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(見出し)
1941年12月8日 昭和天皇陛下 開戦の詔書
2014年05月28日 19時00分48秒
(私のコメント)
この詔勅では簡単に「長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも 互いに 譲り合う精神がなく、

むやみに 事態の解決を 遅らせようとし、その間にもますます、

経済上・軍事上の脅威を 増大し続け、それによって 我が国を

屈服させようとしている。」とあるが、日本に対する経済上の圧迫は生易しいものでなかった。
1939年(昭和14年)7月に日米通商航海条約の破棄通告を行った時からアメリカは対日戦争準備に入っていたのだ。
条約を破棄した結果、一方的な貿易制限ができるようになったので、1940年(昭和十五年)9月にくず鉄の禁輸に始まって色々な禁輸品目を増やしていった。
くず鉄は、「鋼」の原料であり、民生品だけでなく、武器を作れないから大変な圧迫なのだ。
更に、1941年(昭和16年)7月に日本の在米資産凍結を行った。
つまり、政府は勿論日本の民間会社が米国に保有する債権や預貯金が自由に引き出せなくなったのだ。
更に同年8月に石油が禁輸になって、その結果海軍はじり貧になって、戦争しなくても滅亡するということになった。
これは、当時の日本から見ると、滅亡するか戦争するか、の状態に追い込まれた、ということだ。

屈服すれば、全部アメリカの要求を飲まなければならないが、それはプライドがあって到底受け入れられない。
日本は必死の対米交渉を行っていて、1941年11月15日来栖大使が訪米してアメリカのハル国務長官と協議した。
実は、この時アメリカの陸海軍トップは日米戦争を望んでいなかったのだ。
そこで、この時点で「アメリカが石油禁輸を解除するならベトナム(当時は南部仏印と言った)から撤兵する」という条件で話がまとまったのだ。
ところが、ここでスターリンソビエトロシアのスパイだったハリーデクスタホワイトという男がルーズベルト大統領を動かしたのだ。
彼は歯の浮くようなお世辞と共に、アメリカが哀れな中国を見捨てて日本に妥協しないようにルーズベルトを説得して成功した。
又、彼はハル国務長官の妥協案を葬るため、政府職員や民間団体幹部に、この状況を伝え「中国を守れ」と動員をかけている。
ハル国務長官と米国陸海軍は中国を見捨てようとしている、それでもいいのか、と当時の米国の中国派に呼び掛けたのだ。
ここで呼びかけに応じた人たちというのは、多くの共産主義者共産主義シンパが含まれていた。
この結果11月17日にホワイトが作成した原案に基づく対日強硬策が採用され、日本に対して有名な「ハルノート」が発せられた。
彼は「ハルノート」の原案作成者だったが、その原案の骨子はホワイトがソビエト工作員からメモを渡され、指示されたものだった。
つまり、日本を開戦に踏み切らせた「ハルノート」はソビエト共産党が書いたものだったのだ。
特に、「満州を含む中国大陸からの全面撤兵」「日本の持つ軍艦の大部分をアメリカに売り渡す」という二つの条件がソビエト共産党のものだった。
その他にもホワイトはソ連の有利なように、日米が開戦するように色々な仕掛けを施している。
例えば、日本が死活的に重要な石油禁輸の緩和は曖昧にされている。
アメリカも中国から撤兵するから、日本も中国及び満州から完全に撤兵することを条件にしているが、これは、ソ連が中国を支配する、ということと同義だ。
そして、最後にこの「ハルノート」を受け入れないなら、アメリカは日本がアメリカと戦争するつもりだ、と認定して対応する、と言っている。
つまり、日本を徹底的に挑発して何が何でも日本を戦争に追い込もうと必死だったのだ。
戦後の日本の歴史学者はこのソビエト共産党の「雪作戦」と言われる対米工作について、影響は少ないと一生懸命打ち消している。
だから、日本人は殆どこのことを知らない。
この「ハルノート」の結果、万策尽きたとみて日本は開戦に踏み切ったのだ。
日本はアメリカと戦争したのではなく、ソビエト共産党と戦争したのであり、アメリカはソビエト共産党の道具にされたのだ。
この歴史的事実がアメリカ自身によって徐々に主流の考えになろうとしている。
今の中国の対米工作を見ると、アメリカ自身が上記の経緯を教訓として見るようになったのだろう。
上記の内容は、江崎道郎著「日本は誰と戦ったのか」から引用した。

厄介なことに、日本にもソビエト共産党のシンパは沢山いて、彼らは天皇絶対服従を唱え、その実共産主義的な政策を推進した。
ソビエトとぶつからず、英米とぶつかるように南進論を工作し、シベリアには石油がないが南方には石油がある、というような理屈で日本を誘導した。
日本も反省すべき点はあるが、その反省は戦後のサヨクが主導する日本悪玉論でなく行わないといけない。


(私のコメント終)

 


