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読んだ本の紹介
辻貴之著「強い日本を取り戻す」
四回目です。

(前回まで)

戦前の日本は天皇を戴く国粋主義的な外見で右翼ファシズム等と言われるが、
内容は共産主義コミュニズムマルキシズムと変わりがなかった。
しかし戦後の日本は彼ら偽装マルキスト達が戦争責任をファシズムに押し付け、
自分達は生き残って現在に至るまで日本の支配層となった。

日本を敗戦という滅亡に導いたのは天皇を隠れ蓑にした、
左翼思想であったことを再認識すべきだ。
戦後の日本人はそれを勘違いして、負けた原因は日本の歴史文化伝統にあるから、
それを悪いものだと捨て去ったのだ。
こうして戦後サヨクは国民をだまして主導権を握り、
相変わらず彼らの理想とする社会主義の国を日本に作ろうとした。

なお、右翼か左翼か、という違いは人間の性格が関係している。
特に破壊願望が強く、攻撃的なエリートはサヨクになりやすい。
戦前昭和維新をやろうとした革新軍人、革新官僚
戦後のサヨクや過激派はその点で同じだった。
日本はもう一度日本の歴史文化伝統を見直すべき時にきているのだ。

雑誌「正論」3月号に渡辺惣樹という作家がアメリカの戦争史観の変化を書いている。
この人の書いた分厚いアメリカ史を読んだが大変面白い。
アメリカの戦争史観の変化、というのは、歴史修正のことだ。
今アメリカで日米開戦はルーズベルトが仕組んだものだ、
というような過去の日本悪玉論の見直しが進んでいるというものだ。

この論文で分かる事は当時の日本が非常に過酷な世界情勢の中に置かれていた、
ということだ。
その中で、何とか国を維持するためには団結して事に当たらないといけないと考えた。
そして、アメリカ流の資本主義は大恐慌以降迷走し、行き詰ったように見えた。
反面ソビエトは五カ年計画で発展していたから、
どうしてもマルクス主義がよく見えてしまったのだろう。

しかしその良い面だけ取り入れればよかったのだが、
悪い面ばかり真似しようとし、ソ連の謀略も呼び込んでしまった。
エリートが観念的に考えるから理屈ばかりが先行し、現実から乖離してしまう。
彼らは官僚主義的で、失敗しても責任をとらず交代もせず、無責任が横行し、
その上エリートの無謬性を守るために一般国民に尻拭いさせた。

上記の論文で渡辺は最後に言っている。
「日本は日米開戦について重要なことを反省していない。
当時アメリカは国民の83%は戦争に反対していました。
この強大な世論を何故使えなかったのか。」

「アメリカの孤立主義者の全国組織があるが、
それに接触したら日本にとって相当大きな力に成ったかもしれない。」
つまり外務省がすべきことを全然してなかったのだ。
私は日本を滅亡に導いたのは海軍だ、というのが持論だがそれ以上に外務省も悪かった。
そして外務省も戦争の失敗の責任を全く取っていない。
外務省や海軍、その他官僚の勉強秀才の失敗で日本は滅びたのだ。
そしてその勉強秀才たちが信奉したのがマルクス主義だったのだ。
戦後もその状況が続き、現在も大蔵官僚は財政均衡主義のような間違った政策を行い、
日本を悪い方向に導いている。

また財務省自民党の一部議員と結託してシナに対して数兆円のODA援助を行っている。
日本に使うべき金を敵国の発展に使っているのだ。
これも左翼リベラルから来る反日本的思想がが根底にあるのだ。
戦前のマルクス主義を信奉した失敗を日本のエリートは現在でも繰り返しているのだ。

(今回はここから、前回に続く)

上記「強い日本を取り戻す」と言う本の、第三章から。

第三章はサヨク、リベラルがいかに危険な怖い政治思想か、ということを説明している。
ただし、リベラルというのは自由という意味で、普通悪い意味でない。
自民党の英訳はリベラル、デモクラテック、パーティーだ。
リベラルが入っている。 この言葉自体は良い言葉だ。

