1706-20-1280-6/24メルマガブログ転送サヨク理論と芝居の違和感

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)5月9日(火曜日)
        通算第5285号  

加瀬英明のコラム 

ロシア2月革命100周年 なぜ日本に左翼理論が根付かないのか


(見出し)

(私のコメント)
このコラムの趣旨は、日本の政治がマスゴミの扇動によって流行のように一方通行で動き、何かある時パタンと止まってしまう、そういった動きを指摘している。
なお、マスゴミの扇動というが、これにはシナやアメリカなどの外国勢力の影響があるのははっきりしている。
しかし、それだけでなく、日本人の持っている「皆と外れたくない」というような周りに追従する性質も影響する、とこのコラムでは言っている。
だから、大衆にとっては内容は深く詮索せず、みんなと一緒に騒いでいればいいのだ。そしてお祭りが終わったらぱたりと静かになる。
マスゴミも外国から言われてやっているよりも、煽り立てる方がテレビなど受けが良く、新聞もよく売れて儲かるから騒ぐのだ。
彼らも商売だから、売れなくなったらすぐ扇動を止めて別のネタに飛びつく。
民主主義が非常に良いものだという信仰があるが、こういう大衆迎合と大衆の酔ったような一方的な理屈抜きの大きなうねり、無責任な動きに左右されるから必ずしも良い制度とは言えない。
この民主主義と豚が海に飛び込むような大衆の動きの矛盾はギリシャの民主制の時からの動きで今だに解決できない命題だ。
日本では宮本常一民族学にあるように、村落の全員が集まって、徹底的に相談しあうことでこの矛盾を切り抜けた。
これも民主主義の一形態だが、このコラムにもあるようにそれは、徹底的に論理、つまり理屈を突き詰めるものではなかった。
日本は山本七平が言うように「空気」が皆を支配するのだ。
「空気」が民主主義になってしまうので、日米戦争も「空気」で始めてしまったのだから、日本は民主主義で日米戦争を始めたともいえるのだ。
だから、民主主義で皆の納得ずくのことだから、特攻攻撃でも何でもできたのだろう。
こういう空気に支配される、というのもこのコラムの言うことと同じだろう。

さて、話は変わるが、先日ディズニーシーに行ったとき、つまらない芝居の批判で盛り上がったが、このコラムで改めて気づいたことがある。
先日はあの話はハリウッドのアメリカ思想で作られたものだ、という話をした。
つまり、キリスト教文明とその背景のユダヤ教の思想で作られている、と話した。
キリストという人はユダヤ教徒ユダヤ教の一宗派としてキリスト教を作ったのだ。
日本で言えば日蓮宗浄土真宗のようなものだ。
それがキリスト教の方が大きくなってしまい、近親憎悪的にユダヤ教徒ユダヤ人を迫害したから外からは違うように見えるが同じものなのだ。
その証拠に旧約聖書ユダヤ民族の神話的歴史書だ。
あの芝居には旧約聖書ユダヤ人のバビロン捕囚のような強大な権力の力の支配で奴隷となった人々、
つまりユダヤ人がユダヤのエホバ神を一神教的に信ずれば、何時か救世主が現れ、助けてくれる、という話から来ている、と説明した。
奴隷の経験のない日本人にはピンとこないが、キリスト教徒は子供の時から耳タコの話なのだ。
それが下敷きになっている芝居だ、という話をした。

