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(見出し)
岩田温メルマガ
From:
岩田温 mag2 0001648403

(私のコメント)

このメルマガは少し長いが面白いので要約せず全文載せます。
新潟に縁があるので郷土の英雄とまでは言えないかもしれないが、偉人であることは間違いない田中角栄がどんな人だったか、知っておきたい。
この人は毀誉褒貶すさまじいが、私は大変偉い人だと尊敬している。
ここでも書かれているが、戦後の混乱の中で世のため人のため、郷里の新潟の庶民のために働き業績を残した人だ。
一番私が偉いと思うのは民主主義というものを文字通り具現化したひとだ、ということだ。
民主主義政治体制ならこういうやり方が正しいやり方なのだ。
田中角栄を批判する人たちは民主主義でなく独裁主義が好きだ、といってもいい。
民主主義なら大衆の中に入り、大衆の支持を得なければならない。
それは泥沼をかき分けるよりも苦しい大変な作業なのだ。
でも、それをやって大衆の支持を得て始めて民主主義が成り立つ。
田中角栄の悪口を言う奴らはそういう大衆をポピュリズムと言ってバカにする。
彼らは頭の良い自分らの言うことを大衆庶民は黙って聞け、という態度で大衆に君臨し指導しようとする。
大衆は当然ソッポを向くがそれを大衆が悪い、と突き放す。
決して大衆の中に入っていこうとしない。
だから、民主主義でなく独裁志向なのだ。
民主主義なら田中角栄のような政治家が増えないといけないが、みんな利口者ばかりでいないのは残念だ。


(私のコメント終)
(見出し)
田中角栄と私

(引用開始)

【岩田温より】

 いつもお世話になっております。岩田温です。前回田中角栄について書きましたが、どうもうまく書ききれていないという中途半端な文章で、どうもすっきりしない気持ちになっており、
ひとつ、角栄論をまとめておこうという結論に至り、角栄論を執筆しました。
以前、「人身掌握は政治家に学べ」、「田中角栄について」執筆したものを併せ、大幅に加筆しました。私は田中角栄の政策には反対する点が多いのですが、彼が魅力的であったという事実を否定することは出来ないと思っています。自分自身が政治の現実を知るうえで、田中角栄に関する著作は非常に勉強になるものばかりでした。
現在、私自身は「リベラルな保守主義」を提唱していますが、寛容さを排除する硬直したイデオロギーと決別できたのは、先輩の指導に従って、田中角栄について学ぶことが出来たからだと感謝しています。

田中角栄と私
岩田 温
田中角栄との出会い

 昭和58年10月12日、東京地裁田中角栄に懲役四年の実刑判決が言い渡された。その2か月後の総選挙、新潟3区田中角栄は22万761票という驚異的な大量票で当選を決めた。当時、選挙制度中選挙区制度だ。一つの選挙区に複数の当選者が存在した。角栄の出馬した新潟三区にも、自民党から複数の候補者が立候補していた。当選者は五人で、その中の四名が自民党の政治家だった。田中角栄が22万票獲得したこの選挙で、他の当選者の得票数は全て四万票台だった。田中角栄の獲得した22万票がいかに驚異的な得票数だったかが、わかるだろう。
私事にわたり恐縮だが、私はこの昭和58年の九月に生を享けた。当然、田中角栄の記憶はなく、私にとって田中角栄とは本や映像の中でのみ知りうる歴史上の人物ということになる。
 我々の世代にとって、田中角栄といえば、金権政治の象徴のような人物で、私は殆ど興味を持てなかった。自民党政治の腐敗の元凶こそが田中角栄であり、功罪相半ばする自民党政治の恥ずべき暗部という印象しかなかった。だから、私は積極的に田中角栄から学ぼうという気持ちになれなかった。
 そんな私が田中角栄に興味を持ったのは、ある先輩との出会いからだ。先輩といっても、親子ほど年の差のある大先輩だ。
 大学生だったか大学院生の頃だったか、判然としないのだが、今から10年ほど前に、静岡県のある勉強会に講師として招かれた。その講演会で司会を務めていたのが早稲田大学法学部出身の中小企業の社長だった。講演会では「岩田先生」、「岩田先生」と持ち上げてくれたが、二次会では「岩田君」、あるいは「岩田」と呼びながら、色々な苦労話をしてくれた。
 
 「政治は、大企業ばっかりみているが、中小企業がこの国を支えてるんだ。大企業なんて入れるのは本当に極少数のエリートだけ。中小企業が元気にならなければ、日本は元気にならない」
 「中小企業の社長は辛いぞ。社員を食わせてかなくちゃいけない。しかも、その家族まで食わせていかなくちゃならん。もし、経営判断間違えてみろ。みんな、路頭に迷うんだ。

