1907-18-1536-7/28メルマガブログ転送現代の一揆山本太郎

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(優秀メルマガブログ紹介)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66127
真鍋 厚

(見出し)

れいわ新選組の底力を、ポピュリズム批判だけでは見誤る「真の理由」

これは現代の「一揆」かもしれない
(私のコメント)
「これは現代の「一揆」かもしれない」
私の考えと同じだ。
今まで右翼が一揆を起こそうとして失敗したが、それをは日本人が、サヨクしか投票しないからだ。
石原慎太郎などがやろうとしたが、右翼は選挙で支持されず消えてしまった。
今回の山本太郎のように、サヨクで右派の政策を加えて選挙をすると日本人は反応する。
今後彼は右の政策をどの位取り入れるかで、その勢力が伸びるか伸びないかきまるだろう。
彼は昔「尖閣はシナにやってしまえ」「原発反対」などと言っていたが、今後これを誤魔化すだろう。
誤魔化さなければ少数政党で終わるし、誤魔化すなら伸びる。
前言を翻すくらい平気でないとサヨク政治かでない。
河野太郎外務大臣は韓国人の秘書を使っていて、韓国ロビーの急先鋒で、かつ原発反対を唱えていた。
大臣就任したらそれらの発言記録を一切削除してしまった。
今は韓国に強く出ているから、昔の韓国びいきを知る人には裏切りだろう。
こういう風に政治家は現実主義的行動原理がある。
それがないと政治家でなく、原理主義者か宗教家になってしまう。
私は山本太郎はスキャンダルで潰れる可能性もあるんじゃないか、という意見に賛成だ。
しかし、山本太郎が潰れても彼がやった「面白い政治」というポピュリズムは、その成功を見て後継者がどんどんでてくるだろう。

(私のコメント終)


(引用開始)
ポピュリズム」の裏にある必然
今回の参院選では「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党」が思わぬ健闘を見せ、世間を驚かせた。

特に「れいわ」の躍進については、ついに日本でも欧米と同様に「左派ポピュリズム」政党が登場したとの議論が起きている。だが、ポピュリズム的な傾向そのものは、多かれ少なかれどの政党にも見い出せる流行のようなものであり、「左派ポピュリズム」という視点のみでは、今起こっている自体の深刻さを正確に言い表すことはできないだろう。

重要なのは、これらの現象の良し悪しを問うことよりも、構造的な必然性に目を向けることである。

これらは、わたしたちの「徹底的に個人化された生活」と「情報環境への過剰接続」が化学反応を起こして生み出した現象だ。万物がフラットなコンテンツとして消費される中で、政治さえも「コンテンツ」のひとつに過ぎなくなった――そのような新しいゲームのルールのもとで、古き良き「政治活動」はかつてない試練にさらされている。

政治のエンタメ化
「政治を面白く」というキャッチフレーズを掲げる「れいわ新選組」代表の山本太郎氏は、実際に街頭演説やインタビューなどで有権者の関心を引くための〝仕掛けづくり〟を意識していることを「ネタばらし」している。「政治のエンタメ化」を、「あえて」実行するというわけだ。

「れいわ新選組」候補者の街頭演説を「れいわ祭」と銘打ち、「参加型のエンタメ」感を打ち出したことは、まさにその実例と言える。


山本氏は、「エンタメ要素」を盛り込んだ宣伝戦略が、費用対効果から言っても、最も効率的に党勢を伸ばす方法であることを理解している。

沖縄県出身で創価学会員の野原善正氏を擁立し、誰もが矛盾を感じている「公明党」とその支持母体である「創価学会」のズレを、参院選という大舞台で公明党代表山口那津男氏との「ガチンコ勝負」として具現化する――これはほとんどプロレス的発想だ。

いみじくも「NHKから国民を守る党」代表の立花孝志氏が言ったように、「真面目なことを不真面目」にやらないと誰も注目しないのである。NHK政見放送で、候補者たちがNHK局員の不祥事を暴露しまくり、口々に「NHKをぶっ壊す」と叫ぶ姿を痛快に感じた有権者も多かっただろう。

猫やパフェと戦わなければならない
今や国政選挙でさえも、スマートフォンの画面やアプリのタイムライン上に表示される無数のコンテンツの一つに過ぎなくなっている。筆者は、これを「ありとあらゆる情報がフラットにコンテンツ化される社会」と呼んでいる。

そこでは内容の〝真贋〟や〝善悪〟に関係なく、そしてフィクションかリアルかを問わず、ありとあらゆるテキスト、表現、パフォーマンス等々が、個々の重要性などは脇に置かれ、単なるコンテンツとして消費される。

そのような中で今、政治は「見る価値」「参加する価値」があるコンテンツか否かが吟味される状況になっている。ここにおける「価値」とは「面白さ」であるということを、山本氏は意識的にか無意識的にか、感知しているのであろう。

いまや国政選挙で票を得るためには、膨大な消費コンテンツと競争しなければならない。インスタグラムでモデルが訪れていたお洒落なカフェや、世界中でプレイされているオンラインゲームの新作や、ユーチューバーの「やってみた動画」などと「可処分時間」の奪い合いをしなければならないのだ。


スマートフォンの中では、政治家の街頭演説よりも、猫が床をゴロゴロする動画のほうが、果物が山ほど載ったパフェの画像のほうが、多くの人を惹きつける。政治に無関心な層を掘り起こそうとすればするほど、「エンタメ要素」は必須とならざるを得ないだろう。

