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読んだ本の紹介

辻貴之著「強い日本を取り戻す」

六回目です。

 

(前回まで)

 

戦前の日本のことを「天皇を戴く国粋主義」「右翼ファシズム」体制だった、というが、

それは外見だけで、実質は共産主義(コミュニズムマルキシズムだった。

日本を敗戦という滅亡に導いたのは天皇を隠れ蓑にした、

左翼思想であったことを再認識すべきだ。

日本人はそれを勘違いして、負けた原因は日本の歴史文化伝統にあると考え、

それらを悪いものだと捨て去ってしまった。

本当は逆で、外来のマルクス主義や共産主義の思想が悪かったのだ。

 

戦後の日本は戦前の偽装マルキスト達が戦争責任を「国粋主義ファシズム」に押し付け、

偽装をかなぐり捨て、社会主義国家を目指し、一貫して日本の支配層となった。

彼らはアメリカの洗脳工作に協力し、マスコミを通じ日本の自虐反日史観を宣伝した。

例えば、戦前出版された書籍を一万冊以上焼き捨てたりしている。

この暴挙はシナの皇帝くらいしかやったことがない。

戦前戦後を通じ、サヨクマルキストが如何に暴力的で宗教的なアタマをしているか、よく分かる。

このような右翼からサヨクへの180度の思想的転換は、

普通の人間だったらかなり時間を伴うし、自己否定に近い非常な苦しみが伴うはずなのだが、

彼らは簡単に敗戦翌日からそれを行っている。

それは最初からサヨクだった、という著者の主張の証拠となるものだ。

 

(今回はここから)

 

上記「強い日本を取り戻す」と言う本の、第六章から。

 

第六章は今後の日本が基本とすべき考え方として保守主義を論じている。

 

保守主義の思想を論ずる前に筆者は具体的な事例を上げてサヨクを批判している。

それはサヨクマルキストの人間が保守思想を詐称してる事例だ。

槍玉にあがっているサヨク人間は民主党の細野幹事長と、

自民党の加藤元幹事長だ。

 

彼らが保守だと称するものがいかに欺瞞であるかわかる。

彼らは保守というものがどういうものか分からないばかりでなく、

自分たちの左翼思想を実現するために保守思想を利用しようとしている。

彼らは皆が言うことを聞かなくなったので保守ぽいことを言って気を引こうとしているのだ。

彼らは保守思想を勉強しても居ないし理解もしていない。

内心は蔑視していて、利用するだけなのだから騙されてはいけない。

 

我々がだまされない為には保守思想とはどんなものか、しっかり固めておく必要がある。

それが第6章のテーマになっている。

それではまず、彼らの言う保守の、どこが間違いか検討してみよう。

 

(以下著書から要約して引用)

平成25127日付けの朝日新聞の記事「終わらぬ保守」は、

民主党にも保守の思想が広がっている、と心配している。

朝日にとってみれば「民主党よお前もか」ということかもしれない。

 

しかし内容をよく読むと保守の思想とは全く異なるものだ。

つまり朝日新聞は保守というものを全く理解していない、と言う事がわかる。

記事の内容は、日本の社会は「助け合いの社会」だったから、

それを今に生かそうというような趣旨だ。

これを民主党の運動方針として幹事長が発表したと言う。

その時幹事長はこの助け合いの精神は保守思想だといったそうだ。

 

また、加藤紘一という自民党マルクス主義者でシナの番犬の奴が居る。

シナ利権で大儲けした、利権の塊のような人間だ。

朝日の記事では何年か前に、その男がやはり同じことを言ったと書いている。

この男は、「日本は助け合いの社会であって、地域における無償の公共奉仕がすなわち保守だ」

といったそうだ。

 

つまりサヨク民主党も、自民党に紛れ込んだ共産主義者の男も

保守について同じ見解を持っているのだ。

では公共奉仕や助け合いの社会は保守の社会なのだろうか。

私見では、彼らの言う「助け合い」の思想は社会主義そのもので保守思想とは相容れない。

著者も理由は別だが同じ見解を持っている。

 

まず著者の考えを書いてみよう。

「欧米の保守主義者は自主独立の精神を尊ぶが、

我が国の伝統文化では助け合いの精神が尊重され、

それを保守思想だと考えている人が多い。」

 

「しかし現代社会でそれを行うと、依存心の強い人間がますます増える。

もたれ合い社会は基盤が脆弱になっていくから賛同できない。

欧米の保守主義の様に自主独立の精神を重んじ、

競争や切磋琢磨の重要性についても配慮していくべきだ。」と言う。

 

著者の言うとおりだが、更に私見を加えよう。

サヨクからみれば確かに「助け合い精神」は大変都合のいい理屈なのだろう。

彼らはそれを利用して全体主義的に統制的に平等を強制したいのだ。

これは戦前に天皇崇拝の国粋主義を利用して国民を騙し、

マルクス主義を実行しようとした手口に似ている。

 

サヨクは一般に「助け合い精神」「天皇親政」というような美辞麗句を最初に持ってくる。

そして全体主義統制経済、暴力的強制、エリート独裁などをやろうとする。

 