 中小企業の社長の悲哀について語ることが多かったが、その夜、私に厳しい指摘をしてくれたことが心に残ってる。

「岩田君の話は、殆ど、賛成だけど、難しすぎる。憲法大東亜戦争保守主義も、普通の人には難しいんだ。
『普通の人』っていったときに、岩田君は自分の友達を想定するだろう。早稲田や慶応の。それがインテリの悪い癖なんだ。
それは『普通の人』じゃない。中小企業で働いてるおじさん、パートに出てるおばさんが、普通の人なんだ。大学なんかいってないし、本なんて読まない。
新聞も社説を読むのは難しい。それが普通の人なんだ。こういう人たちが殆どだ。岩田君の話を理解できるのは、田舎の中学校で言えば、クラスで3番までだ。あとの40人には何を言ってるかすら、わからない。辛い仕事を終えて、ビールを飲んで、子供の顔を眺めながら四方山話をして、好きな野球チームの勝敗に一喜一憂する。国家の理念も理想もない。生きることで必死なのが普通の人だ。こういう連中が一票持ってるのが民主主義なんだ」
 確かに指摘された通りなのだが、それでは学問は成り立たないではないか、と反論すると、先輩は問いかけてきた。
田中角栄、どう思う?」
 私は、正直に、そんなに興味がないと答えると先輩はつづけた。
「そうだろう。だから、未熟なんだ。多くの国民が角さん、角さんと慕う理由を考えたことあるか。まずは、田中角栄について勉強しろ」
 先輩の話も一理あると納得する部分もあったし、そこまでいうなら、次回は田中角栄論でも戦わせてやろうと考えて、その日以来、田中角栄に関する本を本格的に読み始めた。

早坂茂三、最大の功績

 世の中には驚くほど多くの角栄論があったが、一番興味深かったのは、やはり実際に田中角栄の懐刀として仕えた早坂茂三角栄論だった。もちろん、側近であった早坂が書くのだから、角栄を美化している部分も多いだろうし、負の側面については触れていないものも多いだろう。それは当然だ。
 だが、私は田中角栄の金権政治を断罪しようと本を読み始めたのではなく、何故、多くの国民が田中角栄を好きだったのかを考察しようとしていたので、俗にいう「金権政治」の部分に関してはそれほど神経質にならずに読み進めた。
 多くの国民が、田中角栄のことを愛したのは、庶民の心、弱者の心を読み解く天才だったからに他ならない。角栄は高尚な政治思想や政治理念を持った政治家というよりも、庶民の「生活」を重視し、一人一人の顔を立てる天才だった。イデオロギー固定観念に囚われない政治家であった。
 こうした田中角栄の魅力を余すことなく伝えているのが、早坂茂三著作群だ。決して学術的ではないし、同様の記述の繰り返しも多いが、一つ一つの文章に迫力がこもっており、角栄の魅力が生々しく伝わってくる。
 早坂茂三は、秘書として田中角栄を支えた人物で、有能な秘書であったことは間違いなかろう。だが、今にして思えば、早坂の本当の業績は他にあったというべきであろう。早坂は、角栄が病に倒れた後、治療方法を巡って、角栄の娘、真紀子と対立し、角栄の死後、追放された。早坂は、自分自身の事務所を開設し、全国を講演し、多くの著作を残した。その講演、著作の多くが角栄の魅力、壮絶な生き様を伝えるものだった。庶民の英雄ともいうべき角栄の魅力を伝える優れた著作を遺したことこそが、早坂茂三の最大の功績だろう。
多くの政治家が多少なりとも、人心掌握の技術を駆使して、選挙という修羅場生き残り、総理大臣へと続く出世街道を歩み続けるのだが、政治家の人身掌握に関する技術についての記述は極めて稀だ。
 政治家自身は殆どそういう細かな人身掌握術を語らない。確かに、自分自身で「こうして人の心を掴んでいます」など書くのはみっともないし、そんなことを書いてしまっては、せっかくの挨拶、お辞儀も「どうせ、人心掌握のためにやってるんだろう」と勘繰られてしまう。従って、政治家は自分自身の人心掌握術については固く口を閉ざしている場合が多い。
 実際に、政治家が書いた本を並べてみれば、そうした人心掌握術にふれた本など殆どないことに気が付く。政治家の本の中で多いのが、自らの政策、政治観、国家観などをまとめた著作である。
 例えば、田中角栄の『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)や小沢一郎の『日本改造計画』(講談社)がそれにあたる。これらの著作では、日本がどうあるべきかが正面から語られている。こうした著作ら見えてくるのは、政治家の表の顔だ。政治家の実現すべき目標が正面から語られている本だといってよいだろう。こうした本には選挙に勝ち抜くための人心掌握術など一切書かれていない。そうした「裏の顔」は封印されている。
他に多いのが、引退した大物政治家の回顧録の類である。例えば、中曽根康弘の『自省録』(新潮社)、『政治と人生』(講談社)、岸信介の『岸信介回顧録』(広済堂出版)のような著作である。こうした著作では、自分自身が立身出世していく過程も描かれるが、叙述の中心に据え置かれるのは、自分自身が総理大臣としていかなる活躍をしたのか、如何なる情勢判断、思想に基づいて、厳しい政治的決断を下したのか、といった内容だ。こうした回顧録の類では、自分自身の業績を再確認する部分や他の政治家の月旦評が叙述の多くを占めている。
 そして、こうした回顧録でも、人心掌握術のような下世話な話は殆ど語られることがない。
 世の政治家たちが、空気を吸うのと同様に、ごく自然に使っている人心掌握術は、ほとんどの場合、政治家自身によっては語られることがない。多くの政治家たちが、自らの人心掌握術、人間の心の掴み方を墓場の中にまで持ち込んでしまう。
 人の心を掴まえて、離すことがない田中角栄の人心掌握術が書物に記されたのは、まさに早坂茂三の業績といわねばならない。