昔は共産主義全体主義が流行っていた頃はそれに対抗する存在として
リベラル=自由主義ということでこの言葉を使い、問題なかった。
だが、その後この言葉の意味が徐々に変わってしまったので、分かりにくくなった。

アメリカで当時のリベラルを批判して保守主義が出てきたのは戦後冷戦の始まる1950年台だ。
この50年代以降のリベラルは内容が変質して、
自由主義自由主義でも無責任自由主義と言われるものだ。
簡単にいえば「自分が悪いんじゃなくて、あっちが悪いこっちが悪い」
「努力して金持ちになったのはどうせ悪いことをしたんだから認めない。
結果平等主義で全員金持ちと同じにしろ」
というような考えだ。

そして、それらのリベラル陣営を隠れ蓑に、昔からのマルキスト達が沢山入り込んだ。
彼らは見果てぬ夢である革命のために、
世の中を悪くするような方向にリベラル陣営を導こうとしている。
ここでは本来の意味である自由主義でなく、
無責任自由主義と隠れ蓑マルクス主義と言う意味でリベラルと言う言葉を使います。

アメリカの保守系のコールターという人がリベラルについてこう言っている。

「リベラルと保守の違いは何か。
保守は神の姿に似せて人間が作られたと思っているが、
リベラルは自分たちが神だと信じている。
この結果強引に平等をこしらえようとする。」

「保守派の人は人間の愚かさに注目します。
リベラルはその反対に人間の賢明さに焦点を当てます。」

これは前にも書いたが人の性格に関係してくる。
またエリート勉強秀才は自らの賢明さを過信するから
自分の考えついた事は何事も可能だと思う。
つまり自分たちは神というわけだ。

そして当然失敗するが、それは世の中が悪いので自分は悪くない、と言い訳する。
つまりエリートの無謬性を守ろうと優秀な頭脳を邪悪な目的に使う。
そしてその失敗のツケはすべて他人が引っ被ることになる。

リベラルや革新主義者は実際には統制主義者なのだが、
これらの人々に共通するのは自己陶酔だ。
彼らは弱者や他人に思いやりがある、と自己規定している。
戦前なら、天皇を尊崇し国を思っている立派な人間だ、と同じく自己規定した。
しかし本当はそういう自分を愛しているに過ぎない。

戦時下の政治家で有名なのは斎藤隆夫と言う人だ。
彼は昭和15年2月泥沼の日中戦争について、有名な「反軍演説」というものを行っている。
それが原因で衆議院を除名され、昭和17年の選挙で返り咲いた。
しかし斉藤の演説は「反軍演説」と言うような反戦イデオロギー的なものでは無い。
彼が強く批判したのは国民に多大な犠牲を強い言いながら、
日中戦争の目的が東亜新秩序というような抽象的理念的なものだったからだ。

具体的に領土を取るとか賠償金をせしめるとか、道徳的なことは別にして、
目的がはっきりしているなら未だましなのだ。
ここが保守とリベラルの違いだ。

彼は何を言ってるか、具体的にその演説文を引用してみよう。

「現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして一種の空想であります。
まず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、これは望ましいことではありまするが、
実際これが実現するものであるかいなやと言うことについては、
私は断じて得られないと思っている。
すなわち人間の欲望には限りがない、民族の欲望にも限りがない。
国家の欲望にも限りがない。ここに国家競争が激化するのであります。
世界の歴史は全く戦争の歴史である。」

当時の国家指導者がいかにリベラル左翼だったかがよくわかる。
現在の9条平和教信者と当時の国粋的軍国的指導者が全く同じ観念的平和主義だったのだ。
戦後日本を支配したサヨクは斉藤の事を反戦主義者とたたえたが全く違うのだ。
現実を直視してイデオロギーなどに影響されず事に当たれ、と彼は言っているのだ。
これは非常に良質な保守主義の立場だ。

