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パヨクと名無しの「あおいくま」 (2017/07/06)

(見出し)
パヨクと名無しの「あおいくま」 (2017/07/06)

(私のコメント)
世の中を渡るうえで、必要な注意事項は次の五つだ、という。

「あせるな」「おこるな」「いばるな」「くさるな」「まけるな」

人間が失敗するときのパターンはこの五項目に起因することが多い。
他の人を観察して上記のような状態の人がいたら、離れたくなるし、そうでない人だったら近づきたい。

進化心理学から言うと、焦る、怒る、などの感情は、人間の本性である、生命保存つまり遺伝子保存から発生するものだ、という。
だから、普通に人の世の中で暮らせば、こういう感情は当然自然に湧いて出る。
では、なぜそれを抑えることが必要なのか、というと、そういう感情はコントロールできずに暴走するからだ。
生命の危険を感じると、焦りや恐怖(怒り)で逃げ回ったり戦いに向かったりする。
これは当然のことで、命に係わるから、なりふり構っていられない。
そういう場合は暴走することが生存につながる。
そうやって窮地をまぬかれたことが、長い遺伝子の記憶の中にあるわけだ。
なにしろ、そういう風にして生き残った遺伝子だけが今現在存在できているのだから強い記憶なのだ。
だが、何時も遺伝子の指示通り「騒ぎまわる」一手だけで解決できるだろうか。
それをやっているのが子供だが、大人の我々はそれじゃ困るだろう。
大人と子供の違いは何か、というと、経験と知恵、学びがあることだ。
世の中を渡ってゆく上で、人とのせめぎあいの中で、知恵と経験を最大限発揮させるためには頭が回転してくれないと困る。
知恵と経験は脳の前頭葉をはじめとする大脳が活発に動くことが必要だ。
ところが、遺伝子的記憶がある小脳は怒ってドキドキしたり、焦って汗をかいたり体にまで影響力を持つ。
小脳が暴走で知恵と経験を司る(つかさどる)大脳もマヒさせてしまうと大変だ。
そうなると遺伝子が要求するように「騒ぎまわる」一手しかなくなる。
気持ちを落ち着かせる、つまり遺伝子からくる感情行動は程々に収めて、大脳を楽に柔軟に解放させてやると活発に動いてくれるのだ。
そこで、落ち着かせるために感情に向かって言い聞かせるのが上記の「あおいくま」(頭文字)となる。
先日記事に書いた「笑って受け流す」「はぐらかす」なんかも感情に支配されないテクニックの一つだろう。
普段からそういう場合の準備として、「上機嫌」の技術を訓練しておくのもいいだろう。
般若心経のように難しい話は抜きにして何かおまじないの言葉を言ってけじめをつけたりするのもありだ。
「笑い」を練習しておいて、上記のような状況、焦ったり怒ったりしたときはまず「笑ってしまう」なんてのもいいかもしれない。
昔会社で何時もへらへら笑って居る奴がいたが、あれも処世術の一つだったのかもしれない。
何か、バカにされているみたいできらいだったが。
また、私が現役のころ、会社で問題が出たときは、「それがどうした」「だからどうなんだ」と唱えろ、と言われたことがある。
この言葉は、失敗したりして、パニックになったりしたとき、気持ちを落ち着かせるためには有効だった。
話が逆になるが、大脳が活躍する、と言っても暴走気味に妄想が湧いたりすると、却って厄介だ。
そういう時は、あまり一生懸命にならず、放り出してしまって心を空っぽにしてしまうほうがいいかもしれない。
そうなると、時と場所と人によるから出たとこ勝負で日ごろの訓練が物を言う。

