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難民ウォッチ
「穏健派ムスリム」とは一体何者なのか(4)
2016/8/25(木)
イスラム的社会制度とムスリムたちの生活環境
(見出し)


(私のコメント)
日本にもムスリムは沢山やってくる。
イスラム教どはどんなものかよく知って研究しておく必要があるだろう。
このブログはムスリムについて非常に勉強になるが、やはり長い。
そのまま送るが、内容は大変充実したものだから読んでください。


(私のコメント終)

 

(引用開始)


(見出し)
イスラム的社会制度とムスリムたちの生活環境
以前の投稿で、「東京入国管理局横浜支局(横浜市金沢区)が、退去強制手続きで収容中のイスラム教徒の男性に誤って豚肉を提供」「入管は男性に謝罪したが、男性は『重大な人権侵害』としてハンガーストライキ」という事件を取り上げました。

http://www.asahi.com/articles/ASH8W4S9FH8WULOB00N.html

これは昨年夏のことでしたが、これのコピーペーストかと思われるような事件がまた発生しました。

ムスリムの男性に誤って豚肉提供 横浜の入管、昨年夏も 」

http://www.asahi.com/articles/ASJ8K55H6J8KULOB016.html

---------------------

入管や支援者によると、今回の男性は8月3日の夕食で、5ミリ四方のハムが含まれたひじきの煮物を口にした。豚肉抜きの食事を提供することになっていたが、業者や職員の確認が不十分だったという。
(中略)

ナスタチウムのブログ」様でも取り上げられていましたが、この事件を機に「日本人は宗教上のタブーに対する意識が低すぎる」「テロの口実にされる」等々としたり顔でこの収容者を擁護し、入管を責める議論がほうぼうから出現しています。

(それに「仮放免者の会」という正体不明の支援団体も・・・一体何?不気味すぎるこれ!)

このパキスタン人収容者の態度に素直に不快感を表明する人たちを戒めるそういったコメントからは、なにやら意味不明な優越感がほとばしっていますが、でも筆者は個人的に思うのです。

そもそもこのパキスタン人は出入国管理関連法に対する意識が低すぎるんじゃないでしょうか(爆)

さらに、「ナスタチウムのブログ」様も取り上げておられた、清義明?何某氏という人のコメントがふるっていたので思わず引用したくなってしまいました。

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国際社会では宗教的なタブーというのはもはや常識レベルでわきまえなければならないと、その相手を嫌な目にあわせることになるし、こちらも痛い目に会うということですね。

---------------------

→でも筆者は個人的に思いますが、国際社会においては、出入国管理法制はもはや常識レベルでわきまえなければならないものなので、これを無視すると受入国を嫌な目にあわせることになるし、何よりも本人が収容されて不自由な生活を余儀なくされてしまうということですね(爆)。

 

イスラム的社会制度とムスリムたちの生活環境
以前の投稿で、「東京入国管理局横浜支局(横浜市金沢区)が、退去強制手続きで収容中のイスラム教徒の男性に誤って豚肉を提供」「入管は男性に謝罪したが、男性は『重大な人権侵害』としてハンガーストライキ」という事件を取り上げました。

http://www.asahi.com/articles/ASH8W4S9FH8WULOB00N.html

これは昨年夏のことでしたが、これのコピーペーストかと思われるような事件がまた発生しました。

ムスリムの男性に誤って豚肉提供 横浜の入管、昨年夏も 」

http://www.asahi.com/articles/ASJ8K55H6J8KULOB016.html

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入管や支援者によると、今回の男性は8月3日の夕食で、5ミリ四方のハムが含まれたひじきの煮物を口にした。豚肉抜きの食事を提供することになっていたが、業者や職員の確認が不十分だったという。

 17日に面会した支援者によると、男性は水と蜂蜜しか口にしていないが、会話はできる状態という。同支局の担当者は「食事を提供する前の確認を徹底し、再発防止に努めていく」としている。

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http://livedoor.blogimg.jp/kaigainoomaera/imgs/b/2/b2c9cb2b.jpg

               東京入国管理局横浜支局

ナスタチウムのブログ」様でも取り上げられていましたが、この事件を機に「日本人は宗教上のタブーに対する意識が低すぎる」「テロの口実にされる」等々としたり顔でこの収容者を擁護し、入管を責める議論がほうぼうから出現しています。

(それに「仮放免者の会」という正体不明の支援団体も・・・一体何?不気味すぎるこれ!)

このパキスタン人収容者の態度に素直に不快感を表明する人たちを戒めるそういったコメントからは、なにやら意味不明な優越感がほとばしっていますが、でも筆者は個人的に思うのです。

そもそもこのパキスタン人は出入国管理関連法に対する意識が低すぎるんじゃないでしょうか(爆)

さらに、「ナスタチウムのブログ」様も取り上げておられた、清義明?何某氏という人のコメントがふるっていたので思わず引用したくなってしまいました。

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国際社会では宗教的なタブーというのはもはや常識レベルでわきまえなければならないと、その相手を嫌な目にあわせることになるし、こちらも痛い目に会うということですね。

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→でも筆者は個人的に思いますが、国際社会においては、出入国管理法制はもはや常識レベルでわきまえなければならないものなので、これを無視すると受入国を嫌な目にあわせることになるし、何よりも本人が収容されて不自由な生活を余儀なくされてしまうということですね(爆)。