青年革命家

 そもそも、田中角栄早坂茂三の関係が興味深い。これほど濃密で、かつ、清々しい政治家と秘書との関係は類例を見ないのではないだろうか。こういう秘書を抱えていたという一事を以てしても田中角栄の魅力が伝わってくるといってよい。
 早坂茂三田中角栄の秘書に就任するのは、田中角栄が大蔵大臣を務めていたときだ。早坂は『東京タイムズ』という小さな新聞社に努める新聞記者だった。当時、『東京タイムズ』の名前は殆ど知られていなかった。早坂が記者として自己紹介すると、必ず会社の名前を何度も確認され、肝心の要件を聞き出すまでにお互いにくたびれてしまうほど、小さな無名の新聞社だった。
 早稲田大学政経学部出身の早坂が、こうした小さな新聞社に就職したのには理由がある。彼は大学時代、共産党の過激な活動家として学生運動にのめりこんでいたのだ。
 軍国少年だった早坂少年の夢を打ち砕いたのは、日本の敗戦だった。価値観が転倒した。昨日まで天皇陛下の為に死ぬことが国民の責務だと熱弁をふるっていた教師たちが、一夜にして転向した。これからは民主主義の時代だと熱弁をふるったのだ。多くの少年たちと同様に早坂少年は大人たちに不信の念を抱く。
 早稲田大学に入ると、早速、民主主義科学者協会に入る。学生をオルグしていると先輩に呼び出され、共産党に入党。以後、共産党の活動家として、米軍の撤退、吉田内閣の打倒を目指して、学生運動に汗を流す。だが、多くの国民は日々の生活に忙しく、学生弁士の熱弁に心動かされることはなかった。「アメリカ占領軍は日本から出て行け!」、「吉田内閣打倒!」の絶叫は人々を動かさなかったのだ。
 絶叫が人々を動かさないことを知った共産党は、直接的な武装路線へと傾斜していく。
 日本共産党の元党員で、日本共産党史について研究した兵本達吉は、『日本共産党の戦後秘史』において、当時の共産党の武装路線について次のように総括している。

「その闘争の実態をかみ砕いて言えば、交番に火炎びんを投げ込んだり、警察官を殺害したり、水滸伝の山賊よろしく、『山村工作隊』と称して山に立て篭ったり、漁師の船をかっぱらって『人民艦隊』と称したり、地主を襲って金品を強奪したり、『トラック部隊』と称して、会社財産の盗奪をはかったり、要するに、共産党の非合法活動の時代、テロと暴力革命に専念していた犯罪的愚行の時代である」(兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』産経新聞社、 78頁)
 
 現在の目から見れば、あまりに過激で凶暴な方法だが、これは末端の不満分子が突発的に起こしたテロ行為ではなかった。日本共産党の指示で行われた「軍事作戦」なのである。
 当時の共産党の路線を知るためには、1951年にスターリンの指導下で作成された「日本共産党の当面の要求-新しい綱領」、通称51年綱領を一読しておく必要がある。
 綱領の基本的な時代認識は、米国の帝国主義が日本人民を搾取しており、その搾取を代行して行っているのが吉田内閣だ、というものだ。
 綱領では次のように、アメリカ、吉田内閣を否定している。
アメリカ帝国主義者が、われわれにもたらしたものは圧迫と奴隷化だけではない。彼らは占領制度を利用して、日本国民を搾取し、わが国から利益を搾りとっている。」

