1803-11-1217-3/17メルマガブログ転送山村義明著神道説明

(本の紹介)

山村義明著
日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか

第一章「スポーツと神道の深い関係」から第二章「神道と教育の歴史」まで


(要約)

1.神道とは、究極的には「感謝」と「祈り」を繰り返すことによって、「蘇り(よみがえり)」を見せるという「好循環のサイクルシステム」です。
自分のやり遂げたいと願う計画や目標についても、神様の前で誓います。
それがうまくいけば、今度は神様に感謝をしながら報告し、ときには「お祭り」をします。
まず自分が生かされていること、あるいは努力できる環境にいることに「感謝」しながら、神様にまた祈るわけです。
そうして頑張ってし実践していくうちに、ある程度の成果が生まれ、自分がやっていることに対して自信や誇りが付いてきます。
自分に自信と誇りができると、また頑張ることができます。
これを繰り返していくうちに、自分の目標は達成され、大きな成果を上げることができることになります。
このような「好循環のサイクルシステム」が完成されると、人間はいつまでも物事がうまく運ぶという「運」や「ツキ」も手に入れられるというわけです。
2.最近の経営学の本には生産品質管理のための「PDCAサイクル」すという方法が書かれています。
Pはプラン、Dはドゥ、Cはチェック、Aはアクトの略で、計画、実践、評価、改善実行の順に繰り返す、ということです。
これを神道に当てはめると、目標への祈りや誓い、自らの努力、報告、最終的な成果や勝利、を繰り返すことになります。
このように、理論的にも神社の参拝は効果があるのですから、実際に企業経営者でも、日常的に忍者の参拝をしている方が多いのです。
3.「武道の神」は「香取神宮経津主神ふつぬしのかみ)」「鹿島神宮武甕槌神たけみかずちのかみ)」を初めとして多くの神が存在する。
武道と神道の間には、本来は切っても切れない関係にあります。
真の日本の武道の思想とは、まず自分の能力や置かれている状況の足元を見つめ、相手のことを理解することから始まる、という考え方です。
武道を突き詰めて行くと、単に相手を倒す、あるいは任す事を考えがちですが、本当は自分が相手を包容し、共和党融合の世界にコントロールして、相手に対してことをおさめて終わる、ということに尽きます。
礼儀作法はその表れの1つで、最後には神人合一と言う調和の世界に重要性があるのです。
ところが、西欧の格闘技の考え方はそうではありません。
それについてはキリスト教神道の違いが挙げられます。
4.相撲は神道そのものといっていもよい。
土俵は神聖な場所で横綱はしめ縄を付けて土俵入りをする。
力士達は力水を口に含むが、神社参拝の時の「手水(ちょうず)」と同じものだ。
「四股(しこ)」は力の強い力士が地上の悪霊や禍事(まがごと)をふみつける「祓(はらえ)」の意味を持つ。
外国人力士のようにガッツポーズをしてはいけないのは、相撲自体が神事だから相手に対しての礼、即ち思いやりが求められるからだ。
戦後アメリカ占領軍GHQの為になるべく神道色を消して、スポーツ化することが行われ、今は神事の側面がおろそかになっている。
戦前は天神七代、地神五代を祀ったから日本そのものといってよいが、戦後は相撲にゆかりの深い三柱の神だけになった。
(天神七代;日本神話で、天地開闢(かいびゃく)の初めに現れた7代の天神。日本書紀では、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、(以下は対偶神。二神で1代と数える)埿土煑尊(ういじにのみこと)・沙土煑尊(すいじにのみこと)、大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の7代。)
(地神五代;天神七代に続き、神武天皇以前に日本を治めた5柱の神の時代。すなわち、天照大神天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の5代。)
(さらに、地神五代の最後の鸕鷀草葺不合尊が神武天皇の父であり、皇統として現在まで連なる。)
現在の相撲三神とは、「戸隠神社」戸隠大神(天の岩戸を開けた怪力の天手力雄命(あめのたじからおのみこと))、