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まだ世俗派が大勢のインドネア[注:原文ママ]で味の素に豚肉由来のものが入っているのではという疑惑だけで、外交問題になったくらいですよ。これが国家や自治体レベルで、日本に来るとハラムで禁止された豚肉が無差別に入っているし、それが日本の文化だから仕方ないでしょ、と言ったらどういうことになるか

そんなところに「豚肉を食べる恐れがある事がどうしても嫌ならば、そもそも日本に来るべきではない」ですか。呑気すぎて、さすがですねえ。

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→この清何某氏は、「おまいら、イスラム教徒さまの御前で頭が高いぞ!」と国内の誰かに凄んでみせ、それで自分は「国際的に人権感覚が優れている」と勘違いしているようです。かえってご本人の自尊心があまりにも低すぎることを表しているようで、なんともかわいそうですねえ。

・・・・冗談はこれくらいにして、今回は「イスラム的社会制度」と題して、イスラム教徒の世界観をさらに分析していきたいと思います。


ウマル憲章とジズヤ:「平和で寛容」なお取り計らい
現代から遠く遡ること7世紀、イスラムの開祖・預言者ムハンマドの2代後の後継者、ウマルは、かねてから先代たちが手中に収めていたアラビア半島に続いてササン朝ペルシャ)とビザンチン帝国の領土の多くをイスラム帝国のものとした強力な指導者でした。

そのウマルは638年ごろエルサレムを征服し、ウマル憲章という条約を非イスラム教徒(主にキリスト教徒)と結んだとされています。

ウマル憲章は、異教徒をたちどころに虐殺したり強制改宗したりするのではなく、一定の条件下で生存を許すという、当時としてはとても「寛容」なものでした。

 

またエルサレムだけではなくシリアやメソポタミアに居住する異教徒たちとの条約としても使われていたと記録されています。

https://en.wikipedia.org/wiki/Pact_of_Umar
支配者は憲章の定めを守るキリスト教徒の安全を確保する。
新しい教会や礼拝場所、修道院などを建設してはならない。シナゴーグユダヤ教の会堂)も同様である。キリスト教徒の集落であろうとムスリムの集落であろうと、破壊された教会を再建してはならない。
教会で十字架を掲げてはならない。
ムスリムは昼夜問わずいつでも教会に入ることができる。
キリスト教徒は祈りを呼びかける鐘を鳴らしてはならない。
キリスト教徒もユダヤ教徒も、声を上げて祈ってはならない。
異教徒の子供にコーランを教えてはならない。
キリスト教徒は公共の場で宗教を行ったり、道やムスリムの市場でキリスト教の本やシンボルを持っていてはならない。
キリスト教の祝祭のパレードは禁止。
葬式は静かに行うこと。
ムスリムの墓場の近くで非ムスリムの遺体を埋葬してはならない。
ムスリムの家の近所で豚を飼ってはならない。
キリスト教徒はムスリムにアルコールを売ってはならない。
キリスト教徒はスパイを隠したりかくまってはならない。
ムスリムに関して嘘をついてはならない。
ムスリムに敬意を表さなければならない。ムスリムが座りたかったら非ムスリムは椅子から立ち上がり席を譲ること。
ムスリムに、イスラムからの改宗を勧めてはならない。
イスラムに改宗したがっている者を妨げてはならない。
ムスリムムスリムと異なる服装をすること。また、ムスリムのような話し方をしたり、イスラム的な名まえを名乗ってはならない。どこに行ってもそれとわかるような格好をすること。
ムスリムの方法で動物に跨ってはいけない。鞍を使ってはならない。
ムスリム的な敬称を自らに使用してはならない。
判子にアラビア語の文字を使ってはならない。
武器の所有を禁ずる。
子供たちにコーランを教えてはならない。
ムスリムは、要求があればムスリムを少なくとも3日は宿泊させ、食事を与えること。
ムスリムムスリムの囚人を買ってはならない。
ムスリムムスリムに割当てられた奴隷を取ってはならない。
ムスリムは、ムスリムとの関係で、指導者、統治者、あるいは雇用者になってはならない。
ムスリムムスリムを殴った場合、彼の「ジンミー(被保護民)」状態は解除される。
ムスリムの礼拝場所は町で最も低いモスクよりも低くなければならない。
ムスリムの家はムスリムの家より低くなければならない。
ムスリムの家は、彼らがこの世で低い地位にあることを思い出すことができるよう、身を低くして入るように作らなければならない。

 

ふーん。でも歴史上、こんな条約はいくらでも結ばれてきたじゃない。たまたまそのときこうなっただけで、今はこんな過去のもの気にする人、いないでしょ?

いや、それがそうではないのです。

イスラム教徒という人たちは、どうしてどうしてなかなか几帳面で、過去の先例をきちんと覚えていて、それを連綿と引き継ぎ続けているのです。

そもそも、コーランには、異教徒と戦って「彼らが進んでジズヤ(税)を納め」「屈服するまで」戦え、とあります。

アッラーも、終末の日をも信じない者たちと戦え。またアッラーと使徒から、禁じられたことを守らず、啓典を受けていながら真理の教えを認めない者たちには、かれらが進んで税〔ジズヤ〕を納め、屈服するまで戦え。(9:29)

「平和で差別のない」はずのイスラムなのになんで「戦って屈服させ」ないといけないの?

