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(私のコメント)

前回「1601-11-860-1/25メルマガブログ転送大陸と英米相違と日本人」で、「般若心経」が紹介されていた。
今回は般若心経について解説しよう。

般若心経がどんなものかは、まず常識的に次の3点を押さえておけばよいだろう。

(ネットからの流用だが、出典はコピー漏れです。検索するとわかる。)

・僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。
(仏教というものは大量の経典からできているから、理解が難しい。その仏教の神髄を示しているのが般若心経だといわれる。
つまり、仏教とはどんな教えなのか、を理解するのに役立つ。)
・日本では仏教各派、特に法相宗天台宗真言宗禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。
ただし、伝統的な仏教宗派、浄土真宗は『浄土三部経』を、日蓮宗法華宗は『法華経妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えることはない。
これは当該宗派の教義上、用いる必要がないということであり、心経を退けているのではない。
例えば、浄土真宗西本願寺門主であった大谷光瑞は般若心経の注釈を著している。
(神社で唱えても構わないし、修験道の山伏も唱える。日本人の世界観にあっているのだろうか、広い範囲で受け入れられている。)
・一般の人々にとっては、「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められており、
一部には悪霊の力を「空ずる」という解釈もされた。
古くから般若心経の利益で病気が治るという信仰があり、既に日本霊異記にその説話が残っている。
お守りとして所持したり、病気になったときに写経して平癒を祈願したりした人が多い。また、神社でも唱えるところがある。
(戦国時代では戦い終わって戦場に死体がゴロゴロあるとき、このお経を唱えた。
このお経により、罪汚れ(つみけがれ)を払い、迷うことなく成仏できる、と信じられた。
つまり日本人にとって呪い(まじない)として非常に実用的な物だった。)


お経の内容だが、その意味する内容を簡単に一言でいうと次のブログの一説がわかりやすい。
(引用開始)

http://gokutsuma.com/hannya/index.htm

女性のための般若心経』 ~この世をよりよく生きる知恵~
家田荘子著 (サンマーク出版

「くよくよ考えこんでばかりいないで、見方を変えて、とらわれの原因を勇気をもって外に放り出しましょう。
そうしたら、青く澄んだ空をあおぎながら、温かく深い海の上に体を浮かべている──そんな穏やかで美しく晴れ渡った心に戻れます。
それが、本来のあなたの姿なのです。背暗向明(はいあんこうみょう)。暗い方に背を向け、光の方を目指して自分の歩幅で歩いていきましょう」

 こういった励ましを与えてくださる、おおらかで頼もしい般若心経と一緒に、これから先も一歩一歩歩んでいってください。
楽しい時は明るい般若心経、悲しいときは涙を呼ぶ般若心経、パワーが欲しいときは、元気な般若心経・・・
そのときあなたが必要とする般若心経が口から出てくることでしょう。
読み方、唱え方よりも心です。一心に唱えて下さい。
(引用終了)

(要するに、くよくよしないこと、見方を変えてみること、捉われている心の元を見据えてそれを放り出すこと、空と海の間のような空間に身を置くこと、
心を暗くするのはスパッと止めて心を明るい光で満たすこと、そういう風に心を持っていくように修業を積み重ねること、
修業の一助として呪文としての般若心経を大いに利用して唱えること、等々だ。
前に書いた「上機嫌、肯定思考、プラス言葉」と同じでこれについては後述します。)

 


(引用開始)
摩訶般若波羅蜜多心経まかはんにゃはらみたしんぎょう

 


