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「日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか 単行本 ? 2000/7/1小室 直樹 (著)」の解説
(見出し)
本来の仏教からは、完全に逸脱している「般若心経」
2018-06-16

(私のコメント)
前回は宗教を「啓典宗教」とそれ以外の宗教とに分ける考え方を解説したものだった。
(引用)

【「啓典宗教(revealed religion)」】とは、【啓典(正典)を持つ宗教】である。【ユダヤ教】、【キリスト教】、【イスラム教】は啓典宗教である。【仏教、儒教ヒンドゥー教道教、法教(中国における法家の思想)などは啓典宗教ではない】。

「啓典」とは、【最高教典】のことである。

 「啓典」は、【絶対である】か、【ほとんど絶対である】。
イスラム教における【『コーラン』(クルアーン)】、キリスト教における【『福音書(ふくいんしょ)』】(『新約聖書』の「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の四福音書)、ユダヤ教における【『トーラー』】(モーセ五書。『旧約聖書』の最初の五巻。すなわち、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)は啓典である。

 この意味での啓典は仏教にも儒教にも、ヒンドゥー教にも、道教にも法教にもない。ゾロアスター教マニ教などにもない。

(引用終)
キリスト教に入信すると、「あなたは神を信じますか」と聞かれる。
「はい、信じます」と答えないとキリスト教徒になれない。
ここで言う神とは啓典宗教として絶対的経典となる「聖書」に定義された神を信じるか、と聞かれているのだが、日本人は得てして誤解する。
自然に何となく畏敬の念を抱く直観的な神を想定してしまうのだ。
そうではなく、「信じるべき神」とは聖書に書かれた論理的に存在が証明されている神のことだ。
当然聖書を読んでどういう神か知ったうえで「信じます」といわねばならないが、日本人はそういう理解がないのではないか。
では、日本人の理解する神とは何か。
それを端的に表すのが下記の「般若心経」だ。
般若心経には日本人の宗教観が現れていて、啓典宗教の絶対的最高経典とは異なる。
このブログによれば、それはインドの仏教とも違うそうだから、日本独自のもの、ということになる。

(引用)

さて、昨日のところで、日本へと伝わった「仏教」が、その当初から国家統制下にあった、つまり僧尼は国家から免許を交付される「国家公務員」でしかなかく、
鑑真が伝えた、本来の仏教が重視する仏教徒の務めである「戒律(かいりつ)」が、やがて無くなってしまい、
本来の仏教とはまったく異なった「日本独自の仏教」へと発展していきます、と書かせて頂きました。
(引用終)
上記の引用の通り、律令制度を取り入れたのだが、全て日本に合わせて変えられてしまった。
例えば、鎌倉時代以降の日本を支配した「征夷大将軍」は令外官といわれて、律令制度には無い職種だ。
このように日本は外国の文物を皆日本に合わせて作り替えてしまう。
仏教もそうで、日本的に変わった例として、般若心経はそれを良く示している、という。
般若心経で説いているのは「我々の住む世の中というのは、全て空である」ということだ。
啓典宗教の「神を信じるか」という話とは全く違う、ということが良く分かる。
神様がいる、というのと「空」だ、というのでは真逆のことだ。
ただし、「空」とは「無」ではない。
「無」だとニヒリズム、すなわち「価値の喪失」に繋がってしまう。
般若心経の言う、「空」とは無でもなく有でもない、無でもあり有でもある、それらを超越したものだ、という。
禅宗ではそれを「直指人心」「見性成仏」「不立文字」と言って理屈でなく、感じ取るものだ、と教える。
そこに理屈で確立した神を信じる、という要素は無い、というよりそれを全く否定している。
そして、本来のインドの仏教は大変な修行をしてその境地に達する、ということになるが、日本の仏教は「お経を唱える」又は「お経の題名を唱える」だけでよい、としてしまった。
なお、大変な修行を要する、という点では仏教が南方に伝わったビルマやタイの仏教である小乗仏教上座部仏教)が本来の仏教からすれば正当であることを示している。

日本の仏教は、ますます一神教の神、啓典宗教の神からは遠くなってゆく。
(引用)

啓典宗教においてはどの宗教においても、例えば【神が存在しない】といったらこれはキリスト教徒ではない、イスラム教徒ではない、ユダヤ教徒ではない。そのため、キリスト教の神学テキストなどを読んでみても、【神の存在の証明】にそれはもう厖大(ぼうだい)なページが割かれている。
(引用終)