昔は子供たちにまだ意味も知らないうちから、こういう徳目を覚えさせた。
会津の「什の掟」(ならぬものはならぬものです)や「教育勅語」を教えたのは、遺伝子から来る判断情報を修正するためだ。
なにしろ、遺伝子は何万年も前から変わらない情報だから、大脳の発達した現代人とずれが生じるのは止むおえないのだ。
現代の社会組織や構造、生活様式などは遺伝子は全く関係なしで、早くて縄文時代の森の中で得た生き残りのノウハウが基準なのだ。
現代に合わせて、感情を落ち着かせ、知恵で窮地を切り抜けてゆく、そのためには上記の五項目は有効だろう。
こういうことを子供に教えないのは却って子供に可哀そうだ。
感情に支配され、現代に適用できず、非常に苦労する。
つまり、子供から大人になれないのだ。
「騒ぎたてる」一手しかない可哀そうな大人になってしまう。
それで思い出すのは、このブログにも書かれているように民進党などのサヨクだ。
サヨクと同じなのが朝鮮人(韓国人)で「騒ぎ立てる」一手だ。
そしてその騒ぎ立てるのに後から理屈をつけたのが左翼知識人ということになる。
所がサヨクは自分たちは理性で動いている、と逆に考えている。
片や保守は伝統文化を理屈抜きに尊重するから「古い因習の虜」などと馬鹿にする。
ところが、その理性的な左翼、というのは実は人間が本来持つ生の感情(主観)に支配され、理屈はその後につけられているだけなのだ。

ところで、脱線になるが、会津のじゅうの掟は次の通りだ。
什の掟
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

これは6歳から十歳までの子供に言っていることで大人が対象でない。
だからサヨクの人間がこの「ならぬものはならぬ」を使って、「反原発、護憲、ダメなものはダメ」というのとは違うのだ。
サヨクの人間は子供のまま遺伝子感情そのままに言うからこのように混同する。
「ならぬものはならぬものです」とはまだ子供も理由が分からないうちに自制心を養う意味で言っているのだ。
自制心は遺伝子心理学からすれば子供のころから訓練しておいた方が良い。
大人になったら意味が分かるのだ。
例えば、「戸外でものを食べるな」「戸外で夫人としゃべるな」という項目がある。
これの反対に物を食べたり女としゃべったりするとどうなるか。
フランスの有名な画家のマネという人の絵に「草上の昼食」という誰でも一度は見た絵がある。
教科書にも載っている物凄く有名な絵だ。
裸の女が男二人と森で食べ物の脇でくつろいでいる絵で、19世紀にスキャンダルになった絵だ。
この女は売春婦で、当時フランスは女の地位は低かった。
フランスの上流階級が何をしているか、女のこちらを向いた目つきが「何を驚いているの」という表情で有名だ。
つまり、簡単に言えば、戸外で女とものを食べるのは遺伝子レベルからしても快楽で皆やりたいことなのだ。
でもそれは社会を維持するうえでは当時のフランスのように内緒でやることだった。
落語で吉原で放蕩して親から勘当される若旦那が出てくるが、子供がそうなっては可哀そうだ。
それが、最後の項目である「ならぬものはならぬ」という言葉になっている。
「意味なんか大きくなったら自然に分かるし、適当にやるさ、でも自制心は子供の時に訓練しておいた方が良い」
というのが大人の教育方針だろう。
これをサヨク日教組は「押しつけるのはいけない」「不合理なことも守るのか」「時代錯誤だ」「問答無用につながる」
「思考停止」「封建時代の教育思想」「体罰容認だ」などと批判する。
特に戦後は「教育とは色々な可能性を提示して自身の考えを形成させること、押し付けは教育でない」などという。
自身の考えというが、大部分の普通の人は自身の考えなんて独自で作れない。
教えられずに自分の考えを形成させるなんて、ソクラテスからヴィトゲンシュタインまで自分でやるなんてまったく不可能だ。
だから学ぶのだ。学ぶとはまねる(過去の人間の行動判断をまねる)ことでもある。
その学ぶことの積み重ねの結果、大人になって初めて独自の考えを少しなりとも形成できるわけだ。
普通の子供にそんなことは出来るわけがない。
子供に「自身の考え」でやれ、といったら、遺伝子心理学の遺伝子レベルの判断が幅を聞かせる事になる。
一つ例を挙げると、遺伝子レベルでは、弱い者いじめは正しいのだ。
同類に弱いものを作っておくと敵に襲われたとき弱いものが犠牲になり、自分は生き延びれるからだ。
しかし、遺伝子の組み込まれている弱いものいじめは現代の外敵の少ない世の中ではそぐわないのだ。
什の掟のなかに弱い者いじめをするな、とあるのは子供を自然のままにしたら弱い者いじめをする、と知っているのだ。
「可能性を提示して子供に選ばせる」なんて言っていたら弱い者いじめはなくならないのだ。
遺伝子レベルの問題だから、子供には押しつけが正しいし、不合理でも構わない。
問答無用、思考停止、体罰容認(程度問題)、封建時代でも正しいものは正しいので現代が間違いだ。
(サヨクマルクスの発展段階説だから、新しければ新しいほど正しい、という先入観を持つ)
問題なのは、「自身の考え」と思わせて日教組教師の言いなりのサヨク思想を叩きこまれたりすることだ。

