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 『三橋貴明の「新」経世済民新聞』

     2018/1/4

(私のコメント)

私は全く見ないが、NHK大河ドラマ西郷隆盛だそうです。
下記の記事はその西郷隆盛を論じたものだが、分かりやすくまとまっている。
日本人は源義経忠臣蔵西郷隆盛が大好きです。
そういう精神構造を持っているのが日本人の特徴だ。
この記事では、それをグローバリズムナショナリズムに切り分けて考えている。
つまり、公(おおやけ)と私(郷里や仲間を含む)の葛藤として見ることもできるのではないか。
また、源義経には源頼朝忠臣蔵には将軍綱吉、西郷隆盛には大久保利通、といういずれも公を代表する強い相手が居る。
そして、いずれも敗れ去っている。
良く説明できないが、日本人の感性を考える手掛かりになります。

 


(私のコメント終)
(引用開始)


「『西郷どん』への不可能な注文」
From 小浜逸郎@評論家/国士舘大学客員教授

明けましておめでとうございます。

新年早々、少々ひねくれた話題を。

7日からNHK大河ドラマ『西郷どん』が
始まります。
大河ドラマなどほとんど見たことはありま
せんが、多くの国民が視聴するメディアで
西郷を取り上げるなら、ぜひ外してほしく
ないポイントがいくつかあります。

まず、彼は十一歳の時喧嘩に巻き込まれて
右腕の神経を切り、刀を握れなくなりまし
た。
軍人なので、さぞかし武勇に長けていたと
思われがちですが、彼はいわゆる「武士」
ではなく、味方を有利に導く方法を頭で考
えた軍略家なのです。

次に、彼は二度も島流しにあっており、鹿
児島に帰った時には、すでに満36歳にな
っていました。
第一次長征で大活躍するまでわずか半年、
薩長同盟まで二年、戊辰戦争で主役を演じ
るまで四年です。
幕末での彼の活動は意外に短いのです。

鳥羽伏見の戦いのきっかけを作ったのは、
西郷の謀略です。
徳川慶喜大政奉還によって倒幕の口実を
失った西郷は、江戸および関東の治安を攪
乱するために、同藩の益満休之助に秘策を
授けています。
益満は相楽総三という有能な壮士と共に、
江戸の薩摩藩邸に浪士や無頼漢を雇い入れ
乱暴・狼藉をはたらかせます。
徒党を組んで富豪の家に押し入ったり、強
盗・略奪・放火などを盛んに行なって、町
人の間にパニックを起こさせたのです。
これは関東各地に飛び火します。
幕府打倒を名目にして無頼漢や貧農が続々
と集まり協力します。

幕府は遂にたまりかね、薩摩藩邸焼き討ち
の挙に出ます。
大阪で江戸からの飛報を受けた慶喜以下幕
府の陣営は西郷の挑発に激怒し、それが高
じて鳥羽伏見の戦いへと至るのです。
岩倉具視三条実美はすでにこの時期には、
慶喜の辞官・納地の受諾回答を得ていて、
上奏を待つばかりでしたから、武力討伐に
は反対でした。
結局戊辰戦争は、西郷の謀略に発し、その
挑発にうかうかと乗った慶喜以下大阪の幕
府軍、および元から薩摩藩に敵対意識を募
らせていた会津・桑名両藩の血気によって
引き金を引かれたと言えます。

筆者はここで、西郷を道徳的に非難しよう
というのではありません。
まずは戦いに勝つために手段に躊躇しない
という、軍略家としての決断力と合理性に
着目することが大事だと言いたいのです。

反面、西郷という人は、権力の座に恋々と
するようなタイプではありませんでした。
明治二年、五稜郭開城後、中央政府に残留
を求められますが、断って郷里に戻ります。
また後に新政府の要請で参議や陸軍大将を
勤めますが、政府中枢部で意見が通らない
と、さっさと辞職願を出したり、鹿児島に
帰ってしまったりします。
帰ると、温泉に浸かってのんびり過ごすの
です。

征韓論に関しても誤解があるようです。
西郷は征韓論者の雄であるとふつう考えら
れていますが、ことはそう単純ではありま
せん。

明治三年、同藩の横山安武が、当時から盛
んだった征韓論に反対して、「国がこんな
に疲弊しているのに対外戦争など起こして
いる場合か」という意味の諌言書を太政官
正院の門に貼り付けて自刃するという事件
がありました。
鹿児島にあった西郷はこれに衝撃を受け、
奢る新政府と人心との乖離を憂慮して、せ
めて薩摩出身の軍人・役人だけでも郷里に
戻そうと計画します。
これを知って岩倉と大久保利通が、西郷の
出仕を促すために鹿児島までやってきます。
しかし西郷はなかなかウンと言わず、弟・
従道(つぐみち)の粘り強い説得で、政府
改革に乘りだすことをしぶしぶ承諾するの
です。

新政府に対する懐疑と批判は、『西郷南洲
遺訓』四の次の文句によく現われています。

しかるに草創の始めに立ちながら、家屋を
飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を
謀りなば、維新の功業は遂げられまじきな
り。
今と成りては、戊辰の義戦もひとえに私を
営みたる姿に成り行き、天下に対して戦死
者に対して面目無きぞとて、しきりに涙を
催されける。