斎藤隆夫は偽装マルクス主義が日本を覆っていた昭和9年に、それを批判する本を出した。
その一節を紹介しよう。

「近ごろの日本は革新運動の流行時代である。
革新を唱えざるものは思想家にあらず、憂国者にあらず、愛国者にあらず、と言われる。
しからば一体何を革新せんとするのであるか
いかなる革新を成さんとするのであるか、
と見れば空漠としてほとんど捕捉することはできない。」

当時の偽装マルクス主義を正確に見抜いてその欺瞞を暴いていた有識者が居たのだ。
これは現在の日本でも充分通用する保守主義の立場だ。
彼は当時流行していた革新論を左右の区別なく徹底的に批判しました。
その革新論というのは、熱狂に支えられた色々な言葉として人々を興奮させた。
例えば、「改造」「革命」「解放」「デモクラシー」「社会政策」「無政府主義」
「民族解放」等々だ。
それらは斉藤の言う通り内容は空疎なものだったのだ。
これは現在の日本の「脱原発」「構造改革」「財政健全化」などの空疎な言葉と同じだ。

斎藤隆夫の考え方は現在でも通用する保守主義思想なのでその部分を引用しよう。

私有財産所有権は人間が生存し、併せて人間社会を構成する絶対必要の条件である。
所有欲は人間の本能であって、人間はこの欲望を満たすために最大限活動する。
ここに生存競争、適者生存の法則が行われ、これによって人間は進歩し社会も国家も発達する。
国家もまた所有権を中心として国際競争をなす。
私有財産の所有権なきところに競争なく、競争なきところに進歩もない。
故に私有財産所有権を否定する事は人間を否定し国家社会を否定するのと同じことである。」

人は命を取られたくないとか、自分の物をとられたくないと言うような本能を持っている。
資本主義は所有欲という本能に基づく制度だから高く評価すべきものだ、と斉藤は言う。
もちろん資本主義も完全無欠でないから、規制も必要だ。
生存競争と言っても無制限に行えないから何らかのルールが必要だ。
国民の所有物を全て国家に帰属させエリートが管理し、配分するというような制度は
人間の本能に反するからうまくいくはずがない。
共産主義全体主義国家が20世紀の実験で全部潰れたのはそのせいだ。

リベラルは自分たちの賢明さを信じているから、
こういった人間の本能的なものを軽んじる。
彼らに対抗するには斎藤隆夫のようなしっかりした保守主義による現実的な対応が必要だ。

なお、現在は共産主義が潰れたため極端な自由主義が世界を支配している。
自由であればあるほど良いと信じるイデオロギーで、中庸という事を知らないのだ。
弱肉強食の自由競争をイデオロギーとして推進したため、
国家より企業の方が大きくなってしまい、グローバル企業が国家を支配するようになった。

国家は国民を守る最大のユニットだ。
それが破壊されグローバル企業が昔の共産主義のように支配する世の中になろうとしている。
彼らは全体主義、統制主義で暴力的行為もいとわない。
彼らグローバル企業の自由のために国が破壊され、国民は企業の餌食として放り出される。
共産主義は平等で人を殺し、現在の新自由主義は自由で人を殺そうとしている。

斎藤隆夫が現在に居たらこの新自由主義、グローバル企業の跳梁を
人間の本能に反すると糾弾しただろう。
人の集団は国家又は部族集団が最大なもので、それ以上の集団はない。
人間が同一の価値観で集まる集団というのはそんなに大きくない。
国連の加盟国がどんどん増えるのはその証拠だ。

世界中が同一企画のハンバーガーやコーラを飲むのは限界がある。
グローバル企業はハンバーガーが売れないのはその国の文化が阻害していると言う。
ハンバーガーを皆が食べるような文化に変えろ、と国に強制する。
これが現在交渉中のTPPだ。
ハンバーガーに見られる世界画一主義は共産主義全体主義、統制主義と同じものだ。
ハンバーガーはあくまで人の好みに合わせるべきものだ。
グローバル企業もマルクス主義と同じで人の本能に反するから、うまくいかないだろう。

(引用終了)
(以下続く