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わたなべ りやうじらうのメイ ル・マガジン「頂門の一針」4554号
 2017(平成29)年12月23日(土)天皇誕生日

(見出し)
8月15日に終わらなかった
加瀬 英明
(私のコメント)

現在のインドネシアは侵略をした暴虐な日本から独立した、というような歴史観を持っているようだ。
これは欧米やシナには都合が良い歴史観だから、この宣伝は強力だ。
「歴史の真実」なんて言っているのは日本人だけなのだ。
世界の人々ははこういう歴史観の中に居るのだ、ということを日本人はわきまえて行動すべきだろう。


(私のコメント終)

(引用開始)
大東亜戦争は昭和20年8月15日に終わらなかった

年の8月17日は晴れたので、主催者の1人としてほっとした。

私たちは午後2時前に、市ヶ谷台にひろがる防衛省の構内の一画に建立さ れた、スディルマン将軍の像の前に集合した。

インドネシアのアリフィン・タスリフ駐日大使一行も、到着された。

この日は、インドネシア共和国の独立を記念する72周年のよき日だった。

定刻に、インドネシア独立戦争の英雄であるスディルマン将軍の銅像への 第2回目の献花式が始まった。

会衆は五十数人だった。はじめに藤井厳喜代表が像の前に進んで献詞を述 べ、つぎにタスリフ大使が挨拶文を読まれた。

インドネシア タスリフ駐日大使の挨拶

大使は、先の大戦中に日本軍政下で、インドネシア独立へ向けてインドネ シア壮丁を募って、郷土防衛隊(ペタ)が結成され、1944年にスディルマ ン将軍が総隊長となったが、日本が大戦に敗れた2日後に、インドネシア が独立を宣言すると、オランダ軍がインドネシアを再び植民地にしよう と、イギリス軍とともに侵攻してきた時に、スディルマン将軍が総司令官 としてペタを中心とした独立軍を率いて戦い、オランダもついに1949年に インドネシアが独立国であることを承認することを強いられたと、日本へ の感謝を滲ませながら、述べられた。

 偉大な国民はその国の英雄を称えます

大使が冒頭で、「偉大な国民は、その国の英雄を称えます」と前置きをさ れたので、私たちは全員が愕然として、深く恥じた。私たちは今日の日本 で、日本の英雄を賞讃することがあるだろうか。日本は二流の国民に落魄 (おちぶ)れてしまったのだ。

そのうえで、藤井代表とタスリフ大使が並んで用意された、上が赤、下が 白の花輪を持って、将軍像に捧げた。

献花がすむと、山本ともひろ防衛副大臣、 内閣総理大臣補佐官の柴山昌 彦参議院議員山田宏参議院議員が挨拶された。

小野寺五典防衛大臣が参列される予定だったが、ワシントンで2+2が催 されたのに出席されたために、山本副大臣が出席された。

私は献花式の呼び掛け人として挨拶したが、インドネシアの首都ジャカル タの軍事博物館に、日本の2枚翼の九五式初級練習機が展示されているこ とに、触れた。

胴体の日の丸の下の部分が、新生インドネシアが国旗として定めたメラプ ティ(紅白旗)として、白く塗り替えられているが、大戦中に日本の航空 兵の訓練が、石油資源が豊かなインドネシアで行われた時に、インドネシ アの青年にも飛行訓練を施したことから、オランダ軍の上空から、手掴み で爆弾を投下した。

私は「メラプティ旗を仰ぐたびに、日の丸が二重映しになります」と、述 べた。

旧陸軍の九五式練習機は、“赤トンボ”の愛称によって国民に親しまれた が、ジャカルタに展示されている“赤トンボ”が、今日、唯一つ現存する機 体である。

昭和20年8月2000人の日本人の志

日本が昭和20年8月に大戦に敗れると、2000人の日本軍将兵が帰国するこ とを拒んで、日本国民が幕末からいだいてきたアジア解放の一途の願い を果そうとして、インドネシアに残留して、独立軍に身を投じて戦った。 このなかで1000人が、アジア解放のために戦死され、インドネシア国立英 雄墓地に葬られている。

