1504-13-665-4/20メルマガブログ転送左右でなく現実と幻想の対立

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産経ニュース
http://www.sankei.com/column/news/150419/clm1504190007-n1.html?view=pc

(見出し)
本当に「右傾化」か、いまだ左右対立をいう朝日 ノンフィクション作家・門田隆将

(引用開始)

 

統一地方選前半戦の結果は、自民党の圧勝に終わった。すべての知事選で与党推薦の候補が当選し、大阪府以外の40道府県議会で自民党が第一党を維持した。安保法制をはじめ、さまざまな問題で安倍政権への厳しい非難を続ける新聞には、溜息しか出てこないだろう。

 しかし、翌13日付の東京新聞社説によれば、「安倍政権は地方の意見や世論にも謙虚に耳を傾けるべきである」とのことで、これは民意を反映したものではなかったらしい。同紙は、わずか1週間前の6日付では、翁長雄志沖縄県知事と菅義偉官房長官との会談を論評し、「翁長・菅初会談 民意の重さ受け止めよ」という社説を掲げていた。つまり、自分たちが支持する側が勝利したときと、逆の場合とでは、選挙結果が出ても全く異なる主張がなされるのである。

 選挙の結果をあらかじめ予想していたのか、朝日新聞にも興味深い記事があった。投票前日の11日、日本の「右傾化」について、丸々一面を使って「耕論」というページで大特集が組まれていた。そこには学者、政治家、ライターの3人が登場し、意見を披瀝(ひれき)していた。それは、いまだに朝日は左右の対立という単純な視点しか持ち得ていないことを示すものでもあった。
1989年のベルリンの壁崩壊以降、左右の対立は、世界史的にも、また日本でも、とっくに決着がついている。自民党社会党との左右の対立で始まった「55年体制」の思考からいまだに抜け出すことができないメディアのありさまは“マスコミ55年症候群”とでも呼ぶべきものだろう。だがそんな旧態依然の論調とは無関係に世の中はとっくに違う段階に移っている。

 それは、「左右」の対立ではなく、「空想と現実」との対立である。冷戦下、米国の軍事力の傘の下、空想的平和主義を謳歌(おうか)してきた日本が、中国の膨張主義と軍事的脅威にいや応なく向き合わざるを得ない時代を迎えている。その現実を前に、「相手に手を出させない」ため、つまり、「平和を守る」ために、さまざまな手を打たなければならなくなった。しかし、左右の対立という単一の視点しか持ちえない朝日は、「日本の右傾化が問題」という論調を今も続けている。

実際には、どうだろうか。左右の対立などではなく、すでに「空想家、夢想家(dreamer)」と、現実を見据えようとする「現実主義者(realist)」との対立、つまり“DR戦争”とも言うべき時代が来たのではないだろうか。はからずも、この朝日の「右傾化」の記事の中で、国際政治学者の三浦瑠麗(るり)さんがこう語っている。「これは中国の軍事的脅威の増大と米国の力の低下という実情にリアルに対応するものと見るべきで、右傾化とまでは言い難いと私は考えます」

 それは、簡潔にして実に明快な見解であり、同時に朝日に対する痛烈な皮肉でもある。日本の新聞は、いつまで時代の変化に取り残された“ドリーマー”であり続けるのだろうか。

                 

 

 

(引用終了)

(私のコメント)

徳川幕府は1868年明治維新で滅びたが、その原因の一つに考えられるのは天保の改革の失敗だ。
天保の改革1830年水野忠邦鳥居耀蔵が中心になって断行されたが、政策はいちいち抵抗にあって失敗した。
例えば奢侈禁止令を厳格に行ったので経済がシュリンクしたり、株仲間を解散させ、誰でも自由に商売ができるようにしたが、
株仲間は安定供給と言う点では貢献していたのでそれがなくなり混乱した。
貨幣改鋳も急激に行ったのでインフレが亢進してしまった。
対外政策では外国船打ち払い令を発したが、その後、撤回している。
このように混乱した政策がことごとくうまく行かなかった。
この時幕政を担当した水野忠邦鳥居耀蔵は無能だったのか、というととんでもない。
当時学問の中心である朱子学で最優秀といえる勉強秀才だったのだ。
皮肉に言えば、学問の優秀な人が現場を見ないで(見ているつもりで)教条的にやるから失敗する。
現場を見ているのだが、上記の朝日のように教条的にしか観ることが出来ないのだ。
正しい政策でも正しい結果が出るとは限らないのが世の中だ。
上記朝日新聞も同じように優秀な勉強秀才が教条的な思想から御託宣を垂れて失敗している。
また、水野忠邦は自分に強烈な秀才意識を持っていたようで、それも朝日に似ている。
上記の記事を読んで徳川幕府の滅亡を連想したが、
朝日を代表とする戦後サヨク洗脳マスゴミもこれから滅亡の道を進むのではないか。
希望的観測だからそうなったらうれしい、ということです。

(私のコメント終)