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正しい歴史認識国益重視の外交、核武装の実現


(私のコメント)

下記の昭和天皇のエピソード「マッカーサーに戦争の責任は自分にある」とおっしゃったことはとても有名だ。
だが、昭和天皇は自ら「アメリカをやっつけろ」などと命令したわけではない。
むしろ、戦争を避けようと努力していたのだ。
だが、フランクリンルーズベルト大統領は欧州戦争に参戦したいがために日本に無理難題を押しつけた。
それと、もう一つ非常に大きい要因は、国民の間にいつかはアメリカと戦争をせざるを得ないのではないか、
という気持ちが何十年も前から醸成されていたことだ。

だから、軍部が悪いとか、マスコミが悪い、という前にそういう空気が日本人の間にだんだん大きくなっていた、ということが重要だ。
このことはジェフリーレコード著渡辺惣樹訳「アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」という本に書かれている。
著者はアメリカ空軍大学の先生でアメリカ議会軍事委員会専門委員などを歴任した学者だ。
その中で、著書の冒頭に日米戦争の教訓として7項目を挙げているが、その中の7番目が下記のとおりである。

「戦争が不可避であると考えると自らその予言を実行してしまいがちになる。」とある。

これが日米戦争の真の原因といえるのかもしれないのだ。
つまり、戦争の責任はそういった潜在的な空気だった、ともいえるので、そうすると昭和天皇の責任とは必ずしも言えないのだ。
それなのになぜ昭和天皇は「全責任は自分にある」とおっしゃったのか。
その答えはお終いの方に書くが、もう少し大東亜戦争の原因となった空気を追ってみよう。

ついでにジェフリーレコード先生が指摘する教訓について、残りの項目を簡単に要約して書きます。

1.恐怖心とか誇りは意思決定の重要なファクターで合理性は関係ない。
2.潜在敵国の文化や歴史は極めて重要だ。
3.相手国への牽制は相手側の心理によって有効かどうか決まる。
4.戦術より戦略が重要だ。
5.経済制裁は実際の戦争と同じだ。
6.道徳的あるいは精神的に相手より優れている、という思い込みは危険だ。
7.戦争が不可避であると考えると自らその予言を実行してしまいがちになる。

戦争に至る経緯はほぼ上記の教訓と反対のことが起きた、と考えていい。
ルーズベルト大統領のいじめにあって日本人は上記1.ゆっくりした滅亡の恐怖心と誇りを傷つけられた。
互いに相手の国に対し、2.わかっているつもりだったが本質的なところは分かっていなかった。

ルーズベルト大統領の石油などの禁輸措置は日本にとって、戦車も軍艦も動かせなくなるのだから裸同然になる、ということだ。
アメリカは日本が屈服すると考えたようだが、3.日本は心理的に追い詰められて視野狭窄的な行動に走ってしまった。
そして、よく言われることだが、日本人は戦略的なしっかりした考えを持たずに戦争を始めてしまった。
勿論国家戦略的な文書は沢山作られていたが、いずれも都合のいい物語的なものに近かった。
そして、アメリカが行った経済制裁は日本に壊滅的な打撃を与え、5.すでにそのとき原爆が落ちたようなものなのだ。
経済制裁は戦争と同じでただ、武器が爆弾でないだけなのだ。
そして、日本人はアメリカ人を惰弱で享楽的な国民だ、と軽蔑したり甘く見た6.。
日本の亡国将軍山本五十六は「真珠湾攻撃でアメリカ人は腰を抜かして和平をこうだろう」と思っていた、と語っている。
以上教訓の7項目はそのまま日米開戦の原因や敗戦原因とも重なっている。

さて、それではどうして日本国民はアメリカとの戦争が不可避である、とかんがえたのか。
これは、岩田温著「だから日本人は戦争を選んだ」に書かれているから引用しよう。
つまり、結論を簡単に先に言えば、日本人に対する人種差別が日本人の誇りを傷つけ、憤激させたのだ。
この場合の人種差別は今の在日特権とは事情が違う。
その時すでに日本人は数十年アメリカに居住していたがアメリカ国籍はあたえられなかった。
カリフォルニアは白人のものだ、と差別されたのだ。
例えば、1906年に日本人学童の強制隔離問題や、1909年の排日土地法案など目の敵にされた。
ただし、アメリカ国籍はアメリカで生まれた日本人の子供には与えられた。
だが、1922年アメリカ最高裁は「自由な白人でない日本人はアメリカ市民権は持つことができない」という判決を出した。
1924年には排日移民法が成立し、日本人移民は全面的に禁じられる事になった。
(なお、サヨク学者でこの法律は日本人だけを差別したのではなく東洋人を差別したのだから的外れだ、と日本が悪いようにいうものもいるが、違うから聞いてはいけない。)