上記引用の通り、啓典宗教である一神教では「神が存在する」ということが前提になる。
逆に、日本仏教の般若心経は「この世は空である」すなわち仏様さえもない(無いというのでなく空)、と言っている。、
だから、キリスト教徒になることは「この世は空である」を否定し「聖書経典に書かれた神を信じる」ということになる。
(引用)
この古代ギリシャから始まり、以後、近代に至るまで西洋哲学の中心となった「存在論オントロジー)」は、簡単に言いますと、その対象が「在るのか無いのか」という問いに対して、「在る」のであれば、その普遍的な根本となる原理を頭を使って考え認識していくという学問になります。

で、本文中に書かれていた「啓典宗教は、存在論、すなわちオントロジー(ontology)に貫かれている。」という部分は、「啓典宗教」においては、まさしく「神が存在するのかしないのか」というところから出発し、「神は存在する」とした上で、そこから世界の普遍的な根本となる原理を考えていこう、という流れになっていて、その際に、矛盾が生じないように論理的に考えていく作業が行われます。

つまり、「啓典宗教」というのは、非常に論理的に構築されているものということになります。
(引用終)
般若心経は上記引用の通り、「存在論」の否定から始まっているがら、真っ向から対立するものであるが、重要なのは「存在論」が非常に論理的数学的に構築されたものだ、という点だ。
ここを日本人は見誤るから気を付けないといけない。
大東亜戦争で負けたのも、明治維新で黒船に結局勝てないで開国したのもこの論理的、ということが分からなかったからだ。
ないしは分かっていても日本的に解釈してしまったからだ。
これは長くなるので話をここまでにするが、日本と日本人の歴史文化を理解するうえで重要なことだ。
現在の北朝鮮や中国、トランプさんの動きの背後には、こういう宗教を理解しておかないと分からないことも多い。
共産主義マルクス主義なども宗教から一番遠いようだが、実は宗教そのもの、新興宗教の一種と理解した方がよいのだ。
もう少し当ブログの宗教に関する部分を引用してみよう。

 

(引用)

一昨日のところで、「般若心経」、正式名称は「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみったしんぎょう)について書かせて頂きましたが、そこで説かれている教えを簡単に示しますと、次のようになります。

まず、「色不異空、空不異色」、「色即是空、空即是色」、すなわち「物質 = 空(くう)」という真理を悟ることが重要である、と説き、続いて、

その真理を悟る仏も、悟ろうとする菩薩(=修行者)も、「智慧波羅蜜」に依拠している、と説き、続いて、
 
だから、「智慧波羅蜜」という呪文を唱えよう、そうすれば成仏できる、と説いています。

波羅蜜(はらみつ)というのは、大乗仏教の経典である「般若経」に書かれた「6つの修行」のことで、①布施(ふせ:人々に施すこと)、②持戒(じかい:戒律を守ること)、③忍辱(にんにく:耐え忍ぶこと)、④精進(しょうじん:努力すること)、⑤禅定(ぜんじょう:いわゆる座禅のこと)、⑥般若(はんにゃ:知恵の意。「論理的」に考え真理を悟ろうということ)、であり、その中で最も重要なのが⑥の般若、つまり「智慧波羅蜜」という修行になります。


(引用終)
上記を要約すると、般若心経は
1.「物質は空である」という真理を悟こと
2.その心理を悟る仏と悟ろうとする修行者である菩薩は、「波羅蜜」に依拠している。
3.「波羅蜜」とは知恵によって真理を悟る、すなわち論理的に考えて真理を悟ろうとすること、を言うのだが、それを修行によって達成する、という意味も含む。

つまり、修行によって智慧を働かせ、真理である「空」をさとる、ことになる。
そういう悟るための修業をしているのが菩薩で、皆そういう修行をしよう、というのが般若心経の趣旨になる。

ところがここから急に話が変わってしまうのだ。
4.「波羅蜜」の呪文を唱えれば仏様になれる。
という文言が最後に付け加えられていて、般若心経の最後のところでどんでん返しがあるのだ。
どうして呪文を唱えたら真理が悟れるのか、論理的な説明がない。
ここが、実は日本仏教だ、ということだ。

(引用)
呪文を唱えるだけで、仏になれる、とは、本来の仏教では説かれてはいません(笑)

