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メイル・マガジン「頂門の一針」3381号

22015(平成26)年12月28日(月)

(私のコメント)
http://mainichi.jp/articles/20151213/ddm/010/040/048000c毎日新聞
ノーベル賞・大村智さん「実学の精神」 人の役に立ちたい
関係者を訪ねるうち、取材で聞いた大村さんの言葉が自然に浮かんだ。「一番大事なのは、人のためになること。情けは人のためならず。巡り巡って己がためなり」。祖母の口癖だったという。その言葉通り、人の役に立とうとする姿勢を貫いてきた大村さんの周囲には人材の輪ができている。ノーベル賞という快挙の背景に、そうした人たちの支えがある。
http://toyokeizai.net/articles/-/87149?page=3東洋経済
ふるさとに温泉施設
大村氏のユニークな点でほかのメディアであまり報道されていないことがある。美術愛好家であり収集家である大村氏は、ふるさとに私費で韮崎大村美術館を建設し、収蔵品をすべて韮崎市に寄贈している。このことは地元でもよく知られているが、それだけでなく、美術館の横に建つ日帰り温泉施設のオーナーでもあるのだ。

その温泉施設「武田乃郷 白山温泉」は、「この辺は必ず掘れば温泉が出る。温泉があれば地域の人も観光客も来てくれる」との大村氏の狙いによって建設された。研究者として功成り名を遂げていた10年前、こんな着想をするところが実に面白い。

今年8月に記者が大村氏にお目にかかったときに尋ねたところ、「それほど儲かっているわけではないが、お客さんはそれなりに来て下さっているので、資金は回転している」とのことだ。「掛け流しで、露天風呂からは八ヶ岳、茅ヶ岳が眺望できる。何より、お湯自体がすばらしい」とはご本人のアピールの弁。これから甲州路は紅葉がすばらしい。美術館と温泉をセットにして大村氏を育んだ土地を訪ねるのも一興かもしれない。

(私のコメント;とにかくこの人は偉い人だ。偉い人の定義は人の為に役立っている、というところだ。
一隅を照らす、これ国宝、を言う言葉がある。人それぞれ自分の立場で人の役に立つように働きたいものだ。)
(私のコメント終)


(見出し)

大村智教授、一期一会のノーベル賞

(引用開始)
          伊勢 雅臣


「自分はもっと何かをしなければ済まない」という初志が、多くの人々の 助言、助力を呼び寄せた。


■1.「自分も学び直そう」

大村智(さとし)が東京・墨田区の夜間高校で物理と化学の試験を監督 している際、ふと目にしたのは、一人の生徒が鉛筆を握っている手の指に 油がこびりついている事だった。

改めて生徒たちの姿を見ると、洋服の所々に油をにじませている生徒も いる。昼間は働き、夜はこうして勉学のために登校してくる。大村は改め て、その姿に感動した。

大村は自分の高校生時代の生活を思い出した。裕福な農家の長男として 生まれ、何一つ不自由なく過ごした高校時代は、勉強などしないでスキー や卓球に明け暮れていた。高3の2学期からは受験勉強をしたが、大学に 入ってからも、勉強に打ち込んだ覚えはない。

昼は油にまみれて働き、夜はこうして必死に勉強に取り組んでいる夜間 高校の生徒たちを見て、自分はもっと何かをしなければ済まないという気 になった。大村は胸の奥から湧き上がるようなエネルギーを感じた。「自 分も学び直そう」。


■2.信条は「一期一会」

今年のノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智・北里大特別栄誉教授が 研究者への道を歩み出したのは、この瞬間だった。

大村は、12月7日、ストックホルムでの受賞記念講演で、信条として き たのは「一期一会(いちごいちえ)」だと語った。茶会に臨む際に「一 生(一期)に一度の出会い(一会)と考えて、真心を尽くせ」という茶道 の心得である。

この夜間高校での生徒たちとの一期一会の出会いで、「自分はもっと何 かをしなければ済まない」という初志を抱いた事が大村が研究人生を踏み 出すきっかけとなった。この時に「生徒たちも頑張っているな」という程 度の思いで終わっていたら、今回のノーベル賞もなかっただろう。

その後の大村の研究人生も、この初志を遂げるために様々な人々との出 会いを大切にし、それらの人々に導かれ、助けられて、ついにはノーベル 賞に至ったのである。


■3.出会った人々の助言助力で研究者の道に

夜間高校の教師から研究者への転身の過程でも、大村は出会った様々な 人々に導かれた。

教師となって2年目の春、山梨の実家に帰った時、大学時代の恩師を訪 ね、学び直したいという決意を伝えると、学者仲間の東京教育大学教授の 小原哲二朗を紹介してくれた。小原への紹介状を得て、その講義を聴講す るようになった。

小原の研究室に出入りしているうちに、大村が夜間高校の教師をしなが らも、本格的に化学の研究をしたいという希望を持っていることから、有 機化学の分野では世界的に知られている東京理科大学の都築洋二郎の研究 室に大学院生として入るのがいいのではないか、と勧められた。

