読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

1608-21-1027-8/30本要約考えない練習1

本の紹介


(題名)
「考えない練習」小池龍之介

(著者略歴)
1978年生まれ、僧侶、鎌倉月読寺住職、山口市正現寺住職、著作活動、座禅指導など

(要約引用開始)
*はじめに
1.心はいつも刺激を求めて勝手に思考する。この脳を疲れさせるだけの情報のノイズを止めるようにする。
止める練習をすることで、思考を調教することにもなる。
止める練習の具体策は人間の持つ五感を研ぎ澄ませて「実感」を強めることだ。
実感によって思考というバーチャルなものを乗り越える手立てにする。
2.目、耳、鼻、舌、身の五感を実感しながら暮らすことで、思考を止め、更に思考を自由に操る練習をする。
普段は考えすぎで鈍りがちになるが、考えない練習を通じて思考はクリアに冴えわたるようになる。
*第一章思考という病
1.人は落ち着いている時はあまり考えることをしない。
混乱しているときほど考える。
意識は「考える」という行動をとっているときはその「考える」という機能の中に閉じこもってしまい、他の機能は忘れる。
例えば、考えているときはテレビなどの音がしても気にしない。
2.「考える」という一種の引きこもりになる状況は仏教でいう心の三毒「欲、怒り、迷い」という時に多い。
そして思考が暴走して脳の一部を酷使すると、それが癖になってしまい、考えるべきでない時も考え込み、引きこもりになる。
こういう悪循環を断ち切るには「思考を止める」練習をする必要がある。
3.この考えすぎの時は、体から来る情報のキャッチがおろそかになる。
そこで心を律して正しく考えるために体から来る情報を使う。

仏教ではこのプロセスを「八正道」という実践方法によって行うように教えている。
ステップ1
正思惟(思考内容を正しくする、上機嫌で肯定的な思考だけにする)
正語(正しい言葉を使う、プラスの言葉だけにする)
正業(正しい行動をする、毎日の行動をルーチンとして正しく動く、)
正命(正しい生き方をする)
ステップ2
正定(しょうじょう、集中する、例えば呼吸など、)
正精進(心を浄化する、仕事勉強遊びなどで夢中になる三昧に入る。)
ステップ3
正念(心のセンサーを磨く)
正見(悟り)

このプロセスで心を管理する練習する。

無駄なエネルギーを使わない思考、適切で必要最低限のことだけ考えるにはどうするか、
どうすれば無駄な思考や空回りする思考を排除できるか、これが仏教のスタートでありゴールでもある。
この質問に答えるのがこの本の趣旨である。
(上記の八正道は理論だからこれをまじめにやろうとするのは止めた方が良い。
そういうことは専門の坊さんに任せて普通の人は実務的に考えた方が良い。
一般に理論、つまり理想の方からものを考え動かそうとすると理論倒れになってうまく行かない。
実務的には八正道よりもこの本でいう「考えない練習」のほうが効果がある。
なぜなら、考えない練習というのは「いかに考えるか」ということでもあるからだ。
いかに考えるか、というところから出発しているのが八正道だ。
まず、考えない、という心をリセットするところから始めるといい、ということだ。)

(我々は坊さんでないから八正道もステップ1で十分だ。だが、正思惟にしても正業にしても実社会ではいちいち考えている暇はない。
とっさにやって自然に正しい行いになっていることが必要だ。
お経の文句は一応理想を言っているので、実践するなら自分なりにアレンジする必要があるし、効果があるかどうか判断する必要がある。
あくまで実務的に実証的に実際的に考えた方が良い。)