まあ、この突っ込みどころの検討はこのさい次回以降の投稿にさせてください。

戦って、屈服させた相手をその後どう治めていくか。

統治するためにどういう社会制度を構築するか。

イスラームの真に凄いところは、実はそこにあるのです。

10-11世紀ごろのイスラム学者が記した「統治の諸規則」(The Ordinances of Government)という本には、イスラム教徒による統治の方法が事細かに記されており、その中にある、異教徒を統治する方法をテーマにした章には、このウマル憲章の引き写しともいえる細則がきちんと引き継がれています。

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13章ジズヤ[人頭税]とハラージュ[地租]の賦課

・・・・権威を持つアミール[首長]は、その下にジンミー保護の対象となる者全てにジズヤを賦課しなければならない。それによりイスラムの家の住民として確定されるためである。この税の支払は2つの権利を保障する。一つは放っておいてもらえるということであり、もうひとつは保護されることである・・・・・
・・・
ジズヤの契約には二種類の条件が含まれる。必須条件と推奨条件である。前者は6つの条件によって成る。i.彼らはアラーの本を貶したり誤引用してはならない。ii.使徒、アラーの平安と祝福が彼にあるように、を非難したり、虚偽を述べたり彼を貶すようなことを言ってはならない。iii.イスラムの宗教に対する誹謗中傷や流言を流してはならない。iv.姦淫や結婚を目的としてムスリム女性に近づいてはならない。v.ムスリムの宗教の信仰を弱体化させようとしたり、その財産や信仰を傷つけようとしてはならない。vi.敵やそのスパイを援助してはならない。
・・・・・・
推奨条件は6つ存在する。i.特徴的な服とベルトを強制することで彼らの外見を変える。ii.ムスリムの建物より高い建物を建てない。同じか、それより低くなければならない。iii.ベルを鳴らしたり、彼らの本を朗読したり、ウジヤまたはイエスのことをムスリムの耳に届くように話してはならない。iv.ムスリムの前でワインを飲んだり、十字架を見せたり、豚をおおっぴらに見えるようにしてはならない。v.埋葬や、死体は隠すこと。死者のためにおおっぴらに泣いたり嘆いてはならない。vi.馬に乗るのはサラブレッドであれ雑種であれ禁止する。ラバまたはロバはよい。

このウマル憲章の先例を引き継いだ差別扱いと、「統治の諸規則」でも言及されているジズヤ(人頭税)、これがイスラム教徒による異教徒統治のキモでした。

はっきり言って、ムハンマドもウマルも、被征服民族の統治についてはずば抜けた才覚を持っていたといわざるを得ません。

なぜなら、異教徒たちへの統制に使われたこれらの制度は、「最初はゆるく、受け入れやすく、そしてだんだんきつくなる」ように精緻に設計されていたからです。

ジズヤは、ムハンマドの立てた先例によれば収穫の50%ということで、決して軽いものというわけではなかったのですが(時代によって変化あり)、イスラム帝国キリスト教勢力の攻防1000年を描いた塩野七生氏の大作「ローマ亡き後の地中海世界」によると、イスラム支配層によるジズヤ課税をけっこうすんなり受け入れた異教徒たちもいたようです。

その理由は、そもそも以前の領主たちから重税を課されていたケースもあるので、ジズヤに切り替わってもさほど負担増にならない場合もあったらからです。

そしてイスラム勢力によるビザンチン領土の征服直後は、実際には住民が道端でムスリムと遭遇するようなこと自体があまり無かったので、ウマル憲章のような差別扱いもそれほど問題にならなかったのだそうです。

「なあんだ、じゃあやっぱイスラムって平和で寛容じゃん」

そう思うあなた。これには続きがあるのです。

いいですか?「最初はゆるく、受け入れやすく、そしてだんだんきつくなる」ここが肝心ですよ?

公衆の眼前で四つんばいにさせられ平手打ち
実は、ジズヤ税の支払については、異教徒に屈辱を与える儀式が必須だと考えるイスラム学者が多数いました。

ウィキペディアによると。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%BA%E3%83%A4
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ジズヤの貢納儀礼


ジズヤの貢納儀礼

・・・・・・

ジズヤの徴収者は椅子に座り、不信仰者は立ち続ける……彼の頭はたれ、背中は曲がる。徴収者がそのあごひげを持ち、両方の頬を平手打ちにする間に、不信仰者は金銭を秤の上に乗せなくてはならない。
? アル・ナワーウィ

ユダヤ教徒キリスト教徒、そしてマギ教徒はジズヤを支払わなければならない……ジズヤを差し出すにあたっては、役人がそのあごひげをつかみ、耳の下の出っ張った骨を打つ間に、そのズィンミーは頭を垂れていなくてはならない(たとえば、下顎……)。
? ガザーリー

これ(ジズヤの手渡し)に続き、アミールはズィンミーの首を彼のこぶしで打つ。ズィンミーを早急に追い払うために、アミールの近くに1人男が控える。そして、二番目と三番目のズィンミーがやって来て、同じような扱いを受け、すべてのズィンミーがそうなる。すべてのムスリムはこの見世物を楽しむことを許されている。
? アフマド・アル・ダールディー・アル・アダーウィー

貢納の日には、彼らズィンミーは公の場に集められなければならない・・・彼らはそこにたちつづけ、最も卑しく汚い場所で待ち続けなければならない。法を体現する現場の役人たちは彼らズィンミーの上に立ち、威圧的な態度をとらなくてはならない。そうすれば、彼らズィンミーや、他の人々に、われわれの目的は、彼らズィンミーの財産をとることを装って、彼らをさげすむことだと見せつけることになる。彼らは以下のことを悟るであろう、即ちジズヤを彼らから取り立てるに当たり、われわれは彼らに善行を行っているのであり、彼らを自由にさせているのだと。それから彼らはジズヤを納めるために一人ずつ連行されていかねばならない。貢納に当たっては、ズィンミーは殴られ、脇に投げられる。そして、彼はこれで彼は剣を逃れたと考えるようになる。 力は神とその使徒、そして信仰者たちに属するがゆえに、これこそ、主の友、最初と最後の世代の友が彼らの不信仰の敵を扱う方法である。
? ムハンマド・アブドゥルカリーム・マギリー