その勧めに従って、ドイツ語などを猛勉強し、東京理科大学の大学院修 士課程に入学したのは、昭和351960)年4月だった。昼は大学院で勉 強、 夜は高校の教師、週一日の高校の研究日を金曜日として、金土日の3 日 間は大学で実験をする、という生活が始まった。

都築の研究室では、核磁気共鳴(NMR)を応用して有機化合物の構造 を調べるという、当時の最新技術を研究する幸運に恵まれた。ただし、 NMR装置は当時、東京工業試験所に1台あるだけだった。人づてで、こ の装置を夜間だけ使わせて貰う、という許可を得て、徹夜の実験を繰り返 した。

研究室では、細かな指導は講師の森信雄から受けた。森は大村を弟分と して可愛がり、実験のやり方から論文の構成まで面倒を見た。徹夜で NMR装置を使って集めたデータをもとに、森の指導を受けながら、最初 の研究論文をまとめた。

都築は「日本語で論文を書いても外国人は読めないから実績として認め ないし、研究成果も正当に評価してもらえない。論文は必ず英語で書きな さい」と指導していた。それで論文は英語で書いて、学会の欧文誌に投稿 しようということになった。都築の教えを守って、大村はその後に発表し た11100編近くの論文の95%を英語で書いた。

こうして大村は研究者の道を歩み始めた。その過程で、出会った人びと は大村のために助言・助力を惜しまなかった。大村の「自分はもっと何か をしなければ済まない」という真剣な志ちが伝わったからだろう。


■4.「だったら世界を目指せばいいじゃないか」

大学院修了の目処がついた頃、山梨大学の助手としての採用も内定し た。父親は大村が地元に帰ってくることには喜んだが、秘かに将来を心配 し、山梨でも学識のある偉い先生に相談にいった。

大村の経歴を見た先生は「この経歴だったらあまり将来性がない。せい ぜいよくても大学の講師どまりだろう。このまま高校教師を続けて、将来 は校長にでもなればいいのではないか」と言った。

父親は大村にその意見を正直に伝えた。大村は思った。「日本では講師 どまりかもしれない。だったら世界を目指せばいいじゃないか。その方が やりがいがある」。

昭和38(1963)年4月、大村は山梨大学工学部発酵生産学科の助手とし て 赴任した。しかし東京で最先端の研究をしていた大村にとっては、ここ での研究は手応えがなかった。そこに東京の北里大学樂学部で化学の研究 員を一人募集しているのが、どうか、という話が持ち込まれた。

条件は大学新卒者と同じということだったが、大村は「やります」と きっぱり返事をした。


■5.北里柴三郎の「大医は国を治(ち)す」

昭和40(1965)年4月から、大村は北里研究所での勤務を始めた。この 研 究所は、近代日本が生んだ傑出した医学者・北里柴三郎が創設したもの である。大村は北里柴三郎の業績を調べてみて驚いた。各種の資料を読め ば読むほどその偉大さに敬服し、深く傾倒していった。

北里柴三郎は明治18(1885)年、ベルリン大学の主任教授ロベルト・ コッ ホのもとに派遣され、研究に打ち込んだ。日本が開国して間がないの で、祖国の名を欧米に高めようと、「世界的な学者になるつもりで勉強し ている」と語っている。

やがて世界で初めて、破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を開発し た。共同研究者のベーリングは第1回のノーベル生理医学賞を受賞した が、北里は惜しくも逃した。

北里の名声は欧米に広まり、いくつもの有名大学から誘いを受けたが、 断固として断り、帰国した。明治天皇から「帰朝の上、我が帝国臣民の概 病(結核)に罹るものを療せよとの恩命あり」とその理由を述べている。
帰国後は北里研究所を創設して、ペスト、赤痢の病原菌の発見など世界 医学史上に残る研究業績を上げつつ、伝染病患者の治療、各県の衛生担当 者の教育、免疫血清の製造と、大車輪の活躍をした。「大医は国を治 (ち)す」が北里の若い頃からの志だったが、それを見事に実現した一生 だった。[a]

大村のその後の歩みはまさに北里の足跡とよく似ている。北里との出会 いが大村に指針を与えたのだろう。


■6.ティシュラー教授の誠意に打たれて

大村は北里研究所で次々と成果をあげていった。他大学や企業からも誘 いの声が掛かるようになったが、化学、薬学、医学、細菌学などにまたが る学際的な研究のできる環境に満足していたので、誘いはすべて断った。

安月給で、研究用の材料を自腹で買ったり、部品は自分で手作りするな ど、待遇は不十分だったが、研究のやり甲斐を感じていた。

東京大学から薬学博士号も授与され、昭和44(1969)年、34歳にして 助教 授に昇進した。周囲からアメリカへの研究留学を勧められ、大村は自 分 を売り込む手紙を5つの大学に送った。

驚いたことに、すぐに電報で週給7千ドルで客員教授として迎えたいと いう返事が、東部の名門ウェスヤーレン大学のマックス・ティシュラー教 授から来た。英文で多くの論文を発表していた大村の名前はアメリカでも 広まっていて、他の大学からも手紙で返事が来た。なかには週給1万5千 ドルなどという誘いもあった。

