そう言って、その若い中尉は壇から降りて眼鏡をはずし、歩きながらぽたぽた涙を落しました。【厳粛とは、あのような感じを言うのでしょうか。】

 この文章の【】内の部分が、「軍国主義的プロパガンダ」としてGHQによって削除を命じられた部分である。
 確かに、マイクロ・フィルムで確認したように、雑誌『群像』では、その部分が削除されていた。すなわち、昭和二二年一月号の『群像』を手にした人々は、削除された部分を知らずに、「トカトントン」を読んだはずなのである。
 何故、削除された箇所が復元されているのか。
 調べてみると、太宰治の場合、原稿そのものが遺されており、その原稿をもとに復元することが可能であったという。
 現在、日本の国会図書館等のプランゲ文庫で調査が可能なのは、被占領期の雑誌、新聞に限られている。書籍の出版に関していかなる検閲が行われ、どのような報告が為されているのかを調べることは出来ない。だから、この部分の研究が非常に遅れている。
 太宰治の作品に関しては、文章の異同について、詳細な研究がなされている。
 筑摩書房版の太宰治全集は、太宰治の言葉がいかに被占領期に奪われていたのかを知るために恰好の資料である。
 幾つか紹介しておきたい。
 まずは、『パンドラの匣』からだ。
 主人公は肺結核に苦しむ青年だ。
 大東亜戦争末期、病身ながら、この青年は自ら過酷な農作業に精を出す。その時の意識を友人に宛てて次のように綴っている。

「こんなだらし無い自分の生きているという事が、ただ人に迷惑をかけるばかりで、全然無意味だと思うと、なんとも、つらくてかなわなかったのだ。君のような秀才にはわかるまいが、『自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い」

 多くの若い青年たちが命を懸けて闘っている際に、自分は何の役にも立たない。何としても、役に立つ方法はないのか。そうした焦燥感が彼を過酷な農作業へと駆り立てる。
 彼の人生が一変するのは、終戦の詔勅をラジオで聞いてからだ。
 八月十五日について、こう綴っている。

「お父さんの居間のラジオの前に坐らされて、そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或は何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。
 まさか僕は、死生一如の悟りをひらいたなどと自惚れてはいないが、しかし、死ぬも生きるも同じ様なものじゃないか。どっちにしたって同じ様につらいんだ。無理に死をいそぐ人には気取屋が多い。僕のこれまでの苦しさも、自分のおていさいを飾ろうとする苦労にすぎなかった。」

 ここから彼は「新しい人」となろうと努力を重ねる。『パンドラの匣』において鍵となる言葉は、「新しい人」だ。
 新しい門出について、彼は記している。

「船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ」
船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ」

 どこか不安とともに希望を感じさせる言葉だと言ってよい。『パンドラの匣』は、敗戦に対する衝撃の大きさを感じさせると同時に、明るい希望を感じさせる。
 死のう、自分が生きていることは、他人に迷惑だと感じていた青年は、肺結核を克服するために「健康道場」と称する療養所に入る。療養所といっても、消極的な辛気臭いものではなく、「健康道場」の名称が示す通り、積極的な場所である。
 青年は療養所の助手と称する女性たちを愛し、療養所の仲間たちと明るい生活をおくる。
 物語の中で、青年は年長の療養所仲間とともに、「自由」について論じあう。その中で、「越後獅子」と綽名された男が次のように云う場面がある。少々長いが引用したい。


「日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。」
「な、なんですか? 何を叫んだらいいのです。」かっぽれは、あわてふためいて質問した。
「わかっているじゃないか。」と言って、越後獅子はきちんと正坐し、「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」
 
 昭和二一年六月に河北新報社から刊行された『パンドラの匣』には、この部分がはっきりと記載されている。
 だが、奇妙なことに、翌年、昭和二二年六月に双英書房から出版された『パンドラの匣』にはこの部分が次のように変更されている。