「吉田政府は、占領当局の圧制的な略奪的な本質を、かくすためのツイタテである。」

「吉田政府は、アメリカ帝国主義者による日本の民族的奴隷化のための政府である。」

 従って、アメリカの不当な搾取を止めさせるための方策として、まずは吉田内閣の打倒が目指されるべきだと綱領は続けている。

「日本の民族解放をたたかいとるためには、何よりもまず、吉田「自由党」反動政府を打倒し、そのかわりに新しい国民政府を樹立しなければならない。」

 要するに、日本国民から搾取するアメリカの隠れ蓑となっている吉田内閣を打倒し、新たな政権の樹立が必要だと叫んでいるのだ。ここまでは、賛否はともかく、一つの意見として、その意見それ自身が否定されるべきものではなかろう。だが、問題となってくるのが、この新たな政権の樹立の仕方、すなわち、政権奪取の方法論なのである。
 綱領は、次のように説く

「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生れると考えたり、あるいは、反動的な吉田攻府が、
新しい民主政府にじぶんの地位を譲るために、抵抗しないで、みずから進んで政権を投げだすと考えるのは、重大な誤りである。
このような予想は、根本的な誤りである。反対に、吉田政府はじぶんの権力を固守し、占領を存続させるため、かつ、国民をいつまでも奴隷状態にとどめておくために、全力をあげてたたかうであろう。そのために、吉田政府は警察と軍隊を持ち、占領当局の援助をうけ、地主、巨大資本家、さらに天皇とその周囲のものの援助をうける。」

 新政権を樹立しようと望んでいるだけでは、新政権は樹立できない。それは当然だ。だが、如何なる行動によって、新政権が樹立されるのか。綱領では「平和的な方法」を否定する。吉田内閣が自分たちの地位を守ろうと妥協してくることなど、一切、想定できず、むしろ、占領当局、地主、巨大資本、天皇の援助を受けながら、警察と軍隊で、新政権樹立の動きを抑圧しようとするだろうというのだ。
 では、新政権を樹立するためには、何をなすべきなのか。
 綱領は説く。

「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのはまちがいである。
 労働者と農民の生活を、根本的に改善し、また、日本を奴隷の状態から解放し、国民を窮乏の状態から救うためには、反動勢力にたいし、吉田政府にたいし、国民の真剣な革命的斗争を組織しなければならない。」

 「平和な手段」で「日本の解放と民主的変革」は実行できない。従って、「国民の真剣な革命斗争」を組織的に仕掛けることによってのみ、「日本の解放と民主的変革」が実現するというのである。
 こうした共産党本部の指示に従って、共産党員はそれぞれ武装闘争を試みる。その暴力革命の指南書として『球根栽培法』、『新しいビタミン療法』などと題した秘密文書を発行した。
 青年・早坂茂三も、共産党の指示に従って、暴力革命の成就を夢見て、過激な行動に身を挺した。
そんな早坂が共産党を離党することになるのは、高熱で魘されていた際、母から手紙が届いたからだった。体をいたわるよう切々と文章が綴られていたが、手紙の最後に「私はお前を信じています」との言葉があった。子を想う母親の言葉にほだされ、早坂は過激武装路線を取る共産党を離党する。だが、彼は共産主義思想を否定したわけではない。あくまで共産党という政党を離れただけだった。
 当時、過激な学生運動にのめり込んだ人間を採用してくれる大手の新聞社はなかった。『読売新聞』の就職試験では、面接の当日に下宿屋に読売新聞の社員が押し掛けた。面接に出かけている早坂が帰る前に、部屋を調べていたのだ。当時、早坂は日本共産党の軍事闘争方針の記された『球根栽培法』を所持していた。この共産党の極秘文書の所持が、『読売新聞』にばれてしまうのだ。案の定、読売新聞からは、不合格の速達が届くことになる。
 学生運動にのめりこんだ早坂を拾ってくれたのが、『東京タイムズ』の社長、岡村二一だった。記者となった早坂は永田町界隈を文字通り、東奔西走した。
 若き政治記者早坂茂三は、ある出来事を契機として若き実力者田中角栄と出会うのだが、二人の邂逅が実に興味深い。両者の性格が見事に反映された出会いだったといってよいだろう。
 アメリカのロバート・ケネディ司法長官が来日した際、六本木の国際文化会館田中角栄中曽根康弘江崎真澄石田博英宮沢喜一山中貞則
自民党の中堅の国会議員たちが、ケネディと非公式に会談した。この席でケネディが日本の防衛力強化について言及すると、田中角栄が吠えた。
良くも悪くも日本国憲法第九条は日本国民に定着しており、これを根底から変えようとするならば、内閣が倒れるような事態になりかねない。仮に日本の防衛力の増強をアメリカが望むのならば、アメリカが日本国憲法の成立過程について説明すべきだと力説し、次のように提案した。
「沖縄の本土並みの返還の前提条件として、わが国の憲法改正再軍備問題をアメリカが日本側に提起してはどうか」(田中角栄 回想録 20)
 『東京タイムズ』の記者として、早坂はこの田中発言を掴み、同席した代議士に発言を確認して、記事にした。田中発言は「問題発言」として、朝刊の第一面に大スクープとして掲載され、大きな反響を呼んだ。衆議院予算委員会でも、社会党の小松幹議員が田中発言に関して池田総理を追及した。
 小さな新聞社ではありながらも、自分自身の鉛筆一つで日本の政治を動かしたのだ、と、早坂は意気軒昂としていた。気分の高揚した早坂は田中角栄に自分自身が記事を書いたと伝えようと、門前払いされる覚悟で田中邸に乗り込んだ。難なく田中邸に入り込み、応接室で待っていると着流し姿で角栄が登場した。「あ、きみか。きみなら顔を知っている」といった角栄に早坂が事の経緯を説明すると、角栄は言った。
「まァ、いいじゃないか。政治家は書かれるのが商売だ。こんどは君の勝ちだ。しかし、心配するナ。騒ぎは、じきに片づく。野党にオレの首はとれない。それにしても、よくきてくれた。これからもちょいちょい遊びにこい」(回想録 21)
 政治的に痛手を負わせた若い記者に対して、角栄は鷹揚に振舞った。このとき早坂は田中角栄の器の大きさに感銘を受ける。
 これ以降、早坂は田中邸に足繁く通うことになる。
 そんな早坂に田中角栄は白羽の矢を立てる。
  昭和三十八年十二月二日。角栄は早坂を大蔵大臣室に呼び出して、口説き始めた。

