1903-12-1464-3/23メルマガブログ転送現代貨幣理論

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働く人のためのケインズ革命
建物固定資産税と消費税を廃止し、法人税と所得累進課税を強化すれば、賃金の上昇を伴う良いインフレが起こり、格差が是正され日本経済は回復する。
通貨発行権を持ち生産大国である日本に、デフォルトまたはハイパーインフレの到来という意味における財政危機は存在しない。

(見出し)
①おまけ・MMT(新貨幣理論)批判・愚か者の落とし穴


(私のコメント)
この記事は、MMT(モダン マネー セオリー)についての解説で一番納得できる内容だ。
前にもこの理論については解説してきているが、これから社会的にも政治的にも学問的な戦場になるだろう。
特にアメリカではトランプ大統領に反対する民主党社会主義者の間で、このMMT理論は注目されている。
左派の社会主義バラマキ派、すなわち、社会保障国債で賄え、と主張する人々はその財源をどうするか、で困っていた。
だが、MMTは国家というものは打ち出の小槌を持っている、という話だから、彼らにとって都合が良いのだ。
但し、MMTを解説する学者評論家は沢山いるし、まだ議論の余地が沢山あるので、この理論ははっきりしていないことを前提にしよう。
この記事も一番真実に近いようにおもえる、ということで、決定ではない、と考えた方が良い。
保守主義では常にどこかに「懐疑」を持っていることが重要だ。
ましてや、理論を信奉したり、論者を崇拝したりするのは、止めておくか、やっても良いが程々にした方が良い。
経済学というのは、一種の宗教のようなものだから、実際はどうなのか、事実はどうなっているか、という視点を常に持つ必要がある。
間違っても東大教授の言うことだから、というような権威を信用してはいけない。
このことは、身近のことにも言えるので、株式投資をしていると非常に大切な心構えだ。
MMTなどというものは天下国家のことだから身近なことでなく、個人は考える必要がない、と考えがちだがそれも間違っている。
こういう理屈は、知っておかないと身近の問題の本質が見えてこなくなるのだ。
株式投資をすると、逆にこういう経済学の知識が必要になるから、世間が広くなる効用がある。
さて、この記事だが、貨幣というものは何か、という問題に答えようとしているのだ。
貨幣というのは、Wikipediaによれば

「物やサービスとの交換に用いられる「お金」を、経済用語では貨幣、または通貨と呼ぶ[3]。
貨幣とは、経済学上は、価値の尺度、交換の媒介、価値の蓄蔵の機能を持ったものの事である。」

つまり、「価値」「流通」「貯蔵」の三つの機能を持ったものだ。
逆にこの機能を持つなら貨幣になる。
現在仮想通貨のビットコインはこの三つの機能を持つがゆえに貨幣の仲間入りして問題になっている。
子供がクレヨンで書いた紙幣の絵は流通しないが、親子の間では「肩たたき券」は立派な貨幣だ。
つまり、貨幣は上記に加えてそれが貨幣だ、という社会の信用が重要だ、という話だ。
この記事は理論に対する批判を主にしているから、上記のような基礎知識がないと分かりずらいかもしれない。

この記事で私が考えるのは、経済学理論は世の中の現象の一部を切り取って、それを典型的一般的な動きとして、それを理論付けることをやる学問だ、ということだ。
理論は数学などを使って、それ自体は正しいのだが、前提になる世の中の現象を切り取る過程で問題が生じる。
演繹的には正しいのだが、演繹の前提になる条件が正しくなければ幾ら精密に演繹的理屈を重ねても意味がない。
マルクス主義なんかも、それで間違う。
この記事に出てくる「税金を支払うから皆貨幣を貨幣として信用する」という理屈もおなじだ。
そういう現象は確かにあるが、それが全てではないから、その現状だけを切り取ってそこから理論構築すると間違う。
だが、一見すると分かりやすく納得がゆく話になっている。
経済学ではこういう類いの理論が非常に多い。
だから上記で言ったように、経済学理論は実際はどうなのか、事実はどうなのか、原点に戻って考えた方が良い。
さて、この記事の肝は次の通りです。