大東亜戦争は昭和20年8月15日に、終わらなかった。インドネシア国民が 戦い続けたのだった。

献花したばかりの赤と白の花が輝いて、両民族の生命(いのち)をあらわす ように、目に沁みた。

市ヶ谷台はアメリカの占領下で、不法な東京裁判が行われて、東條首相以 下7人が「アジアを侵略した罪」によって裁かれた場所である。あの無法 な裁判が進められていたあいだに、裁判を行ったアメリカ、イギリス、フ ランス、オランダ諸国が、何をしていたのか。

オランダはイギリス軍の援けをかりてインドネシアを、フランスもベトナ ムを再侵略して独立軍と戦い、イギリスはインパール作戦によって覚醒し たインド国民が、独立を求めて全土にわたって蜂起したのを、空から機銃 掃射を加えるなど、鎮圧をはかっていた。アメリカは白人による支配を復 活させようとして、これらの諸国に武器弾薬を供給していた。

スディルマン将軍は病いをおして戦ったが、独立軍が最後の勝利を収める のを眼にすることがなく、その直前に病没した。今日、インドネシア最大 の英雄の1人として、全国各地に銅像が建立され、肖像が紙幣にもあしら われている。

その独立の英雄の銅像が、市ヶ谷台を睥睨(へいげい)していることは、東 京裁判が“偽りの復讐劇”であったことを、雄弁に証している。

私の父俊一(としかず)は、開戦から終戦に至るまで、外務省北米課長をつ とめた。終戦の9月2日にミズリー号艦上で催された降伏調印式に、重光 葵全権の随員として、出席した。

 母の心は日本と共にあり

私は母に連れられて、長野県に疎開していたが、四谷にあった自宅が戦火 によって焼かれたために、父は母のか津とともに、信濃町の借家に移って いた。

か津が調印式に出席する前の晩に、父にあらたまった口調で、「ここにお 座りなさい」と命じた。父が正座すると、「私はあなたを恥しい降伏の使 節として、育てた覚えはありません。明日(あした)は行かないで下さい」 と、いった。父が「この手続きを踏まないと、日本が立ち行きません」 と、理を尽して説明したが、か津は納得しなかった。

か津は隣室へゆくと、父のために翌朝の新しい下着を揃えはじめた。父は 母が泣き伏す大きな声が伝わってきたと、後にこの晩のことを記している。

私は10月に、母とともに東京に戻った。上野駅で降りると、目の届くかぎ り焼け野原だった。父が夜遅く戻ってくるまで、起きていた。私は「こん なに東京がひどく壊されてしまったけど、日本は大丈夫?」と、たずねた。

父は「アメリカは日本全部を壊すことができる。しかし、日本人の魂を壊 すことはできない」といった。

 日本人の魂を壊すことはできない

中学に進んだ時に、私は父に「どのような想いで、ミズリーの甲板を踏 んだのか」と、たずねた。すると、父は「日本は戦闘に敗れたけれど、数 百年も白人の支配のもとに苦しんでいたアジア民族を解放したから、戦争 には勝ったという誇りを胸に秘めて、甲板に立った」「重光も同じ想い だった」といった。

スディルマン将軍の銅像は、鳩山由紀夫内閣の時に、インドネシア国防 省から防衛省に寄贈された。

防衛省が退役したヘリコプターを1機置いている構内の片隅に、設置し た。私は当然、防衛省が年に1度、インドネシア独立記念日か、スディル マン将軍の命日に省内で献花を行っていると思ったが、ただ放置されていた。

