1711-22-1142-11/28メルマガブログ転送台湾と西郷菊次郎

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)11月28日(火曜日)
        通巻第5525号    <前日発行>

(見出し)

菊次郎は、西郷隆盛の長男として奄美大島で生まれた。
(私のコメント)

台湾には一度行ってみたいと思っている。
下記の記事の通り、日本の植民地支配は仁政を敷いて成功し、いまだに住民に感謝されているようだ。
西郷さんの子孫がこんなところに出てくるのも面白い。
ところで、台湾に勝るカネと仁政を敷いたのが朝鮮だったが、相手が悪かったようだ。
朝鮮人に対し、西郷さん以上の誠意をもって接し、色々なことを教えた民間人は沢山いた。
ところが、長年の恩恵にも拘らず日本が戦争に負けるとすぐに親のように恩恵を与えてくれた日本人を襲った。
これは朝鮮人の歴史を見ればわかるのだが、長い圧政苛政から来る特質なので、仕方ないのだ。
施政者に何百年何千年も散々痛めつけられてきたから、民の幸せを考える施政者が居る、なんて全く知らないのだ。
だから、朝鮮人を非難するために言っているのでなく、(勿論忘恩は非難されるべきだが)日本人もナイーブに「至誠は天に通ず」などと思わないことだ。
世界には日本と全然違った歴史を持っていて、その歴史の結果、日本人とは思いも及ばない思考方法をする人たちがいる、ということを知らないといけない。
今でも日韓友好などと言って、甘やかす日本人がいるが、却ってお互いに非難しあうような、悪い結果になる。

 

(私のコメント終)
(引用開始)
ところで、「日台共栄マガジン」(11月27日)に、下記のような菊次郎に関しても文章が紹介されており、いくばくかのご参考にと以下に引用します。

 (引用開始)
 「宜蘭を救った西郷隆盛の長男・西郷菊次郎  古川 勝三(台湾研究家)
  おそらく西郷菊次郎(さいごう・きくじろう)を日本で最初に紹介した一般書は、今から20年ほど前に出された『台湾と日本・交流秘話』(展転社、1996年)だと思われる。それまで西郷菊次郎の名前はほとんど知られていなかった。西郷隆盛と愛加那の息子として、また京都市長として名前を知られていた程度で、台湾との関係で語られることはなかったと言ってよい。
 『台湾と日本・交流秘話』が出版される少し前に、台北帝大農業土木科出身で、当時、東京農業大学農学部教授だった高須俊行(たかす・としゆき)氏から版元の展転社(てんでんしゃ)に「宜蘭河に『西郷堤防』と呼ばれている堤防があり、そこに西郷菊次郎という方の石碑が建っている」という情報が写真とともに送られてきた。それが、この本に西郷菊次郎の事績が紹介されたきっかけだった。
 本書のグラビアには、高須氏とともに背丈の倍はあろうかと思われる「西郷庁憲徳政碑」と刻んだ石碑の写真が掲載され、本文は「西郷隆盛の子・菊次郎の郡主徳政碑」と題して事績を詳しく紹介し3ページを費やしている。
 本書の出版まで、1994年に旧制台北一中出身の本田布治雄氏が『西郷菊次郎事迹』を私家版で出版していて、『台湾と日本・交流秘話』は参考資料として挙げているが、西郷菊次郎と台湾を結び付けた書籍はそれまでなかったようだ。
 本書出版後、拓殖大学常務理事だった佐野幸夫氏が『西郷菊次郎と台湾』(南日本新聞開発センター、2002年)を出版しているが、いまだに西郷菊次郎の名前も事跡もほとんど知られていないと言っていいのではないだろうか。
 そこに風穴を開けるように、このほど『台湾を愛した日本人─八田與一の生涯』の著者の古川勝三(ふるかわ・かつみ)氏が「宜蘭を救った西郷隆盛の長男・西郷菊次郎」をnippon.comコラム「台湾を変えた日本人シリーズ」で発表された。下記に全文をご紹介したい。なお、「西郷庁憲徳政碑」が発見された経緯は、明石元二郎総督のお墓が発見された経緯とよく似ている。
 古川氏は「戦後の混乱によって顕彰碑の存在が分からなくなっていたが、1990年に発見され宜蘭県文化局により中山橋横の堤防上に移築」とのみ簡単に述べているが、『台湾と日本・交流秘話』では、蒋介石軍とともに台湾に逃げて来た軍人家族によって占拠され、石垣の一部として埋もれてしまったために存在が分からなくなり、水利局が宜蘭河整備のために不法家屋を一掃したところ「西郷庁憲徳政碑」が顕れたと詳しく記している。
 ちなみに、西郷菊次郎3男の隆秀氏は1955年から9年間、拓殖大学の理事長をつとめ、孫(4男隆泰氏の長男)にあたる隆文氏は鹿児島県陶業協同組合初代理事長もつとめた、鹿児島在住の著名な陶芸家だ。
 また、宜蘭では西郷菊次郎の名はつとに有名で、宜蘭出身で、高雄市長をつとめている陳菊氏の菊という名前は西郷菊次郎に由来すると漏れ聞く。

