1606-24-980-6/26メルマガブログ転送世界史日米関係その2

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本の紹介
渡辺惣樹著「アメリカの対日政策を読み解く」


(私のコメント)
この著者はアメリカ在住の歴史研究者で日米関係を中心に沢山の本を書いている。
私はこの人の本はなるべく読むようにしているが、大変面白い。
今までの我々が習ったものや読んできたものから見ると視点が違って、特にイデオロギーなどに染まらず事実を積み重ねる書き方がよい。
勿論日本を暗く覆う自虐史観東京裁判史観からも全く離れている。
紹介する文章は、この本の前書きである「はじめに」の部分で、この著者の近現代世界史の動きと流れについての基本的な捉え方が書かれている。
短いのだが、これを頭に入れておけば、一つの教科書的ものさしになり、間違った論考などは排除できる。

日本は日露戦争以降こういう世界史的な流れに翻弄されながら日本としての歴史を刻んできた。
日本の歴史を日本だけのタコツボ的な内向きの材料で書く歴史書が今の日本にはあふれているが、それらが日本をゆがめ間違った方向に向かわせようとしている。
そういう中で、世界の側から、およびアメリカの側からの歴史分析は新しい隠れた日本の歴史を照射して、それらのゆがみを粉砕してくれる。
この人の著書を沢山読むことをお勧めするが、御用とお急ぎならば、ごく触りのエッセンスだけでも知った方が良いと思い文字起こしした。
今回はその前編で途中で切らせてもらいます。

(私のコメント終)
(見出し)
はじめに  日米関係を新たな文脈で読み解く時が来た


(引用開始)

アメリカは自らが拡散した偽りの主張に自縄自縛になっている。二十世紀小戸から綿々と続けてきた間違った国民への説明と世界への主張が次第にその実態を露呈してきた。
インターネットの普及さえなければ国民をミスリードし続けることが出来たかもしれない。
しかし、メディア報道を通じて情報を操作できた時代は終わった。

(中略;省略部分の内容を要約すると、今年のヒラリー対トランプ大統領選挙でヒラリーがアラブの民主化運動の振り付け役となり、そしてそれが失敗に終わったことが問題になっていること。
アメリカが世界の警察官であることと、それを続けることの是非が問われている。)