ジズヤの徴収に当たってのズィンミーのとるべき姿勢? イブン・アッバースによれば、手で歩くことによりいやいや身を低める。
? タバリー

税金を納めにいくたびに公衆が見ている前で四つんばいにさせられ平手打ち。(一方その税が課せられないムスリムたちはこのショーを楽しむ。)

その程度の屈辱で虐殺や奴隷化を免れるというなら、まあ・・・その・・・・「平和で寛容」と言えるかも知れません・・・・

ですが、それだけではないのです。

ムスリム人口比率が不可逆的に増えていく精密な仕組み
ウマル憲章に明文化された差別扱いには、いくつか見逃せない箇所があります。

ムスリムに、イスラムからの改宗を勧めてはならない。
イスラムに改宗したがっている者を妨げてはならない。

イスラムでは、一度ムスリムになってからイスラムを捨てる者は死刑です。

(もちろんイスラムを批判するのは論外。これも死刑です。)

さらに、異教徒はコーランの内容をあらかじめ知ることが許されていない。

ということは、入信してからでないとイスラムとはいったいどんな教えなのか知ることができないし、イスラムに改宗したがっている人を留めてもいけないし、ひとたびイスラムに入信した者が離反したら死刑になるし、さらには離反させようとしてもいけない、という、(まあ、いうなれば真っ黒なカ○ト教団そのものの)ルールが適用されていたわけです。

さらには、非ムスリムの男性がイスラム教徒の女性と結婚することは許されないことも定められていました。

そして実は、その逆、つまりムスリム男性が非ムスリムの女性と結婚することは禁じられないのです。

加えてムスリムの子はムスリムと決まっていたため、世代が移り変わるごとにじわじわと両者の人口比率はムスリム増加に傾いていきました。

イスラム法の統治制度は、ちょうどラチェットが一つの回転方向にしか回らないのと同じで、ムスリムと非ムスリムが同じ社会で暮らした場合必ず前者が増え後者が減るよう、極めて精緻に設計されていたのです!

そしてもっと大事なのはこれです。

ムスリムムスリムを殴った場合、彼の「ジンミー(被保護民)」状態は解除される。

これが意味するところは、非ムスリムにはいっさいのセルフディフェンスが禁じられている、ということです。ムスリム様にどれほど不当な暴力を振るわれても、一回でもやり返したら、もはや被保護民としての地位はありません。

もちろん、武器を所有するなど最初から論外です。

ちなみに、アルメニア人(キリスト教徒)はイスラム帝国の末期に民族意識を高め独立運動をしたところ100万人単位で虐殺されました。

トルコは未だにそれを認めていません。当たり前と言えば当たり前です。

だって少しでもムスリム様に反抗したら皆殺しにされても文句は言えないというのがデフォルトの規則だったんですから。トルコにしてみれば「虐殺?何を心外な。俺らは少しも悪くないぞ」ってなものでしょう。

だって、「リライアンス・オブ・トラベラー」o11.9,11.10によれば・・・

もしイスラム国家の非ムスリム臣民がイスラムのルールに従うことや非ムスリム人頭税の支払を拒否したら、国家と彼らの間の合意に対する違反となる。・・・・・・合意はまた、国家が以下のいずれかにより合意が破られ、臣民の誰かがそれを行った場合、違反されたこととなる。・・・・・・(1)ムスリム女性と姦淫しあるいは結婚した場合(2)スパイあるいは敵対勢力を隠していた場合(3)ムスリムイスラムから離そうとした場合(4)ムスリムを殺した場合(5)アラー、預言者(アラーが彼を祝福し彼に平安を与えますように)あるいはイスラムに関して許されないことを言った場合。もし臣民と国家との合意が破られた場合、カリフは戦争捕虜についての4つの選択肢の中から彼らの扱いを選ぶものとする。[訳注:別の章に、死、奴隷、無償での解放、あるいは身代金もしくは敵軍に囚われたムスリム捕虜の釈放との引き換えでの解放、が4つの選択肢として定められている。]

ね?イスラム的には、反抗した異教徒は皆殺しか奴隷にしたって合法なのです。イスラム的には。

そうやって、諸取り決めにより精神的、肉体的屈辱と財政的、社会的不利益を与えつつ、不可逆的改宗と結婚制度でじわじわ締め付けつける。

(直接「改宗しろ」とは決して言わないのがイスラム流統治のすごいところなのです。だから「宗教に強制があってはならない」(2:256)とコーランに書いてあるとおりなのです!)

そして、この扱いに耐えかねて改宗したり逃亡するならそれはそれでよし。

我慢して改宗しない者はジズヤを納めてくれるから、それはそれで重宝する。

ただし、実力で反抗するような兆しが見えたなら、一挙に殺戮する。

虐殺を免れても戦争捕虜つまり奴隷となる。

さらにさらに、もっと凄い「デブシルメ」という制度もありました。

これはオスマントルコ時代の制度。トルコ語で「徴収」といった意味だそうですが、異教徒(キリスト教徒)の家庭を回り、最も体格がよく賢そうな男の子を強制的に徴用し、イスラム教に改宗させ、軍隊に入れたり官僚機構に組み入れる制度です。

(ようは誘拐して強制改宗って・・・あれ、パキ○スタンかどっかで見たような気が。)

これにより支えられた「イニチェルリ兵団」は、オスマントルコ帝国でも最も勇猛な精鋭部隊として知られ、キリスト教勢力との戦争にもたびたび動員されました。

(異教徒の子供を誘拐、洗脳、ジハド戦士に仕立てる・・・・あれ、ISISが同じことをやってるのはもしかして偶然?)

