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学校では教えてくれない保守思想01
2013/03/05 に公開
もぎせか塾2013春 2013.3.3 浦和コミュニティセンター
1804-4-1231-4/6メルマガブログ転送保守思想講義1

(前回の記事の要約)
(引用開始)
1804-4-1231-4/6メルマガブログ転送保守思想講義1
(要約)


今まで戦後の常識である、自分たちが戦争をしなければ戦争は起きない、という思想が覆る時代が来た。
自分たちが戦争したくなくても相手が戦争を望めば戦争は起きる。

1945年昭和20年敗戦から、日本は自国を守れない国になった。
これらの日本を支配する思想、又は憲法の思想を「リベラル」と言う。
リベラルは、一般的に人権、自由、平和を求める、思想をいう。
我々はこのリベラルを批判する立場だが、この立場に立つ思想を「保守」という。

「保守」とは何か、ということを勉強する。
革新progressivism、改革reformation、革命revolution、
に反対する概念として、保守conservatismがあるが、この言葉がどうして生まれて来たか、を勉強する。
この言葉は、イギリスで生まれた。
学校では意図的にこの言葉については教えない。
教科書などには出てこないが、これも戦後の歪んだ思想の現れだ。

(私の注;
保守思想とは福田 恆存(ふくだ つねありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98)が言うには、
「生活態度」のことである。
生活態度というのは日常無意識のうちに文化や伝統、宗教や道徳に従って生活し、善悪の判断をしている、そういうものを保守、という。
例えば、神道は日本人の生活の中に根ずいている。
欧米ではキリスト教文明だ。
皆無意識の中に組み込まれた遺伝子レベルの行動を含む。
こういうものをリベラルは古い因習などと言って嫌うが、それは彼らの教義をそれに置き換えたいのだ。
保守思想は、リベラルのように教義や思想に従っているわけではないから、わかりづらいのだ。
簡単に言えば、リベラルは人権、平等などの理想的思想から現実を考え、保守は現実の生活から物を考える、ということだろう。

リベラルが世界を支配するにつれて、大虐殺が起きたりして、それでは困るから保守の側も理論武装し始めた、というのが保守思想で、積極的なものでない。


最初の話は、英国のマグナカルタにさかのぼる。
(私の注;マグナカルタhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF
直訳では「自由の大憲章」)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章である。
イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。


ヘンリープラクトンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%B3
13世紀イギリスのローマ法学者、聖職者。
イングランドにも文字になっていないが、ローマ法と同じようなアングロサクソンの法がある、と考えた。
この慣習法を文字にして体系化した。

「国王といえども神と法の元にある。なぜなら、法が王を作るからである」
13世紀の段階で、王様が法を作るのでなく、法の下に王が居て、王様も法に従うのだ、と言っている。
この考えから、その法を作る為に議会が生まれ、議会のコントロール下に王様が入るシステムが可能になった。
(要約終)

(今回ここから)
エドワードコーク
16世紀から17世紀

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AF
サー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke, 1552年2月1日 - 1634年9月3日)は、イングランドの法律家・政治家。
中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「法の支配」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。
(私の注;当時の時代背景
コークはエリザベス女王の次の王様であるジェームズ一世時代の人。イギリスが絶対王政で権力が王様に集中した時代。
国王ジェームズ1世が王権神授説をもって国王主権を主張したのに対して、
コークが「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と主張したところ、
気分を害したジェイムス1世が「王である余が法の下にあるとの発言は反逆罪にあたる。」と詰問したのに対し、
コークは、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺を引用して諫めたとされる[2]。

ただしコークは、国王・王室を篤く崇敬する国王大権の支持者で、反国王・反王室のイデオロギーの持ち主ではない。
コークの主導の下、国庫歳入を保留することにより、1628年に庶民院イングランド王チャールズ1世に、コークの『権利の請願』を奏上し承諾を得た。
***
1610年のコークによる医師ボナム事件の判決は、コモン・ローに反する法律(制定法)は無効であると判示したとされ、
「アメリカ建国の父」であるアレクサンダー・ハミルトン違憲立法審査を考案する契機となったとされている。
コークの著書の写しは1620年にメイフラワー号に乗って北アメリカに渡り、
イギリス植民地のすべての法律家がコークの本、特に『判例集』『イギリス法提要』に学んだ。)

(私の注;ジェームズ6世(スコットランド王として6世、イングランド王として1世)はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。
ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である。
***
ジェームズ一世はスコットランドイングランドの統一を望み、強硬に反対されたが、現在の英国国旗「ユニオンフラッグ」を制定するなどした。
ジェームズ一世の次の王様はチャールズ一世で、彼はその後清教徒革命(1641年)で処刑された。
***
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、清教徒革命に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。)
***

当時の王様であるジェームズ一世は、フランスの王権神授説を真似して国王に絶対的な権力主権があると主張した。
コークはそれを否定し、国王といえどもコモンローには従わなければいけない、と言った。
当時すでに忘れ去られていたマグナカルタを根拠に、プラクトンの法理論も合わせ、
「王といえども法には従わなければならない」「マグナカルタの上に王を持たない」といった。
国王に対し「権利の請願」(議会の承認無しに税を取らないなど)を提出したが、この文書の起草者がコークだった。