そこで、私は一昨年有志男女を集めて、インドネシア独立記念日に献花 することを思い立った。親しい国際政治学者の藤井氏に代表を引き受けて もらい、40人ほどの有志を募って、献花したところ、インドネシアのユ スロン・イザ・マヘンドラ駐日大使(当時)が聞いて、制服武官をはじめ 館員を連れて、参加してくれた。

その日は弱い雨が、私たちを濡らした。マヘンドラ駐日大使が喜んで、 新しい大使に交替しても、代々申し継いで参列することにしたいといわれた。

 献花が公式行事に

昨年7月に、私たち有志が赤坂のレストランを借り切って、翌月の献花 式の打ち合わせを行ったところ、マヘンドラ大使一行も参加された。とこ ろが、防衛省に申し入れると、像があった場所に、PAC3を常時配備す るために、像を梱包して倉庫に納めているということから、延期すること を強いられた。

今年、像がより良い場所に移設され、献花式が防衛省の公式行事とし て、格上げされた。

 


(引用終了)
(要約引用開始)
親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
http://oyakochoco.jp/blog-entry-1155.html
(前略)

『 蘭領東インドといわれたその400年について西尾幹二GHQ焚書図書開封Ⅱ』にファン・デン・ボッシュ総督の強制栽培が引用されている。
オランダは田んぼを潰して輸出作物のコーヒーやサトウキビを植えさせた。ために【飢饉で村々の人口が3分の1になった】と。

(中略)
ダラトで寺内寿一との会見から戻った【スカルノは昭和20年8月17日、インドネシアの独立を宣言】した。独立宣言の日付をオランダ人が使う【西暦ではなく日本の皇紀2605年に因んだ「05年8月17日」とした】のも、そうした背景を踏まえてのことと説明されている。
この通訳によれば問題のアンペラ橋が完成した1964年には日本の大使や政府代表も来たという。当然、橋に刻まれた「アンペラ」の意味も知らされたはずだ。日本がカネを出して、こんな中傷をされて、それでも抗議もしなかったということだろうか。
通訳はこうも付け加えた。

「日本がオランダより悪いことをしたというのはこの国では常識です」。

もし疑うなら

ジャカルタの独立記念塔を見ればいい」。
この塔は例の【皇紀2605年に因んだ独立宣言を出したスカルノジャカルタの中央部に建てた】ものだ。
独立記念塔の地下ホールにはインドネシアの歴史をジオラマで展示していた。
オランダがここを植民地にした17世紀からの展示には、【どこにもオランダの強制栽培も残忍なオランダ人農園主も出てこない】。
そして日本軍が来る。その説明文が凄い。

「オランダ軍が降伏すると、日本軍はインドネシアの資源や労働力を搾取した」。

次のコーナーは日本の降伏。

 史実は単純だ。日本が負けた後、【オランダは戦前同様にインドネシアの植民地領有を主張】する。ところがあの温順な現地民に抵抗する動きがある。その中心に【日本が指導して立ち上げた彼らの軍隊「ペタ」】があった。

 で、【オランダは降伏した日本軍に再武装させペタを潰せと命じた】。明らかな国際法違反だが、そんなことを白人は気にしない。日本が潰れた今、誰が文句をいうか。
一方、ペタはオランダ支配はまっぴらだ。日本軍から銃を奪って帰ってくる宗主国をやっつけると心を決めていた。

 彼らもまた【自分たちのエゴで動き、自分たちのためになるなら恩義など糞喰らえと日本軍も襲った】。日本はインドネシアパレンバン、メナドを含め840人が戦死した。そして【敗戦後、日本が育てたペタによってそれを上回る1200人余が殺された】。
【日本軍兵士はそれでも彼らとの友情を信じ2000人が帰ってきた宗主国オランダとの戦いに協力して、その半分が死んだ】。