こういったことの繰り返しによって、イスラム勢力化に置かれた異教徒はゆっくりと、しかし不可逆的に減少していくことになります。

本当に感嘆するばかりですが、これほど精巧かつ堅固な被征服民統治システムは非常に稀であったことでしょう。

7世紀を未だに覚えている人たち
ところが、第一次大戦でドイツに肩入れして負けたオスマン帝国は、かねてから求心力を失っていたことも手伝ってバラバラに瓦解してしまいました。

その後紆余曲折を経て成立した中東諸国の多くでは、イスラムを尊重しつつも西欧の影響を受けた法制度を採用し、またある国は明確に世俗主義を採用するに至って、異教徒に強制されていたジズヤもジンミー(被保護民)制度も表面上は姿を消しました。

でも、「異教徒を屈服させ、ジズヤ税を支払わせる」というのは、れっきとしたコーランの教えの一部なのです。

敬虔な信徒は、コーランを勝手に無効にしてしまうことはできません。

ですので、なにかの拍子でイスラムの原点にかえろう、敬虔な初期信徒たちのように一途にコーランに従おう、という機運が生まれるたび、近代法のもとムスリムと同等の地位を与えられている異教徒たちの扱いに憤懣を抱く者たちが出てくるのです。

「平和で差別のない」はずのイスラムなのですが、コーランに「異教徒を屈服させろ」と書いてあるのは変えられません。

そして現代。たとえば、エジプトのムスリム同胞団は、国内のコプト(キリスト)教徒にジズヤ税の支払を求めること、および教会の建設は許さないということを提唱しています。

ロッコおよびエジプトに居住しておられた経験のある、イスラム学者の飯山陽女史が、ブログ「どこまでもエジプト」で、ムスリム同胞団が提唱するコプト教徒の扱い方を書いておられるので、そこから引用させていただきます。

http://nouranoiitaihoudai.blog.fc2.com/blog-entry-174.html

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・・・・・・・・・・[同胞団]第五代団長のムスタファー・マシュフールは、エジプト軍にはコプト教徒は入隊させてはならず、そのかわりにコプトはジズヤ(人頭税)を支払うべきである、という持論を述べていたそうです。マシュフールは、コプトがエジプト軍にいて、いざキリスト教国と戦争になった場合、コプトは敵の見方[原文ママ]をしかねないから危険である、と考えていたそうです。

さらに前の同胞団ムフティーであるムハンマド・アブダッラー・エルハティーブは、イスラムの地における教会建設に対する判断を3つに場合分けして、次のようなファトワーを発行したそうです。

(1)イスラム教徒が新たに切り開き、住み着いた土地、例えばマアーディーやヘルワーンのような場所には、そこに教会やシナゴーグを建設することは禁じられる。
(2)イスラム教徒が武力によって異教徒から奪い取った土地、例えばアレクサンドリアのような場所にも、教会やシナゴーグを建設することは禁じられる。またウラマーの中には、ここはムスリムによって所有されている土地であるとして、既存の教会やシナゴーグの破壊を義務とする者もいる。
(3)イスラム教徒が異教徒との和平によって統合した土地、そこには新たな教会を建設することは禁じられるが、既存の教会やシナゴーグに関しては、そのままにしておいてもかまわない。

まあ、これは平たく言えば、エジプトの地にある教会は、基本的には破壊してもよい・・・というか、破壊することが義務である、ということなんでしょう。

ハティーブは、他にもコプトへの敵意を煽るようなファトワーを多く発行しているそうで、もしコプトムスリムに「アッサラーム・アレイクム(あなた方の上に、平安あれ)」と挨拶をしてきたら、「アレイクム(あなたにも)」とだけ返答し、「サラーム」をつけて返答してはいけない、とか、ムスリムの家のお手伝いさんはムスリマでなければならない、とか、ムスリム男性はコプト女性と結婚してしまったら、その子どもがコプト色に染まらないようにきっちりしたイスラム教育を施さねばならないとか、ムスリム墓地にはムスリム以外は埋葬してはいけないとか云々・・・

教会や挨拶にかんするファトワーは、イスラム初期から現代まで同じようなものがアラブ各地で多数発行されており、イスラム法の伝統をつよーーーーーーく感じます。

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ムスリム同胞団って過激派組織じゃないの?

ええ、国によってはテロ組織認定されています。

でも、その過激派組織が、のちにクーデターでひっくり返されたとはいえ、2012年には民主的な選挙でエジプトの政権をとったのです。

ということは、エジプトのムスリム市民投票者の相当数が同胞団に賛同しており、その同胞団が7世紀から脈々と続く異教徒の差別扱いを継続すべきとしているのです。

市民の多数がこういった考えに賛同していなければ5,000人の村人が教会建設の噂を機に一斉に暴徒化するはずもありません。

つまり、彼らにしてみれば、異教徒を差別扱いし屈辱を与えたり、異教の施設を襲撃して破壊するのは、「神との契約」に基づいた行為であって、それをさせてもらえないのは彼らの「宗教的権利を傷つけられたように」感じてしまうのです。

「敬虔」で「穏健」なムスリム市民の頭の中が、だんだん見えてきましたか?