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古川 勝三 宜蘭を救った西郷隆盛の長男・西郷菊次郎
【nippon.comコラム「台湾を変えた日本人シリーズ」:2017年11月26日】
http://www.nippon.com/ja/column/g00462/
 台湾は日本と同じ環太平洋火山帯の上に浮かぶ島国である。したがって、地震もあれば火山も温泉もある。台湾の温泉文化は日本統治時代に日本人が根付かせた文化である。その温泉地として今、台湾人に人気を誇っている宜蘭の町の発展に大きく貢献した日本人がいた。
 明治維新の英雄、西郷隆盛の息子、西郷菊次郎である。
 台湾では、北投、陽明山、関子嶺、四重渓が四大温泉地と言われ、戦前、特に台北からも近い北投は人気があった。温泉文化は戦後に失われた時期があったが、現在は再び温泉ブームが起こり、西海岸に集中していた温泉場が東海岸にも広がりを見せてきた。その中でも特に宜蘭は人気が高い。2006年6月に12.9キロメートルの雪山トンネルが開通したことにより、台北から高速道路で30分で行けるようになった。このため宜蘭の温泉地は東京から90キロメートルあまりの箱根温泉と、台北から60キロメートルあまりの宜蘭温泉と似たようになり、最近はにぎわいを見せ始めている。
 宜蘭(現在の蘭陽)平野の中心に位置する宜蘭市は、東は太平洋に面し、西側郊外には美しい田園風景が広がる。その中央を宜蘭川(現在の宜蘭河)と呼ばれる台湾山脈に源を発する川がゆっくり東へ流れていく。宜蘭川が台湾山脈から運んでくる肥沃(ひよく)な土の堆積によって作られた宜蘭平野からは豊かな農作物が採れ、「竹風蘭雨」という言葉があるように水豊かにして昔からユートピアと呼ばれていた。
 しかし、風光明媚(めいび)なその景色も、夏、台風の直撃によって大暴風雨となると一変する。宜蘭川の濁流は堤を乗り越え、あるいは堤を寸断して田畑や家を押し流し、伝染病がまん延し住民は連年洪水に苦しめられていた。この宜蘭川の氾濫から街を守ることが住民の長年の悲願であった。この悲願を解決したのが、西郷菊次郎だった。