こういうアメリカの仕打ちに日本人は憤激した。
日本人は「日本人に対し劣等国民、望ましからざる国民、という烙印を押すものだ」と「故なくして辱められた」と怒った。
当時の日本人は今の日本人と違って「自国は侮辱されてはならぬ」という強い「独立自尊」という、まさに明治維新の精神が生きていた。
日本人の誇りや自尊心が傲慢なアメリカによって傷つけられた屈辱の怒りを日本人全員が共有した。

このことは昭和天皇ご自身が「昭和天皇独白録」で日米戦争の原因としてお話しされている。

「加州移民拒否のごときは日本国民を憤慨させるに充分なものである。また、青島還付を強いられたこと又しかりである。
かかる国民的憤慨を背景として一度軍が立ち上がった時にこれを抑えることは容易な業でない。」

青島(ちんたお)還付とは第一次世界大戦ベルサイユ条約でドイツの租借地だった青島を日本に委譲することが決まっていたのだが、
それをアメリカの横やりで放棄させられたことを言う。
こうしたことで義憤にかられた国民と当時世界最強だったといってもいい軍部が相互に影響しあって相乗的に「いずれアメリカとは一戦せざるべからず」という気持ちが醸成されたのだ。

ここまで色々日米戦争の経緯について書いたが、その他にも共産主義ソビエトの影響とかあるがここでは割愛する。
なぜこんなことを縷々書いたかというと昭和天皇マッカーサーに対して「全責任は自分にある」といったことがとても重い言葉だからだ。
日米関係の流れは上記の通りで、運命的なものもあるから、とても昭和天皇の責任とは言えない。
アメリカも日露戦争で勃興した日本がカリフォルニアを侵略するのではないか、と恐れていたし、
遅れて欧州からきた白人移民は日本人が成功するのを見て、自分たちの居場所を取られる、と恐れたのだ。
アメリカにも隠れた事情があり、お互いそれぞれのすれ違い的な反応で事が大きくなった。

上記の7項目の教訓で「恐怖心、誇りなどの感情は合理性を超える」
「相手国の文化歴史は極めて重要」
「相手を侮ってはいけない」など極めて正解なことがわかる。

ではなぜ昭和天皇は責任あり、と言われたのか。
長谷川三千子著「神敗れたまわず」という本には昭和天皇の「全責任は自分にある」というお言葉の意味が解説されている。

まず、日本という国はどういう国か、というと
天皇は「民は天皇のおおみたから」と草莽の民を宝物として大切にし、又その民は天皇のために一身を投げ出して仕える」という関係で出来上がっているのだ。
これは農耕民族で組織やリーダーシップがしっかりしていないと収穫もままならず生きてゆけない、という背景もある。

次に日米戦争は天皇に代表される日本の加えられた屈辱を晴らす戦いで天皇(=日本)のために国民が全員命を投げ出して戦ったものだ、と定義してみよう。

ところが、負けてしまった。
そこで今度は天皇が「自分一人が全責任を取って死ぬからお前ら国民は生きろ」といったのだ。
上記に書いた国体、国柄の成り立ちから逆に全国民の命と天皇の命が交換されたのだ。
日本という国の成り立ちから発した、そういう重みのある言葉なのだ。

最後にもう一つ昭和天皇について語ってお終いにしよう。
昭和天皇のご葬儀には100か国以上の国の元首や使者が参列した。
明治天皇の時は18ヵ国(記憶だけなので違うかもしれない)だけだった。
これは別に明治天皇がどうの、ということではなく、そもそも明治の時代は世界に国がなかったのだ。
当時の世界地図を見てもらえばわかるが、ほとんどが植民地ばかりだった。

大東亜戦争で日本は強大なアメリカと戦って負けたのだが、そのとき白人植民地帝国、例えば大英帝国などと抱き合い心中したのだ。
そのおかげで第二次世界大戦後爆発的に国が増え、世界に植民地はほとんどなくなった。
歴史的に見ると、そういう意味では昭和天皇大日本帝国(今の日本とは別の国)は最終的勝利者だったのかもしれない。

昭和天皇は戦には負けたが傑出した天皇で日本人は未来永劫感謝をもって崇めるべき方だろう。


(私のコメント終)
(見出し)
4月29日は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」昭和の日だ。

(引用開始)

(前略)
毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。

マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。

 


マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇マッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇マッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサー天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
マッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

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「話題通信」
■動画
昭和天皇マッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より

昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。

 


(後略)


(引用終了)