彼が中央政府の政策に関与したのは、弟の
説得にしぶしぶ承諾してから明治六年九月
の下野に至るまで、わずか二年八カ月とい
うことになります。
この期間だけを見ても、彼が権力に恋々と
するような意思など片鱗もなかったことが
わかります。

征韓論は幕末からくすぶっていたのですが、
朝鮮が維新政府の国書を拒絶したことが直
接のきっかけです。
板垣退助が武力を背景とした修好条約締結
征韓論)を主張したのに対して、西郷は、
自分が平服で全権大使になる(遣韓大使論)
ことを主張しました。
西郷案が通るのですが、明治天皇の意向で
岩倉らの帰国を待つことになります。

明治六年九月、岩倉らが帰国すると、岩倉、
大久保、木戸孝允は内治優先を唱え、西郷
と対立します。
その結果、西郷は辞職し、続いて板垣、副
島種臣、後藤象二郎江藤新平ら政府要人、
さらに征韓論・遣韓大使派の軍人・政治家・
官僚ら六百名が次々と辞職します(明治六
年の政変)。

これは、維新政府の結束力の欠如を示すと
ともに、西郷の実行力に信頼を寄せる人々
がいかに多かったかをも表しています。

西郷と言えば、だれしも西南戦争と結びつ
けますが、これにも一部に誤解があるよう
です。
西南戦争は、西郷が領導したのではありま
せん。
帰郷した西郷の前には、中央政府に不満を
持つ血気盛んな若者が溢れていました。
これを統制する必要から有志者が西郷には
かり、私学校を創設します。
この私学校はもちろん軍事教練と結びつい
ていましたから、結束が強まって世論を牛
耳るようになり、それが戦争気運へと発展
していくのです。
西郷は、若い不満分子の暴発を必死にコン
トロールしようとしますが、遂に抑えきれ
なくなり、悩みに悩んだ挙句、首領の位置
に立たざるを得なくなるのです。
いかに維新政府に批判があったとしても、
せっかく自分も参画した維新政府の理念を
自らぶち壊すような反乱に率先して加担す
ることを潔しとしなかったからでしょう。

こうして西郷の動きを見てくると、二つの
ことが言えそうです。

一つは、彼がもともと質実剛健を尊ぶ武人
気質で、戦いを好むタイプではある一方、
大軍人らしい寛大で鷹揚な精神の持ち主だ
ったことです。
自らの役割に忠実で、いったん引き受けた
以上は猛然と取り組みますが、それが達成
されると「わがこと終われり」として、さ
っさと私生活を楽しむ境位に落ち着こうと
します。
苦労人独特の腹の据わった態度なのです。

もう一つは、彼の心のよりどころが、あく
まで郷里の薩摩にあったということです。
西南戦争は、この当時士族の反乱として中
央権力を脅かした最大の戦争ですが、西郷
がその首領として仕方なく押し立てられた
のも、彼の中に郷土愛が深く根付いていた
からこそでしょう。

西郷の心情が還帰していく共同性とは、自
分が生まれてきた時からなじんできた土地
と人々の生活と言葉、それらと温かい血を
通わせることのできる範囲に限られていま
した。
言葉で表すなら「社稷」(しゃしょく)と
呼ぶのが最もふさわしいでしょう。

 これに対して、西郷と同郷人で刎頸の友
として共に倒幕のために力を尽くした大久
保は「近代国家」という超越的な観念のた
めに殉じた人でした。
明治六年以後、彼はほとんど独裁者として、
その目的のために強引に邁進していきます。
大久保の目指していたのは、あくまで西洋
並みの近代国家であり、その実現のために
は冷酷なまでの徹底性が要請されました。
大久保はそれにふさわしい人でした。
自ら故郷を捨てて中央政権にとどまり、刎
頸の友を敵とすることも厭わなかったので
す。
それは必要な方向性ではありましたが、そ
のために払われた犠牲が数え切れないもの
であったことも事実です。

土地に結びついた温もりと懐かしさが保存
された「社稷」と、私生活から超越し、法
や制度を整備して冷厳に人民を治める「近
ナショナリズム」。
後者が前者を下位におとしめていく過程こ
そ、日本近代国家の形成を意味するのです
が、西郷と大久保が袂を分かつ点もそこに
あったと言えるでしょう。

近代ナショナリズムは、大久保以後も、こ
ういう矛盾を暗部に抑え込みながら進むの
ですが、これからNHKで始まる『西郷ど
ん』で、こうした近代史のねじれをうまく
表現できるのかどうか。
筆者は、はなはだ疑わしいと思っています。
ただありきたりの「維新史の悲劇のヒーロ
ー」として描かれるだけなのではないか、
と。

西洋近代の帝国主義の歴史をグローバリズ
ムの一形態と見るなら、避けられなかった
日本の開国・近代化の歴史も、グローバリ
ズムの受容と抵抗の歴史と見ることができ
ます。
そのとき、西郷が守ろうとしたものが何で
あったのかを正確に読み取ることは、現在
の私たちになにほどかの教訓をもたらして
くれるのではないでしょうか。

福沢諭吉は、西郷戦死の直後に筆を執って
西郷を擁護した『丁丑公論』(ていちゅう
こうろん)の緒言で、次のように書いてい
ます。

今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いた
るものにて、余輩の考えとは少しく趣を異
にするところあれども、結局、その精神に
至りては間然すべきものなし。


(引用終了)