これで分かるように、保守思想は絶対王政専制君主制を認める、ということではない。

コークの思想まとめ

1.イギリス古来の制定法、判例、慣習をまとめたものをコモンローという。
2.コモンローは英国臣民の生命、自由、財産、道徳を守ってきたものだ。
3.コモンローは固定的なものでなく、発見されて追加されるものである。
4.決まったものでなく、時代によって変わってゆくものだ。その変化は判例によって行われる。

この人の「イギリス法提要」はアメリカに渡り、アメリカ独立戦争と建国に大きな影響を与えた。

コークについては学校で絶対に教えない、習わない。
(私の注;学校で教えないのは、意図的に情報を隠すことによって自分たちのイデオロギーに誘導しようとしているから。
丁度今のマスゴミが「報道しない自由」「編集権」などと称して自分たちのイデオロギーに都合の悪い情報を報道しないのと同じ)

ウィリアムブラックストン

(私の注;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3
ウィリアム・ブラックストン(William Blackstone、1723年7月10日 - 1780年2月14日)は、
イングランドの法学者である。
代表的な著作である "Commentaries on the Laws of England"(1765年-1769年出版、『イギリス法釈義』)は、
イギリス法の解説書であり、コモン・ローの歴史を研究する上で必携の書となっている。
ブラックストンが執筆した『イングランド法釈義』は現代アメリカの裁判においてもしばしば引用され、
英米法のなかではなくてはならない書のひとつとなっている。)

コモンローの集大成を行って「イングランド法釈義」という本を書いた。
この本もアメリカ独立に影響を与えた。
すなわち、イギリスの王様に逆らってもよいのだ、という理屈の根拠を与えたので独立が出来たのだ。

(私の注;この講義は、イギリスのマグナカルタに始まるコモンローについての解説になっているが、これが保守思想とどういう関係があるのか。
それは、いわゆるリベラル思想に対立する保守思想を理解するには基礎知識として英国の歴史の流れを知っておく必要があるからだ。
リベラル思想というのは、ルソーの社会契約説からフランス革命啓蒙思想など、ヨーロッパ大陸で主にで出来上がってきたものだ。
つまり、リベラルと保守というのはフランスとイギリスの歴史がそれぞれ裏打ちをしている。
勿論両国だけでなく、ドイツやアメリカなどいろいろな影響があるが、簡単に言ってしまえばイギリスとフランスの歴史だ。
その為に、リベラルと保守の違いを知るには両国の歴史を学ぶ必要があるのだ。

(私の注;なお、日本には日本の歴史があって、それに伴う思想があるが、戦争に負けてから顧みられない。
日本の思想を論じたものは沢山あるが、日本の思想ではリベラルと保守という切り分けがそもそも無いのだ。
儒教本居宣長国学の対立や、儒教内の朱子学陽明学の対立など、思想上の対立はあるが、歴史が違うから似ているかもしれないが別物だ。
リベラルと保守は、欧米のユダヤキリスト教文明を基盤として生まれたもので、シナ文明や日本文明とは違った文明の話として見た方が良い。
あまり、欧米文化だけのめり込んで視野狭窄にならない方が良く、日本の神道国学論語、仏教哲学などもなども研究しておいた方がよいだろう。)
(私の注;イギリスの保守思想は、要するに王様が勝手に重税を課してもらっては困る、という話が出発点だ。
上記の講義で言えば、マグナカルタはジョン王が戦争に負けて増税しようとして失敗したのだし、
ジェームズ一世もチャールズ一世も増税が反対された。
アメリカ独立のきっかけは、茶に関税を掛けようとしてもめた事件だ。

税金を取るな、という現実から出発して皆が困ることを修正しようとしているだけで、保守だから反対しているわけでない。
税金取られて困るから、その点について王様に反抗しているので、理念からでなく、生活が原点になっている。
リベラルの人権などの美しい話は出てこないので、人間には人権があるから税金を負けろ、なんてことは言っていない。

注意すべきは、税金を払うこと自体は否定していないし、王様も始めは否定はしないところで、ここに保守思想がある。
これがリベラルの急進的な革命と異なる考えだ。

王様の方から見ても、重税で人気が無くなればその地位は危うくなるから、コモンローに従った方が良い。
反対すると、清教徒革命でチャールズ一世は殺されたようになる。)

(私の注;この講義では王様に反対する側を保守としているが、実は王様に反対するのだから、そちらの側が革新のはずだ。
王様の言うことを聞くのが保守で、聞かないのがリベラル、という切りわけでないなら、その違いは何か。
保守は昔の儘にして変えない、という思想でないのでリベラルと重なる部分もあって、わかりずらいのだ。
例えば、自由というのは保守も信奉する。マグナカルタも別名「自由の章典」という。

違いは一応、問題解決の方法として急進的でなく、極力変える部分を少なく、昔の状態を残しながら変える、という方法が違う、ということなのだろう。
これと対極にあるのはフランス革命で王様を殺して全部一遍に変えようとした。
これがリベラルの原点で、こういう急進的な動きを否定するために、マグナカルタから勉強しているわけだ。
次回のエドマンドバークで、いよいよフランス革命とバッティングするが、その理解のための基礎知識がこれまでの講義になる。)

 

 

 

 

(引用終了)