(引用開始)
皆さま ごきげんよう

皆さまは 第二次世界大戦終戦をむかえた時の 昭和天皇

終戦詔勅玉音放送)〟は よくご存知かと思いますが、

開戦を布告した 詔書は あまり知られておりませんので

ここに ご紹介致します。

 

詔書』 (原文)    あとで、現代語訳分あり。

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇

昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米國英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ

全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ

勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ

億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ

達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ

確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル

皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ

朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ

樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ

今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ

東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ

茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ

帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ

重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ

]相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ

東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ

逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ

我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル

妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル

脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復

セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク

徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ

益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス

斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル

帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ

事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲

蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ

遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ

以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

  御名御璽

昭和十六年十二月八日

 

詔書 』 ( 現代語訳分 )

神々のご加護を保有し、万世一系皇位を継ぐ 大日本帝国天皇は、

忠実で勇敢な 汝ら臣民に はっきりと示す。

私はここに、米国 及び 英国に対して 宣戦を布告する。

私の 陸海郡将兵は、全力を奪って 交戦に従事し、

私の すべての政府関係者は つとめに励んで 職務に身をささげ、

私の国民は おのおのその本文をつくし、 一億の心をひとつにして

国家の総力を挙げ この戦争の目的を 達成するために

手ちがいのないようにせよ。

 


そもそも、東アジアの安定を 確保して、世界の平和に 寄与する事は、

大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた 大正天皇

構想されたことで、遠大な はかりごととして、 私が 常に

心がけている事である。

そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びを ともにすることは、

帝国の外交の要として いるところである。

今や、不幸にして、米英両国と争いを 開始するにいたった。

まことに やむをえない事態となった。

このような事態は、私の本意ではない。 

中華民国政府は、以前より 我が帝国の真意を理解せず、

みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに

帝国に 武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上 経過している。

さいわいに 国民政府は 南京政府に新たに変わった。

帝国は この政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、

重慶に残存する 蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、

兄弟である南京政府と、いまだに 相互のせめぎあう姿勢を 改めない。

米英両国は、 残存する蒋介石政権を支援し、 東アジアの混乱を

助長し、平和の美名にかくれて、東洋を 征服する非道な野望を

たくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、

わが国に挑戦し、更に 帝国の平和的通商に あらゆる妨害を与へ、

ついには 意図的に 経済断行をして、帝国の生存に 重大なる脅威を

加えている。

私は 政府に事態を 平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、

長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも 互いに 譲り合う精神がなく、

むやみに 事態の解決を 遅らせようとし、その間にもますます、

経済上・軍事上の脅威を 増大し続け、それによって 我が国を

屈服させようとしている。

このような事態が このまま続けば、 東アジアの安定に関して

我が帝国が はらってきた積年の努力は、ことごとく 水の泡となり、

帝国の存立も、まさに 危機に瀕することになる。 こと ここに至っては、

我が帝国は 今や、自存と自衛の為に、 決然と立上がり、

一切の障害を 破砕する以外にない。

 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の 忠誠と武勇を信頼し、

祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに

永遠の平和を確立し、それによって 帝国の光栄の保全を 期すものである。

   御名御璽

昭和十六年十二月八日

 

開戦の詔勅には、日本がなぜ他国と戦争するのかという記述が

簡潔に書かれてあります。

日本は侵略国家ではありません。

アメリカのGHQの最高司令官であった マッカーサー元帥は

1951年に 米国上院外交軍事委員会で 「日本には 国有の産物は

ほとんど何もなく 多くの 原料が 欠如している。 従って、 彼らが

戦争に飛び込んでいった動機の大部分が 資源の確保と 安全保障の

必要に迫られてのことだった」 と言い、 自衛のための戦争であったと

懐述し、〝侵略〟とは 全く言っていないのです。

 

その当時、ABCD包囲網というものがあり、日本は 経済制裁

あっていたのです。

(A、アメリカ、B、ブリティン、C、中国、D、オランダ)原料に乏しく、

輸入に頼っていた日本は、あっという間に

追い込まれていきました。 それでも日本は、何とか戦争だけは避けたいと、

外交努力で アメリカとの関係を修善しようとしていました。

しかし、当時のアメリ国務長官であった コーデル・ハルは、

ハル・ノート》と呼ばれる 最後通牒を 日本に 突き付けてきました。

日清・日露戦争の勝利により、獲得してきた 満州や 中国大陸における

一切の権利を放棄し、 軍隊を引き上げろ、 というもので とても

対等外交などと 言えるものではなかったのです。

日本は、亡国の道を歩むか、 戦争に突入するか、

二者択一を迫られたのでした。 

皆さま その当時の 日本に 思いを馳せて下さい。

 


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「日本人の誇りを」を考える!の中で

田母神俊雄氏と 私の対談が 載っております。

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皆さまには 是非 お読み頂きたいので、 どうぞ お買い求めください。

そして コメントを頂けたら 幸いです。

 

 

 

(引用終了)