「日本は完全に敗北した。そうして、既に昨日の日本ではない。実に、全く、新しい国が、いま興りつつある。日本の歴史をたずねても、何一つ先例の無かった現実が、いま眼前に展開している。いままでの、古い思想では、とても、とても」

 これでは全く違う作品だ。
 本来の作品には、自由に対する太宰の真剣な情熱が宿っている。
 敗戦時の現在、旧来の軍国主義者を弾劾するのは、自由思想でも何でもなく、単なる便乗に過ぎない。自由思想というものが、本来的に時流に掉さす態度を指すのではなく、その時代にあって反時代的とされる主張を許容する思想であるならば、今こそ「天皇陛下万歳」と叫ぶことこそが、自由だという。
 敗戦直後の日本にあって、非常に興味深い自由論を展開しているのだが、この部分が変更されている。
 太宰治の研究者である安藤宏が、米国の知己に確認を求めたところ、プランゲ文庫に所蔵されている『パンドラの匣』の、この部分は、GHQによって削除を命じられた部分だという。
 『パンドラの匣』の文章の変更だけが特殊なものではない。
 魯迅について扱った『惜別』に関しても、異同がみられる。
 『惜別』が出版されたのは、昭和二〇年九月五日だった。出版社は朝日新聞社
 これは内閣情報局と日本文学報国会の委嘱を受け、戦時下において執筆されたものだが、敗戦直後に出版されている。
 『惜別』の本文が変更されるのは、昭和二十二年の講談社版だ。
 「支那」と表記されていたものが「中華民国」に変更されたりする部分に関しては、さほどに思想に関する圧力を感じさせないが、次のような個所は思想的な圧力だと言ってよいだろう。

大和魂の本質は、義気だからね」

 この部分は、物語の本質とは無関係だが、変更を加えさせた人物が、かなり言葉の問題に過敏になっている点がうかがわれよう。
 だが、最も本質的な削除は次の部分だろう。
 後に魯迅として知られることになる清国からの留学生周さんは、日本人の田中卓に向かって明治維新の原動力について語る場面だ。周さんは、中国の現状を嘆き、何とか中国の現状を改善しようと、日本の明治維新に注目し、研究する。その周さんの結論だ。

「僕は、こんなに途方に暮れた時には、どうしてだか、日本の明治維新を必ず思い出すのです。
日本の維新は、科学の力で行われたものではない。それは、たしかだ。維新は、水戸義公の大日本史編纂をはじめ、契沖、春満、真淵、宣長、篤胤、または日本外史の山陽など、一群の著述家の精神的な啓蒙によって口火を切られたのです。
Materiell の慰楽を教化の手段に用いる事はしなかった。そこに、明治維新の奇蹟の原由があったのです。
自国民の救済に科学の快楽を利用するのは、非常に危険な事でした。それは、西洋人が侵略の目的を以て他国の民衆を手なずけるために用いる手段でした。
自国民の教化には、まず民衆の精神の啓発が第一です。
肉体の病気をなおしてやって、新生の希望を持たせ、それから精神の教化などとそんな廻りくどい権謀みたいな遠略は一さい不要なのです。
人事ではない。僕自身だって、いま、日本の忠義の一元論のような、明確直截の哲学が体得できたら、それでもう救われるのですからね。アイスクリイムをなめたって、キャラメルをしゃぶったって、活動写真を見たって、ほんの一時、気持がまぎれるだけのものじゃありませんか。僕は、日本のあの一元哲学には、身振りが無くて、そうしていつでも黙って当然のことのように実行されているので、安心できるのです。」

 周青年は、中国の現状を憂い、何とか中国を変革したいと望んでいる。当初、科学の力を取り入れ、中国の改善は可能だと信じていた。だから、彼は医学部で医学を熱心に学んでいたのだ。
だが、日本における明治維新を研究すると、科学に対する知識がその原動力となっているわけではないことに気づかされるのだ。科学ではなく、著述家たちの「精神的な啓蒙」こそが先にある。
医学を志していた周青年は、思想家たらんと欲するが、その才能はないことを痛感し、思い、悩む。そんな折に、日本人の友人である田中に向けて発した台詞だ。朝日新聞社版では、はっきりと書かれていたこの部分が、講談社版では全て削除されている。
 この削除がGHQ当局の指令による削除なのか、出版中止を恐れた講談社の自主的な削除なのか、それはわからない。だが、太宰治は、自身の作品から、言葉を奪われている。この事実は揺るがない。
 他にも、『惜別』では、「あとがき」が削除されている点が興味深い。その「あとがき」には次のように記されていた。

