メルマガブログ転送書評神道「ない宗教」11403-3-370-3/3

本の紹介
神道はなぜ教えがないのか。
島田裕巳

(引用開始)

神道とはどういう宗教かうまく答えられない。
それは、神道が「ない宗教」だからだ。
開祖も、宗祖も、教義も、神殿も、創造神もないのが神道

しかし、何もないけれど伊勢神宮出雲大社は賑わっている。
日本人と深く結びついているが説明が難しい。

宗教は一般に「ある宗教」が通常だ。
「ある宗教」はその宗教がどんな宗教かは簡単に説明できる。
最初に唱えた教祖様の事を話してもいいし、
どんな救済(病気が治るなど)があるかを説明してもいい。

神道は逆に「ない宗教」が特徴。
そして、神道は「ある宗教」である仏教と結びついた。
神道は他の宗教と違って救済がない、ただ無心に拝むだけ。

しかし無というものを教える。
欲望を捨てれば幸せになれることを教える。
そして、ただ感謝して拝むことにより救済される。
欲望は捨てるか、成就するか、頑張る本人次第だ。
神様は寄り添ってくれるだけだ。
神道は無心と感謝でそれを示すが、しかしそれを教えとして示さない。

なぜ「ない宗教」なのかについてはこの本では深い記述がない。
私見だが自然災害の多い日本の国土と関係しているのではないか。
台風や津波地震などの自然災害が非常に多く、理不尽に殺されるから、
神に救済を求める考えが薄いのではなかろうか。
しかし神は人が努力すれば豊穣な収穫も与えてくれる。
日本の神様は万能の力の持ち主ではなく、せいぜい頑張れ、
と応援してくれる存在でしかない。

第1章「ない宗教」としての神道とは何か。

日本人は古来から神道をずっと守り続けてきた。
神道はその開祖にあたる人物がいない。
キリスト教を説明するにはイエス・キリストの話をすればいい。
しかし神道はそういうものが居ないから、それができない。
神道では教義というものもほとんど発達しなかった。

仏教にもイスラムにもキリスト教にも教義が存在し、かなり壮大な体系が作られている。
宗教とは救済を与えるものという定義があるが、この部分もかけている。
神社には神が宿っているとされる依代があるだけで神像などは何もない。
神道の本質は無い又は欠けている、と言うところにあるようだ。
この「ない」ということは、
仏教の特に禅宗の無の境地や浄土真宗における他力本願思想とも結びつく。
この「ない」と言う特徴のために仏教と深く結びついたと言える。

第二章もともと最初から神殿などなかった。

神社としての建築物に関しても、もともと無かったようだ。
神道祭祀の始まりとしては宗像市の沖合にある沖島と奈良の三輪山
最古のものと言われている。
そこには建築物はなく、大きな岩の陰で行われたようだ。
いつごろから神社の建物が作られたかもよくわからない。

第3章 原初の信仰対象と閉じられた空間

古代における祭祀は巨大な石や庭のある場所で行われた。
同時に火祭りが伴うのがその特徴。
神々が天にいるのであれば、天に向かって祭祀を行うべきである。
ところが岩陰で祭祀を行っている。
神様を一時的に岩陰などの空間に閉じ込めて祭祀を行っている。
神道における祭祀とは何もない空間を作り出し
そこに神を封じ込めることで営まれるものだと定義できる。

キリスト教の信者は、神を拝むとき、天を仰ぐが日本人はそれをしない。
神道の特徴として何もない空間に神が居る、ということと関係している。

第4章 日本の神道は創造神がない

日本神話では天地を創造した神が不在。
古事記の冒頭においては混沌とした何もないところから神が出現する。
そして最初に生まれた(なった)神様は何もしないまま消えていく。

いくつかの神が生まれ消えた後、ようやくイザナギイザナミの神が生まれて、
初めて日本列島を生む作業を行う。

一神教の世界において創造神は絶対的な存在で、ただ1つしかいない。
神道八百万の神といわれるように無数の神が祀られ、
そこが根本的に異なっている。
創造神が創り上げたわけでない世界はどうやって連続性を確保してきたのだろうか。
 古事記に記された神話は神々の物語から代々その地位を受け継いでいく、
天皇の物語へと発展していく。

天皇という存在は不思議なもので、
他の国なら国王ないしは皇帝と言われるべき存在のはずである。
神道の本質を考える上で天皇は重要な課題だ。

第5章 神社建築はいつからあるのか

社殿について最も古い記述は熊野本宮大社
日本書紀続日本紀(しょくにほんぎ)に神社創建の記載がない。
神社が作られたのはかなり時代が下ってからの事。
仏教が渡来して寺院が作られて後のことではなかろうか。

「ない宗教」の神道と「ある宗教」の仏教が対立せず、融合し、お互いを支え合う関係を築いた。
世界の宗教で土着の民俗宗教と外来の宗教の平和的共存は生まれなかった。
神道は無い宗教であるお陰で、ある宗教である仏教と衝突がなかった。
仏教は人間の死の領域に深く踏み込み、神道は生の領域に関わった。
両社の役割分担が可能だった。

第7章 人を神として祀る神道

現在日本で最も多い神社が八幡神社
八幡神社は神話の中に登場しない。
奈良の東大寺に大仏が建立された時から。
九州の宇佐神宮八幡神東大寺に入った。
そしてその後、武家の守護神となって全国にたくさん増えた。

人が神として祀られるケースも多い、神はいくらでも増殖して増えていく。
キリスト教カトリックでは誰を聖人として祀るか教会が決める。
日本では制限は一切無い。

第8章 神道イスラム教の共通点

イスラム教には神道と共通する「ない宗教」としての側面が見られる。
神像を作らせないのも共通している。
イスラム教神道も聖職者と俗人の区別がない。
両宗教とも礼拝の前に人の汚れを清める場所がある。
日本人にとってイスラム教は決して理解不能な宗教では無い。
どちらの宗教もいかに神を祀るのかという問題を中心に組み立てられている。
神道イスラム教と類似した性格を持っていると言う事は、
神道に普遍性があることを意味する。
どちらの宗教も人々の素朴な信仰を出発点に組織化したものである。
もし日本に仏教でなくイスラム教が最初に入ってきたら、
イスラム教に飲み込まれてしまったかもしれない。

第9章 神主はいらない

全国各地で行われている祭りで主役を演じるのは神主でなく氏子の方である。
そもそも神社というものは祭祀のための場であり、
神主は祭りの時だけ必要となるだけだ。
仏教の僧侶は修行を実践し、寺院に常駐するが、
神主は単に儀礼の執行者だから小さい村社などは神社に住むことはない。
僧侶は専門の修行を行ったプロだが、神主は普通の人が祭祀の時だけ神主になる。

第10章 神道は変化を拒否する。

出雲国造(いずもこくぞう)は祀つる役割でなく祀られる側にいる珍しい存在だ。
出雲大社祭神である大国主大神をまつる役割を果たしていない。
出雲国造天皇と同様に天照大神の子孫だ。
出雲の神が人の形をとって現れた、という風に考えられている。

出雲国造は遥か昔から神火(じんか)を受け継いでいる。
その火自ら調理を行い、それを食べる。
昔から少しも変わらず受け継いでいくことが重要。
神道は進歩も変化も改良も少しもない。
神道には変化という側面がなく、歴史を超越している。

第11章 変化しないことの難しさ

伊勢神宮式年遷宮は昔から同じでない。
神道は変化しないことを求めるが不可能。

(引用終了)