「オレは十年後に天下を盗る。お互いに一生は一回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。オレは越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部、読んだ。それは構わない。オレは君を使いこなせる。どうだ。天下を盗ろうじゃないか。一生に一度の大博打だが、負けて、もともとだ。首まではとられない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三『鈍牛にも角がある』光文社、一〇五~一〇六頁)

 角栄は、自分自身を政治的に攻撃した記者が共産党にかぶれたことを知らなかったのではない。
そうしたことは全て調査済みである。だが、それでも早坂を使いたいというのが角栄なのだ。
自分に刃向かった人間は全て許さないというのではなく、自分に刃向かった優秀な人間は仲間にしてしまおうというのが角栄の発想だった。しかも、口説き文句が、「天下盗り」である。角栄一流の口説き方といってよいだろう。結局、早坂は『東京タイムズ』を退社し、角栄と共に天下盗りを目指すことになる。三二歳のこの日から、角栄が倒れ、田中ファミリーに解雇される五五歳まで、早坂は角栄を支え続けることになる。
 学生時代に共産党に入党し、活動していた早坂が癖のある人物であったのは間違いないだろう。後年、早坂が飛行機に搭乗した際には、有名な事件を起こしている。離陸の際に、早坂がリクライニングを倒したままにしていると、早坂は添乗員からリクライニングを直すように注意を受けた。激怒した早坂と添乗員との間で口論が生じ、飛行機の出発が四十二分も遅れることになった。短気は損気。分かっていても一言言わずにいられない早坂の性分が滲み出たエピソードである。
これだけ癖のある人物が惚れ込み、一途に仕え続けたのが田中角栄なのである。

早坂が記した角栄の逸話 

 早坂の著作から、角栄の魅力を伝える幾つかの象徴的な逸話を引用しておきたい。実際に角栄の謦咳に接することのなかった私としては、早坂の筆による角栄像が、最も強烈で魅力的な角栄だ。
 選挙の際に、全国の候補者に現金を配るときの心構えについての指導からみてみよう。
 良くも悪くも田中角栄は金権政治の申し子だ。本稿ではその善悪を問わない。金権政治を是とするつもりは毛頭ないが、ここでは、角栄の他者の心の掴み方だけに注目しておきたい。
 ある選挙の際に、田中は早坂に現金の配達人として全国を飛び回るように命じた。田中は金の配る前に、金を受け取る側の辛い、切ない気持ちについて触れる。

「お前がこれから会う相手は、大半が善人だ。こういう連中が、一番つらい、切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取る、もらうときだ」
 余程の鉄面皮ならいざ知らず、多くの人は、他人から借金をするとき、援助を受ける際に、恥ずかしい気持ち、何ともいえぬ切ない気持ちになるだろう。角栄は、こういう人の心の動きを見逃さない。弱気になった人に居丈高な態度をとれば、終生恨まれることになるだろう。金を出して、恨みを買うほど愚かなことはない。
 角栄は続ける。

「だから、この金は、心して渡せ。ほら、くれてやる。ポン。なんていう気持ちが、お前に露かけらほどもあれば、相手もすぐわかる。それでは百万円の金を渡しても、一銭の値打もない。届けるお前が土下座しろ」

