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世界のニュース トトメス5世

(見出し)
原爆投下は米軍が戦果を誇示するため、降伏を知った後で実施された


(私のコメント)
終戦直前にスイスで行われたジョンフォスターダレス国務長官の弟のアレンダレスとの降伏交渉は昔からよく知られている。
この交渉がうまく行けばもっと早期に戦争は終わっていただろう。
だが、アメリカの軍部は反対した、というこのブログの記事は正しい。
すでにドイツが降伏しており、世界的に戦争終結は目前だった。
だが、戦争が終わることは軍部にとって我が世の天下が終わることを意味している。
アメリカは独裁国家でなく、議会が全てを差配するから議会が予算を承認しないと何もできない。
戦争追行のために議会は軍部の言いなりで予算を使わせていたから軍部にとって我が世の春だったのだ。
ところが、戦争が終わると、どっと逆回転で予算が削られる。
また、今まで使い放題だった予算が無駄でなかったことを示さないといけない。
平和になると改めてそういう話が出てくる。
のど元過ぎれば皆今までおかしいと思っていたのが追及されるのだ。
そこで、原爆などはソ連に対抗するための膨大な予算を湯溝のように使ったのがはあして効果があったのか、追及されるのは必至だった。
そこで、終戦を長引かせてでも使わないといけなかった。
例えば、ウランの濃縮は遠心分離機を五十万個以上作っておこなった。
このことは日本もドイツもその製造プロセスとしてわかっていたが、そんなに沢山の遠心分離機を作れ無かっただけなのだ。
遠心分離機そのものは簡単に作れるが、あまりに膨大な数で二の足を踏んでしまった。
アメリカは力技で作ってしまったのだが、もし原爆を使わなければそれらは無駄だったんじゃないか、余計だったと議会から言われただろう。
そこで、議会対策として日本に使ったのだ。
日本が特攻攻撃などで絶望的な抵抗を示していたから、却って軍部に好都合で、その占領には大きな犠牲が伴う、という言い訳で使用に踏み切った。
日本の海軍が余計な抵抗をするから口実にされてしまった。
陸軍は徹底抗戦を叫んで戦後は悪者にされているが、陸軍は中国大陸に膨大な軍事力をまだ温存していたから、まだ戦えると思っていたのだ。
海軍に振り回され、最後は戦争責任を取って本当に割に合わない、悔しい気持ちだろう。
最後の陸軍大臣阿南惟幾は降伏決定の御前会議の後切腹したがその最後に「米内を切れ」と言った。
米内とは海軍の総帥の米内光正のことだ。
これが本当の戦争敗戦責任者が海軍だったことを示している。
勿論海軍は誰も切腹した人間はいないし、戦後は海軍善玉論を展開してゴマかした。
大日本帝国は海軍によって滅んだが、帝国の中にあった海軍王国だけは生き残り、今の自衛隊に引き継がれている。
さて、話は変わるが、天皇陛下玉音放送はアメリカ向けのものだった、という話は初めて聞いた。
今後も色々なことが発掘されてくるだろうから、上記の私の考えも今後修正されるような事実が出るかもしれない。
その点では、あまり、断定的に誰かを批判することは良くないでしょう。

 

(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)
原爆投下は米軍が戦果を誇示するため、降伏を知った後で実施された

米軍は数日後の日本の降伏を知り、国防省の手柄を誇示するために原爆を使用した

原爆は日本が降伏した後で投下された

広島長崎の原子爆弾は日本政府がアメリカに降伏の意思を伝えた後で投下したのは、70年以上タブーになっていました。

ここ数年でようやく日本側はすぐにも降伏したがっていたこと、米軍は日本の降伏を知り「大急ぎで使用した」のが明らかになっています。

アメリカ軍は日本がすぐ降伏するのではないかと恐怖に襲われ、戦争犯罪である民間人への無差別空襲を繰り返しました。

なぜ日本が降伏する事が米軍にとって恐怖なのかというと、戦争を終結させたのが自分たちではなく、外交の力だという事になるからです。

米軍は自分たちが戦った結果日本を降伏させた事にしたいのに、横から外交官が現われてさっさと戦争を終わらせようとしていました。

大統領の座を狙っていたマッカーサー、大統領になるアイゼンハワーは原爆使用に反対したようだが、人道主義者だからではなく、大統領になるために利用しただけだった。


肝心なのは1945年7月には日本帝国は既にアメリカ代表に降伏の意思を伝えてあり、いつ降伏するか分からない状況だった。

1945年4月、当時の最高意思決定機関だった大本営は、幹部数人だけで会議を開き、米国との終戦交渉を開始しました。

本命と見なされたのはまだ対日戦に参戦していないソ連に仲介してもらう事で、まだ日本はソ連に幻想を抱いていました。


伏線としてスイスやバチカンなど中立国を通じて接触し、和平交渉を行うとされたが、こちらは米国から相手にされないと予想された。

日本は中立国スイスに公使館を持っていて、ドイツ帝国もスイスには手を出さなかったので、米国大使館と接触が可能でした。

5月から7月に掛けてスイスで米国への働きかけが行われ、7月に日本側は民間人、米側はアレンダレスが代表として話し合いを持った。

 