彼らは、ある意味、ものすごーく記憶力がいいのです。

7世紀から続く異教徒への差別扱いを未だに覚えていて、実態がそのとおりになっていないと強い憤りを覚えてしまうのです。

この人たちは(ちょうど我々の感覚のように)「誰かへの差別扱いに人として憤りを覚える」、のではなくて、逆に「異教徒が伝統どおりきちんと差別扱いされていないと憤りを覚える」のです。

え?よくわからないって?

これはそういうものとして理解してもらうしかありません。

7世紀のムスリム-異教徒間「不」平等協定は、今も一部のムスリムの中ではちゃんと有効なのです。

ハラル騒動を冷静に考える
ところで、冒頭のニュースをめぐる騒動については、我々日本人は冷静に考える必要があります。

被収容者本人と、それを支援する人たち、および一部の(自称)国際感覚の優れた人たちは「人権侵害だ」と騒ぎたて、その態度に著しい不快感を覚える人たちもだんだん冷静さを失って「豚肉嫌だったら国に帰れ!」と怒鳴りたくなります。

でも、冷静に考えましょう。

入管は人権侵害なんて一切していないのです。そのことを繰り返し繰り返し、冷静に、平穏に周囲に伝えればよいのです。

ナスタチウムのブログ」様も指摘されているとおり、食物規程があるのはなにもイスラム教に限りません。ユダヤ教はコシャー規程があり、ヒンドゥ教は牛を神聖視するので牛肉はご法度、仏教徒の中には肉食を絶つ人たちもいます。

ですが、食物規程に沿った食事の提供を外国の政府機関に義務付けようと要求するのは、世界広しといえどもイスラム教徒しかいません。

他宗教の信者たちも真剣に食物規程を守っていますが、自分の自助努力でやっています。

正統派ユダヤ教徒のコシャーへの情熱など凄いものです。わざわざ専用の調理器具を揃え台所の洗い場を二つ設置する人さえいるのですから。

でも、そんなユダヤ教徒が他国を訴えた話などひとつも聞きません。

こういったことを見落としてしまうと、「ハラル食の提供は宗教への配慮として必須」→「豚肉を食べさせられたのは重大な人権侵害」→「日本はいまに(テロなど)痛い目に遭うぞ」という恫喝に簡単に乗ってしまいます。また、その恫喝への嫌悪感から「出てけ!」と言いたくなります。

しかし頭を冷やして考えればわかります、横浜入管は人権侵害をしていません。

なぜなら「無理に豚肉喰え」と言っていないから。あとは本人が気をつければ済む話です。

戒律を破ったのは本人です。入管が無理に破らせたわけではありません。

そもそも公的施設である入管が、その職員をして特定の宗教の食物規程に通暁せしめ、被収容者のためにその規程どおりの食事を提供する義務を負ふのでしょうか。

筆者の知る限り、入管職員にそういった義務を課す明文の法律はないはずです。明文の法律がなければそれを要求することはできません。

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出入国管理及び難民認定法(抜粋)
第六十一条の七
2  被収容者には、一定の寝具を貸与し、及び一定の糧食を給与するものとする。

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被収容者処遇規則(抜粋)
生活様式の尊重)
第二条  入国者収容所長及び地方入国管理局長(以下「所長等」という。)は、収容所等の保安上支障がない範囲内において、被収容者がその属する国の風俗習慣によつて行う生活様式を尊重しなければならない。

(糧食の種類)
第二十五条  被収容者に給与する糧食は、主食、副食及び飲料とする。
2  前項の主食は、被収容者の食習慣を勘案し、米、麦、パン及びめん類等とする。

(糧食のエネルギー)
第二十六条  被収容者に給与する糧食の一人一日当たりのエネルギーは、二千二百キロカロリー以上三千キロカロリー以下とする。

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入管の義務は「生活様式を尊重」することまでです。本人が何も気をつけずともその習慣が守れるよう一から十まで完璧にお膳立てしてあげることとは違います。

「属する国の風俗習慣によつて行う生活様式」の主体は被収容者なのです。入管ではありません。

それとも「生活様式を尊重」するということは、即ち収容者の宗教に超詳しい係官を一人任命して、お収容者様の身に不都合がないよう、お口にお入れになるものを一つ一つ事前に全てチェックしろということなのでしょうか?ちょうど皇帝陛下のお毒見役みたいに????

この法文を見るかぎり、そんな馬鹿馬鹿しいことが要求されているとは到底思えません。

入管の提供した(意に沿わない)食事をうっかり食べてしまったことに対する責任まで入管が負っているというのははなはだ無理があります。

豚肉を出さないこととしていた、としてもそれはたんなる内部マニュアルであって、それに法的拘束力はないし(ひょっとしてみんな、入管と被収容者との関係は「飲食店と顧客」の関係と同じだと勘違いしてませんか?後者にはれっきとした「契約関係」がありますが、前者にはそんなものありません。)、たとえそれを破ったとしても、被収容者が食べてしまったことにまでは責任は問えないでしょう。

出された食事を食べるかどうか、またはどれかを食べずに除けて残すかは、全て被収容者の判断に任されているのですから。入管がその自由の行使を邪魔しない限り人権侵害とはいえません。

(ちなみに中国政府は断食期間中イスラム教徒に無理やり食事をさせています。これは人権侵害と言えるでしょう。中国政府は屁とも思っていないようですが・・・・)

また、被収容者の側としては、目の前に出されたものを見て、宗教的理由があるから別のメニューにしてくれ、とか頼むくらいのことは不法滞在者といえども許されるかも知れません。

でも、その判断そのものは、被収容者本人がするべきなのです。「食べちゃった」ことについてどうして係官が責任を負うのでしょう?