 金を支払う部下に土下座をさせる男、それが田中角栄だった。
 「丁寧な気持ちで渡せ」では、まだ心の配り方が足りないということだろう。どんなにこちらが丁寧な口調で話そうとも、所詮、金を渡す側と渡される側だ。渡される側が引け目を感ずるだろう。引け目を感じた人間は、その場では、角栄に感謝の念を表するだろうが、実際には面従腹背という事態に陥らないとも限らない。だから、金を渡す相手に全く引け目を感じさせてはならないというのだ。
 金を受け取る側に全く引け目を感じさせない方法、それが、金を渡す側が土下座するという方法だった。小さな誇りを大切にしながら生きる庶民の気持ちの深い部分を理解した角栄ならではの指導と思わざるをえない。
 角栄が名もなき庶民を大切にしたという逸話は事欠かない。
 田中角栄は目白の田中御殿で地元の人々を暖かく迎え入れた。
 やあ、やあ、と挨拶して回り、突然、小汚い恰好をした老婆に声をかける。
「おい。そこのトメさん」
びっくりした婆さんが立ち上がる
「オヤジはまだ、抱いてくれるか」
部屋中がわっと明るくなる。婆さんが顔を赤くしていると角栄は続ける。
「それはよかった。いつまでもかわいがってもらえ。ところで、でかさない倅は、どうしてる」
「先生、このあいだ一万円を送ってきた」
「それはよかった。バカはおだててやれ。一万円が二万円になるぞ」

場の雰囲気を大事にしながら、普段注目もされることのない一人の老婆を励ます。
 早坂は次のように書いている。

「人は誰でも、平和に、しあわせに暮らしたい。つつましくていいから、毎日、家じゅう、明るく過ごしたい。そう思っている。人に迷惑をかけたくない。人からバカにされたくない。できれば、一生に一度、晴れがましい思いをしてみたい。トメ婆さんは、そうした気持ちでいた。その溢れるばかりの思いを、角栄は知っていたのである。」」(駕籠 59ページ)

 あるとき、角栄の事務所に名もなき老婆が訪れてきた。角栄をみるなり、老婆は「おいっ角!」という。一国の総理を務めた政治家に向って、名もなき老婆が怒鳴りつけた形だ。周りの人々は驚いたが、角栄は「なんだい、ばっちゃん」と応じた。
 老婆は続けた。
「おらんとこの馬鹿息子が性悪女に騙されて家をおん出てしまった。うちじゃあ、かかあとガキがピッコラピッコラ泣いて騒いでいる。お前、警察の親方に頼んでおらの倅をめっけて、家に連れ戻してくれ」
 側で見ていた早坂は腹を立てていた。わざわざ総理を務めた政治家が請合うほどの仕事ではないからだ。だが、角栄は警察庁長官に電話をかけ、名前、住所を伝えて、探してほしいと頼み込んだ。
 用件が済み、気分よく老婆が席を立つと、角栄はわざわざ玄関まで送り、履物を見つけて足元に揃え、老婆の足元がよろけたら、肩まで貸したという。
 イライラしていた早坂が「どうしてこの忙しいときに、あんな人の相手までしなきゃいけないんですか」と聞くと、角栄は「阿呆っ!」と一喝した。
 誰も頼る人がない庶民がわざわざ角栄を頼ってきた。角栄が電話をしても事態が収拾するかどうかはわからない。しかし、藁にもすがる思いで上京している。こういう庶民を無碍に扱うわけにはいかない。話を聞いて、玄関まで送って、下駄まで履かせれば、老婆は頼まなくても、角栄の宣伝をして歩くに決まっている。庶民のことを大切にして、悪いことなど何もないというのが角栄の発想だった。計算がないわけではない。だが、心の温かさを加持させる。愛情と計算が同時に存在するのが田中角栄の魅力なのだ。(早坂茂三『政治家は悪党に限る』)

角栄の人生訓

 角栄は部下への指示は、極めて具体的だった。
 例えば、角栄に対する報告の仕方は、我々にも非常に参考になる。

 「角栄は私に対してオレに言うことがあれば、初めに結論を言えと命じた。そして、理由は三つに限定しろ。それは口で言うな。口で言っても、ほかに仕事が多いから忘れる。メモしろ。便箋用紙一枚に大きめの字で書け。」(『捨てる神に拾う神』詳伝社 57頁)
 
 ここまで具体的に指示をされれば、指示された方としては、この指示を受け入れるか、受け入れないかの二つの選択しか残されていない。曖昧さがまるでない単刀直入な指示こそが指導者の指示として相応しい。
 他にも、角栄は日本社会で生き延び、出世する方法を早坂に伝授している。

