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1609-17-1045-9/18メルマガブログ転送桂太郎

中身が濃くて面白いメルマガブログ紹介
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ねずさんのひとりごと
日本はシラス国です。ウシハクと一線を画す日本の姿学んでいます。

(見出し)


桂太郎の母

(私のコメント)
桂太郎は渡辺高蔵さんとは少し年上位の人だ。
この人は毛利藩の重臣の息子だから早くから毛利藩の西洋式軍隊に参加していた。
その後は戊辰戦争から転戦軍功を立て、木戸孝允の引き立てで陸軍の大親分の山縣有朋にくっついて出世した。
日露戦争の最終責任者である総理大臣を務め、明治天皇の信頼も厚かった。
こういう最終責任者的な人が日米戦争ではいなっかったし、天皇の信頼の厚い軍人も居なかった。
桂太郎は渡辺高蔵さんとは同年輩位の人だ。
この人は毛利藩の重臣の息子だから早くから毛利藩の西洋式軍隊に参加していた。
その後は戊辰戦争から転戦軍功を立て、木戸孝允の引き立てで陸軍の大親分の山縣有朋にくっついて出世した。
日露戦争の最終責任者である総理大臣を務めた。
こういう人が日米戦争では居なかった。
また、拓殖大学を作った人で、その他にもかなり色々なことをしている。
アメリカと密約して日本はフィリピンに手を出さず、朝鮮にアメリカは手を出さない、という基本方針を決めたのも桂太郎だ。
この密約はその後の日米の歴史に大きな影響を与えた。
結果的には日本の方が朝鮮という大きくて悪い荷物を背負ってしまって、大損だったのだが、当時の判断としては仕方がないのだろう。
なお、手を出さない、というのはフィリピンだと革命勢力を応援したり、朝鮮だと宗主国のシナやロシアに加担しない、という意味だ。
また、この人は「にこぽん宰相」というあだ名で有名で、ニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や経済人をうまく篭絡した。
このことは非常に重要で、田中角栄や昔は豊臣秀吉なども持っていたのだが、人を懐かしむる人柄才能があるのだ。
この人が初めて首相になる前、やはり明治の元勲である井上馨が組閣しようとしたが、めぼしい人が皆閣僚になることを拒否したので出来なかった。
人望がなかったのだ。
そのために一世代下(といっても年齢はそんなに違わないが)の桂太郎にお鉢が回った。
井上馨伊藤博文と仲間で勿論松下村塾だから、そういう仲間世代から山縣有朋桂太郎の世代に移っていったのだ。
このように同じ長州藩でも吉田松陰松下村塾とは関係のない人脈だが、お墓は世田谷の松陰神社にある。
吉田松陰には私淑していたのだろう。

次に注目点は下記の話の中にあるように藩の重臣の家柄ながら貧乏だったようだ。
世界中を見渡しても権力を握っている階級が貧乏だったのは日本しかないだろう。
戦前戦後を通じてマルクス主義の「階級闘争史観」というばかげたドグマ(教条)で日本の歴史はこういう事実をゆがめられた。
西欧から輸入したイデオロギーで物事を見るのは、いい加減にしたほうがいい。
西欧は西欧の歴史から発生したイデオロギーだから、そういうことを前提にした方が良い。
西欧文化を勉強するのは大切なことだが、それを真似するには慎重であった方が良い。
明治時代がうまく行ったのは下記に出てくる母親のような日本文化で育てられた人々が活躍したからだろう。
戦後はアメリカGHQの日本弱体化政策で、こういう日本文化を平等思想や男女同権思想などで破壊した。
もはや昔に戻ることは出来ないが、昔の良かった部分はお手本にして大いに参考にするべきだろう。


(私のコメント終)

 

(引用開始)
桂太郎(かつらたろう)は、ペリーがやってくる少し前の1848年の生まれで、陸軍大将、第二代台湾総督、陸軍大臣外務大臣などを歴任し、内閣総理大臣を三期勤めた人です。
陸軍大臣のときに義和団事件を収め、日露戦争を勝利に導いた総理でもあります。

この桂太郎が、ご自身の母について小文を残しています。
素晴らしい内容ですので、ご紹介したいと思います。
なお、原文は文語ですので、いつものねず式で現代語に訳しています。

我が母のこと(原題「母」)

私の母は、父と同じで、ものごとを耐え忍ぶ人でしたが、名誉を尊び、人後に落ちることを嫌う人でした。
家は貧乏でしたが、母は、人を保護したり、人を救うことに、まったくためらわない人でもありました。
子を教育するうえにおいても、
「他の人に劣らないように心がけなさい
 たとえ飢渇におちいったとしても、
 決してきたない挙動をしないように」と教え、
「常に、率先して人よりも抜きんでることを志しなさい」と諭されました。

幼いころに、母がよく言われたことがあります。それは
「おまえの両親は、おまえよりも先に死ぬのです。
 おまえに希(ねが)うことは、
 おまえが人らしい人として生きることです。
 おまえは桂の家を嗣(つ)ぐべき嫡子(ちゃくし)です。
 ですから私達は力のおよぶ限り、おまえに教育を施します」
というものでした。

あるとき私が学塾から帰るとき、友人と喧嘩になりました。
友人が、抜いた刀を私に向けたので、私はその刀を奪い取って家に持ち帰りました。
そして次の塾に行くために、その刀を母に託しました。そして、
「もし誰かが来て、請うことがあっても、決してこの刀を返し与えないでください」と申し上げました。