「助け合い精神」のような理想を掲げ、その理想に現実に合わせようとする。

しかし現実の世界ではそんな話は一切通用しないのだ。

具体的に言えば、現実の社会は人間の欲望つまり損得で動いている。

勿論助けあい精神のような美しいものも現実社会にあるが、

汚い欲望も同時に渦巻いているのだ。

そういう現実の世の中を考えずに理想だけやろうとしたらどうなるか。

 

「助け合い精神」でどうなるか考えてみよう。

民主党が言うように地域コミュニティで「助け合い」をやろうとしたらどうなるか。

まず強いひとが損をして、弱くて何もできない人間が一番得をすることになる。

それでは困るから等分に負担しあおう、ということになってもそれが又難しい。

金持ちはたくさん出せ、と言われてもどこまでが金持ち階層かせんびきが難しいし、

本人たちも嫌だろう。

 

金持ちが沢山カネを出したとすれば、金持ちという強者が貧乏になるということだ。

そして助けた人間は助けられる弱者に限りなく近づく。

つまり社会全体が最下層の人間に合わせて沈んでいく。

これがサヨク民主党の梅見る「助けあい精神」のなれの果てだ。

 

では本来の日本の助け合い精神とはどんなものだったろうか。

それは強者の思いやりと弱者の感謝報恩の組み合わせからなっている。

強者は自分の余裕があれば弱者を助けるのであり、

弱者は他を当てにせず、自助努力によるのが基本原則だ。

そのうえで助けてもらえば何らかの御恩を必ず返す必要がある。

恩知らずは1番嫌われるのだ。

 

彼ら左翼は助け合い精神の裏に潜む思想をすっ飛ばして美辞麗句だけを利用するのだ。

もし御恩を返さない恩知らずの弱者がいたら村八分になるかもしれない。

サヨク村八分なんて遅れた野蛮な封建的な因習として忌み嫌うだろう。

日本の古来からの助け合い精神はそういった総合的な文化なのだ。

 

それは現実に即しているから続いてきたものだ。

りこうぶったサヨクが考えつくような浅薄なものでは無いのだ。

ある漁師の集落では漁で死んだ未亡人の居る家族が最初に獲物の分配に預かる習慣になっている。

これも「助けあい精神」だが長い時間の流れで作られた集落全体の文化だ。

 

集落全体を維持発展させる為には必要な制度として機能している。

誰かが「助けあい精神」なんてキレイ事を言って作ったものでない。

 

彼らサヨクは美辞麗句から出発するから、自分たちは正しく現実が間違っていると考えてしまう。

「助け合い精神」は立派で美しいのだから自分たちも正しく、間違った現実を正そうとする。

そして全体主義的に統制しようと人々に押し付ける。

当然皆嫌がる。

 

そこで目的が美しいのだからと正義感に酔いしれる彼らは、

皆に対し、言うことを聞かせるためには暴力でも何でも構わないと考える。

それがポルポトの大虐殺につながっている思想なのだ。

 

それほど極端な話でなくても彼らの理想を実施するためには、

法律の強制などを伴わないとできないだろう。

彼らは助け合いという美しい理念を実行すべく法律を作ったとしてみよう。

どうなるか。

 

法律を作り、それによって、強制的に金持ちから奪い取り弱者に配る。

弱者は喜び、彼らを称えるだろうが、カネの出し手の金持ちを称えることはない。

 

金持ちは彼らと弱者を恨むが、弱者救済と言う正義に逆らえないので我慢する。

弱者は救済を当然のこととしてもっとよこせ、と要求するようになる。

金持ちはどうせ取られるのだから働かなくなる。

ここで働くのは仏教がいけないものだと諭す恨みや嫉妬だ。

そういう悪い感情を世に広める結果になるのだ。

 

更に、法律が機能するのは最初だけで、

その後はその法律に対処して世の中が動いてゆく。

つまりサヨクの発想は新しい別のメカニズムや秩序を生み出す。

その動きは法律が想定していないものだ。

 

サヨクは理性で何でも世の中を動かせると思っているが、

バカバカしいような思いあがりだ。

 

そして全体が貧しくなっていくが、そうするとサヨクは皆が協力しないからだ、

などとうまくいかない事を他人に責任転嫁する。

社会の動きはサヨクのアタマでコントロール出来るようなシロモノではない。

 

ではどうすればいいのか。

まず、国民は福沢諭吉の言う通り、一身独立が肝心だ。

一身独立は私有財産制と生命の安全保障が不可欠だ。

国家とその政治はそれを保証し援助するように機能する。

 

そういうしっかりとした共同体と、

その共同体を貫く歴史文化が合って初めて助けあいは機能する。

伝統的な共同体の持続的な人間関係、安定した社会秩序が前提なのだ。

各人は共同体内で自由が保証され、各人の自由意志で助け合いが行われる。

助け合いは共同体の機能を強化する為に行われるので、

「情けは人のためならず、巡り巡って己がため。」ということになる。

 

長くなるのでここまでにします。