「頂上を極めるためには敵を減らすことだ」(履歴書 28)
 好き嫌いを言わずに敵を減らすこと。それが日本政治の王道だという。
 ドイツの法学者カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中で、政治の本質を「敵」、「味方」の区別にあると指摘したが、角栄は、とにかく「敵」を減らすべきだと説いた。「友」を増やすことは困難かもしれないが、「敵」を減らすことは可能だという判断だろう。「友」でも「敵」でもない広大な中間地帯を作っておこうというのが角栄の戦略だった。
 他にも具体的な処世術を述べている。

「他人のために汗を流せ。頼まれごとはキチンと始末しろ。結果をすぐに求めるな。俺たちはまだ若い。損して得を取れ。手柄は先輩や仲間に譲ることだ。いつも手柄欲しさに走り回っていれば、人間が小さくなる。」
早坂茂三『男たちの履歴書』クレスト社 28頁)

「約束したら実効せよ。安請合いはするな。身に余る依頼ごとは引き受けるな。相手が迷惑するし、こっちも信用を失う。できない理由を丁寧に説明して、お断り申し上げろ」(同上)

説明不要。正論というものだろう。

角栄の選挙戦術

 角栄は選挙に関しても、数多くの助言を残している。
初めて新潟三区の選挙応援に入る際、早坂には次のような演説指導をしたという。

「ウソをつくな。すぐばれる。気が利いたことを言おうとするな。後が続かない。若い君が本当に思っていることを話せ。自分の言葉で喋りなさい。借りものは駄目だ。大声を出し、汗まみれでやれ。お百姓衆を侮って手抜きをするな。火の玉になることだ。それで他人様が燃えてくれる。小理屈で人間は動かない」(『鈍牛にも角がある』光文社、145頁) 
 
「小理屈で人間は動かない」。
 人間を動かすのは理性ではなく、情熱であり、飾らない姿勢だということだろう。だから、どんな若者が政治家になりたい、といってきても、角栄のアドバイスは同じようなものだったという。

「選挙に僥倖などはあり得ない。流した汗と、振り絞った知恵の結果だけが出る。商売と同じことだ。山の果てを望んでも援軍来らず。自分でやるしかない。その覚悟なしに、政治などという大それた仕事に黄色いクチバシを入れないでくれ。世の中が混乱する─。」(駕籠 52)
「公民館や集会所で初めて演説会を開いても、五、六人、来てくれたら上出来だ。そこでキミの信念、考えを訴えなさい。客が少ないからといって手抜きをしたらダメだ。汗みどろになって一時間、真剣にやれ」(駕籠 51)

「雨が降っても、風が吹いても、毎日、毎日、十ヵ所から十五ヵ所、町や村の辻に立って演説をすることだ。十分か十五分でもいい。初めは誰も聞いてくれないさ。みんな、忙しい。しかし、三ヶ月の間、辛抱して続ければ、そのうち、立ち止まって聞いてくれる人も出てくる。そうしたら、みんなと握手して、名刺を渡しなさい」(駕籠51-52)

 私は選挙に出馬したことはないが、選挙の応援演説をしたことがある。大学の講義や市民を相手の講演会とは異なり、殆ど、誰も聞いてくれない。
話しているほうが虚しくなるような演説だ。駅前で声を張り上げても、多くの人は見向きもしないで通り過ぎていく。大学であれば、話を聞かない学生を一喝すればよいし、講演会であれば、自分で話すのをやめてしまえばいいだろう。
だが、選挙の際の応援演説は、そうはいかない。怒鳴ったり騒いだりすれば、応援している政治家の顔を潰すことになる。だから馬耳東風とばかりに通り過ぎていく群集に向って、とにかく心を込めて話し続ける。
 一体、こんな演説に意味があるのか、と思うのだが、選挙の際には、こういう演説には効果があるようだ。
以前、千葉県のある地方都市の選挙の応援に入ったときの実話を記しておきたい。
その都市では、日中、駅の周辺に人が殆どいない。車で移動する人が多いからだ。だから、選挙も駅の周辺で話しても人がいない。こういうときには、駅前ではなく、多くの車が往来する国道の十字路で演説をした方が効果的だ。
十字路に立って、赤信号で待っている車に向って、延々と話し続けるのだ。本当に意味があるのか、本当に聞いている人はいるのか、極めて疑問だったが、その日の晩、以前大学で教えたことのある教え子から連絡があった。国道で私が一生懸命、まさに汗だらけになって、演説している姿を見かけて、感動したという連絡だった。彼は車に乗って通り過ぎていったので、私は彼の車が通ったことにも気づかなかったのだが、彼のほうでは、痛く感激してくれていた様子だった。
 全くの偶然なのだが、驚いた。思うに、多くの国民は、政治家や立候補者が何を主張しているのかには殆ど関心がないが、一生懸命話している姿そのものをみている。だから、殆ど人が聞いていないのだからと、気を抜いて話してみたり、小ばかにしたような態度で話していれば、即座に見抜かれる。角栄がいうように、人間は「小理屈」では動かない。その人自身の誠意、姿勢、態度から人間性を見抜こうとするのだ。
 色々な選挙の際に、応援している方々に、応援に駆けつけてきた動機を聞いてみると、実に興味深い。もちろん、労働組合宗教法人など、いわゆる「組織」の「動員」で派遣された人々もいるが、全くの個人で選挙応援に駆けつける人も多い。政治信条に共鳴するから応援に駆けつけたという人もいるが、多いのは「頑張っているから、応援してあげたい」という人も多い。政治信条や政策については、あまり興味はないが、あの候補者の人柄が好きだから、応援したいという人が多いのだ。
 つくづく思うのは、田中角栄という人物は「世知」に長けた人物であったということだ。全てが計算されているが、その計算は、「普通の人」を大切にしようとする暖かさから生まれた計算で、決して冷たい計算ではない。愛情と知性というものが、必ずしも相反する存在ではないということを証明したのが田中角栄の人心掌握術というものだろう。