「すなわち、アルフレッド・ミッチェル・イネスは、そのとき、金本位制と古典派経済学の金属主義に反対するためには、
表券貨幣論(「価値を記録した書面」を信じることで成立する貨幣論)を展開すれば良かったわけで、
政府が税金で回収出来ることを強調する必要は無かったし、貨幣とは債権であると言う必要もなかったはずで、
これは、余計な議論にしかならなかったと思うからです。
事実、ケインズもラーナーも租税貨幣論も貨幣借金論も採用していません。」

私の考えでは、貨幣が「借用証書」だ、という考えは今一つ納得できなかったから、この記事は正しいと思う。
貨幣というものは信用で流通している、というだけでよいので、経済学は時々余計な理屈を重ねるのだ。
マルクス主義マルクスという人が妄想気味の理屈を重ねて一大楼閣を築いたが、砂上の楼閣みたいなものだった。
蜃気楼でも、あると信じればある、というもので、それを後年エンゲルスという人が国家社会をぶち壊す道具に利用しものだ。
このように経済学者は余計な理論を構築して一般人をけむに巻いて、自分たちは如何に頭が良いか、争うようなところがある。
我々は有効な経済学理論かどうか、検証する必要があります。

この記事の筆者はケインズ経済学を信奉する人で、何時も読んでいるのだが、大変勉強になる。
是非、読んでもらうと大学の授業の数倍も知識が得られる。
大学に通って勉強しているつもりで読むと良いと思います。
まだ、色々書きたいが長くなるのでこれまでにします。

(私のコメント終)

 

(引用開始)
①おまけ・MMT(新貨幣理論)批判・愚か者の落とし穴

 

MMTを批判することは同志討ちのような印象があるかも知れませんが、同志討ちはどこの革命にもあることなので、気にしないで読んで戴きたいと思います。

 MMT(Modern Mometary Theory)は、新貨幣理論、新表券主義、現代金融理論とかいろいろな日本語に訳されています。

 MMTは、貨幣負債論「貨幣は借用証書である」、租税貨幣論「貨幣の最終需要は納税であり、租税貨幣であることで初めて貨幣として流通する」という二つの命題を持っていて、それから、いろいろな政策が導かれると言っています。

 ウィキペディアの「チャクラ論」で、『アルフレッド・ミッチェル・イネスは、1914年に書いたように、金銭の交換は媒体ではなく、繰り延べ支払いの基準として存在し、政府の資金は政府が税金で回収できる借金であると主張した。・・・クナップとチャートアリズムは、1930年のThe Treatise on Mondayのオープニングページでジョン・メイナード・ケインズによって参照され、経済における国家の役割に関するケインズの考えに影響を受けたように見える。・・・アバ・ラーナーが1947年に「国家の生き物としての金」という記事を書いたとき、経済学者はお金の価値が金と密接に関連しているという考えを大部分放棄した。ラーナー氏は、インフレと不況を回避する責任は、資金を創出するか課税する能力があるため、州にあると主張した。』とあります。

 現代の支持者として、ウォーレン・モスラー、L・ランダル・レイ、スティファニーケルトン、ビル・ミッチェルの名が挙げられています。

 しかし、私の感想としては、これらの立論はアルフレッド・ミッチェル・イネスの勇み足ではなかったのかと思われてなりません。

 すなわち、アルフレッド・ミッチェル・イネスは、そのとき、金本位制と古典派経済学の金属主義に反対するためには、表券貨幣論(「価値を記録した書面」を信じることで成立する貨幣論)を展開すれば良かったわけで、政府が税金で回収出来ることを強調する必要は無かったし、貨幣とは債権であると言う必要もなかったはずで、これは、余計な議論にしかならなかったと思うからです。事実、ケインズもラーナーも租税貨幣論も貨幣借金論も採用していません。

 ケインズは、書評で、『しかしながら、単に債務であるにすぎなかったものが本来の貨幣になったときには、 それはその性質を変えてしまっており、そしてもはや債務とみなされるべきではないのであって、その理由は、 それ自身以外の他の何かあるものをもって支払いを強制されるということが、債務の基本的性質であるからである』と言っています。

 もし、ケインズが租税貨幣論や貨幣借金論が貨幣の本質を表すものであると考えたのなら、いや、それどころか、無限の貨幣発行権や財政赤字の意味を説明するのに便利なヒントにすぎなかったとしても、ケインズはその考えを自分の理論の一部に採用したはずです。しかし、ケインズはそうしませんでした。ケインズがそうしなかったのは、ケインズにとって、租税貨幣論や貨幣借金論は貨幣の本質を表すものでもなかったし、説明に便利なヒントでもなかったからです。