観自在菩薩 かんじざいぼさつ  行深般若波羅蜜多時 ぎょうじんはんにゃはらみったじ  照見五蘊皆空 しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄 どいっさいくやく 
舍利子 しゃりし  色不異空 しきふいくう  空不異色 くうふいしき  色即是空 しきそくぜくう  空即是色 くうそくぜしき  受想行識亦復如是 じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ 
舍利子 しゃりし  是諸法空相 ぜしょほうくうそう  不生不滅 ふしょうふめつ  不垢不浄 ふくふじょう  不増不減 ふぞうふげん 
是故空中 ぜこくうちゅう  無色 むしき  無受想行識 むじゅそうぎょうしき  無眼耳鼻舌身意 むげんにびぜっしんい  無色声香味触法 むしきしょうこうみそくほう 
無眼界 むげんかい  乃至無意識界 ないしむいしきかい  無無明 むむみょう  亦無無明尽 やくむむみょうじん 
乃至無老死 ないしむろうし  亦無老死尽 やくむろうしじん 
無苦集滅道 むくしゅうめつどう  無智亦無得 むちやくむとく 
以無所得故 いむしょとくこ  菩提薩? ぼだいさった  依般若波羅蜜多故 えはんにゃはらみったこ 
心無?礙 しんむけいげ  無?礙故 むけいげこ  無有恐怖 むうくふ  遠離一切顛倒夢想 おんりいっさいてんどうむそう  究竟涅槃 くきょうねはん 
三世諸仏 さんぜしょぶつ  依般若波羅蜜多故 えはんにゃはらみったこ  得阿耨多羅三藐三菩提 とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 
故知般若波羅蜜多 こちはんにゃはらみった 
是大神呪 ぜだいじんしゅ  是大明呪 ぜだいみょうしゅ  是無上呪 ぜむじょうしゅ  是無等等呪 ぜむとうどうしゅ 
能除一切苦 のうじょいっさいく  真実不虚 しんじつふこ 
故説般若波羅蜜多呪 こせつはんにゃはらみったしゅ  即説呪曰 そくせつしゅわつ 
羯諦羯諦 ぎゃていぎゃてい  波羅羯諦 はらぎゃてい  波羅僧羯諦 はらそうぎゃてい  菩提薩婆訶 ぼじそわか 
般若心経 はんにゃしんぎょう 


観音菩薩が、
深い「智慧の完成」とは何かを、[瞑想によって]探究していた時、
五つの構成要素(五蘊)は、みな空(無自性)であると明らかに見て、
すべての苦悩から解放された。
[――かつて仏陀は説かれた]
「シャーリプトラよ、
色は空である。
空は実に色である。
色は空に異ならない。
空は色に異ならない。
感覚(受)、概念(想)、志向作用(行)、識別作用(識)もまた同様である。
[感覚は空である。概念は空である。志向作用は空である。識別作用は空である。]
シャーリプトラよ、
すべての現象は空の相を持つものであるから、
生ずることもなく、滅することもない
汚れることもなく、清らかになることもない
増えることもなく、減ることもない
ゆえに空[という立場]においては、
肉体(色)も無く、感覚(受)、概念(想)、志向作用(行)、識別作用(識)も無い(自性を欠く)
六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)も無く、
六つの感覚対象(色声香味触法)も無い
眼で見た世界も無く、意識で想われた世界も無い
[苦の根源である]"無明"もなく、"無明"をなくす道も無い
"老いと死"も無く、"老いと死"を乗り越える道も無い
「生は苦しみである」という真理(苦諦)も無い
「苦しみの原因」という真理(集諦)も無い
「苦しみの滅」という真理(滅諦)も無い
苦しみを滅する方法(道諦)も無い
知ることも無く、得ることも無い
もともと得られるべきものは何も無いからである
菩薩たちは、「智慧の完成」に依拠しているがゆえに
心にこだわりが無い
こだわりが無いゆえに、恐怖も無い
間違った認識によって世界を見ることから遠く離れている。
三世の仏たちも「智慧の完成」に依拠したがゆえに
完全なる悟りを得たのだ。
それゆえ、この「智慧の完成」こそは
偉大なる神秘的な呪文であり、
偉大なる光輝ある呪文であり、
これを超えるもののない呪文であり、
これに並ぶもののない呪文である。
すべての苦しみを除いてくれ、
真実であり、すこしも偽りがない。
では、「完全なる智慧」をあらわす呪文を示そう、
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(引用終了)