脳科学的に考えると、脳は2割の意識野と8割の無意識野で成り立っており、人間にとって無意識野はコントロール不能だ。
そして、例えば正思惟を実践するとしたら、無意識野を含めるからなかなか難しいのだ。
また、「正しい思考」といってもその定義はここでは書かれていない。
昔の人は正しい思考を「おてんとうさまに恥ずかしくない」とか「道理にかなうかどうか」などという基準を考えていた。
仏教では「仏教とは何か、その答えは(悪いことはしない、良いことをせよ)だ」といいうような分かったような分からないような話で示す。
(所悪膜作修繕奉行)漢字変換が出来ないが、お茶の掛け軸などによく出てくる言葉だ。
落語に出てくる江戸っ子は心を空っぽにして曲がったことはしない、威勢よくシンプルにかっこよく動く、というような生き方だ。
この生き方は誰でも出来て分かりやすい。
民法の第一条に「信義に基づき誠実に行うこと」とある。これを信義則というが、江戸っ子はこれを体現しているのだ、と思う。

そして、そういう正しいことを脳の意識野だけで考えるのでは、とっさに行動できない。
意識野にアイデアを登らせて来る無意識野に、そういう考えを教えて訓練して、そこを鍛える必要がある。
この為には、無意識野をシンプルに活性化させる為にステップ2と3が必要になってくる。
ステップ2以降は無意識野に働きかけ、無意識野を空っぽにして修業するのに必要なものだ。
そうすると、八正道は順番にやるのでなく全体を少しずつ実践するのがいいのだろう。
しかし、全体を修行するのはやはり大変だし、実社会ではいちいちそんなことを考えてやっていられない。
恐らくこれを実社会で実践している人は居ないだろうし、八正道で偉くなった人も知らない。
ただし、仏教徒で偉くなった人は沢山いる。)

(考えない練習は実践的には非常に有効な方法だが、それともう一つ、効果的な方法がある。
これは前に本の紹介「異次元大恐慌廣宮孝信著で解説した方法だ。
要するに無意識野を鍛えることが必要だから、「自分が意識野で今何を考えているか」これを意識できるように練習することだ。
少なくとも意識野が怒りや恐怖などで勝手に暴走しないようにするだけでもいい。
つまり、こういう時は無意識野が勝手に動いているのだから、ああ俺は今こんなことを考えているんだ、と思うだけでいい。
無意識野は人間の根源的な、例えば生命の危険に対する恐怖とか言うような情動でうごく。
恐怖は危険を避けたりするのに必要だから、情動で動くのはいいが、動きすぎるのはいけない。
そこで思考を止める「考えない練習」をするのだが、同じ効果があるもう一つの方法として「思考を観察する」という方法がある。

下記のブログにはそのことに触れた話が載っている。
http://arugamamaniayumu.blogspot.jp/2014/03/blog-post_3.html
http://arugamamaniayumu.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html
あるがままに
〝思考を観察する〟ことについて、もう少し踏み込んで説明します

(引用)
思考に気付いて観察すると、観察し始めた瞬間又は1、2秒後に思考が止まってしまいます。
観察している時は思考は起こらない。
こうして思考を観察することで悟りに至ることが出来た、という。
悟りとは八正道の最終形だからたいしたものだ。
なぜそうなるか、というと思考が止まると「今、ここ」しかなくなるからだ、という。
「今、ここ」だけにゆったりと生きる、これが悟りというものだ…なのだそうだ。
だが、生きている限りすぐまた思考が始まる。
そうしたら、又それを観察する。
「丁度ねずみ穴からネズミが顔を出すように、それを観察する」
この思考を観察するということは、筋トレにも似ていて、それを習慣付けていくことで日常生活の中で思考に気付くことが多くなる。
こうして、思考を観察している時間、思考にとらわれていない時間が7割を超えたら「今ここ」状態が定着する。
定着すれば、すなわち悟りの境地なのだ。

思考を観察する、ということは思考と一体化しない、ということでもある。
一体化しないということは、一体化しないものがある、ということで、それは真の自分、本当の自分、本来の自己、ただ生きているだけの神宿る自分だ。
キリスト教で言えば造物主が作った自分だし、神道で言えば立派な両親が作った、又は自然が作った、ということになるだろうか。
それは八正道でいう正しいものを自律的に持っている自分でもあるのだ。
真の自分は神とつながっている事を信じ、信用して感謝する。自分というものは、ただ生きているだけで素晴らしいのだ。
(引用終)


長くなったので、ここまでにします。


(要約引用終了)