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万国時事周覧

(私のコメント)

今回のサミットは始まる前に伊勢神宮に行き終わった後にオバマ大統領が広島に行った。
この2つが1番大きな成果であり、おそらく歴史に残るようなものだったろう。
下記のブログは後半の広島におけるオバマ大統領の演説を取り上げたものだが、大変良い分析だと思われる。
道徳心と言うものをキーワードにしているが、これが日本人の特性と重なり合っている。
つまりアメリカ大統領に対して謝罪を求めなかった日本人の品格というものがこの演説と重なり合っていることが大きい。
謝罪を求めたりすること自体が限りない悪循環を生み、戦争につながっていく。
謝罪を求める考えの背景は仏教が排斥する「恨み、妬み、羨み」だ。
支那人朝鮮人の得意技なのだが、世界はおそらく日本人との違いを認識したのではないか。
もう1つ言える事はオバマ大統領が黒人であることだ。
白人の大統領であれば決して広島で演説するような事は無かっただろう。
ブッシュ政権で国連大使を務めたジョン・ボルトン氏は
オバマ氏の恥ずべき謝罪ツアーが広島に到着した」と言っている。

今回は日本が発案してオバマ大統領に頼んで行ってもらったのではなく本人が希望したのだそうだ。
いろいろな偶然が重なったことではあるが、昨年5月の安倍総理の米国議会演説と一対なって歴史の転換を示す結果となった。
1番困るのは戦後利得者である支那朝鮮、マルクス教徒だった学者や知識人、戦後体制のプロパガンダ機関であるマスゴミなどだろう。
これから彼らは自分たちの身の振り方を考えなければいけないだろう。

それからもうひとつのイベントである伊勢神宮参拝についてたが、これが世界に認知されることは非常に大きな成果だ。
つまり日本と言う国がどういう歴史と精神を持った国なのか、それを世界が認知したということだ。
日本が持つ、ナショナルな特性を国体というが、そういう各国の違いが認識され認め合うことが国家の前提だ。
グローバリズムではだめだ、ということを示している。

特に日本という国体の持つ精神性を世界が認識したことは非常に大きい。
各国首脳の感想は新聞によれば次の通り。
「素晴らしい教訓と経験を与えてくれた」「聖なる場所に行くことができて感動した」
「日本文化を学べた」「伝統の継続性と悠久の歴史を感じた」「感動を伴うものだった」「精神的によい経験をさせてもらった」
まあ、外交辞令もあるだろうが、カトリックだったら土俗的原始宗教的なものも含むから共感するところもあるんじゃないか。
フランスのアンドレマルローという人は伊勢神宮で精神的感応を体験したという。
20年の式年遷宮も説明されたろうから西洋人に何らかの影響、ショックと言えないまでも、インパクトを与えただろう。
それが神威というものだ。
西行の短歌、何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
(かたじけない=ありがたい、何だか知らないがこっちを愛してくれる存在に感謝するというような意味か)

戦後の70年間について憲法学者は日本に革命が起きて新しい別の国になった、というようなことを言っている。
だが日本の長い歴史から見るとたった70年にすぎないのであって日本の国は変わりなく続いている、ということを伊勢神宮は示している。
新しく生まれた別の国という考え方はアメリカの占領政策による洗脳教育と左翼マルクス思想による革命信奉から来ている。
それは敗戦国としての立場から止むを得ないもの、とも言えるのだが、それが仮の姿であって本来の姿は伊勢神宮なのだ。
伊勢と広島はその敗戦国という見方を世界がもう止める、自分たちと同じ普通の国と認知する、そういう意味合いがある。

敗戦で跡形もなく壊れてなくなってしまった日本と言う国がこの2つのイベントで蘇ってくるように見える。

それが世界の人々の認識の変化により向こう側から日本を見る目が変わっていく、そして日本もそれに沿って変わっていく、そんな希望を持たせるものだった。


(私のコメント終)
(見出し)


オバマ大統領の広島演説-”道徳の目覚め”の意味

(引用開始)
2016-05-28 13:39:06 | アメリカ
米メディア、淡々と報道 首相の言葉、ほとんど中継なし
 事前の報道では、オバマ大統領の広島訪問の際のスピーチは、極めて短いものになるとのことでした。しかしながら実際には、長時間とは言わないまでも、歴史的訪問に相応しく、凡そ17分に及ぶ格調の高い演説に、日本国のみならず、アメリカの人々も聞き入ることとなったのです。

 オバマ大統領の広島演説は、原爆投下の歴史的な意味を、人類の文明史を踏まえた壮大な構想の下で問いかける試みであったように思えます。演説の最後は、「未来の中で広島と長崎は、核戦争の夜明けとしてではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりとして記憶されるだろう」の一文で締めくくられています。オバマ大統領は、広島や長崎の人々に残酷な運命を強いた原爆投下が、人々に良心の痛みを感じさせ、その眠っていた道徳心を目覚めさせた時に、初めてその尊い犠牲が将来における平和の実現に資すると訴えたのです。日本では、無念の死が後に良き結末を迎えることを”魂が浮かばれる”と表現しますが、原爆の悲劇が人類平和の礎となった時、その犠牲は、決して無駄ではなかったこととなるのです。否、第二次世界大戦で払われた全ての犠牲は、決して無駄にはしない、とする誓いでもあるのでしょう。

 そして、この広島演説における道徳の目覚めという言葉は、核の先制使用を是とする国、核を脅迫手段とする国、並びに、密かに核開発を進めている国にとりましては、耳痛いことでしょう。何故ならば、こうした行為を行う国は、残虐さを前にしても心が痛まず、人としての道徳心が欠けていると暗に批判されているからです。実のところ、オバマ大統領の広島演説は、あたかも教師や聖職者の説教の如く、全世界に向って道徳を説いているのであり、ニューヨーク・タイムスが”道徳革命”と称したのも、核廃絶への道しるべを、人類の精神性のあり方に求められたからに他なりません。

 同演説では、核廃絶の具体的な道筋が提示されたわけではなく、核なき世界への取り組みは不十分との批判はあります。精神論に逃げたとの見方もあるのでしょうが、その一方で、人類の文明化、人類の進むべき方向として、その倫理的な発展という点を明確に指示したことには、意義があったのではないかと思うのです。暴力志向の諸国に、倫理的発展に背を向けた背徳者としての自覚、つまり、遅ればせながらの道徳の目覚めが生まれることを、願わざるを得ないのです。
(引用終了)