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近代を超克する(32)

近代を超克した後に
木下元文

(私のコメント)
このシリーズは大変面白い。
内容も非常に濃く深くあつかうが、簡潔におお掴みにしているので分かりやすい。
大学で一年間講義するような内容が一編で小さくまとまっているから重宝だ。
このシリーズが今回完結したので最終分だけ紹介します。
これを読んだだけでは何のこっちゃ、と思うかもしれないが日本の現在のおかれた立場からして非常に重要な考え方です。
筆者はまず進歩主義を否定しています。
これは西欧文明の否定と言っては大げさだが、その意味では、かなり抜本的な考え方になります。
これを説明し始めると、大変長くなるので、一点だけ言います。
西欧文明の背景はキリスト教だが、キリスト教の教えが影響している、という点です。
キリスト教では人間は神(造物主)に対して罪を犯した原罪と言うものを背負っている存在だ、ということになっている。
そして最後の審判で天国に行くか地獄に行くか審判が行われる。
その審判は明日か1万年後かわからない。
そして、本人はわからないが、すでにその審判の結果は決まっていて、どうあがこうが天国に行けない人はいけないのだ。
ここからいろいろ派生して思想が分かれていくのだが、省略する。
要するに、この世の中はその審判が行われるまで直線的に進んでいく、と考えている。
東洋の四季の変化などから来る自然観とは相容れない考え方だ。
日本人の思想は輪廻転生、諸行無常など直線的な考え方を否定し、どちらかといえば、スパイラルまたは円的なものだ。
上記にみるとおり、キリスト教の教義と言うのはめちゃくちゃで矛盾だらけだから現在のアメリカ人の中にはキリスト教を止める人もでてきているそうだ。
ましてや日本人は矛盾を感じるから不信感を持つ。
全知全能の造物主といいながら、自殺ができなかったり、どうして造物主ができたのかなぜできたのか、わからない。
逆にそういう矛盾があるから、だからキリスト教は強い信仰心を要求する。
原理主義的に信じこまないと破綻してしまうのだ。
キリスト教に関する以上の話は余談なのだが、進歩主義はその思想の上に載っている。
日本における現在の西欧由来の共産主義やリベラル信仰はそういうキリスト教の影響下の進歩主義が更に裏打ちされたものだ。
ここでまた思いつくままに色々なことを説明するととりとめもなく長くなってしまうので、はしょって結論に行こう。
ただ、時間があればもう一度この人のブログを最初から読んでみたいと思っている。
その時は要約して記事にしたいと思っています。
結論としては、結局人間にはわからない世界があるのだ、ということ。
主義主張はそのわからない世界をわかったようなつもりで説いているだけなのだ。
「講釈師、見てきたような嘘をいい」という川柳があるがこれと同じだ。
講釈師がどんなに上手に太閤記を語っても所詮昔のことは人にとって分からない世界なのだ。
西欧文明の色々な思想は普遍的なもの、理想的なもの、と言うような触れ込みだが、それは間違いだ。
わからない世界を探る道具みたいなものに過ぎない。
分からない世界に対しては、いろいろ試行錯誤してみるしかない。
ある場合には妥当であったり、ある時間では正しかったりする。
西欧文明ではそれを無理矢理普遍的理想的思想にしてしまうからひどい混乱が起きる。
キリスト教一神教だから何でも一神教的に理解する、ということもあるかもしれない。
例えば男女同権ならそれを一神教的に理解し、トイレや風呂の男女別も廃止しようとする。
平等を正しいとすれば、自分たちを敵とし殺そうと企んでいるイスラム過激派も仲間のように同等に扱う。
西欧思想はこういった特徴があるのに日本は勉強秀才が自分たちの権威のために闇雲に取り入れてきたのだ。
そろそろ日本もそういった思想を克服して、わからない世界に立ち向かわないといけないのだろう。

