1510-24-808-10/30メルマガブログ転送キラキラネーム

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http://totb.hatenablog.com/
Think outside the box

(見出し)

キラキラネームの子は夜中に救急車による急患受診が多い。

(引用開始)
「キラキラネーム児」の 深夜帯の受診率は有意に高い、という報告が話題になっていました。
(孫引用)
http://blogos.com/article/141450/
BLOGOS

キラキラネームの子を持つ親はDQN? 小児科臨床論文より 医学論文の有意差は…

(前略)

30歳前後の救命救急(ER)スタッフ27人にアンケートを取り、漢字が読めない(一致しない)+この名前はキラキラネームと思うという人間の割合が50%以上の時キラキラネームと定義。(104人の名前の読み方を想像するという結構大変なアンケート!)

ある期間(12月の1週間)日本赤十字和歌山医療センター救命救急センター(ER)を受診した15歳以下の患者104人中、16人のキラキラネーム患者とそれ以外を定義に基づき決定。そこで、キラキラネームでない患者の受診時間、救急車利用度、重症度を比較することで、親の公共空間(救急外来)に対する配慮を比較したという論文になります。

結果は救急車利用、重症度に差はないものの、キラキラネームの患者は深夜に来る割合が非キラキラネーム患者の3倍高く、有意差を持ったというものです。

親たちの公共空間に対する配慮の欠如の可能性とまとめています。

(後略)


(孫引用終)

(孫引用)

http://togetter.com/li/891510
togetter

・今月号の小児科臨床。 ー「キラキラネーム児」とそうでない児のER受診時間を比較したところ、深夜帯に受診した患者の割合は、「キラキラネーム児」が有意に高かった。ー うーむ、理由は推して知るべしか。笑

・1週間でサンプル約100人。どれほど「有為」の差なんだろう。>キラキラネームとER受診率。
救急車を呼ぶほどではないとしても、たまたま夜間に不調になったケースなら問題あるとは言いがたいと思う…
昼間から体調不良なのを放置して悪化→夜受診のパターンを調べるべきでは…


・夜間救急に駆け込む子供の方がキラキラネームが有意に多いってデータの話、本質的には社会階層と教育の話だと思うので、「だからそういう親は~」みたいな変なDisりに持っていくのはおかしいと思った。
・気になって調べてみたところ、英語圏でも、「キラキラネーム」と健康やインテリジェンスとの関係についての研究がいくつも見つかりますね。 amsciepub.com/doi/abs/10.246… RT 深夜帯に受診した患者の割合は「キラキラネーム児」が有意に高かった

・気になって調べてみたところ、英語圏でも、「キラキラネーム」と健康やインテリジェンスとの関係についての研究がいくつも見つかりますね。 amsciepub.com/doi/abs/10.246… RT 深夜帯に受診した患者の割合は「キラキラネーム児」が有意に高かった


・なんでキラキラネーム児の救急受診が多いんだろう。親がDQNだから? 分かるような気がする

(孫引用終)

「生活時間の乱れ」など、親に原因があることが示唆されるわけですが、社会階層によって子供に付ける名前の傾向に違いがあれば、受診率に反映されたとしても不思議ではありません。
 
思い出されるのが20年前の『“子”のつく名前の女の子は頭がいい』です。
 
“子”のつく名前の女の子は頭がいい
作者: 金原克範
出版社/メーカー: 洋泉社

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896911881/profnemuro-22/
amazon


 
好意的な書評もありました。
 
CUT 1997/02 Book Review

(孫引用)
http://cruel.org/cut/cut199702.html
メディアは気遣いを殺し、世界をほろぼす。
 
(『CUT』 1997 年 2 月発売号)

山形浩生

(前略)

本書『"子"のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社)を一言で言えば、メッセージとしてのメディアが日本人(そして全人類)に与えた影響を証明 (!!)した本である。

(中略)

本書は、まずそのメディアの及ぼす変化をはっきりと具体的な形で理論化したという点で、世界的に類をみない画期的な本である。その結論を思いっきり単純化すると:メディアは、人の気遣い能力を破壊してしまう!