日本の降伏を防止したい米軍

アレンダレスはドイツ軍、イタリア軍との終戦交渉も行った大物で、後のCIA長官にもなり、米国は本気だったのが伺える。

ここで整理すると日本で降伏したがっていたのはまず昭和天皇、海軍、外務省、大本営で、陸軍だけが1億玉砕本土決戦を唱えていました。

アメリカ側で早期終戦を望んでいたのが国務省(外務省)とCIAで、国防省はまだまだ使用したい兵器の在庫があるので反対でした。


戦争も一種の経済活動であり、生産した爆弾を使用しないと次の爆弾が売れず、経済界ももっと戦争を続けたいと考えていました。

国務省が早期終戦を望んだのは「自分たちの力で早期終戦させた」という手柄が欲しいからで、彼らが人道的だった訳ではなかった。

逆に国防省は「軍隊の活躍で日本が降伏したので、外交努力では終戦は不可能だった」事にして手柄を独占したがっていました。


戦後日本や世界で「原爆や空襲があったから日本は降伏し世界が平和になった」という嘘のスローガンを広めたのも国防省でした。

後に米国防省はアメリカ陸軍アイゼンハワーが大統領になることで野望を達成し、アメリカ軍は平和の創設者、世界の警察官に納まった。

1945年7月初旬に日米終戦交渉が行われ、15日にアレンダレスは仲介者ペール・ヤコブソンに、日本の希望を受け入れると伝えました。


交渉での日本側の希望は主に2点で、第一は国体の守護で日本という国そのものや天皇を中心とした国家などの枠組みを維持する事です。

第2に停戦は早いほどよく、8月の第一週から第二週あるいはすぐにでも停戦したい事が告げられました。

国務省としては大筋で受け入れ可能な条件だったので、意見の対立も無く、日本の降伏受諾に傾いた。

 

歴史とはゴミと同じ

ところが米国防省がこの動きを察知し、国務省とCIAに手柄を横取りされると危機感を募らせました。

日本はもう今週にでも降伏するかも知れず、その前になんとしても「軍隊が日本を降伏させた」という実績を作る必要があった。

そこで実行されたのが都市への大規模空襲と原爆投下で、原爆は8個から10個投下する予定だったのに、先に日本が降伏を発表して2個だけになった。


1945年4月に大本営が米国との終戦交渉を決定したのは、1945年3月10日の東京大空襲のあと、昭和天皇自身が命令したといわれている。

日本の降伏はアレンダレスを通じて大統領のトルーマンに伝わっていたが、この臨時の新米大統領国防省や軍人の言いなりになっていた。

1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下されたが、目標はどこでも良かったのが判明している。


当時のB29爆撃機は地上レーダーなどは無いので、曇りだと地形が分からず目標が発見できない事が頻繁にあった。

そこで原爆を搭載した爆撃機は「発見できなければ、どこでも良いから市街地に投下して来い」という指示を受けていました。

8月9日の小倉市上空は曇っていたので、B29はたまたま晴れていたというだけの理由で、長崎市内に原爆を捨ててきました。


昭和天皇は特殊爆弾使用に驚き、海軍や外務省と協力して、陸軍に無断で玉音放送を録音し、1945年8月15日に放送しました。

終戦がラジオを通じて発表されたのには重大な理由があり、日本は一度降伏の意思を伝えたのに、アメリカは無視して原爆を使用しました。

外交文書などではまた無視される可能性が高いので、誰も言い逃れできないように全世界に向けてラジオ放送しました。


もしラジオでなく文書や口頭で降伏を伝えていたら、1945年末か1946年まで米軍は戦争を継続し、8個か10個の原爆が使用されたでしょう。

実際に米国防省は日本と国務省が8月に停戦したがっているのを聞きつけて激怒し、12月まで戦争を続けるべきだと反対しています。

また米軍は玉音放送の後も、日本軍のブラフだといって空爆を実施し犠牲者を拡大しました。


こうした事実はアメリカが戦争に勝ったことで秘密にされ、70年間「日本が終戦を拒否したので、やむを得ず原爆を使用した」事になっていました。

 


(引用終了)