アメリカ国民も日本人を含む世界の人々も、世界の警察官外交を続けるアメリカの姿に違和感を覚えない。
しかし、アメリカ建国の父たちは、そのような国になることを望んではいなかった。
ヨーロッパの揉め事には関与しない、そのかわりヨーロッパ諸国には南北アメリカ大陸に干渉させないという「モンロー宣言」(1823年)
に典型的に表れているように、非干渉主義がアメリカ外交の基本であった。
アメリカは、カリブ海周辺あるいは太平洋方面でヨーロッパ諸国と角逐を続けたが、ヨーロッパ大陸に軍を遣ってヨーロッパ諸国の紛争に介入することは決してなかった。
自由貿易帝国主義の先頭をひた走ったえ世界に植民地を拡大した旧宗主国英国や、それに追随するフランスに対して、 ひとりアメリカは、
自由な精神を尊重する独立国家の立場を貫こうとした。
その孤高の精神を変質させたのはウッドロー・ウィルソン大統領であった。
イギリスには、大陸の最強国を叩き世界覇権を守るという伝統がある。ナポレオンが台頭したフランスを叩いたのもイギリスだった。
ドイツ帝国が台頭し、世界各地でイギリスと衝突し始めると次のターゲットはドイツとなった。
オーストリア皇太子暗殺事件(1914年6月)をきっかけとして始まった大陸諸国間の紛争にイギリスは介入した。
その口実は、ベルギーに対する古びた中立保証条約だった。
ドイツ軍がフランス侵攻のためにベルギーを通過すると、その条約を発動させた。
大陸での戦いはイギリスの安全保障に直接関わらない。それでもチャーチルやロイドジョージなどの強硬派が介入に踏み切らせた。
海上覇権を握るイギリスは、海上封鎖によってドイツの物流を閉塞させ食料不足に陥らせた。
イギリス参戦は大陸最強国ドイツを潰すためであった。それだけの理屈だった。
第一次世界大戦の原因をピンポイントに説明できないのは、イギリスの動機が不純であるからだ。
イギリスはこの戦争を、民主主義国対専制国家の戦いとすることに決めた。
アメリカの支援を受けるためである。
ドイツを「野蛮な国」「危険な国」とする猛烈なプロパンガンダが始まった。
赤子に銃剣を刺したり、美女をさらうドイツ軍兵士のイラストが作成された。
アメリカ国民の反ドイツ感情を煽る為だった。
国際主義者であったウッドローウィルソン大統領は、イギリスに加担したかった。
しかし当時はモンロー主義の歯止めが効いていた。イギリスの主張する「民主主義国家対専制国家の戦い」にも矛盾があった。
イギリスの同盟国ロシアはニコライ2世の統治する「専制国家」であった。
ところが1917年3月(ロシア歴2月)ロシア革命が起きた。
これでロシアは専制国家ではないと言う言い繕いができることになった。
当時多くの知識人が、ロシア共産革命を民主化運動と解釈していた。
この革命を契機に、ウィルソンの対独宣戦布告要請をワシントン議会が承認した(4月6日)。
ヨーロッパの戦いの参戦の正当化に「民主主義の擁護」が初めて使われた。
モンロー主義の精神がここで崩れた。
これに反対する者には「孤立主義者」のレッテルを貼った。
モンロー主義者を非難する言い換えだった。
アメリカの参戦でドイツは敗れた。
戦後処理に当たって、当事者となってしまったアメリカは、英仏の強烈な復讐心をコントロールできなかった。
その結果が、ドイツを一方的に断罪し、国家再建が立ち行かないほどの賠償金を科したヴェルサイユ条約だった。
国境の線引きでは、ドイツ系住民の多い地域でさえも他国の領土にされた。
アメリカ建国の父たちは、ヨーロッパ諸国の揉め事は当事国に解決させるべきであると考えていた。
だからこそヨーロッパ問題不介入の国是を遺した。
ヨーロッパは民族問題と宗教問題が錯綜し、その解決に部外者が入れば混乱に輪をかける。
彼らは経験から学んでいた。
国際主義者ウィルソンは、ヨーロッパ問題介入の正当化に民主主義擁護を謳うだけではなく、民族自決原則も唱えた。
それが国際連盟設立の根拠となった。
国際連盟は設立を見たが、アメリカはメンバーになれなかった。
メンバーとなれば、主権が制約される、外交の自由が制限される、と心配した議会が拒否したからである。
連盟のメンバーになれば人種差別撤廃を訴える日本にやり込められると、連盟参加に反対したものもあった。
日本は人種差別撤廃を連盟の基本構想の1つにすべきだと主張していた。
ウィルソンはそれを退けた。メンバーにならなかった国による決定だった。
ウィルソンは1916年の大統領選挙でカリフォルニア州反日本人運動を煽る組織の支援を受けていた。
女婿のウィリアム・マカドゥー(財務長官)も人種差別主義者だった。
造幣局に人種隔離政策を導入し白人種と黒人種の差別を首都ワシントンに初めて持ち込んだ男だった。
似非人道主義者のウィルソンが、国是に背いてヨーロッパの紛争に介入した。
恣意的に適用された民族自決原則に基づいて国境の線引きがなされた。
それがヴェルサイユ体制だった。
第一次大戦の戦後処理に恨みを抱えたドイツ国民は、ヒトラー政権を誕生させた。
ヒトラーは天才的とも言える演説の才で、民主主義制度を通じて国家権力を握った。
彼は権力奪取以前からその著書「我が闘争」の中で、ドイツは東方を目指すべきだと訴えていた。
ドイツ民族の「生存圏」拡大を訴えた。一方で、同族(チュートン族)のイギリスとは干戈を交える気はないことを繰り返し述べていた。
軍事力、特に機甲部隊と空軍力を増強したナチスドイツは、実際、東方に向かった。ドイツ系住民の多いズデーテン地方を手始めに、
東方進出の障害となるチェコスロバキアを併合(1939年3月)した。次の狙いは自由都市ダンツィヒの回復だった。
この港町の90%以上がドイツ系住民であったがポーランドの保護下にあり、ドイツからのアクセスはポーランド領(ポーランド回廊)で遮断されていた。
ヴェルサイユ体制の不正義の象徴だった。
ヒトラーは、ダンツィヒとそこに至るアクセス権を何としても回復したかった。
ダンツィヒの回復は、ヴェルサイユ体制への恨み解消の総仕上げであった。
ポーランドはその軍事力に鑑みればどこかでドイツと外交的妥協をすべきであった。
歴史的に見ても、ダンツィヒ割譲は不明瞭ではなかった。
ソビエトポーランドにとってドイツ以上に危険であった。
従って、ドイツとの外交的妥協はむしろ賢明な策だと見る識者は多かった。
例えばハミルトンフイッシュ下院議員(共和党)がそうである。
しかしポーランドはその道を模索せずドイツの要求をことごとくはね付けた。
イギリス(とフランス)がポーランドに独立保障を与えたからであった(1939年3月)。
イギリスのチェンバレン首相は従来から、ドイツ以上にソビエトが危険だと認識していた。
その彼がポーランドに独立保障を与える世紀の愚策をとってしまった(フーバー元大統領「裏切られた自由」)。
この保障でポーランドが強気になるのは当然だった。
独ポ二国間交渉による外交的妥協が不可能になった。愚策の責任はもちろん、チェンバレン首相にある。
しかし、彼の対独外交を弱腰だと罵りチェンバレンにプレッシャーをかけ、道を誤らせたのはチャーチルらの対独強硬派であった。
ドイツに対するチェンバレンの「対独融和政策」は、裏を返せば「対ソ強硬政策」であった。
ドイツを共産主義西進の防波堤とする構想であり、それが正しいと考える知識人は少なくなかった。


