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1606-20-976-6/23メルマガブログ転送世界史から見た日米関係

中身が濃くて面白いメルマガブログ紹介
本の紹介
渡辺惣樹著「アメリカの対日政策を読み解く」


(私のコメント)
この著者はアメリカ在住の歴史研究者で日米関係を中心に沢山の本を書いている。
私はこの人の本はなるべく読むようにしているが、大変面白い。
今までの我々が習ったものや読んできたものから見ると視点が違って、特にイデオロギーなどに染まらず事実を積み重ねる書き方がよい。
勿論日本を暗く覆う自虐史観東京裁判史観からも全く離れている。
紹介する文章は、この本の前書きである「はじめに」の部分で、この著者の近現代世界史の動きと流れについての基本的な捉え方が書かれている。
短いのだが、これを頭に入れておけば、一つの教科書的ものさしになり、間違った論考などは排除できる。

日本は日露戦争以降こういう世界史的な流れに翻弄されながら日本としての歴史を刻んできた。
日本の歴史を日本だけのタコツボ的な内向きの材料で書く歴史書が今の日本にはあふれているが、それらが日本をゆがめ間違った方向に向かわせようとしている。
そういう中で、世界の側から、およびアメリカの側からの歴史分析は新しい隠れた日本の歴史を照射して、それらのゆがみを粉砕してくれる。
この人の著書を沢山読むことをお勧めするが、御用とお急ぎならば、ごく触りのエッセンスだけでも知った方が良いと思い文字起こしした。
今回はその前編で途中で切らせてもらいます。

(私のコメント終)
(見出し)
はじめに  日米関係を新たな文脈で読み解く時が来た


(引用開始)

アメリカは自らが拡散した偽りの主張に自縄自縛になっている。二十世紀小戸から綿々と続けてきた間違った国民への説明と世界への主張が次第にその実態を露呈してきた。
インターネットの普及さえなければ国民をミスリードし続けることが出来たかもしれない。
しかし、メディア報道を通じて情報を操作できた時代は終わった。

(中略;省略部分の内容を要約すると、今年のヒラリー対トランプ大統領選挙でヒラリーがアラブの民主化運動の振り付け役となり、そしてそれが失敗に終わったことが問題になっていること。
アメリカが世界の警察官であることと、それを続けることの是非が問われている。)