学生運動に熱中する若者への優しい眼差し

 日本人、若い人々に対する愛情を感じさせる逸話も紹介しておこう。
 ある日、フランスの高級紙『ル・モンド』の極東総局長ロベール・ギランが、角栄とあっている際、自民党の党本部前を「アンポ、反対」の叫び声をあげながら、デモ行進する若者たちがいた。ロベール・ギランが、角栄に、その若者たちの評価を問うた際、角栄は次のように答えたという。

「彼らは日本の大事な息子たちです。いま、ハシカにかかっているが、間もなく直る。学窓を出て、社会人になり、世帯を持って、子どもができ、父親になれば、世の中が理想や理屈どおりにいかない、それがわかってくる。大学でろくに勉強もせず、マージャンだこを作り、女の子の尻を追いかけ、外車の名前ばかり覚えてくる者に比べて、連中のほうが、はるかにみこみがあります。バカとハサミは使いようである。使うほうさえ、しっかりしていれば、将来、あの学生たちは世の中の役に立つ」(『駕籠に乗る人 担ぐ人』138-139頁)

 愛情をもって一人ひとりに気を配りながら、「普通の人」の「生活」を第一にという政策を掲げたのが田中角栄だった。彼は決して日本の将来に悲観せず、若者に期待し続けた。
 イデオロギーに拘泥されず、融通無碍。魅力的な人物であったのは間違いないだろう。 私も先輩の強い指導で田中角栄について学び、大きく成長できたと感謝している。田中角栄を学んだことで、政治とは何か、という問題について、より考察を深めることができた。思想やイデオロギーではなく、「生活」を重視する姿勢を学んだことは大きかった。
 だが、そんな田中角栄にも、政治的理念があったことを看過すべきではない。それは「憲法改正」である。田中は、吉田茂再軍備せずに、経済成長に専念したことを高く評価しながらも、日本国憲法に関しては、違和感を持ち続けていた政治家の一人だった。
 角栄は指摘する。

「いずれにしてもね、憲法はどこの国のものでもなく、日本の憲法であるということだ。その成立に関しては、少しの疑義もあってはならんわけだ。国家に自由がないとき、主権お存在せざるときに憲法がつくれるものか。どうかね?そんなことは自明じゃないか。主権を拘束する力の存在するときにつくられた憲法は無効である、と。これがわたしが代議士になったころから先輩に教えられてきたことだ」『田中角栄回想録』集英社文庫、45頁

「今にして思えば、占領が終結して日本が独立を回復したときに、いまの憲法が是か非かを国民投票に付すべきであった。
とにかく、現行憲法について何かモヤモヤしていたり、国民の半数近くが憲法の成立過程に疑義を持っていたりするのはいけない。やっぱり時代の変遷に応じて変えなくてはいけないんだ。そしてね、自分の子供たちや孫たち、次代の国民が将来、長きにわたって国の基本法、最高法規として守っていけるものをつくるべきなんだ。…(略)…憲法のような大事なものは、国民すべてがいつでも議論できるよう、いつもちゃんとテーブルに置いておくべきなんだ」(『田中角栄回想録』集英社文庫、46頁)

 田中角栄は、人心掌握の天才であると同時に、憲法改正を説く政治家でもあったのだ。現在、田中角栄が注目されているが、憲法改正論者としての田中角栄は忘れ去られている。角栄の魅力、人心掌握術を学ぶことは、意義深いことであるのは間違いない。だが、あれほど融通無碍であった田中角栄が一貫した憲法改正論者であったことも忘れるべきではない。


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