(以下続く)

 

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本の紹介
渡辺惣樹著「アメリカの対日政策を読み解く」
[1606-20-976-6/23メルマガブログ転送世界史から見た日米関係]
後半

 

(私のコメント)
前回「1606-20-976-6/23メルマガブログ転送世界史から見た日米関係」で本の前半部分を紹介した。
日本が戦争に至る道について、日本の歴史家は日本人の犯した判断ミスを糾弾するが、当時の世界の状況についてはあまり深く言及しない。
ましてや外国の指導者たちを糾弾することは全くと言っていいくらいない。
例えばルーズベルトが日米戦争の開戦責任者だ、というような事実に触れた歴史家はいなかった。
居ても異端者扱いだった。
だが、この本の著者はそのことを根拠を示して書いている。
ルーズベルトがアメリカ大統領の不文律である二期8年で退陣していれば日米戦争は起きなかったし、共産主義が世界に蔓延することもなかった。
アメリカが共産主義を世界に広め、世界の半分以上の国を赤化することに手を貸したのだ。
そして自国の安全が?共産主義に脅かされようとして初めて共産主義が危険だ、と気がついた。
そして、一国だけで強大な共産主義国家と戦わなければならない羽目となった。

第二次世界大戦買い戦前当時、ルーズベルト以外の識者はドイツにソビエト共産党に対する防波堤の役目をさせるのがいいと考えていた。
日本も共産党との戦いをやっていたから、ルーズベルトはその両国を滅ぼし、ソビエト共産党とシナ共産党に世界を与えた元凶だったのだ。
アメリカはルーズベルトの後始末をいまだにやっている、と考えれば大半の世界史の流れは説明がつくだろう。
さて、この本はそういった世界の流れを書いた本なのだが、その時基本となる世界の当時の歴史の推移を要約して冒頭に書いている。
それが、歴史とその結果としての現在を知るうえで基礎知識として良いと思われるので紹介する。

前半部分について箇条書きで要約する
1.そもそもアメリカという国はモンロー主義と言ってヨーロッパ旧世界には干渉しない、というのが国是だった。
それが、ウィルソン大統領とルーズベルト大統領によって破られ、その後始末が今に至っている。
現在のヒラリー対トランプの大統領選挙もその後始末の範囲内なのだ。
このモンロー主義という歴史観を踏まえておけば今後も世界が分かってくるだろう。

2.日本が巻き込まれた日米戦争はヨーロッパの当時の情勢を把握しないと分からなくなる。
だが、ヨーロッパ情勢というのはいつの時代でも複雑で、簡単に言えないので苦労する。
日本の戦国時代が有史以来続いている、と考えたらいいだろう。
短く要約したいのだが、小生の頭ではなかなか難しくて、どうしても長くなってしまう。
それでも何とかやってみよう。

3.ヨーロッパで戦いが起きる特徴の1つはイギリスの動向だ。
イギリスはヨーロッパ大陸で強い国が勃興するのを嫌う。
そこでヨーロッパに強い国が生まれようとするとそれを叩く。
(今のEU離脱もそういう背景がある、ただし、メインは移民問題だ。)
ところが、自国だけでは力が足りないのでアメリカを引っ張り込んで加勢させようとした。
それが第一次世界大戦第二次世界大戦の元になっている。
第一次大戦はウィルソン大統領、第二次大戦はルーズベルト大統領がイギリスに加担した。