「呪文を唱える」ことと、「仏になれる(成仏)」こととの間には、何ら論理的な、「数学的」な要素がありません。

仏教の信仰の問題とは関係なく、私たち日本人は、このことを理解しておく必要があります。
(引用終)
呪文を唱えればよいなら、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも成仏できるし、何より般若心経を唱えれば成仏できることになる。
じつは武士たちは、これがとても都合が良いのだ。
武士は敵を殺さないといけないが、殺すと恨みをかって「たたり」があるといけない。
例え敵でも殺すのはうしろめたいが、般若心経を唱えれば殺された敵でも成仏できるのだから心の呵責を軽減できる。
日本で般若心経が一番普及した背景にはこんな事情もある。

啓典宗教である一神教は神の存在が生命線だから、こういう曖昧な呪文なんてことでは成り立たないのだ。
「呪文を唱えれば神が現れたり、神になれる」なんて説いたら、だれも入信してくれないのだ。
「じゃ俺がぶん殴るから呪文を唱えてみろ」なんて言われたらお終いだ。
そこで啓典宗教であるキリスト教は何世紀にもわたって巨大な理論的構築物をこしらえて、どんなことにも答えられるようにした。
所が、その巨大理論である神学哲学は日本には入らなかった。
なぜならどんなに理屈を言っても結局「神を信じるかどうか」になってしまうからだ。
つまり、神が存在する、という前提で巨大な理論的建造物が出来上がっているのだ。
般若心経とは根本のところで逆方向に進んでしまっている。
それでは、どうして日本は呪文を唱える、という方向に行ってしまったのか。
それは、私見だがプロとアマの違い、エリートと非エリート、知識人と一般大衆、専門と一般人例えば僧侶と信徒、というような区分けをすればわかるのではないか。
般若心経で言えば波羅蜜(知恵)で修行する菩薩はプロ、エリート、知識人、専門家だ。
そして呪文をとなえて成仏するのはアマ、非エリート、一般大衆、信徒ということになる。
これは、共産主義なんかにも言えることで、東大を出たエリートなど働かない知識人に限って共産主義が大好きで、頑強に信じてしまう。
ところが、共産主義は労働者階級「独裁」を説くのだが、その労働者階級は共産主義者にならない、という不思議な矛盾がある。
これは啓典宗教と般若心経で簡単に説明がつく。
つまり、エリートにとっては啓典宗教はとても都合がよいのだ。
どうして都合が良いかといえば、最高経典を勉強したり暗唱して良い成績を修めれば社会の一番上に行けるからだ。
簡単に言えば、記憶力が高い人間が一番偉い、ということになるからだ。
逆に記憶力のそれほどない一般人は、呪文のほうがありがたいのだ。
前の共産主義で言えば、労働者階級は独裁なんて事よりも今日の糧の方が大事だ。
独裁より今豊かで幸せならよいのだ。
これは般若心経のように、呪文で悟った気分に(当面だけだが)なれた方が良いのと同じだ。
落語に「小言念仏」という演目があるが、一般人はあれでよいのだ。
念仏を唱えて安心成仏、有り難い気分になれば、神が居ようと居まいと、この世が空であろうと無かろうと関係ないのだ。

但し、ここで注意しておかないといけないのは、西洋キリスト教文明は論理的な説明、数学的な説明がしっかりしている、ということだ。
そして、それと反対に日本はそういう論理的数学的な理屈展開に弱く、安易な呪文の方に行ってしまう、という欠点があることだ。
ここを知っておく必要がある。
長くなるのでここまでにします。


(私のコメント終)
(引用開始)


(前回からの続き)
最澄が開創したのが、あの有名な「比叡山延暦寺」です。
その天台宗の最高経典は法華経です。そして、「根本法華」として重視される「般若心経(はんにゃしんぎょう)」という経典がありますが、僅か300字足らずの本文に「大乗仏教」の心髄が説かれているとされ、複数の宗派で読誦(どくじゅ)経典の一つとして広く用いられています。

ちなみに、この般若心経の正式名称が「般若波羅蜜多心経」(はんにゃはらみったしんぎょう)で、インドの修行から支那へと持ち帰ったのが、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)になります。