それから帰ってきて考えたのだが、もう一つユダヤ教善悪二元論で物語が構成されている、ことも違和感がある理由だろう。
何かを悪と決めつけ、それがなければ幸せになれる、あれが悪いので自分は悪くない、というサヨク的思考の元でもある。
現実の世の中では、悪を倒せば幸せなれる、というような単純なものでないが、外敵を倒すには都合がいい思想だ。
ハリウッドは、単純な善悪二元論で沢山の映画を作ってきた。
主にユダヤ系の資本家がカネをだして映画を作り、見る方もキリスト教徒だから娯楽として受けるのだろう。
日本でも水戸黄門のように悪代官が出て来て勧善懲悪の物語が受けるのだからこの点は同じだ。
だが、あの芝居では少し違和感があるのは日本の勧善懲悪等悪と少し違う要素がある。
これがどこから来るか、分からなかったが、このコラムを読んで分かった。
つまり、日本の感覚では善悪でなく、「美しいか、美しくないか」「可愛いか、可愛くないか」で判断するのだ。
つまり、あの話では日本的に作るのなら、悪い鳥が居てウサギやタヌキなどの森の小動物や植物の精が困っている、なんて話にするのだ。
それで超能力に変身した女の子が鳥を懲らしめると、鳥が改心してもういじめません、仲良くします、となってめでたしめでたしだ。
日本のおとぎ話ならそうなるのではないか。
日本人の子供はこういう話なら耳タコだ。
徹底的に悪の支配者を殲滅する話を耳タコに教える民族と、めでたしめでたしの耳タコ民族が戦争をしたらどっちが勝つか。

さて、最後にもう一つ気付いたことがある。
それは女の子が次のリーダーに選ばれるシーンだ。
「皆私についてきて」というが、あれは日本人のリーダーではない。
あれも砂漠の宗教であるユダヤキリスト教的なもので、日本人にはなじまない。
キリスト教的というよりも狩猟民族と農耕民族のリーダー観の違いだろう。
狩猟民族は鹿やイノシシなどの獲物が居るところを知っている特異な才能のあるリーダーについて言った方が得だ。
砂漠の民族も道を間違えたら全員死ぬから、卓越した智慧のある強いリーダーが必要だ。
そしてそのリーダーは一人独裁でないと指示がバラバラでは困る。
ところが、農耕民族はそうではない。
農耕民族は全員の力を集めて全体のパイを大きくする方が、大事だ。
例えば、遠くから水を引っ張ってくるためにみんなで水路を作るとか、しないといけない。
これは個々の人には私有財産的に自分の富が増えるわけではない。
サボってもいいし、サボった方が個人的には儲かる。
それを団結させ、みんなの力を最大限に発揮させ、リーダーの利益でなく、全体の利益になるように集団を引っ張るリーダーが必要だ。
その為には集団のメンバー全員が参加する民主主義的な話し合いも必要だし、皆の総意をまとめてそれを実現させるリーダーシップも必要だ。
一人でついて来い、ではリーダーは務まらないのだ。
日本のある漁村では漁から帰った船が浜に着くとまず最初に魚をもらえるのは、母子家庭だ。
つまり、その父親は漁に出て死んだのだ。残った母子を優遇することで全体が漁で個々の力を発揮できる。
肝心なのは大きくなったパイを公平に全体と個人の利益をバランスさせて配当することの出来るリーダーだ。
外国のリーダーなら魚が沢山いるところに連れて行った俺様のお陰で大漁だったのだのだから俺が一番たくさん撮る権利がある、というだろう。
今の日本の資本主義も外国の影響を受けてそうなっている。
だから日本は貧富の差が開き、苦しんでいる。
だが、これは農耕民族である日本人には違和感がある。
あの芝居で言えば、女子は「みんなと相談して決めますから皆知恵を出してね」とか言えば日本人には違和感がないだろう。
長くなったのでこの辺にします。

後で考えたが、多神教一神教の違いとか、上から目線的な違和感とか考えることはあるが、うまくまとまらないのでここまでにします。

(私のコメント終)

 

(引用開始)


(見出し)