4.第一次世界大戦後のドイツに対する戦後処理は非常に過酷なものだった。
そこでドイツ人はヒトラー政権を誕生させて何とか失地回復を図ろうとした。
(これはこの本の要約から外れる話なのだが、ヒトラー政権は民主的な方法で選ばれたドイツ人の総意に基づく政権だったのだ。
その後、戦争に負けてしまったので、悪いのは全てナチスドイツでありドイツ人では無い、という理屈で負けをごまかした。
この理屈の矛盾が、今だに尾を引いている。)
ヒトラーは基本戦略として米英とは戦わないで、東側つまりソビエトのほうに勢力を広げようとしていた。
そこで争点となったのはポーランドだった。
(余談だが、ヨーロッパは戦乱を繰り返してきたためモザイクのように各民族があちこちに固まって住んでいる。
「最後の授業」という小説がある。著者はドーデというフランス人だが、アルザスロレーヌ地方がドイツ領となったため、
フランス語の授業ができなくなった、という話だ。
1871年ころの話なのだが、この地方は本来は逆にドイツ人が住んでおりドイツ語圏だったのだ。
その後フランスに編入され、そしてまたドイツに戻る、という複雑な経過をたどっている。
このように各民族が複雑に入り混じって住んでいてこれが紛争の元になっている。
今のユーロを作って1つの国のようにまとめようとする動きは、そういう背景がある。
だが統合はうまくいかないだろう。理由は「王様的(神様的権威)なものがいない」からなのだが、説明は長くなるのでやめる。)

5.ポーランドダンツィヒというところは離れているのだが港町でドイツ人がたくさん住んでいた。
ヒトラーはそれを取り返そうとした。
ヒトラーの動きは第一次世界大戦の過酷な戦後処理を是正する動きだったので、他国を侵略するものではないから、是認されるべきものだった。
だがそれをポーランドは拒否した。
ポーランドは軍事的に全くドイツにはかなわないのだが、強気だった。
その強気の元はイギリスがバックアップしたからだ。
ところが、このイギリスのバックアップの背後にアメリカのルーズベルトがいたのだ。
イギリスは内緒でルーズベルトの介入を取り付けていたのだ。
それでなければイギリスも真っ正面からドイツと戦うことができなかった。

6.ここで重要なのは、ドイツに対する強硬策はソビエト共産党に対する融和策だった、ということだ。
ドイツが敗北する、という事は共産主義が勢力を増すということにつながる。
(現在ヒトラーは悪魔のように扱われているが、彼は共産主義の最大の敵だったのだ。
だから現在でもヒトラーを悪とする人と共産主義者やリベラル勢力は同じとは言わないまでも大体重なる。
とはいうものの今の時代にヒトラーを善しとする人もいないが。)
結局第二次世界大戦の勝利者はスターリンソビエトであり共産主義者だったのだ。
そしてそれをバックアップしたのがアメリカとルーズベルトだった。
そしてそのルーズベルトに巻き添えをくってキリスト教的ジェノサイドで滅ぼされたのが日本だったのだ。

(私のコメント終)

(引用開始)

ヒトラーは、ダンツィヒとそこに至るアクセス権を何としても回復したかった。
ダンツィヒの回復は、ヴェルサイユ体制への恨み解消の総仕上げであった。
ポーランドはその軍事力に鑑みればどこかでドイツと外交的妥協をすべきであった。
歴史的に見ても、ダンツィヒ割譲は不明瞭ではなかった。
ソビエトポーランドにとってドイツ以上に危険であった。
従って、ドイツとの外交的妥協はむしろ賢明な策だと見る識者は多かった。
例えばハミルトンフイッシュ下院議員(共和党)がそうである。
しかしポーランドはその道を模索せずドイツの要求をことごとくはね付けた。
イギリス(とフランス)がポーランドに独立保障を与えたからであった(1939年3月)。
イギリスのチェンバレン首相は従来から、ドイツ以上にソビエトが危険だと認識していた。
その彼がポーランドに独立保障を与える世紀の愚策をとってしまった(フーバー元大統領「裏切られた自由」)。
この保障でポーランドが強気になるのは当然だった。
独ポ二国間交渉による外交的妥協が不可能になった。愚策の責任はもちろん、チェンバレン首相にある。
しかし、彼の対独外交を弱腰だと罵りチェンバレンにプレッシャーをかけ、道を誤らせたのはチャーチルらの対独強硬派であった。
ドイツに対するチェンバレンの「対独融和政策」は、裏を返せば「対ソ強硬政策」であった。
ドイツを共産主義西進の防波堤とする構想であり、それが正しいと考える知識人は少なくなかった。