「なお、最後に、どうしても付け加えさせていただきたいのは、この仕事はあくまでも太宰という日本の一作家の責任に於いて、自由に書きしたためられたもので、情報局も報国会も、私の執筆を拘束するようなややかしい注意など一言もおっしゃらなかったという一事である」

 自由と民主主義を弾圧したと糾弾される日本の「軍国主義」は、太宰の文章に手を加えることはしなかった。皮肉なことに、自由と民主主義をもたらすと喧伝していたアメリカこそが、太宰の言論の自由、言葉を奪ったのだった。
 戦後書かれた太宰の『春の枯葉』では、次のような不思議な歌が繰り返される。

 あなたじゃ
 ないのよ
 あなたじゃ
 ない
 あなたを
 待って
 いたのじゃない

 小説の中では、「失恋の歌」と評されているが、この失恋には、太宰の深い憂慮が込められている。
 若き日の吉本隆明は、太宰治の熱心な読者で、この「春の枯葉」を上演したく、その許可を直接太宰に求めに行ったことがある。太宰の自宅を訪れると留守であった。二度目に訪問すると、また留守であったが、近くの鰻屋にいることがわかり、吉本は鰻屋まで出向いた。
 上演の許可を求める吉本に対して、太宰は次のようにいったという。

「あなたというのはアメリカのことをいってるんだよ」(吉本隆明「太宰の親密さにいかれちゃった」『東京人』2008年12月増刊号、二〇頁。)

 
 アメリカじゃ
 ないのよ
 アメリカじゃ
 ない
 アメリカを
 待って
 いたのじゃない

 彼は敗戦直後、肺結核に病む青年に次のように語らせていた。

 「船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽かな期待を感じさせるものだ」

 確かに敗戦は厳しい現実だった。だから、「トカトントン」で描かれた中尉は泣いた。しかし、何かが起こるかもしれない、そんな淡い希望を抱いた人がいたのも事実であった。
 だが、淡い希望は打ち破られた。
 言葉は奪われ、何をするのも空しい気分しか残らない。
 
「もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン
局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン
こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン
伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン
もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。」

 太宰治は、戦争によって傷を負わなかったのではない。敗戦によって、衝撃を受け、その衝撃を文学によって表そうともがいた小説家だった。
 だが、彼から言葉が奪われていった。
 太宰は文学について、『惜別』の周青年に次のように語らせている。

「文芸はその国の反射鏡のようなものですからね。国が真剣に苦しんで努力している時には、その国から、やはりいい文芸が出ているようです」

 太宰の言葉は奪われたが、幸いなことに、我々は太宰の奪われる前の言葉を読むことが出来る。戦後、太宰治の書いた幾つかの小説は、まさしく「国が真剣に苦しんで努力している時」の「いい文芸」と評するに足るのではなかろうか。
 時に自堕落に陥りがちな我々が、まるで自らの鏡のように太宰を読む。
 それも一つの太宰の読み方だ。
 だが、困難な時代の中で、確かに刻まれた時代精神を読み解くのも、一つの太宰の読み方といってよいだろう。

 

(引用終了)
(私のコメント)

太宰の「トカトントン」と言う小説は私が好きな哲学者の長谷川三千子先生も「神敗れ給わず」という本で取り上げている。
彼女は戦後の日本の出発点である8月15日敗戦の日を描いたこの小説を題材にして緻密に当時の日本人の心象を分析している。
上記の論文とこの部分を重ね合わせて読むと大変面白い。

(私のコメント終)