当該被収容者は2歳の幼児なみの責任能力しか無いのでしょうか?口に入れたら危ないものを手の届くところに置くな、というのでしょうか?

食べる食べないは本人の自由。出された物が気に入らないから「替えてくれ」というのも本人の自由。言い分が通るかは保証できませんが。

こういう議論にならないのが、まったくもって意味不明なのですよ。なんといっても係官は宗教には素人なのが当たり前で、被収容者ご本人こそがその宗教の専門であり実践者なのですよ。

いや、知らないでは済まされない、なんて鬼の首を取ったように騒ぐ人もいますが、筆者は「じゃああなたは何がハラルで何がハラムか知ってるんですか?」と問いたい。多分知らないでしょう。筆者だって随分調べましたが本場ムスリムには到底かないません。ましてや係官なんて知ってなくて当たりまえです。

だって同じムスリムでも学派によって見解が違うんですから。だから、異国に住むムスリムは自分の信じる学派の説に従って食べられる物食べられない物を自分で気をつけるしかないのです。それを入管に責任転嫁するのは大きな無理があります。

(後述しますが、軽々しく「ハラル対応せよ」という人は、この清何某氏もそうですが、自分が何を言っているか全然わかっていません。)

まあ被収容者は、豚肉が食卓に出ているのを見て、「んもー前からダメだって言ってるのに(怒)」と文句を言ってもよいでしょう。それで、本人が食べられないものを自分であれこれ除けていた結果、栄養が足りなくなってしまったら、初めて入管に責任らしきものが生じてくるのでしょう。(それでも全て言い分を聞く義務があるかははなはだ疑問ですが。)

ともあれ件のパキスタン人はなぜハンストに及んだのでしょうか。これもジハド(聖戦)なのでしょうか?

筆者の見たところ、これはジハドでも何でもないと思います。蜂蜜やら栄養補助剤を飲んでハンストなど聞いたことがないです。

本物のジハド戦士、例えばイスラエルに抗議するパレスチナ活動家などは、時としてこん睡状態に陥るまでハンストしたりします。

このパキスタン人がやっていることなどそれに比べたらお遊びで、内心は危険を賭して抗議する価値さえないと思っているのです。

たぶん収容された腹いせにちょっと脅しつけてやろうといったノリでしかないでしょう。

そもそも、厳密に言えば、非ムスリムが屠畜した肉はハラルではないのです(これも後述)。ですから、それまでにこの被収容者が食べた食事にもし肉類が入っていたとしたら、それは豚でなくとも全てがハラムなのであって、かの男性の身は今までもハラムによっておおいに穢されてきたのです。だからこの時だけ「人権侵害だ」と騒ぐのは甚だ笑止千万でコケ脅し感が見え見えです。

このような手合いに対して、こちらも本気になって怒ったり「日本から出て行け!」と言う必要はないです。

「出された食事がハラルかハラムかは自分で判断してね。だって僕らは宗教は素人だし、その宗教一番良く知ってるのはキミ自身でしょ?うっかり食べちゃったからって他人を逆恨みするのはナシよ。」

これで十分ではないでしょうか。

入管ハラル対応で本当にいいの?
ともあれ、ひとつ思考実験してみたいことがあります。

イスラム教徒様の燦然と輝くご威光をバックに無駄に勝ち誇っておられる清何某氏の提言を、あえて真剣に検討したとしましょう。

再発防止策として何が考えられるでしょうか。

例えば入管がハラル食品業者と契約を結びムスリムの被収容者にはハラルマークの食品を提供する?

ここで筆者は断言しますが、このような措置は日本人に対する人権侵害であり、日本に対する内政干渉であり、憲法20条に定められた政教分離に完全に反していますから、断じて受け入れるべきではありません。

ハラル対応は、清何某氏が気軽に言っているような簡単なものではなく、細かい規則があり、実質上そのためにムスリムを雇用したりムスリム事業者と契約しなければ無理なのです。

まず何よりも、ハラルの食肉については、動物を屠る際に、ムスリムの屠畜人が、動物をメッカの方角に向かせて「ビシミッラー・アッラーフアクバル」(アッラーの名によって・アッラーは偉大なり)と唱える必要があるのです。

参考
http://www.maff.go.jp/j/chikusan/shokuniku/pdf/houkoku_12.pdf

さらにハラルの屠殺においては、頚椎を切断せずに動脈、気管、食道を断ち切るため、動物は即死せずに一定の時間をかけて血を流し続け、やがて失血により失神、そして死に至ります。(電気ショックによりあらかじめ気絶させることで苦悶させずに屠るやり方もあるようですが、電圧にも制限があるので効果は疑問視されているようです。)

少しでも動物愛護の心情を持っている職員がそのような過程に立ち会わさせられたら、これはかなりの精神的負担になるでしょう。

第一、この作業を補助する他の職員(非ムスリム可)が、もしキリスト教徒、モルモン教徒、仏教徒あるいはその他の宗教者、あるいは無神論者だったらどうでしょうか。

だんだん仕事が嫌になるでしょう。自分が信じるのとは別の神、あるいは信じてもいない神が「偉大だ偉大だ」と毎日何百回も聞かされるからです。なぜ仕事でそんな目に遭わなければならないのでしょう?