 また、アバ・ラーナーは熱心なケインズの支持者ですから、経済学者に「お金の価値が金と密接に関連しているという考えを大部分放棄」させ得たのは、金本位制からの離脱を説くケインズ経済学の「価値を記録した書面を信用する表券主義」によって成されたのであり、貨幣負債論と租税貨幣論によってではありません。

 (新表券主義者は、表券とはそれ自体すでに負債を意味すると主張していますが、表券の意味は「価値を記録した書面」という意味でしかなく、他の性質は付加されていません。あくまで、新表券という言葉で初めて負債という性質を付加されているのです。)

 「インフレと不況を回避する責任は、資金を創出するか課税する能力があるため、州にあると主張した」のは、これはケインズ経済学そのものであり、表券主義だけで成立します。MMTが介在する必要はありません。

 そもそも、MMTは、金本位制の頃に唱えられた理論で、当時の金属主義を批判しています。金本位制を批判する側の苦労は大変だったわけで、MMTのその闘いへの貢献は理解出来ます。だから、MMTを批判することは、同志討ちのような印象になるのです。しかし、アルフレッド・ミッチェル・イネスは、貨幣負債論および租税貨幣論以外の解釈は間違いであると言っているので、表券貨幣論の中で同志討ちを引き起こそうとしているのは、アルフレッド・ミッチェル・イネス自身なのです。

 ゆえに、単なる一つの理論としての貨幣負債論および租税貨幣論という可能性の問題提起だけなら容認も出来たものの、それ以外の解釈は間違いであると断言するのは行き過ぎであり、MMTは単なる理論に留まらない、いわゆる原理主義運動と見ることが出来ます。こうした、教条的な整風運動は再びマルクスのような間違いを犯すであろうと警戒せざるを得ません。

 現在の世界経済はようやく金本位制から離脱して、表券貨幣(価値を記録した書面)のみで経済政策を行えるようになりました。そして、表券貨幣というだけで、全ての政策を正しい方向に導くことは可能です。

 にも関わらず、そこにMMTを、他の理論を排除してまで付け加えることには、裏にもう一つ別の思惑が潜んでいるのではないかと疑われます。その別の思惑とは、「マクロ経済は会計的な処理で解決できる」という発見を経済学会に受け入れさせればノーベル賞に匹敵する功績になるという功名心であろうと思われます。なぜなら、MMTをどう丹念に読んでも、思い込みを押し付けるだけの繰り返しだけが伝わって来るだけだからです。

 MMTは「神代の昔から、貨幣は債権に過ぎなかった」という証明に全力を注いでいますが、それは、これが崩れれば、MMTは成立の基盤を失うからです。表券貨幣が商品貨幣の進化形であって、貨幣に債権の性質は存在しなかったことになれば、貨幣は必ずしも債権の性質が無くても成立し得ることになり、貨幣負債論は崩壊します。

 しかし、古典派であろうと、ケインズであろうと、貨幣の発展は、物々交換から商品貨幣へ、商品貨幣から表券貨幣へと発展して来たことに異議を持っていません。異議を持たない理由の一つは、それを知ることは重要ではないからです。ケインズは、貨幣の機能を研究することが重要なのであり、貨幣の起源を論じることが重要とは思われないと言っています。

 そもそも、この証明は不可能です。なぜなら、当時の人はみんな死んでいますから、大多数の者がどんな気持ちで取引をしていたかの証明は出来ないからです。もし、当時の人が金銀などの貨幣の商品価値を信じていたということになれば、実は、負債関係を信じていたのであると言ったところで、本人たちは納得するとは思われません。

 また、租税として納付できる法定貨幣についても、租税を納付する利便性から信用性を高めたにすぎないとする説と、租税貨幣であることで初めて法定貨幣が流通しているという説のどちらが正しいかは、今でも、金(gold)と商品を交換する人はたくさん居て、しかも、その交換において金(gold)が貨幣の役割を果たしていると認識している人が居る限り、法定貨幣は数多くある貨幣の一種にすぎないことになり、租税貨幣論も否定されます。現在において租税貨幣と金(gold)が関連付けられているとしても、それは、この世の全ての財が価値的に関連付けられていることの一つであるにすぎないかも知れません。