アメリカ国民も日本人を含む世界の人々も、世界の警察官外交を続けるアメリカの姿に違和感を覚えない。
しかし、アメリカ建国の父たちは、そのような国になることを望んではいなかった。
ヨーロッパの揉め事には関与しない、そのかわりヨーロッパ諸国には南北アメリカ大陸に干渉させないという「モンロー宣言」(1823年)
に典型的に表れているように、非干渉主義がアメリカ外交の基本であった。
アメリカは、カリブ海周辺あるいは太平洋方面でヨーロッパ諸国と角逐を続けたが、ヨーロッパ大陸に軍を遣ってヨーロッパ諸国の紛争に介入することは決してなかった。
自由貿易帝国主義の先頭をひた走ったえ世界に植民地を拡大した旧宗主国英国や、それに追随するフランスに対して、 ひとりアメリカは、
自由な精神を尊重する独立国家の立場を貫こうとした。
その孤高の精神を変質させたのはウッドロー・ウィルソン大統領であった。
イギリスには、大陸の最強国を叩き世界覇権を守るという伝統がある。ナポレオンが台頭したフランスを叩いたのもイギリスだった。
ドイツ帝国が台頭し、世界各地でイギリスと衝突し始めると次のターゲットはドイツとなった。
オーストリア皇太子暗殺事件(1914年6月)をきっかけとして始まった大陸諸国間の紛争にイギリスは介入した。
その口実は、ベルギーに対する古びた中立保証条約だった。
ドイツ軍がフランス侵攻のためにベルギーを通過すると、その条約を発動させた。
大陸での戦いはイギリスの安全保障に直接関わらない。それでもチャーチルやロイドジョージなどの強硬派が介入に踏み切らせた。
海上覇権を握るイギリスは、海上封鎖によってドイツの物流を閉塞させ食料不足に陥らせた。
イギリス参戦は大陸最強国ドイツを潰すためであった。それだけの理屈だった。
第一次世界大戦の原因をピンポイントに説明できないのは、イギリスの動機が不純であるからだ。
イギリスはこの戦争を、民主主義国対専制国家の戦いとすることに決めた。
アメリカの支援を受けるためである。
ドイツを「野蛮な国」「危険な国」とする猛烈なプロパンガンダが始まった。
赤子に銃剣を刺したり、美女をさらうドイツ軍兵士のイラストが作成された。
アメリカ国民の反ドイツ感情を煽る為だった。
国際主義者であったウッドローウィルソン大統領は、イギリスに加担したかった。
しかし当時はモンロー主義の歯止めが効いていた。イギリスの主張する「民主主義国家対専制国家の戦い」にも矛盾があった。
イギリスの同盟国ロシアはニコライ2世の統治する「専制国家」であった。
ところが1917年3月(ロシア歴2月)ロシア革命が起きた。
これでロシアは専制国家ではないと言う言い繕いができることになった。
当時多くの知識人が、ロシア共産革命を民主化運動と解釈していた。
この革命を契機に、ウィルソンの対独宣戦布告要請をワシントン議会が承認した(4月6日)。
ヨーロッパの戦いの参戦の正当化に「民主主義の擁護」が初めて使われた。
モンロー主義の精神がここで崩れた。
これに反対する者には「孤立主義者」のレッテルを貼った。
モンロー主義者を非難する言い換えだった。
アメリカの参戦でドイツは敗れた。
戦後処理に当たって、当事者となってしまったアメリカは、英仏の強烈な復讐心をコントロールできなかった。
その結果が、ドイツを一方的に断罪し、国家再建が立ち行かないほどの賠償金を科したヴェルサイユ条約だった。
国境の線引きでは、ドイツ系住民の多い地域でさえも他国の領土にされた。
アメリカ建国の父たちは、ヨーロッパ諸国の揉め事は当事国に解決させるべきであると考えていた。
だからこそヨーロッパ問題不介入の国是を遺した。
ヨーロッパは民族問題と宗教問題が錯綜し、その解決に部外者が入れば混乱に輪をかける。
彼らは経験から学んでいた。
国際主義者ウィルソンは、ヨーロッパ問題介入の正当化に民主主義擁護を謳うだけではなく、民族自決原則も唱えた。
それが国際連盟設立の根拠となった。
国際連盟は設立を見たが、アメリカはメンバーになれなかった。
メンバーとなれば、主権が制約される、外交の自由が制限される、と心配した議会が拒否したからである。
連盟のメンバーになれば人種差別撤廃を訴える日本にやり込められると、連盟参加に反対したものもあった。
日本は人種差別撤廃を連盟の基本構想の1つにすべきだと主張していた。
ウィルソンはそれを退けた。メンバーにならなかった国による決定だった。
ウィルソンは1916年の大統領選挙でカリフォルニア州反日本人運動を煽る組織の支援を受けていた。
女婿のウィリアム・マカドゥー(財務長官)も人種差別主義者だった。
造幣局に人種隔離政策を導入し白人種と黒人種の差別を首都ワシントンに初めて持ち込んだ男だった。
似非人道主義者のウィルソンが、国是に背いてヨーロッパの紛争に介入した。
恣意的に適用された民族自決原則に基づいて国境の線引きがなされた。
それがヴェルサイユ体制だった。
第一次大戦の戦後処理に恨みを抱えたドイツ国民は、ヒトラー政権を誕生させた。
ヒトラーは天才的とも言える演説の才で、民主主義制度を通じて国家権力を握った。
彼は権力奪取以前からその著書「我が闘争」の中で、ドイツは東方を目指すべきだと訴えていた。
ドイツ民族の「生存圏」拡大を訴えた。一方で、同族(チュートン族)のイギリスとは干戈を交える気はないことを繰り返し述べていた。
軍事力、特に機甲部隊と空軍力を増強したナチスドイツは、実際、東方に向かった。ドイツ系住民の多いズデーテン地方を手始めに、
東方進出の障害となるチェコスロバキアを併合(1939年3月)した。次の狙いは自由都市ダンツィヒの回復だった。
この港町の90%以上がドイツ系住民であったがポーランドの保護下にあり、ドイツからのアクセスはポーランド領(ポーランド回廊)で遮断されていた。
ヴェルサイユ体制の不正義の象徴だった。
ヒトラーは、ダンツィヒとそこに至るアクセス権を何としても回復したかった。
ダンツィヒの回復は、ヴェルサイユ体制への恨み解消の総仕上げであった。
ポーランドはその軍事力に鑑みればどこかでドイツと外交的妥協をすべきであった。
歴史的に見ても、ダンツィヒ割譲は不明瞭ではなかった。
ソビエトポーランドにとってドイツ以上に危険であった。
従って、ドイツとの外交的妥協はむしろ賢明な策だと見る識者は多かった。
例えばハミルトンフイッシュ下院議員(共和党)がそうである。
しかしポーランドはその道を模索せずドイツの要求をことごとくはね付けた。
イギリス(とフランス)がポーランドに独立保障を与えたからであった(1939年3月)。
イギリスのチェンバレン首相は従来から、ドイツ以上にソビエトが危険だと認識していた。
その彼がポーランドに独立保障を与える世紀の愚策をとってしまった(フーバー元大統領「裏切られた自由」)。
この保障でポーランドが強気になるのは当然だった。
独ポ二国間交渉による外交的妥協が不可能になった。愚策の責任はもちろん、チェンバレン首相にある。
しかし、彼の対独外交を弱腰だと罵りチェンバレンにプレッシャーをかけ、道を誤らせたのはチャーチルらの対独強硬派であった。
ドイツに対するチェンバレンの「対独融和政策」は、裏を返せば「対ソ強硬政策」であった。
ドイツを共産主義西進の防波堤とする構想であり、それが正しいと考える知識人は少なくなかった。


(以下続く)