加瀬英明のコラム 

ロシア2月革命100周年 なぜ日本に左翼理論が根付かないのか

今年は、ロシア革命をもたらした2月革命の百周年に当たる。
 先週、出版社の編集者がわが家をたずねてくれて、ロシア革命が話題になったところ、
「青年時代に左翼に気触れることがなかったのは、渡部昇一先生、小室直樹先生、宮崎正弘さんと」私の4人だといわれた。
 私は高校時代に、アンドレ・ジッドの『ソ連紀行』、アーサー・ケストラーの『真昼の暗黒』や、ジョージ・オーウェルの『1984年』とか、
『動物農園』を読んでいたから、共産主義がおぞましいものだと知っていた。左翼の人々は知的に怠慢で、無知だと思って、軽蔑した。

●60年安保騒動とハロウィン

 私は60年安保騒動のあいだ取材のために、毎日、国会周辺に通った。
そのために、いまでも『全学連の歌』『インターナショナル』から、『ワルシャワ労働歌』『決起せよ、祖国の労働者』まで、
国会議事堂を囲んで渦巻いていたデモ隊がうたっていた歌を、うたうことができる。
そのかたわら、女友達にグループをつくってもらって、機動隊員を激励するために、駄菓子や飴を差し入れた。

 国会を取り巻いていた、時には10万人を超えたデモ隊は、改定された日米安保新条約が発効すると、潮が引いたように姿を消した。
 まるで嘘のようだった。もし新条約に真剣に反対していたのであれば、その後も目的を達するまで国会を包囲して、デモを続けているべきだった。

 1970年に安保条約を改定することができる、10年目が巡ってきたために、
「70年危機」が取沙汰されたが、学生たちが新宿駅を占拠して騒いだほかに、不発に終わった。
 私はこの年に「60年安保騒動」を回想して、月刊『文芸春秋』に寄稿したが、「悪霊どもはその人から出て、豚に入った。
豚の群れはいきなり崖を駆け下って、湖に入り溺れ死んだ」という、『新約聖書』の一節を引用した。
 私は60年安保の体験から、日本における左翼運動は風俗にしかすぎないと、確信するようになった。
お祭のような一過性のデモは、日本の国民性に適っているが、思想がイデオロギーとして根付くことがない。
 昨年、安保法案が国会で審議されていたあいだも、同じことだった。
法案が通過してしまうと、国会のまわりはハロウィンのたびに、渋谷や六本木で狂態を演じる群衆が一夜明けると、誰もいなくなってしまうように、閑散とするようになった。
 国会は国の命運を握っていることを忘れてはならない

 今日で国会において森友学園問題が始まってから47日目になるが、連日、国会がこの問題にかかりきっている。
 3月に北朝鮮が4発のミサイルを発射して、3発が秋田県の沖合に落ちた。
北朝鮮は「在日米軍基地を攻撃することを想定した演習だった」と、声明した。

 そのかたわら、トランプ政権が北朝鮮に軍事攻撃を加えることも、選択肢として検討していると、言明している。
もし朝鮮半島で戦争が始まったら、日本が北のミサイル攻撃を蒙る可能性が高い。
韓国の原子力発電所が破壊されれば、放射能が偏西風に乗って日本列島を覆うことになる。
 国会は日本が大きな危機に曝されているというのに、森友学園に没頭している。朝鮮半島の切迫した脅威が論じられない。
 日本では政治とマスコミが、全国民が一時的に熱中する興奮の堝(るつぼ)を、つくりだす。

 ●昭和、平成の『ぬけまいり』

これは、江戸時代のお蔭参りや流行神(はやりがみ)現象と、よく似ている。辞書でお蔭参りをひくと、こう説明されている。
「『ぬけまいり』ともいう。江戸時代特定の年に起こった爆発的な庶民の伊勢神宮参詣現象。
子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に断りなく飛び出し、道中歌い踊り歩き、衣装に趣向を凝らすなど日常の規範を越えて自由に参詣した。
大規模なものは1650年(慶安3)、1705年(宝永2)、1771年(明和8)、1830年(天保1)の4度で、毎回2、300万人にのぼったが、なぜそれらの年に起こったかは明らかでない。宗教的熱狂の中に民衆の封建的支配に対する不満を発散させるという役割を果たした」(『角川日本史辞典』)