この抵抗は4年に及び、最後は米国がオランダに戦後復興支援を打ち切ると脅して植民地支配の放棄を促し、インドネシアの独立を認めさせた。

 不承不承の【オランダは植民地支配の償いは一切なし、逆にパレンバンの石油精製所やその他の植民地時代に残した社会資本の代償として60億ドルを要求し、スカルノはそれにサインした】。
これが大まかな史実だが、独立記念塔のジオラマの戦後はまずスカルノの独立宣言の場面から始まる。

 そして次に来るのが帰ってきたオランダとの戦いではなく、スマトラ北部のアチェで【降伏した日本軍を襲撃して全員を虐殺した場面】になる。その次は【バンドンの憲兵本部襲撃、中部マランの日本軍飛行場の襲撃場面が並ぶ】。

まるで悪い日本軍を倒してインドネシアは独立したのだと主張しているように見える。アンペラ橋の文句と全く同じなのだ。もちろん【オランダが要求した植民地放棄料60億ドルの話は一語も言及されていない】。
その一方で、【スカルノは日本に戦時賠償を要求し、1958年藤山外相とスパンドリオが総額6億3000万ドルの賠償プラス経済借款で合意、調印している】。

ちなみに…【アンペラ橋はその戦時賠償の一環になる】。
彼らは弱い存在だ。独立した今でも旧宗主国オランダに文句も言えない。それはもっと酷い目に遭ったインドがいまだに英国に尻尾を振っているのを見ても分かる。【独立記念館に事実を書いたら、つまりオランダの植民地政策を書いたら、白人国家から総スカンを食う】。現に東ティモールだって簡単に奪われている。

(中略)

東アジアにやってきたキリスト教白人たち、その目的は、二つありました♥ 

一つはキリスト教の布教、二つ目が交易による利益です。

「 天文十二(1543)年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着しました。西洋人が日本にやってきたのです。
 当時、西洋は大航海時代に入っていました。これは西洋人から見れば大航海でしょうが、アジアから見れば西洋人による侵略の時代です。
 西洋ではイベリア半島からイスラム勢力を追い出し、スペインとポルトガルは競争して東洋に向かっていました。その目的は二つです。一つは東洋にキリスト教を布教し、それを足がかりに植民地にすることであり、もう一つは東洋から香辛料などの産物をもってくることです。」
その後、植民地において現地人の生命を無視した「強制栽培」等横暴なことを始めます。

いまでも、石油に次ぐ貿易規模を誇る一次産品が、「コーヒー」です。
「 フランスも、ドイツも、ポルトガルも、イギリスも、アフリカの植民地で同じような強制労働を課している。ヨーロッパの植民地当局は現金による納税を要求したから、アフリカの人々は否応なく賃金労働に従事することになった。これらアフリカ人の多くは、実際には、宗主国または民間投資家が管理する奴隷であった。
 例えばフランスの場合、マダガスカルでコーヒーを栽培・収穫するために発足した組織的な強制労働システムは、第二次大戦後まで続いていた。
 また、ポルトガルの強制労働システムの下では、アンゴラで三十万人以上の現地人が命を落としている。」
で、オランダがインドネシアやってきたことが、こんな感じです♥

「 1830年から1870年の間に、オランダ人はオランダ領インド諸島(現在のインドネシア)で、コーヒー、タバコ、インディゴ、砂糖等の換金作物を徴収する目的で強制労働制度を設けているが、この制度の一部は1917年になっても依然として続いていた。
 強制栽培制度として知られるこのシステムの下で、オランダの植民地当局は、ジャワ島の島民が「保有する土地の五分の一、あるいは一年に66日を、政府のための換金作物の栽培に当てる」ことを義務づけた税法を導入した。だが、実際には、…収穫の半分を巻き上げたのである。…換金作物の栽培のために多くの土地と労働力が転用され…そのため、ジャワでは食料の生産が激減し、あげくの果てに、定期的な飢饉に見舞われたのだった。
 1850年には、これによってほぼ30万人ものジャワ島民が命を落としている。」

(後略)

 

(要約引用終了)