(私のコメント)
般若心経は一般教養として覚えておいて損は無い。
神社などでも唱えるから用途も多い。
毎朝神棚や仏壇に向かってこのお経を唱えると心がスッキリして爽やかな気分で過ごせる。
具体的なお経の唱え方はYUTUBEにたくさん実例があるから参照してください。

次に般若心経は前半部分と後半部分の2つに分けて考えると分かりやすい。
前半は「世の中は空である」ということを繰り返して言っている。
後半は呪文の言葉を唱えて「悟りの境地」に進めと言っている。
どちらに重きを置くかによって仏教宗派が分かれている。
曹洞宗臨済宗禅宗では前半部分が重要だし、空海高野山真言宗は後半部分を重く見る。

私流に解釈すれば、前半は理屈の世界、後半は理屈抜きの世界だ。
別の分け方をすれば、以前に説明した本の中に書かれていた大脳生理学の意識野と無意識野がこの2つに当たるのではないか。
つまりお釈迦様は理屈の世界で納得するのでなく、さらにその先の無意識の世界で納得しろ、と言っている。
無意識の世界で納得するのが「悟り」と言うことになる。

世の中は見たり聞いたり感じたりする具体的な現場以外に感知できない世界がある。
その世界は人間にはわからないが、しかし人間はそれがある事はわかる。
実は人間はその不明な世界の中に含まれて生きているのだ。
それを感じることを悟りといい、そこに至る道として呪文を唱えよ、と言っている。
それが後半部分だ。

前回のブログの説明では、その呪文というのは「実践しろ実践しろ」と言っている、と説明している。
毎日実践修行してその世界を感じ取っていこうというわけだ。
これは頭で考える理屈の世界でないから実際はそれがうまくいってるかどうかわからない。
ただ感じるだけだ。

お釈迦様は瞑想によってその悟りの世界に到達したという。
各自自分に合った方法で悟りの世界に向かって修行していくのが特徴だ、ということでしょう。

前半部分の内容についてはどう考えたらいいか。
世の中が空でありかつそれが色でもある、という。
つまり、映画が映っていてそれを見ているような、どんどん現象が流れているような塩梅だ。

空ではあるが無ではなく、同時にそれは色(現象)であり、空には無も含んでいる。
我々が住んでいる世界は究極のところ、空であり、何もないのだ、というところに一度行ってみる、底をたたいてみる、ということだ。
底をたたいたら我々が喜怒哀楽で右往左往する色の世界に戻ってくる。
そうすれば、ものの見方がだいぶ変わってくるだろう。
私の考えでは「それがどうした、上機嫌」の世界に変わっている、というのではないか。

前回話した「江戸っ子はサツキの鯉の吹き流し」心を空っぽにしていろいろな色(現象)に反応していけば良い、というのと同じだろう。
お天道様に対して恥ずかしいことをしなければ良いのだ。

ここでもう一度大脳生理学の考え方である意識野と無意識野を当てはめて考えてみよう。
重要なのはいろいろな現象に対して反応するのは意識野ではなく無意識野なのだ。
意識する部分はパソコンのモニターと同じで、本当の思考は無意識部分で行われる。

そこで無意識野をしっかり鍛えなければならない。
般若心経は前半部分の理屈的な説明をいかにして具体化するかそれを後半部分で示している、と言えるのではないか。
前半部分は意識野で考えさせ後半部分は無意識部分に働きかけを行う、ということなのだろう。

私の考えでは前半部分は意識野を「上機嫌」 「肯定的思考」「プラスの言葉」にを置いておくことで少しは近づけるのではないか、と思っている。
上述したブログの人が言ってるのと同じ意味でしょう。
「くよくよしないこと」「心を暗くするのはスパッと止めて心を明るい光で満たすこと」
これは心を上機嫌にしておくことだ。

「見方を変えてみること」「捉われている心の元を見据えてそれを放り出すこと」は肯定的思考を意味する。
さらに呪文にある言葉の通り無意識野に向かって修行を重ねて行き、無意識が現象に対しより良い反応するようにその能力を引き出していく。

