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(見出し)
いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だから。
自律
安達 裕哉2019/6/5
(私のコメント)
こういう考え方は、封建時代を経験した民族では身についている考え方だ。
社会的に欲望をコントロールする、ということを教えられる。

「競争して、良い暮らしを手に入れよう、では、幸せになれない。良くも悪しくも、ヨーロッパは階級が固定されてますからね。…」

と社長はいうが、日本人だから共感するので、中国人や韓国人、アメリカ人は分からないかもしれない。
アメリカ人は封建時代というよりキリスト教原理主義だから結果的には同じだろうか。

封建時代を論じるのが主題でないが、人間の幸福感と言っても、歴史的な流れや社会的な集団の視点も必要だ。
「競争して良い暮らしを手に入れよう」というのは、人間の本能に基づく当たり前の考え方だ。
資本主義はこの人間の本能を容認して作られている。
これを否認したのが共産主義だが、共産主義独裁は配給の食べ物に幸福感を強制される。
だが、刑務所で幸せを見つけてもしょうがないのだ。
この記事では「自律」とあるが、経済的自由や思想的自由、独立自尊、などが前提だ。
つまり、個人の幸せと集団の幸せは分けて考えないといけない。
停滞期なら集団でそれを打破すべく考えないといけない。
そうは言っても欲望を管理することは欲望を容認した資本主義の社会では必要かもしれない。
この考え方は宗教的な考え方で、自分の内面の心の持ちようを変えることでよりよく生きようとするものだ。
禅宗で言えば、昔から「吾唯足知」「少欲知足」「脚下照顧」などと言われるものだ。
人間の心は欲望が基本だから、こう言うことも時々思い出して、足元を見直すことも必要になってくる。

 

(私のコメント終)


(引用開始)
いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だから。
自律
安達 裕哉2019/6/5

先日、福岡に出張に行ったとき、あるアントレプレナーの方と、「人の幸福」についての話になった。

 

背景を話すと、私は常日頃「会社は、人が幸福になるための、社会装置に過ぎない」と思っている。

だから、経営者に「幸福の条件」を尋ねるのが常なのだ。

 

「やはり、稼いでこそ、という感じですかね?」

と私は意地悪くカマをかけた。

 

起業家は「何よりも金」と、堂々という人は少ない。

建前は「世のため、人のため、世界を変えるため」なんてことを言う。

 

だがその実、心の中では、「金、自己顕示、モテ」を、ひたすら望む人物は少なくない。

ただ、それはそれで、本人が良ければ、良いとは思う。

が、それは隠せない。

言動や、SNSを見れば、すぐに分かる。

 

だが、彼は軽くスルーする。

「安達さん、いくらお金を持っても、名誉を手に入れても、幸福にはなれないですよ。」

 

「まあ、そうでしょうね」と私も頷いた。

思うに、「お金」や「名誉」は不安を消すことはできるが、幸福を作り出すことはできない。

 

私は聞いた。

「では、どうしたら人は幸福になれると思っていますか?」

 

彼は酒をあおり、こう言った。

「わたしね、ヨーロッパを見てきたんですよ。」

「ヨーロッパ……? なぜですか?」

「彼らのほうが、幸福についてよく知っているからです。金儲けの知恵ではなく、幸せになるための知恵が受け継がれている世界なんですよ、ヨーロッパは。成熟している社会なんです。」

「ほう……。」

「あと、ヨーロッパってのは、外食や贅沢品が恐ろしく高いんですよ。だから「消費」を通じて幸福になろうとしても、よほどの金持ちじゃないと駄目なんです。」

「知りませんでした。」

「で、貧乏な庶民は何をしてるかってことです。」

「何してるんですか?」

「公園でワインを少しのんで、踊って、市場で食材を買って、少し料理して、みんなでくつろいでるだけです。ね、お金かからないでしょう? でも、十分みんな幸せを感じているんですよ。」

 

私は聞いた。

「一部の人だけでは?」

「もちろん、全員ではないです。ただ、日本人と比べると、「お金なんかなくても十分幸福だよ」という人は、遥かに多い印象ですね。」

「なるほど……」

 

ヨーロッパを長いこと観てきた、彼の言うことには強い説得力があった。

「なんで彼らは、お金がなくても、幸福を感じやすいんですかね?」

 

彼は笑っていった。

「簡単ですよ。彼らは日本人よりも、日常生活の解像度が高いんです。」

「解像度……?」

「要するに、日常の些細なことにも幸せを感じることができる、ってことです。」

「例えば?」

「例えば、布団で寝られるだけで「いやー、俺って凄い幸福だよな」と思うこと。」

「……」

「卵かけご飯を食べて、「こんな美味しいものを食べられるなんて、なんて俺は幸福なんだ」と思うこと。」

 

正直、私は「どこかで聞いた話だな」と思った。

そこで「要するに、幸福というのは、感じ方一つ、ってことですよね。」と言った。

 

すると彼は、「そうじゃないです。」ときっぱりという。

よくわからない。

「そうじゃないんです。もっと視点を高くしてください。私は「卵かけご飯を食べることに幸福を感じなさい」と言っているんじゃないですよ。」

 

私は混乱した。

「では、どういうことなのですか?」

「「「卵かけご飯を食べることが幸福」と、自信を持って言える自分がいる」ことこそが、幸福なんです。」

「???」

「わかりやすく言うと、幸福な人ってのは、「自分がいかなる状況でも「幸福である」と信じる力を持っている人」のことなんです。」

 

ああ、なるほど。

たしかに、そうかもしれない。

つまり、彼の言葉の裏を返せば、不幸な人とは「私には足りないものがあり、そのせいで幸福になれない、と思っている人」のことだと言える。

 

仕事がないから、不幸だ。

お金がないから、不幸だ。

モテないから、不幸だ。

 

だから、「幸せ」は、「なろう」=「手に入れよう」とすると、とても苦しくなる。

なぜなら、そんな簡単に望むものは手に入らないから。

「持っていないものを手に入れるのが幸福」と思っていたら、残念ながら大体の場合、一生不幸なのだ。

だいたい、人間の欲は限りがない。何かを手に入れた瞬間、次のものが欲しくなる。

 

ところが、彼のいう「幸福な人」は、全く異なる。

 

日常生活の解像度を上げて、「こんなことに幸せを感じられる俺って、幸福」といえるのが、幸福な人なのだ。

何にも「ゆとり」を感じる能力を有する人、と言ってもよいのかもしれない。

 

彼はこう言った。

「いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だからですよ。」

「なるほど」

「競争して、良い暮らしを手に入れよう、では、幸せになれない。良くも悪しくも、ヨーロッパは階級が固定されてますからね。だからこんな考え方が発達したんでしょう。良いか悪いかは別として、もうじき、日本もそうなりますよ。」

 

 

彼の言うことに100%賛同できるかといえば、そうではない部分もある。

だが、彼の言ったことは一理あった。

 

要するに、幸福とは高度な「自律」なのだ。

そして、ヨーロッパでは「自律」の知恵が、庶民の間に受け継がれている。

 

いまの日本は停滞期に入り、多くの人が不幸を感じている。

だが、停滞期には、停滞期なりの「幸福」の感じ方がある。

 

人と比べない、わきまえる、日常の些細なことに幸せを見出す、消費よりも創り出す……

一足先に停滞期に入ったヨーロッパでは、そのような日常の知恵が発達したのかもしれない。

 

それは、「幸せになるための一般教養」と言うべきか。

そう感じた。

 

 

 


(引用終了)