 「価値を記録した書面」が金銀との交換が約束されなくても貨幣として流通し得るという理論が表券貨幣論です。そして、事実、紙幣がしばしば戦争などで金との兌換は停止されても、表券貨幣であるというだけで流通することは経験済みでした。しかし、言えることはそこまでです。

 それが、貨幣負債主義であったとか、租税貨幣主義であったとかは誰にも断言出来ません。また、断言する必要もありません。MMTの主張の全ては、貨幣を使っている人が何を信じているかにあります。しかし、何を信じていようと、今、表券主義だけで貨幣が流通していることが、必要かつ十分な事実なのです。

 むしろ、当時の議論においても、通貨は表券によるだけで通用するといったことに大きな比重が置かれていたように思えます。MMTはそこに割り込んで来ただけではないかと思います。

 1971年金本位制から脱出し、管理通貨制度の時代になり、純粋な表券貨幣、不換貨幣となった今、その目的は全て達成されており、そこに、MMTが介入する理由は無くなっています。

 貨幣負債論と租税貨幣論という捉え方そのものについては、そういう考え方がることをあえて否定する気はありません。なぜなら、その人が貨幣負債論と租税貨幣論というイメージを持つことで、通貨発行の自由を実感できるのなら、そう考えるのも良いだろうと思うからです。しかし、それはその人の個人的な思考の癖にすぎないのであって、私には関係の無いことです。そして、おそらく、大勢の人たちにとっても関係ないことであろうと思います。

 なぜなら、そう思わなくても、私だけでなく、大勢の人たちも、国家の貨幣の発行行為は、インフレ以外に何らの制約を受けるべきものはないと信じることが出来るであろうからです。

 今、新古典派経済学との闘争のテーマに、貨幣負債論や租税貨幣論を付け加える必要があるかというと、あるとは思われません。

 現在は、「価値を記録した書面」という意味の表券貨幣の発行でどんな影響があり、どういう発行ルールが決められるべきかの議論が残されているだけと思われます。

 その局面において、私は、MMTの復活に大きな不快感を持っています。確かに、MMTは新古典派経済学財政赤字に反対する勢力と闘っていると言っていますから、むしろ、金本位制から離脱出来ることが最優先であった時代においては、MMTもまた好感をもって受け入れる余地はあったと思います。

 では、現在において、私たちがケインズ主義者としての立場を確立したときに、MMT論者と共闘できるかと言うと、それは難しいのではないかと思います。なぜなら、ケインズ主義とMMTとは見過ごしに出来ない重大な問題意識のズレがあるからです。

 それは、MMT論者のほとんどが、

(1)財政支出に関する政策以外は眼中にない

(2)インフレを起こす政策に対して消極的である

であるという二つの特徴を持つからです。

 (1)つまり、MMT論者のほとんどは、緊縮財政を批判しているだけで、それ以外のものは批判していません。MMT論者のほとんどが、政府は無限に貨幣を発行出来るのだから、政府支出においてそれを使えば良いというところで議論が止まっていて、既存の税制および金融制度に関する議論はおざなりにしています。このサボタージュは、ケインズ主義との共闘において容認できないことです。

 具体的に言うとMMTの眼中にないのは、①税制、②社会保障制度、③金融制度、④雇用制度の4つです。これに、⑤自由貿易主義者であることも含めて良いかも知れません。

 しかし、彼らが「雇用・利子および貨幣の一般理論」をどのように読み解いたのか知りませんが、①②③④の変化による消費・貯蓄行動の変化というテーマはケインズ経済学の最も重要な基盤であったはずです。古典派経済学との分岐点もそこにあります。

 MMTが①②③④に対して、どうでも良いことなので放置しろと主張するのであれば、国民を貧困化させる制度が維持されたまま、手当て的な支出に関する裁量だけが政策のテーマとなります。

 つまり、これは、ベーシックインカムの発想と同じもので、社会保障の給付はできるだけ少なくし、自己の救済は基本的に自己責任としながら、また、解雇の自由化や移民受け入れを推進しながら、そして、それは大した問題ではないと言いながら、国民に手当て的な支出を行えば事足りるというものです。