・・・って、そうすると結局、専らムスリムが運営しムスリムだけが働くムスリム事業者を使えばいいという話になるのです。

(ちなみに「日本ハラール協会」は「[ハラル]認証取得から2年間以内にイスラム教徒の雇用をすること」を求めています。ムスリムを雇わずにハラルビジネスをするな、というわけです。)

これによって、やがては公的機関への食事の納入に関わる業務について、ある特定の宗教を持つ者が運営する業者が必ず契約を獲得できるという話になる。

さらに、その宗教の信者のためだけの雇用が生まれることになり、これは事業者間および求職者間の公平性を著しく害することになります。

公的機関の調達活動は公正に行われるべきなのに、これは極めて不適切です。

そして、見逃せないのは、ハラル認定食品事業者が認証取得・更新料金を支払う先の多くは宗教法人格を持つイスラム団体だということです。

そうすると、入管という公的施設が間接的に納税者のお金を使ってイスラム教を推進する団体に資金を提供することになるのです。

政教分離の原則に照らせばこんなことはありえません。

宗教法人格を持っているイスラム団体が、無税特権を受けながらハラルビジネスの一端を担うというのは果たして適正だろうかという疑念も当然生じてくるでしょう。)

だから、ハラル食品の調達は、必ずイスラム教徒の自己資金でやらせるべきです。納税者の資金は一銭も使うべきではありません。

ジズヤ、ジンミー、一夫多妻、そしてハラル:イスラム的社会制度の一貫した性質
さて、われらがパキスタンからの愉快な友人のおかげでだいぶ遠回りしました。

今回、イスラム的社会制度とムスリムたちの生活環境、と題しだらだらとまとまりなく書いてしまいましたが、

まとめますと、第一に、

7世紀に始まった異教徒への差別扱いは、コーランおよびイスラム法の規定として、中東はじめとするイスラム世界に生きる多数の「穏健派」ムスリムたちの心の中に今も生きている

ということです。

少なくともイスラム世界に限って言うなら、異教徒がムスリムと同等の権利を主張するなど(イスラムの)歴史始まって以来なかったことだし、たとえ表面上は西洋式の法律のもと宗教間の差別がなくなったように見えても、やはり(彼らにしてみたら)宗教的良心に照らして本来あってはならないことなのです。

だから、異教の施設が出来ると聞くと暴徒化するのです。また、非ムスリム男性とムスリム女性の色恋沙汰も同様です。

どちらも、イスラム法では禁じられているからです。

現代のイスラム世界においては、西洋の影響で導入された宗教を問わず平等に権利が認められる世俗的社会制度と、差別扱いの上に成り立つ伝統的社会制度の間の拮抗が、時としてムスリム市民の爆発という形で現れるのです。

そして第二。

その差別規定をふくむ、およそ全てのイスラム的社会制度は「不可逆的にムスリムが増え、異教徒が減少するように」精緻に設計されています。

制度のどこをとっても金太郎飴のように、一事が万事、ムスリムが栄え非ムスリムが落ちぶれるように作られているのです。

イスラム世界では異教の施設の建設が禁じられる一方で、非イスラム世界では「モスクはムスリムには絶対必要なもの」なので(出身国からの資金援助も仰ぎつつ)モスクを建設していきます。こうして不可逆的にモスクが増えていきます。

そして一夫多妻制も同じこと。

成人ムスリム男性は、ムスリム女性の妻を持つことは無論、非ムスリム女性も含め4人まで重婚できます。(さらに何人かの学者が同意している通り、非ムスリム女性を性奴隷とすることもイスラム法上は明示的に禁じられてはいません。)

そこから生まれてくる子は皆ムスリムです。

他方、ムスリム女性が非ムスリム男性と恋仲に落ちた場合、しばしば名誉殺人という形で制裁を受けます。

こうして不可逆的にムスリム人口が増えていきます。

そして、一見分かりにくいのですが、ハラル食品も全く同じことなのです。

ハラル食(特に食肉)の加工にはそもそもムスリムの雇用が必須で、認証を得るにはイスラム推進団体に資金を提供する必要があります。

最近、「共生」のために全ての学校給食をハラルにせよ、といったことは海外ではちょくちょく聞かれます。その際には「非ムスリムがハラル食べたって何の問題もないでしょ」というレトリックが使われると思われます。おそらくは日本でもそういったロビー活動がもうじき始まるでしょう。

しかし、ひとたびそれをしてしまったら、納税者の資金が半永久的にイスラム宣教団体に流れ、そして食肉処理を担当するムスリム労働者も、単にムスリムであるというだけで、非ムスリムで同職種に就く者よりも有利に雇用を確保できるというきわめて異様な状態が生じます。

そもそもハラル食品の本質はなんでしょうか?

それは「異教徒が加工したものなど穢れていて食べられたものじゃない」という差別意識です。

だからムスリム様が安心して食事ができるよう専属ムスリムを雇用せよ、という話に流れるのです。

お金持ちのムスリム旅行者が専属のコックを引き連れて日本を訪れるのならいいでしょう。

しかし、入管や学校といった公共施設でこれをやるのは、実質的に、ムスリム様の「穢れたくない」という要望を満足させるために日本の異教徒納税者の資金を使って専属ムスリムを雇い、もののついでにイスラム教のありがた~い教え(?)も、異教徒納税者の資金を使って広めちゃいましょう、というのと同じことなのです。

清何某氏など、「ハラル対応しろ」と安易に言う人たちはハラルというものが何かも、それがもたらす帰結も、一切何も分かっていないのです。

 

 

 

 


(引用終了)