(中略)

見事である。確かにここ数年で兆候はすべて出ていた。言われるまで何もしない(できない)連中の増加。情報交換の手段でない、のべつまくなしの「おしゃべり」の増加。基本的なしつけのできていない傍若無人なガキの蔓延。60 年頃のテレビ普及を上の仮説にあてはめると、きれいに説明がつく。これをここまでの理論に組み上げただけでも、本書は賞賛に値する。
 
 が、おそるべきことに、本書はこんなもんでは終わらないのだ。金原克範は、なんとそれを定量的に実証してしまう。もちろん、上にあげたような話を直接証明することはできない。しかし、メディアの影響と、結果として予想される現象とのきわめて強い関係を定量化することで、議論の一つ一つが異様な説得力を持ってくる。データの処理方法には何の独創もない、単純なカイ 2 乗検定。すごいのは、そのデータの選び方だ。
 
 たとえば、「子」のつく名前の女の子の減少がメディアの影響であることを証明するため、かれが持ち出すのは(なんと)紅白歌合戦の出場歌手の名前である。は、全国の「子」出現率は、出場歌手の「子」出現率の動きと 5 年遅れで驚異的に一致しているのだ。メディアの影響で子供の命名が変わったとしか考えられない、というわけ。紅白の出場歌手! 言われて見れば、だれにでも思いつきそうなアイデアだ。
  金原はいたるところでこのコロンブスの卵をやってくれる。テレビ普及率。名前の最後に「子」がつく女の子の割合。投稿雑誌やファッション雑誌や『なかよし』の読者の名前。登校拒否の推移。虫歯や肥満と名前の相関。高校別名前の分布。こうしたデータが次々に繰り出され、メディアの影響はほとんど議論の余地なく証明される。(付記:この部分あたりは書きすぎ。議論の余地なく証明はされていない。文末のコメントを参照。(2001/11/22))世界的に見ても、こんなことをまともに成し遂げた人はいないよ。そして本書の結論は日本だけでなく、アメリカでも韓国でもフランスでもケニヤでも、世界中どこでも適用できる代物だ。アメリカでのさまざまな「社会」問題の多くは、まちがいなく金原仮説の射程内にある。


 とはいえ、本書から導かれる世界の将来像はきわめて暗い。気遣いを取り戻すため、われわれはまず子供たちを、自分自身を、テレビや雑誌や新聞や本から引き離さなくてはならないのだ。そしてその成果があがるのは 10 年先。ユナボマーのような絶望的な試みや、いくつかの専制国家(北朝鮮や中国やシンガポール)を除いては、そうした試みは皆無であり、しかもいずれも失敗している。
 
 インターネットやマルチメディアは、従来のマスメディアではない新しい情報メディアとしてもてはやされている。だがこれらも金原仮説からは逃れられないだろう。WWW や CD-ROM のリンクは、受信者の関心あるところにしか飛べない。好きな、関心ある情報だけ追っていけるし、それを止めるものは何もない。岩谷宏は、すべてを言語化してオープンにする(せざるを得ない)点でインターネットに大きな期待をしている。
  だが、もし金原仮説が事実であるなら、これからの日本/世界はそもそもオープンにすべき(あるいは隠すべき)情報をまともに持たない人々の寄せ集めとなる。その時インターネットのようなメディアは、欠如を媒介にした人々がキズをなめあって無限下降を繰り返す場としてしか機能しない。現にパソコン通信の一部は露骨にそうなりつつある。自分にとって何が必要か、いかなる情報を探すべきかわかっていない人に、メディアを安易に与えてはならない、というのが本書の提言だ。インターネットで、そうした人々を救うことはできない。その判断尺度、お望みなら「主体」は、メディアの外の現実の体験においてしか獲得できないのだから。

(後略)


(孫引用終)

 
海外でも似た報告があります。"Unusual or oddly spelt name"がキラキラネーム、"traditional name"が「子のつく名前」に相当します。
(中略)
要するに、キラキラネームを付ける親は下流に多いということです。


(引用終了)
(私のコメント)

「キラキラネームを付ける親は下流」というが、上流でも下流でもマスゴミに踊らされている人にキラキラが多いのでしょう。
テレビの言うことを右から左に受けてしまい、腹話術の人形のように口パクで動く人々が下流と言うべきだ。
昔、救急車が呼ばれて行った処、母親が「子供が熱があるので連れて行って診てやって」「私は何かの会合の料理作りで忙しい」と言われた。
こういう徹底的自己中、クレーマーもキラキラネームに繋がっているのではないか。
「子」を付ける親は子供の名前には子をつけるもの、という理屈抜きの社会的基準を持っている。
それは歴史伝統文化からくるもので、それを意識するしないに係わらずそれに従っている。
そういう人は救急車をどういう場合に呼ぶべきか暗黙裡に分かっている、というのだろう。

下流でない人は自分から主体的に情報を取りに行き、ガセネタを排除し、懐疑的に仮に正しい物だけ選択できるのだろう。
勿論自分がそうだ、というのでなくそれを目指したい、ということです。

(私のコメント終)