しかしティシュラー教授の誠意に打たれて、週給では最低だったが、 ウェスヤーレン大学を選んだ。ここからノーベル賞への道が開けていく。

大村がウェスヤーレン大学に着任した時、ティシュラー教授はすでに化 学界のボス的存在で、大物研究者が次々と訪れてくるのに、大村は驚くば かりだった。しかもティシュラー教授は彼らに大村を自分の同僚として紹 介した。

そんな形で紹介された研究者の一人が、大村をさらにハーバード大学コンラッド・ブロック教授に紹介してくれた。ノーベル生理医学賞を受賞 した権威である。大村が当時、勧めていた研究を説明すると、ブロック教 授は身を乗り出さんばかりの興味を示し、共同研究を進めよう、というこ とになった。

ブロックはハーバード大学でも大村のためのデスクを準備し、大村も積 極的に訪問するようにした。この積極性でアメリカでも一期一会の縁を生 かしていった。


■7.「泥をかぶる研究」をチームで

2年間のアメリカでの研究留学を終えるのに際し、大村は北里研究所か ら頼まれていた約束を果たした。アメリカの企業から研究資金を得る、と いう依頼である。

ティシュラー教授が、かつて務めていた世界第2位の医薬品企業メルク 社に口利きをしてくれたので、提携交渉も順調にいった。年間8万ドル (当時の円換算で2千400万円)の研究費を出してくれ、共同研究で得ら れた特許はメルク社が保持するが、北里研究所にロイヤリティを払う、と いう内容である。

大村の考案した研究アプローチは、微生物が生み出す化学物質の中から 人間に有用なものを見つけるというものであった。日本では伝統的に味 噌、醤油、酒など、微生物を活用した発酵食品が発達しているが、その延 長線上にあるアプローチである。

1グラムの土壌の中には1億個もの微生物がおり、そこから特定の微生 物を取り出しては、その化合物を調べる、という、大村自身が言う「泥を かぶる研究」を進めていった。

特定の微生物を分離する人、その化合物の 構造を調べる人、化合物の働 きを評価する人など、それぞれの人が縁の下 の力持ちとなって、共同研 究を行う。

大村はこうした共同研究体制は日本人の方が向いていると考えていた が、さらに一人ひとりの研究員によく配慮することで、チームを引っ張っ ていった。

こうして、ある微生物が産出する物質で、寄生虫退治に劇的な効果を持 つものが発見された。エバーメクチンと命名されたその物質は、皮膚にダ ニが棲みついた牛にごく微量を投与するだけで、きれいに治ってしまった。

この薬は動物薬としてメルク社から販売されると、その後、20年間も 動物薬の売上げトップを続け、そのロイヤリティで北里研究所には200 億円以上もの研究費がもたらされた。


■8.「袖触れ合う縁も生かす人が成功する」

動物の寄生虫退治に劇的な効果をもつエバーメクチンを人間の疾病にも 使ってみよう、という事から、オンコセルカ症の治療薬として「メクチザ ン」が開発された。

オンコセルカ症はアフリカの熱帯地域に広まっている感染症で、小さな ブヨが人体を刺して吸血する際に、寄生虫を移す。その寄生虫が眼の中に 入って患者を失明させる。世界で年間数千万人がオンコセルカ症に感染 し、失明や重度の眼病にかかる人は数百万人と推定されていた。

それが年に1回、メクチザンの錠剤を飲むだけで、寄生虫の幼虫はきれ いに死滅してしまう。メルク社はこのメクチザンを世界に無償提供するこ ととし、大村もロイヤリティを返上した。

メクチザンは1987年から使用されはじめ、現在では年間2億人ほどの 人々が服用している。WHO(世界保健機構)の発表では、西アフリカ諸 国でメクチザンによるオンコセルカ症制圧に乗りだし、それによって約4 千万人が感染から逃れ、60万人が失明から救われたとしている。

このプログラムにより、2020年にはアフリカ全土でオンコルセンカ 症は 制圧できる、という見通しが立った。

この業績に、2001年のノーベル化学賞受賞者・野依良治氏は「大村先生 は多くの人を感染症から救った。医学生理学賞を超えて平和賞がふさわし い」と語っている。[2]

大村教授はノーベル賞受賞式に旅立つ前に、大学院時代を過ごした東京 理科大で講演し、成功の秘訣を「出会いを大事にすることだ。つきあいを 大事にする人としない人では大きな差が出る」、「袖触れ合う縁も生かす 人が成功する」と述べた。

大村の偉業は、多くの人々に導かれ、助けられ、支えられて、成し遂げ られた。まさに「一期一会」の精神で、多くの人々との出会いを大切にし てきたからだろうが、その姿勢も「自分はもっと何かをしなければ済まな い」という初志に支えられていたのだろう。

そういう志を持っていればこそ「袖触れ合う縁」を生かせる。そして、 そういう人には世間も助力を惜しまないし、天も必要な時に必要な人に出 会わせてくれるのだろう。

 

(引用終了)