英国の安全保障に無関係なダンツィヒ問題へのイギリス介入にヒトラーは憤った。
彼らのちょっかい(介入)の裏に、ソビエトの存在を疑った。
その憂いを一掃させる妙手が独ソ不可侵条約(1939年8月23日)だった。
犬猿の敵とヒトラーは手を握った。
スターリンは条約締結の見返りにポーランド東部の領土化を要求していた。
チェンバレンの愚策が生んだ外交ドミノだった。
チェンバレンは戦後の史書ではその対独融和政策が非難されている。
しかし実はそれは賞賛されるべきであって、非難すべきは彼のポーランド独立保障である。
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻すると英仏が対独宣戦布告した(9月3日)
ソビエトも9月17日にポーランド東部に侵攻した。
ポーランドを侵略したソビエトはドイツと同罪であったが、英仏は対ソ宣戦布告しなかった。
アメリカ国民は、イギリスがその安全保障に何の関係もないダンツィヒ問題でなぜ対独宣戦布告をしたか理解できなかった。
ベルサイユ体制の不誠実さは既に多くの歴史家が指摘していた。
アメリカの若者は犬死したと考える世論が主流となっていた。
アメリカ国民の80%以上がヨーロッパ紛争不介入の立場をとった。
ウィルソンの失敗に懲りていた。
1940年6月にはフランスが降伏した。
7月からは英国上空で航空戦が始まり、ロンドンなどの主要都市が爆撃された。
それでも米国世論は動かなかった。
1940年11月には大統領選挙があった。
ルーズベルトは最長2期8年の不文律を破って再選を目指した。
選挙戦ではルーズベルトもヨーロッパ紛争非介入を公約にせざるを得なかった。
そして3選を果たしたが、機械に有能世論と自らの公約の前に身動きが取れなくなっていた。
世論を変えるにはドラスティックな事件が必要だった。
ルーズベルトの足かせだったアメリカ世論を一気に変える事件が起きた。
日本の真珠湾攻撃である。
アメリカ国民の目は現在進行形のヨーロッパの戦争に釘付けだった。
ルーズベルト政権が、日本の息の根を止める外交を繰り広げていることなどを知りもしなかった。
日本の対中外交を変えさせる日米二国間交渉は進んでいることは知っていたが、中国問題はアメリカの安全保障に何の関係もない。
対日経済制裁も石油全面禁輸にも関心がなかった。
日本の石油輸入の90%がアメリカ産で、それを止められた日本が自暴自棄になることなどに想いも至らなかった。
真珠湾攻撃で、アメリカ国民は後頭部から突然殴られたように感じた。
卑怯な騙し討ちだった。
今では、真珠湾攻撃前の経済制裁は戦争行為そのものだった事はアメリカ軍関係者の常識になっている。
ルーズベルト政権中枢には多数のソビエトのスパイや容共的官僚が潜入していた。
そのことは、フーバー元大統領の著作や「ヴェノナ文書」で明らかだ。
極東方面では日本の圧力から解放されたかったスターリンは日米の対決を欲した。
政権に潜り込んでいた容共派官僚がその意を汲んで行動していた。
ルーズベルトの容共外交はソビエト大国大国に変貌させ、世界各地に共産主義思想を拡散させた。
戦前のドイツはアメリカの安全保障には何の影響もなかったが、戦後のソビエトの世界革命思想はアメリカの安全保障に直結した。
アメリカは自らの創造した怪物ソビエトと新たな戦いを始めなくてはならなくなった。
ソビエト拡張、共産主義思想の防波堤となっていた2つの強国日本とドイツはアメリカ自身で破壊した。
朝鮮戦争ベトナム戦争共産主義者との戦いだったが、実質アメリカ一国で戦わざるをえなくなった。
ソビエトを怪物にしたのはルーズベルトだった。
若者を共産主義国との戦いの場に送り出さざるを得ない時に、政権要路は、その敵の”育ての親”が自国の大統領であったとはとても言えない。
「ヨーロッパと極東の戦いは局地戦だった。アメリカが参戦せず、何らかの外交的仲介役を果たしていれば世界大戦にならなかった」
とする歴史解釈は、ソビエトの現実の対決を前にしてタブーとなった。
戦後、共産主義思想は世界に伝播した。
拡散を防ぐためにアメリカは世界の警察官にならざるを得なくなった。
世界の警察官外交がアメリカ国民の常識になってしまったのである。
モンロー主義は消えてしまった。
そして21世紀の今日、冒頭に書いたように世界の警察官外交は、共向いている。
世界を不安定にしている元凶がアメリカでは無いかと疑われ始めているのである。
これが私の近現代史の解釈である。
アメリカの対日政策の変遷もこの文脈上で読み解かなければならないと思っている。
日本の戦後の歴史教育の教えとは全く違っているが、多くの資料を読み込んだ結果、たどり着いた歴史観である。

 

(引用終了)