 群衆が奔流のようになって伊勢へ向かったが、道中、道筋の家々に歌い踊りながら土足であがり込んで、酒食を強要するなど狼藉を働いた。
お蔭参りには、庶民だけが参加した。
2、300万人といえば、明治5年(1972)にはじめて国勢調査が行われた時に、日本の人口は3400万人だったから、たいへんな数だ。
封建支配に対する不満が爆発したと説明されているが、それよりも日本人は今日でも、どのような仕事場にいても、
周囲を窺いながら自己を抑えて生きているから、安保騒動や森友学園騒動のようなイベントは、憂さを晴らす格好な場となる。

 江戸時代には流行神といったが、ある時、ある神社、仏寺、祠に詣でると、御利益がえられるという噂がひろまると、
2、3ヶ月、そこに参詣客が殺到する。ところが、ある時、ひと足がぱったりと絶えてしまう。

 日本人は古代から「言上げしない」といって、言葉に対して深い不信感をいだいてきた。六世紀に、仏教儒教が日本に入ってきた。
仏教儒教も言葉と論理によって、構成されている。ところが、論理はいまだに私たちの心から、遠いところにある。
 言葉は自己主張と弁解に用いられる
 言葉は主として、自己主張と弁解に用いられる。
だから、私たちは冗舌を嫌う。論理は詐術のように、自分の利益のために都合のよい正義をつくりだす。

 言葉によって組み立てられた論理は、正しいか、誤まっているかという二元論のうえに成り立っている。
キリスト教や、イスラム教は他宗派を認めず、覇権を求めて、血を血で洗う宗教戦争を繰り返してきた。
 キリスト教の『新約聖書』が、「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神だった」(ヨハネ福音書)と述べているが、
幸をもたらす言葉だけを重んじる言(こと)霊(だま)と、まったく違うものだ。

 ●雪隠詰めの理屈

 そういえば、夏目漱石が親友の正岡子規と口論した後に手紙を送って、「理屈詰め雪隠(せっちん)詰めの悟り論だ」と、認めている。
私たちは「それは理屈だよ」といって斥けるが、英語や、ヨーロッパ諸語ではいえない。
「理屈」を和英辞書でひくと、「リーゾン」「ロジック」とでてくる。
 私たちは先天的に長口舌や、理論に警戒心を向けてきた。だから、イデオロギーが日本に根づくことがない。
 私たちは正義か、正義に背くかによって分けることをせずに、何が美しいか、美しくないかということを、尺度としてきた。
そして言葉によらず、心を用いて良いとこ取りをして、生きてきた。
 私たちの精神の源流は大陸ではなく、太平洋に散らばる島々にある。不毛な論理を戦わせる大陸とは、異質な文化を培ってきた。

 ●八百万の精霊信仰

 潮風が吹く島々では、キリスト教や、イスラム教が伝来する以前の精霊信仰が、いまだに力を持っており、
人々が何が正しいかということによらず、美しい美しくないという感性によって、善し悪しをはかる。
私はフィリピン、インドネシアや、南太平洋の島々を訪れるたびに、故郷に帰ってきたような懐かしさを覚える。
 大陸や、朝鮮語にはない、「スンディリスンディリ」(「各々」、タガログ語)「キラキラ」(「だいたい」、同)とか、
「バハイバハイ」(「家々」、インドネシア語)、「アラウアラウ」(「日々」、同)といった、日本語と同じ畳語が多い。
 論理は、至上主義を生む。いまだにキリスト教至上主義、イスラム教至上主義や、共産主義が至上であるとか、
習近平主席が至上で「核心」だとする、排他的な至上主義が罷り通っているのは、情けない。
                   (かせひであき氏は外交評論家)

(引用終了)