参院選の翌日に行われた吉本興業の岡本昭彦社長の約5時間にわたる謝罪会見で、選挙結果を吟味するための「時間」そのものがかっさらわれ、世間がそれ一色に塗り変わったことが典型的だ。政治も「面白く」なければスルーされるというわけだ。


「シングル・イシュー」が効果的な理由
その点、「れいわ新選組」の選挙戦は「エンタメ性」が徹底されていた。

例えば、難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者を国会に送り込むというのは前代未聞の試みであるだけでなく、彼らが主張する価値観(中卒、高卒、非正規や無職、障害や難病を抱えていても、将来に不安を抱えることなく暮らせる社会を作る)をリアルタイムで世に問う「社会実験」でもあったわけだ。

「れいわ」に票を投ずるか否かを逡巡することは、「難病患者を国会議員にすることに賛成か反対か」というイシューに関して、自らの態度を決めることと同義になった。そのため、有権者に明確な参加意識が生じやすかった。

つまり「れいわ」は、今回の選挙自体を「既存の社会に対する挑戦状」にするというストーリーを構築し、有権者たちも事実としてそれに乗ったのである。

「エンタメ化」は、「シングル・イシュー・ポリティックス」と親和性が高い。

「シングル・イシュー・ポリティックス」とは、一つの争点のみについて賛否を問う政治運動のことだ。実際に「NHKから国民を守る党」は、「NHK」(の現在のような受信料制度にノーを突き付けること)の賛否だけを問うた。

「れいわ新選組」の場合は、今回の参院選から新たに導入された「特定枠」にALS患者の舩後靖彦氏と重度障害を持つ木村英子氏を指定することで、「障害者」(も生きてて良かったと思える社会を実現すること)に対する賛否を、実質的に「一つの争点」として機能させることに成功したと推測できる。

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このように構造を分析したうえで、「れいわ」の台頭と「左派ポピュリズム」が危険か否か、という問いに戻ろう。

「左派ポピュリズム」という言葉が一人歩きし、「れいわ」や山本氏の存在を危険視する声は強まりつつあるが、実のところ日常的に「身の危険」を感じているのは、彼らの批判者よりも、支持者や支援者たちのほうではないか。
これは現代の「一揆」なのか
「れいわ現象」の背景にあるのは、「生産性」という尺度によって自分たちの人生の価値が暴力的に決定され、いずれは社会から「不要」という烙印を押されてポイ捨てされるのではないか、という、様々な生きづらさを抱えた人々の差し迫った恐怖であり、不安である(もちろん、一人ひとりが抱える恐怖や不安の具体的な中身については議論の余地があるだろう)。

平成の30年間、この国ではグローバル化に伴う経済的格差が拡大しただけでなく、「職場」を社会的承認の柱とする人生モデルが崩壊し、さらにそれらと並行して地域コミュニティなどのソーシャル・キャピタル社会関係資本)が衰退、「社会的孤立」に陥る人々が増大した。

こうした悲惨な現状が、社会システムの変革による〝上からの〟救済を切実に求める機運を作り出している面が、少なからずある。

NHKから国民を守る党」の場合、先行き不透明な経済情勢や、賃金が上がらないことへの不満、日常生活における漠然とした不安などが、自宅に直接訪問し、強制的に受信料を徴収しようとする具体的な脅威として「NHK集金人」に投影されたと考えると分かりやすい。

わたしたちの「徹底的に個人化された生活」と「情報環境への過剰接続」は、今後さらに進展することはあっても、後戻りする気配はない。そして、一見「誰もが自由に生きられる時代」が到来したように見えながら、実態は旧態然とした慣習やルールに押し潰されそうな境遇に絶望する人々は、「正しい権力の行使」を政治参加によって実現しようとするだろう。これは現代における「一揆」であるという言い方が相応しいかもしれない。

「わたしたちが抱えている恐怖や不安」に対する目処が付かない限り、巷でいう「ポピュリズムと称されるもの」が決して収束することはなく、「政治のエンタメ化」も有効な手段であり続ける。これは必然である。

それが民意に裏打ちされた「政党」の形を取り始めたのであれば、そこには恐らく「新しい共同性」への志向が存在するはずであり、その背後にある「無意識」にこそ観察の目を注ぐべきだろう。

特に「れいわ新選組」は、共通の危機意識を基盤に、見知らぬ者同士が「アジール(聖域、自由領域)」を作るような、直接参加型の「つながり政治」の最初の事例といえるかもしれない。
社会の「正当性」自体が揺らぐ
「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党」が、政党交付金を得られる「政党要件」をクリアしたという結果のみを批判したところで、何も始まらない。

「わたしたちが抱えている恐怖や不安」を他ならぬ政治の力によって解消しようとする動きが、今回の参院選のタイミングで「政党として」表面化してきたのであるから、わたしたちは、社会の正当性そのものが大きく揺らいでいることにもっと危機感を持つべきだ。

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そういう意味において、今回自ら候補者ともなった安冨歩氏の「れいわ現象」の分析は秀逸である。

れいわ新選組は、左派ポピュリスト政党、などではない。それはそもそも「政党」ではなく、「左派」でもなく、「ポピュリスト」でもない。れいわ新選組は、無縁者の集まりであり、その無縁のエネルギーが、ガチガチに固まって人間を閉塞させている有縁の世界に、風穴を開けつつある。(内側から見た「れいわ新選組」 2019年7月24日付、https://anmintei.net/a/688

 


(引用終了)