◆米国留学から台湾へ

 菊次郎は、西郷隆盛の長男として奄美大島で生まれた。隆盛が奄美大島に潜居した折、愛加那との間にもうけた子供である。1869年8歳のときに西郷本家に引き取られ、12歳の時、2年6か月の米国留学を果たして74年7月に帰国した。17歳のとき西南戦争が勃発し、薩軍の一員として参戦するが、高瀬(熊本県玉名市)の戦いで一生義足を装着することになる銃創を右足に受け、膝下を切断した。田原坂が政府軍の手に落ちると、以後、菊次郎は隆盛の老僕であった永田熊吉に背負われて、人吉そして宮崎へ困難な山岳地帯の敗走行を重ねる。和田越(宮崎県延岡市)の戦闘で多数の死傷者を出した薩軍は俵野に陣を移し、今後の動向について軍議を重ねた結果、可愛嶽を越えて三田井に抜けることを決意。戦闘で重傷を負っていた菊次郎は、桐野利秋の計らいで他の負傷兵や熊吉と共に俵野に残された。熊吉は負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道の下へ投降した。西郷従道はおいの投降を喜び、熊吉に礼を言ったという。以後、菊次郎は西郷従道の支援を得ながら留学経験を生かす場として外務省に入り、米国公使館や本省で�
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 1895年4月に台湾が下関条約によって日本に割譲されると、菊次郎は台湾総督府参事官心得を命じられ台湾に赴任する。この時奄美大島に寄り母に再会するが、これが母と会う最後となる。菊次郎34歳のときである。その翌年には台北県支庁長に任じられ、さらにその1年後、1897年台湾の北東部の現在の県知事に相当する宜蘭の初代庁長を拝命する。菊次郎は妻子と共に宜蘭の庁長官舎に引っ越す。当時の庁長官舎は800坪(2640平方メートル)の敷地に74坪(244平方メートル)の平屋建てで幹部職員や校長の住宅と共に残っており、修復されて内部を見学することができる。
 菊次郎が渡台した頃の台湾は、風土病、アヘン吸引、原住民族、土匪(どひ)の襲撃という四重苦と戦っており、初代樺山資紀台湾総督以来、2年9か月の間に、2代桂太郎、3代乃木希典と3人が交代し、その間の台湾に対する軍人による統治政策は、治安行政の域を出ず、いたずらに莫大(ばくだい)な国費を消耗するのみで、完全に行き詰まっていた。台湾統治の問題は世論の非難攻撃の的となり、台湾を1億円でフランスに売却せよという議論まで起こるありさまであった。

◆常に持ち続けた父・西郷隆盛の教え

 菊次郎が宜蘭庁長に就任して9か月後、1898年第4代総督に児玉源太郎が就任し、後藤新平を民政長官に抜てきして共に台湾にやって来た。児玉総督は後藤に絶大なる信頼を寄せ、後藤もその信頼に応えるべく、台湾近代化の青写真を作り実行に移す。ドイツで医学を学んだ後藤は、日本国内の法制をそのまま文化・風俗・慣習の異なる台湾に持ち込むことは、生物学の観点から困難であると考え、台湾の社会風俗などの調査を行った上で政策を立案し、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採用した。
 以前から、どうしたら固い島民感情を融和させることができるか昼夜悩んでいた菊次郎は、後藤新平の統治方針を理解し受け入れた。さらに父隆盛がよく口にしていた「天を敬い、人を愛する」という仁愛の無私無欲こそが難局を解決できる道だとも考えていた。原住民や台湾人に対する差別意識を持つ日本人が多い中で、菊次郎は違った。幼少期に苦労して育ち、西南の役で多くの優秀な若者の死を目の当たりにし自らも障害者になった菊次郎は、弱い者に対する優しさと誠実な心を自然と身につけていた。時間をかけて島民の心の中に、こちらの誠実な思いを溶け込ませる努力以外に方法がないという結論に達し、民衆のためになる治政こそが住民の心を開かせ、協力を引き出すことができると考え実行に移した。
 そのため宜蘭の住民の社会基盤整備に力を注いだ。河川工事、農地の拡大、道路の整備、樟脳(しょうのう)産業の発展、農産物の増収政策を実施すると共に教育の普及にも力を入れたため、治安が良くなり住民の生活を安定させることに成功した。
 その中で一番力を入れたのが、宜蘭の住民の悲願である宜蘭川の氾濫をなくすことである。台湾総督府と粘り強い交渉の末、巨額の補助金を引き出すことに成功し、第1期工事が1900年4月に着工された。1年5か月の歳月と巨費をかけた13.7キロメートルの宜蘭川堤防は01年9月に完成した。この工事を見守っていた宜蘭の住民は堤防の威力に半信半疑だったが、この時以降、宜蘭川の洪水は二度と起きなくなり、暴れ川の汚名を返上した。堤防の威力を体感した住民は歓喜し、菊次郎に対する称賛の声があふれた。住民のための善政を行った菊次郎は、宜蘭川一期工事の完成を見届け二期工事の完成に確信を持つと、依願退職して5年半に及ぶ宜蘭庁長の生活に終止符を打ち、02年台湾を後にした。