鹿島神宮武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)(出雲国譲りの時、力勝負で勝って建御名方神(たけみなかたのかみ)を長野県諏訪市に放逐した神)、
野見宿祢命」(のみのすくねのみこと)(相撲の起源といわれる垂仁天皇の展覧試合で大和の当麻蹴速(たいまのけはや)を蹴り殺して勝ったと言われる)
相撲に限らず、戦後は神道が忘れ去れている。
一般に神様が去ることを「神去り」と言って、本場所千秋楽には「神送りの儀式」が行われる。
だが、日本人全体の「神去り」現象が続いている。
5.戦後の教育では意識的に神道は教えられなかった。
アメリカ占領軍GHQの「神道指令」などの命令で、日本人から神道を徹底的に遠ざけた。
神道(しんとう)を「しんどう」と濁って読む人が増えている。
だが、日本人は生まれてから亡くなるまで生活習慣や文化、衣食住の行事や意識の中に深い関わりを持っている。
高校教科書ては神道の説明があり、
「古代の日本では人間の力を超えた不可思議な自然現象や存在物は神と呼ばれた。このような古代の信仰はアニミズムと呼ばれる。」
とあるが、アニミズムとは、「物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考で、宗教の初期段階」と定義されている。
そこで日本の神道も「遅れた原始宗教」というレッテルを張られている。
これは明治維新以来、日本がいかに遅れた文化か、進んだ欧米に学べ、と言う進歩主義者たちの思想によって広まった。
しかし今では、この学説は学会でも否定されている。
神道は精緻な祭司と組織があったため、原始宗教ではないと考えられている。
高校の教科書には神道についてたくさん書かれるようになった。
6. 日本の神道とは、「日本人の生き方そのもの」なのです。
神道は、寛容性を持って渡来した外国の宗教を受け入れます。
ところが、いざ受け入れて、その宗教が力を持っても、相手と融合し和合する「譲り合いの精神」「おもてなしの精神」を棄てないため、最終的にいじめられてしまうのです。
過去には「明治時代に国家神道が成立した」などと言われたが、今はこういう敵視する記載はなくなった。
明治期以降の神道は国教ではなかった。
明治政府は神道を国教化しようとしましたが、結局国民の反対にあってできなかったのが歴史の真実だからです。
権利を持った、たったひとつの宗教が国教になった場合、他の宗教を完全に排除するかして、普通は1つに統一してしまう。
また、神様も統一して、例えば天照大神だけを信仰し、神社も全部それに統一される。
キリスト教イスラム教の国家では1つの神様に統一されでいる。
ところが日本は古来から異なる穂祭神を守り、仏教も力を持っていた。
7.神道の「禊(みそぎ)」と「祓(はらえ)」という考え方は現代でも通じます。
何か問題があれば、まず自分の身辺をきれいにしておく。
片付けたり、整理したり、身だしなみを整えたり、するだけでなく人間関係のコミニケーションもきちんと取っておく。
これがみそぎに朝います。
またトラブルはできるだけ早くリセットしてしまう。
原因を割り出して、トラブルその物をリセットしてしまうことです。
これは神道の祓に当ります。
個人の不安や悩みに向き合い、将来に向かうには、「浄明正直(じょうめいせいちょく)」と言う考え方が神道にあります。
キリスト教では「愛」、仏教では「諦め」がそれに当たります。
神道の「浄明正直」は、清いこと、きれいなこと、明るいこと、自分に正直なこと、が説かれている。
本来の日本人は何事もそう簡単にあきらめない。またいつまでも怯えてクヨクヨしても仕方がないから明るく過ごす。
正しくまっすぐに生きる、ということを大切にしてきました。
(いつも上機嫌でいること、過去のことは捨てて未来志向でいること、心を空っぽにすること、立ち向かう事、それがどうしたと開き直ること)
8.仏教は「人間が目指すべき「無」と「空」の心の体系である」と言える。
それに対して神道は、「人間と神々の魂が共同で働く有の体系」である。
すなわち神道は「人生には何もない」ということを説くのでなく、「何かがある」と考えて私達自身が明るく努力して乗り切っていく、という考えです。
神道は今でも通じる実用的で現実対応能力を持った日本人の生き方と考え方になっているのです。

(要約終)