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1506-11-706-6/14メルマガブログ転送四回あった南京事件その1

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ねずさんの独り言

(見出し)
四度あった南京大虐殺
(引用開始)
中共がいう南京大虐殺は、ねつ造です。
白髭三千丈の国のことなので、20万とか30万とかデタラメを主張していますが、実際の答え(真実)は、「ゼロ」です。日本軍は南京で、誰一人民間人を殺していない。

もちろん戦闘の最中に流れ弾が当たって亡くなられた方はおいでになったかもしれません。
ですから厳密には、多少の民間人の犠牲者はあったかもしれない。
けれどそれは、あっても数名以下だし、仮にあったとしても戦闘の最中のことです。
これはやむを得ない犠牲というべきです。
それ以上に、日本軍がやってくる前に、南京では国民党軍による市民への虐待や虐殺が大規模に行われています。
そちらのほうがはるかに問題です。

日本軍がやったとされる南京事件は、おもいきり捏造ですが、南京には実際に起こった虐殺事件が四度あります。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して
  虐殺、強姦、略奪を行った事件

2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京
  に入り込み、
  城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。

3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
  南京に陣取った国民党軍が、
  日本軍がやってくるからと城内で
  虐殺、強姦、略奪を行った事件。

4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、
  強姦、略奪を行った事件。

 


以下長いので要約、()カッコ内は私のコメント
1.第一次南京事件
大正2(1913)年

(1913年は大戦前夜で第一次世界大戦が始まったのが1914年だ。
世界的な矛盾が極限に達した時だ。
特にドイツの台頭がパックス・ブリタニカを脅かしていて、
現在とよく似ている。
現在はパックスアメリカーナをシナ帝国主義が挑戦している。
従って同じような虐殺があってもおかしくない。
恐らくウイグルなどのシナの西側で起きるのではないか。
歴史を学ぶのは現代を観るために大変必要なのだ。
今ピケティと言う人の経済論が大変もてはやされているが、
この人の論文によれば、第一次世界大戦前夜は一番貧富の格差が広がった時だ。
全世界的に社会不安が蔓延している。
現在も格差が広がっているからその点でも似ている。)


1.ー1事件の起きた背景
1911年にシナで辛亥革命が起き、中華民国政権ができて3年後の話だ。
中華民国政権内で袁世凱孫文が対立し権力争いが起きた。
このとき袁世凱の部下である張勲が南京城内で約1カ月にわたり虐殺強姦略奪の限りを尽くした。
この事件で南京の市民に数千人に及ぶ死者が出た。
外国人居住区にいた日本人も十数人が殺されている。

1.ー2事件の事後処理
欧米諸国は即時に軍を出動させ徹底した報復措置を行った。
しかし日本は一切報復措置をとらずあくまで穏便に事態の収拾だけを訴えた。
政府はシナとの戦争を絶対避けたかったのだ。
しかしこの結果、国民は非常に激こうし政府に対する不信感が少しずつ醸成された。
これの積もり積もって日米戦争に至ったのだ。
一方シナは、やられても何もしない日本を侮り侮蔑して日本に何かというと無理難題をいい敵対するようになった。

1.ー3シナの軍隊の特異性
シナの軍隊は欧米や日本の軍隊と全く違う。
シナの軍隊は簡単に言えば暴力団であって集団で暴力を振るうものが軍隊だ。
だから南京事件の主犯である張勲は事件後元帥まで出世した。
彼は暴徒を上手に指揮した優秀な指揮官と見られているのだ。
欧米や日本の常識では戦でもないのに自国の無辜の市民を虐殺交換略奪したら軍法会議で死刑なのだ。
シナでは古くからこういう歴史を繰り返されている。
こういう違いをきちんと踏まえておかないと間違える。

2.第二次南京事件
昭和2(1927)年

第一次世界大戦は1918年に終了し、シナは1919年に孫文が広東で中国国民党をを結成した。
この時代のシナの歴史は複雑でややこしい。
正式な政府は北京の政府で上記第一次南京事件で書いた中華民国を名称としていた。
袁世凱はすでに死亡しており後継者が細々と運命していた。
孫文はこの正式政府に対抗して広東に革命政府を作ったのだがすぐ死んでしまい、
軍隊の棟梁であった蒋介石がその後を継いだ。

ここで重要なのはソビエト共産党が歴史の裏に絡んでくることだ。
いろいろな事件の隠れた背後にソビエト共産党の国際運動組織であるコミンテルンが居るのだ。
この時代の歴史を見るときコミンテルンの動きも考えないといけない。
サヨク歴史観ではコミンテルンの動きは消されたり美化されたりするから注意が必要だ。)