◆戦後も地元住民に愛されている

 完成した堤防によって、その恩恵の大きさに感激した宜蘭の住民有志は、1905年に『西郷庁憲徳政碑』と刻んだ石碑を堤防の近くの民家の庭に設置して菊次郎を顕彰した。1923年に、菊次郎の名前を取って「西郷堤防」と命名されると、宜蘭の人士により巨大な石碑が造られ、この上に原碑を載せて中山橋の西側に設置をした。3年後には第2期工事が完成し、宜蘭の街は強固な堤防に守られ、安心して生活できる環境が整った。

 しかし1945年日本の敗戦によって日本人はことごとく台湾から去り、その後に国共内乱で敗れた国民党軍とその家族200万人が台湾にやって来た。この戦後の混乱によって顕彰碑の存在が分からなくなっていたが、1990年に発見され宜蘭県文化局により中山橋横の堤防上に移築され、現在も菊次郎の徳政を後世に伝え続けている。
 長い碑文の最後には「西郷公をしのぶに糸を買って像を刺しゅうする事なかれ、家々に線香を立て供える事もしてはいけない。最もふさわしい事は晋人が羊祐を記念して彫った『落涙碑』のようにすることである。西郷公の栄光を永々に伝えるべく、ここに碑を建立し、公の徳をたたえるものである」と記し、「宜蘭廳全各界士人健立」と彫り込んでいる。今日、多くの日本人が台湾を訪れるが、このことを知る日本人は少ない。恩ある人を決して忘れてはいけないという宜蘭人の誠意には頭が下がる。

 帰国して2年後の1904年10月12日、第2代京都市長に就任し7年余りを勤めたが、その間にも宜蘭と同じくインフラ整備に力を注いだ。第二琵琶湖疎水掘削工事、上水道工事、道路拡張工事の「京都三大事業」を提案し、実施して京都都市整備の推進に大きな足跡を残した。菊次郎は宜蘭でも京都でも常にそこに住む民衆のために活動した政治家であったと言っても過言ではない。
その後、鹿児島に帰り、永野金山(山ヶ野金山)の島津家鉱山館長を命じられ、8年余り在任した。就任すると菊次郎は、鉱業所で働く多くの炭鉱作業員の子供の健全な心身を養う場として、自費で武道館の建設や夜学校の開設、テニスコートを作って、山の中の住民にテニスを広めたり、アメリカ社会から学んだ発想で職員クラブを作ったりした。
 菊次郎は1928年、鹿児島市の自宅において急死した。享年68、心臓まひだった。
さつま町では、文武両道の人材育成に当たった氏の功績をたたえ、現在でも毎年11月、『西郷菊次郎顕彰剣道大会』が開催されている。
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古川 勝三 FURUKAWA Katsumi 1944年、愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年、文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。『台湾の歩んだ道─歴史と原住民族』『台湾を愛した日本人─八田與一の生涯』『日本人に知ってほしい「台湾の歴史」』『台湾を愛した日本人2─KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯』などの著書がある。
現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら『台湾を愛した日本人3』で磯永吉について執筆している。

 

 

(引用終了)