 もちろん、MMTがとりあえず積極財政を行わせるのが目的で、①②③④は次の時に考える別の問題だと言うのなら、ある程度は納得しても良いかも知れません。しかし、MMTはそうではなく、むしろ、それは重要な問題ではないと、①②③④の議論を排除するスタンスを持っているのです。

 つまり、MMTを受け入れてくれるなら、そして、財政政策の自由を少し認めてくれるのなら、その他の政策は手をつけないと、新自由主義者と取引しているようにも見えます。そこが薄気味悪いのです。

 ③金融制度について、MMT論者のほとんどが金融制度を眼中に置いていません。それは、MMTが中央銀行の金融政策および金融機関の信用創造を否定しているからです。つまり、金融政策は効果がないから、中小企業金融を見捨てて、財政政策だけでやろうと言っています。しかし、それでは、中小企業は、自分では投資出来ない政府機関の日雇いの下請けになってしまいます。あとに残るのは大企業の独占的投資だけです。金融政策の効果が停止した状況を放置するスタンスは新古典派新自由主義と同じものです。

 金融政策に効果がないのなら、制度的な障害を点検して、再び、金融政策に効果が出るように変革すべきです。あくまで、中小企業が自立的に投資できるようにしなければ、民間の活力や地方の活力は生まれません。すなわち、金融制度としっかり向き合い、間接金融を国民の手に取り戻すべきなのです。

 また、MMTは、日銀の通貨発行に関係なく、負債を記録するだけで貨幣を作り出すことが出来ると言っていますが、負債を記録するときは必ず自分の保有貨幣または日銀からの調達の可能性を根拠としていなければならないので、この論は明らかに間違っています。これは、MMTにとって致命的な間違いであると思われます。

 また、MMT論者は、政府の計画したインフレ率に達してない場合は、現状の①②③④に関する制度を放置したまま、その計画したインフレ率まで財政赤字を拡大して、政府支出さえ行えば良いと言っています。この言い回しが気持ち悪く感じるのは私だけでしょうか。①②③④こそが最重要課題なのに、単純な財政赤字とインフレ率の問題に摩り替えられているのです。まるで、新古典派の言い分を聞いているようです。

 (2)MMTには、貨幣発行の基準を財政収支ではなくインフレ率に求めようという提案があります。それは正しいのです。だから、おそらく、積極財政派はMMTを受け入れているのだろうと思います。

 しかし、積極財政政策の主張をするには、管理通貨制度による表券主義だけで十分であり、必ずしもMMTに頼らなくても良いはずです。そうであれば、貨幣負債論と租税貨幣論を主張するMMTはノイズにすぎません。

 つまり、積極財政派とMMTの一致するところは「貨幣発行の基準を財政収支ではなくインフレ率に求めよう」という部分しか無いのであって、①②③④に関する制度の設計については、全く異なったスタンスを持っているのです。

 しかも、MMT論者はインフレについて何と言っているかというと、好ましいとは言っていません。つまり、MMTはインフレに対するスタンスにおいても新古典派新自由主義と高い親和性があり、共存しようとする姿勢すら見受けられます。新古典派と共存しようとすれば、国民の行きつく先にあるのは固定された格差と貧困です。

 むしろ、MMTからは、まだ、インフレによる平等経済成長の達成という発想は出て来ていません。インフレが起こらないように財政赤字をコントロールすれば良いと言っているだけです。

 インフレに対する積極性がないのに、積極財政派やリフレ派がどうしてMMTを信用できるのか不思議です。

 富裕層のための政党である自民党は建前においてはリフレ派、本音においてはデフレ推進派ですから、MMTが自民党にはややこしい理論であっても、結果がデフレ容認なら自民党に受け入れられるかも知れません。

 おそらく、富裕層および自民党の最も恐れるものがインフレです。だから、インフレを起こさないと約束してくれるのなら、どのような理論でも、そして、MMTであろうとも、連中に受け入れられるでしょう。

 しかし、インフレによってのみ、債務者は持続的に債務から救済されます。よって、低所得者貧困層は未来に向けて債務を拡大することが可能となり、中間層に成り上がる道が切り開かれて来たのです。インフレこそが、低所得者貧困層に残された最後の切り札なのです。

 


(引用終了)