それでは、ここで、折角ですので、その般若心経には、どういったことが説かれているのかを確認しておきましょう。

以下は、Wikipediaからの抜粋ですが、ところどころ解説を入れておきます。

「 観音菩薩が、深遠なる「智慧波羅蜜」を行じていた時、

智慧は知恵、波羅蜜波羅蜜多は修行。

〔命ある者の構成要素たる〕五蘊はすべて〔いかなる本質、実体をも〕欠いていると明らかに見て、

五蘊(ごうん)とは人間のさまざまな感覚。それが皆、「空(くう)」であることを発見した、という意味。

すべての苦しみと災い〔という河〕を渡り切った。

※一切の苦しみを超越した、という意味。

「シャーリプトラよ、

※シャーリプトラ=舍利子という名の弟子で、観音菩薩がその弟子に語りかけている。

色(肉体)と〔実体を〕欠く〔というあり方〕とは異ならない。〔また、実体を〕欠く〔というあり方〕と色とは異ならない。

※「色不異空、空不異色」とは、物質は「空(くう)」に他ならない、「空(くう)」は物質に他ならない、の意。

色は〔実体を〕欠いている。〔また、実体を〕欠いている〔ものこそ〕が色である。

※「色即是空、空即是色」とは、物質は「空(くう)」であり、「空(くう)」は物質である、の意。さきほどと同様のことを、別の言い方をしているのですが、本来の仏教における非常に重要な部分になります。

受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)もまた同様である。

シャーリプトラよ、

すべての現象(一切法)は〔実体を〕欠いていることを特徴とするものであるから、

生じることなく、滅することなく、汚れることなく、汚れがなくなることなく 

増えることなく、減ることもない。

ゆえに「(実体を)欠くということ」の中には、

色は無く、受、想、行、識も無い

眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、

色、声、香、味、触、法も無い

眼で見られた世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い

無明も無く、無明の滅尽も無い

老いと死”も無く、“老いと死”の滅尽も無い

「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い

「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い

「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い

「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い

知ることも無く、得ることも無い

もともと得られるべきものは何も無いからである

菩薩たちは、「智慧波羅蜜」に依拠しているがゆえに

心にこだわりが無い

こだわりが無いゆえに、恐れも無く

転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。

過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧波羅蜜」に依拠するがゆえに

完全なる悟りを得るのだ。

それゆえ、この「智慧波羅蜜」こそは

偉大なる呪文であり、

偉大なる明智の呪文であり、

超えるものなき呪文であり、

並ぶものなき呪文であり、

すべての苦しみを除く。

〔なぜなら〕真実であり、偽りなきものだからである。

〔さて、〕「智慧波羅蜜」という呪文を説こう、

すなわち呪文に説いて言う:

“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え)

〔以上が〕般若心経〔である〕。」

さて、如何でございましたでしょうか?

この般若心経が説いていることを御理解いただけましたでしょうか?

簡単に申し上げますと、この世のすべては「空(くう)」である。「空(くう)」は「無(む)」と同義ではなく(⇒勘違いしてしまっている日本人が多いのも事実ですが。。。)、「有(ゆう)」でもあり「無(む)」でもあるという概念です。言い換えますと、「有(ゆう)」でもない「無(む)」でもない、それらを超越したところにあるのが「空(くう)」です。

何となく、わかったような、わからないような感じがされるかと思いますが、そのご説明は明日以降にさせて頂きますとして、この「空(くう)」こそが本来の「仏教」で最も重要な考え方であり、それはもう、大変な修業をし、厳しい「戒律」を守り、その境地に達することで、「輪廻転生」という未来永劫グルグルと廻り続ける、「生まれ変わる」というスパイラルから「解脱(げだつ)」し、輪廻転生しない状態、すなわち「永遠の死」とも言える状態になることを目指すのが、本来の「仏教」の教えです。

ですから究極のところ、「仏教」が教えていることは、実在論の否定であり、「仏(ほとけ)さえもいない」とも言えるんです?
ところが、その「仏教」本来の教えが、支那へと伝わるところで変質し、さらに支那から日本へと持ち込まれると、もっと変質してしまいます。

その典型が、仏教の総本山とも言える比叡山延暦寺を開山した最澄以降の日本の高僧たちが、ことごとく修行に必須である「戒律」を撤廃していき、さきほどの般若心経にも見られるように、修行なしでも、単に呪文(=念仏)を唱えれば成仏できるという「日本オリジナルの仏教」へと変えてしまったことです。