果たして私の不在中に、その友達の家から使いがやってきました。
「今日、うちの子が刀を忘れたと言っています。返していただきにあがりました。」
母はこれに答えて、
「我が家に刀を忘れた者は誰もいません。
 ですが、我が子が塾からの帰りに持ち帰った刀はあります。
 けれど我が子は、
 『この刀は誰が来て請うても返したまうな』と
 言い残して出かけました」とのみ答えました。

ひとたびは帰ったその家からの使いが、またやってきました。
「前に忘れたと申しましたのは、まったく子供の虚言とわかりました。
 本日、帰宅途中において、不都合があって、
 令息のために刀を奪われたと申しています。
 子には、厳しく懲らしめ戒めたいと思います。
 ただ刀を奪われたということは、世の聞こえが良くありません。
 まげて、返し給わらんことを請います」
と懇(ねんご)ろに頼んできました。

母は、
「先には、作り事を申されたので返すことを拒みました。
 武士は相身互いです。
 不都合を詫びて返戻を求められる上は刀はお返しいたします。
 再び欺(あざむ)かれることがないように戒められますよう」と
刀を返し与えました。
そして私が家に帰ったとき、その顛末を話してくれました。

父の許しを得て私が下関に赴いたとき、母は
「速やかに下関に到り、尊皇攘夷の志を果たし遂げなさい」
と、父とともに勧め励ましてくれました。

戊辰戦争で奥州で敵中に陥っていた頃は、母は神社に日参していました。
ところがその祈願の趣旨は、わが子の無事に帰ることではなく、
「なにとぞわが子が任務をまっとうし、
 いやしくも未練の最期を遂げ、
 家名を汚すがごときことがないように」
という、祈誓(きせい)でした。
父が他界したとき、四十九日の忌明けと同時に、私はただちに郷里を出て、横浜の大田村という語学所に入学しました。
まだ幼い弟や妹たち、それに母の悄然と寡居している寂寥(せきりょう)のありさまを思うと、ほんとうに自分は志を許してもらえるだろうかと悩みながら、私は母に、「お暇を賜りたい」と申し上げました。
すると母は意外にも、快く承知してくれました。
「おまえが志を立てて学を修め、
 桂家の名を顕(あらわ)そうとするのなら、
 私はいかなることにも耐え忍びます。
 ですから心置きなく出発しなさい」と勧めてくれたのです。

翌年(明治3年)秋、私はドイツに留学することになりました。
官費留学では、時期を逸すると思った私は、自費留学したいと思い、その学費に、戊辰戦争のときの軍功によっていただいた250石(当時の1石は、いまの1万円くらい)の禄をあてたいと、母に申しました。母は、
「新たに賜った禄は、おまえの功労によるものです。
 これをもって将来の志を遂げて身を立てるための学資とすることは
 まことによろしきを得たものです。
 我が家の俸禄は併せて年間350石です。
 残りの100石で女子ともども生計を立てます」
とこれを認めてくれました。

こうして私は欧州に渡航することができました。
尋常なら小康に安んじて、子が遠くに遊学することを喜ばなかったかもしれないし、そのために凌雲の志も、挫折したかもしれない。そうした例は当時少なからずありました。
私が素志を貫くことができたのは、母が、雄々しくおわして、常に私の志を励まし続けてくれたことによります。

私は、明治6年に帰国しました。
翌年8月に、母は他界されました。
私が陸軍少佐だった頃です。

母は、いまわのきわに及んだとき、
「もはや、心置くことなし」と言われたそうです。

私は不幸にして、母の往生に立ち会うことができませんでした。
私なりに最大限の努力をし、家名を顕していくことこそ、母の「心おくことなし」の言葉への、せめてもの孝養であったといまも思っています。

私の父母は、物事によく耐え忍び、忠孝を貴び、名誉を重んじ、いやしくも家名を辱めるがごときことを深くおそれつつしむ人たちでした。
私のいまがあるのは、ひとえにこの家庭における訓戒によるものであることは、言をまちません。
ですからわが子孫たる人々も、すなわちこのことを以って、父祖の家訓と心得えるならば、きっとおおいなる過ちはないものと思います。

***

桂太郎という立派な人物がなぜ生まれたのか。
その一端を垣間見させていただきました。

実際には、人は多くの人々との関係の中で生かされているのに、それを故意に無視して「個として」生きることは、人から我儘を是認して責任感を奪います。
ですからその分、人は身軽で安楽な生き方ができるのであろうと思います。

人が家庭という単位を強烈に意識して生きることは、人に大きな重荷を背負わせ、生きることに様々な制約が課せられることになります。
我儘な生き方が拒否されて、常に大きな責任を負うことになるし、常にわずらわしい人間関係を背負い込むことになるからです。
これはたいへんな重荷を背負って坂道を登るようなもので、とてもつらいことでもあります。

けれど、その重荷の正体は、実は愛であり、感謝の心なのではないかと思います。
その愛と感謝が、人に耐え忍ぶ力を与え、現状を切り拓く勇気と知恵を与えてくれ、そして人を育てるし、真の日本人精神なのではないでしょうか。

そういうことを思いながら、自分の人生を振り返ってみると、もう穴があったら入りたいくらいになります。
だからこそ、残りの人生を、自分なりに不十分ながらも、少しでもそういう日本人的精神をしっかり取り戻して生きていきたいと思うのです。

お読みいただき、ありがとうございました。


(引用終了)