世の中は空なのだから失敗しても間違ってもそれにこだわらないでよいのだ。
いろいろな色(現象)に対して「それがどうした」と開き直っていればよい。
般若心経は以上の通り、基本的な話だからバリエーションは上記のブログのように各自で考えることになる。

無意識に向かっては般若心経が言うように呪文を唱えたり瞑想したりする働きかけも有効だろう。
なお、般若心経が言う悟りの世界とは何かと言うと、自然とともに生きており、自然と同じであり、自然に沿って生きる、というようなことだろう。
これは理屈の世界ではないから言葉で説明できないのだ。
だがこれも各自の考え方次第だから、あるいは違うかもしれないしズレているのかもしれない。
私自身もどんどん変わっていくから全然別のことになるかもしれない。
あとは各自の考えで修行していくわけで、だから毎朝般若心経を唱えると心がスッキリする、そのすっきりした感覚が悟りに通じているのだろう。
四国遍路88カ所は各寺で般若心経を唱えても回る。
これも悟りに至る道なのだろう。

 

(私のコメント終)

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短足おじさんの一言
(引用開始)
(前略)
難しい話ですが、これから「では私たちは、私はどうするか」を考えてみたいと思います。

キーになるのは「般若心経」です。  ・・・ またまた変なものを持ち出したな。抹香臭い話は御免だぞと思われそうですが、しばしご容赦を!。

般若心経、正式には摩訶般若波羅蜜多心経と言います。
この経文はサンスクリット語から漢文に翻訳されていまして、有名なのが「色即是空」などの言葉。そして翻訳者は「孫悟空の親分こと三蔵法師こと玄奘三蔵」。
ですから一応漢文なのですが所々サンスクリット語をそのまま音だけ漢字でうつした所があります。

最初の表題の部分もサンスクリット語でして、こうなっています。

摩訶 般若 波羅蜜多 心経(まか はんにゃ はらみった しんぎょう)
偉大なる"悟りを開く智慧"の真髄

※摩訶=偉大なる
※般若=智慧
※波羅蜜多=完成、悟りを開く、彼岸に至る
※心経=(心=真髄、経=経典)

元々仏教は自己開発の為の教えなので、原始仏教に近いタイなどの上座部仏教などは今でも「自己開発」を教えています。
そして面白い事にこの「般若波羅蜜多」はタイにごく少数ある大乗仏教の寺でもこれが経文になっています。

と前置きは此れ位にして本論。この般若心経の最後にこんな謎の呪文が有ります。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経」
(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

普通には
羯諦=(さとりに)往ける(もの)
羯諦=       〃
波羅羯諦=さとりに彼岸へ往けよ
波羅僧羯諦=(もっと強調して)さとりの彼岸に往けよ
菩提=覚り(さとり)
薩婆訶=幸いあれ、(良く言った)

全体を纏めて、中村元先生は「往き往きて 彼岸に到達せるさとりよ、幸あれ」と訳されています。

しかしこの「羯諦」の原語「gate gate paragate parasamgate」には「実践せよ」という意味があると言う人がいます。
そうするとこの難解な言葉は「実践せよ 実践せよ」となってくる。
そしてこれこそが古田博司氏のいう「向こう側」への道なのではないか。

日本人が古来武士道とか修験道そして禅寺などで厳しい修行、鍛錬を続けてきた。
その伝統は徳川の平和な時代になっても消して途切れることなく続いてきた。
こんな事が今日の日本の底流にあるのではないか。
そう考えると「武」の道を究めた武人が色んな書物(宮本武蔵五輪書)を作り、武人の道を説いたのも分かる気がする。

何か取り留めのない話になりました。
結論は英米と大陸の思想の違い、そしてその中で日本人が、我々がやるべきことは日々の実践と鍛錬、こう言う事だと思う次第。

以上でこのコメント紹介エントリーを終りにしたいと思います。

(引用終了)