また思い出して書くが、神様はいるかいないかわからない。
しかし、あたかもいるかの如く扱う。
分からない世界に対しては人間ができることはせいぜいそんなものだ。


(私のコメント終)
(見出し)

近代を超克した後に
木下元文

 

(引用開始)

近代的な価値観を超克するために、政治上におけるデモクラシー(民主主義、民衆政治)・思想上におけるリベラリズム自由主義)・経済上におけるキャピタリズム(資本主義)を批判してきました。

進歩主義

 ここでは、最後のまとめとして、西欧的な進歩主義(progressivism)を否定し、そこに立たないことを宣言します。
 『哲学・思想翻訳語辞典』には、「近代・モダン」について次のような説明があります。

 17世紀フランスの新旧論争(Qurerlle des Anciens et des Modernes)を契機として、「古きもの(anciens)」と「新しきもの(modernes)」との対比は、歴史を没落とみなすか進歩とみなすかといった歴史観の対立を反映するものとなった。古典古代を模倣すべき範例とみなす人文主義的伝統はもはや自明のものではなくなり、「近代」科学の進展とも相まってしだいに進歩信仰が高まったのである。ここで「新しきもの=近代」は進歩概念と結びつくことになる。

 進歩主義とは、進歩そのものを好ましいとする考え方であり、変化そのものが進歩をもたらすという価値観のことです。
歴史を人間社会が最終形態へ向けて発展する過程と見なす進歩史観(progressive view of history)とも密接に関係しています。
そこには、キリスト教歴史観の影響が見られます。
 西欧の文脈では、この進歩主義というのは大きなテーマになります。しかし、日本人にはほとんど馴染みがない考え方です。西欧のある種の思想に汚染されていなければ、日本人が進歩主義に陥ることはないでしょう。
 近代を超克するという試みにおいて、日本人は進歩主義には立ちません。

近代を超克する方法

 最後に、簡単にまとめておきます。
 一つ目、政治においてデモクラシー(民主主義、民衆政治)を否定し、それに代わるものとして混合政体を提示しました。
二つ目、思想においてリベラリズム自由主義)を否定し、それに代わるものとして日本思想を提示しました。
西欧思想の文脈においては、アリストテレス的な道徳伝統を挙げることができます。
三つ目、経済においてキャピタリズム(資本主義)を否定し、それに代わるものとして労資協調経済を提示しました。
そして、西欧的な進歩主義を否定し、そこに立たないことを宣言しました。
 ここにおいて、近代を超克しました。近代は終焉しました。近代の思想と決別しました。

近代を超克した後で

 1942年、昭和十七年七月に開催された「近代の超克」の問題意識を受け継ぎ、近代を超克することについて考えてきました。
 その結果、近代の思想と訣別するための論理的な答えにたどり着きました。
大げさでも何でもなく、「近代を超克」することのすべての答えは、西欧哲学を参照しつつ、
日本思想史を丁寧にたどることで見つけることができたのです。
 近代の思想と訣別した我々は、もはや近代的な価値観を持ち出すことができません。
それは、普遍的に妥当する思想などないということを、改めて確認する営みでした。
そのため我々は、これからも試行錯誤していかなければならないのです。
 それは大変なことですが、同時にとてもやりがいのあることでもあります。
すでに用意された価値観(それは間違っていたわけですが)に、ただ従うだけの人生にどれほどの意味があるのでしょうか?
 我々は様々な要因の条件や状況に応じて、適宜何が正しいかを決めていかなければならないのです。
間違っていた歪(いびつ)な歴史の完成は解体され、我々は先人たちと同じように歴史を紡ぎ続けることになります。
 そこで、人々は、それぞれに物語を紡ぎ出すのです。これは、そんな、何てことのない当たり前の物語なのです。
あとがき

 長く続きました「近代を超克する」シリーズは、今回で終わりです。ここまで読んでくださった方々に感謝いたします。

 

(引用終了)