1.ー1事件の起きた背景
1925年に蒋介石軍は本拠地の広東から軍を北上させた。これを北伐軍という。
この北伐軍が昭和2年3月に南京城に入場したときに発生したのが第二次南京事件だ。
この頃の蒋介石率いる北伐軍は共産党勢力が非常に大きくなっており、その勢力は反帝国主義を叫び事件を起こした。
この事件のすぐ後、 4月には上海で北伐軍内の共産党勢力を一斉に弾圧排除している。
事件は国民党の正規軍が南京の各国領事館を襲撃し略奪強姦虐殺を行ったものだ。
米英仏その他各国領事館は軒並み被害にあい特に日本人は警備の海軍陸戦隊に一切の反撃を禁止していたので
被害が大きかった。
軍人が一切無抵抗だったため、30数名の女性は領事夫人を筆頭に徹底的に陵辱された。
指輪をつけていた女性は指を切り落とされた。
警備兵はそれを眺めているしか無かった。
その後、それを恥じて自殺した人もいる。
日本政府は当初これを隠蔽報道させなかったが、徐々に国民に知れ渡った。
(あえて被害を書くのはシナ人に侵略されたらどうなるか、知っておいたほうがいいからだ。)

1.ー2事件の事後処理

国民党は日本の無抵抗主義を自分たちの戦果として大いに宣伝したため、中国人全員に知れわたった。
その後中国人は日本人を見下し侮蔑するようになった。
また英国米国は事件が起きて直ちに軍艦が南京に向かって砲撃を行った。
これで襲撃は収まったが日本は南京城外に軍艦が居たのだが、砲撃に加わらなかった。
これが更に日本は張り子だとして、シナ人の侮蔑嘲笑を大きくした。
襲撃した部隊は蒋介石軍内の共産党勢力に指導されていた。
彼らは西欧列強の反撃で蒋介石を窮地に陥れ、できれば排除しようとしたのだ。
共産党はよくこの戦略を使う。
第二次世界大戦も日米を戦わせてソビエト共産党は漁夫の利を得た。
欧米各国は共産党勢力の排除を要求し、蒋介石は自軍内の共産党勢力を処刑排除した。
英国はこの事件をソビエト共産党国際運動組織コミンテルンの指揮のもとで発生した、としてソ連と断交した。


1.ー3なぜ日本は無抵抗だったのか。


1924年幣原喜重郎外相の対シナ宥和政策が原因だ。
彼はシナに対して寛大宥和政策を取ればうまくいくと信じていた。
彼は戦争直後の首相としで憲法を作っているから筋金入りの理想主義者だ。
憲法第九条も彼の手になるものだ。
彼の観念的な善意主義は日本に限りない災厄をもたらしている。
現在でも左翼は幣原を賞賛している。
尖閣諸島問題でもシナの工作員である新聞マスゴミは幣原に学べ、などと叫んでいる。
しかし、その結果は上記の襲撃された南京領事館の有り様を見ればいかに酷いか分かる。
そしてそうしてシナによくしてやった結果は、恩に着るどころかシナからも侮蔑を招くだけなのだ。
日米戦争はこういう馬鹿げた外交の失敗の積み重ねの上に起きている。
日本の外務省は万死に値する組織なのだ。
現在もシナは日本を馬鹿にしているから、尖閣は当然侵略されるし、外務省は無抵抗だろう。
歴史を学ぶと将来の見通しもみえてくるというものだ。
この宥和政策無抵抗主義日本人見殺しでも外務省高級官僚は高尚でエライ、
という鼻持ちならないエリートは外務省にかぎらず日本にいっぱいいる。

なお、この無抵抗主義はシナには侮蔑の結果だったのだが、あまりに現実離れしたバカバカしい政策なので、
米英の不信を買い、何かシナと密約があって抜け駆けするのではないか、と思われた。
その後、米英は日本を信用しなくなり、何かと非難されるようになった。
現実に対応せず、観念的な理想から何かをやるとろくなことはないのだ。
米英はプラグマティズムの本家だから、いち早く「シナ人は理屈は全くわからず力だけわかる」と
彼らの本質を見抜き、それにそって外交を行っている。
上記は英国の外交官が言っている言葉だ。
また、日本もさすがにこの後対シナ政策を修正したが、変に強硬に走ってしまいかえって問題をこじらせた。


(引用終了)
(以下続く、今日はここまで)