また、いろいろな可能性を教えたとして、その価値判断が的確にできるのも普通の人には無理で、出来るのは天才だ。
サヨク日教組のいう押しつけ教育は嘘と欺瞞でサヨク思想を押しつける為にサヨク思想以外は押し付けと言って排除しようとしているだけだ。
日教組教師の主観だから、押しつけはいけない、という押しつけをやっていることに気づかない。
子供に選ばせる、なんて本当にやるなら教育の放棄で無責任だが、実際は教師の主観を押しつけて日教組教師の主観的な好む方向に選ばせている。

コロッケさんの母親が子供に対して行った教育は正しい教育だろう。
教育とは親の価値観の押しつけだし、不合理でもいいし、時代錯誤でも封建時代でも正しいことは正しいのだ。
母親の教育は問答無用だし、思考停止だし、体罰容認ではないが厳しいし、戦後サヨク日教組教師がいかに馬鹿げているか、分かる。
時が来れば、コロッケさんのように自分の選択で世の中に飛び出してゆく。
それまでは笑いと愛情に包まれて「しつけ」を受けて一人前になるのだ。
アメリカで「しつけ」を受けた人の方が生涯賃金が多い、というデータもある。
「しつけ」は遺伝子レベルの感情とうまく折り合いをつけてゆく技術でもある。
世の中に適合するから、当然生涯賃金も多いだろう。
しつけという言葉はシナにないそうだが、シナ人朝鮮韓国人は遺伝子レベル、子供レベルで生きている、ということになる。
いじめは当然、草上の昼食は目指す世界、そんな人々なんだろう。
よく合っている。


(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)
パヨクと名無しの「あおいくま」 (2017/07/06)

(前略)

コロッケ著「母さんのあおいくま」の紹介書評
それでは、この書物を見ていきましょう!


『 僕には母と姉がいる。

 物心ついたときから、父親はいない。母子家庭である。

 当然、生活は楽ではなかった。おかずが三食、もやしだったことがある。
そのうち、もやしも出なくなって、ごはんだけになり、やがてごはんもなくなり、米のかわりにあられが食卓に出たこともある。
そんなとき、母は、

「今日のごはんは、あられたい!」

と明るく言い、僕と姉も喜んで食べた。

 貧乏だなぁ…とか、惨(みじ)めだなぁ…とか思ったことはない。

当時の近所の人たちも、僕ら家族がそれほど貧乏だとは思っていなかったという。

 なぜか?

 母が無類のきれい好きで、僕たちを毎日、必ず銭湯に行かせたからだ。お金がないときは、

「持ってくっとば忘れました」

と言わせて入らせた。

 たとえ着ている服がボロボロでも、清潔にしていれば大丈夫――母の知恵だ。

人の悪口は言わない。別れた夫(僕の父)への文句や愚痴も言わない。たとえ身内でも金の無心はしない。

そして、あいさつや片付け、食事のマナーなど、しつけにもうるさかった。幼少の頃は、とにかくよく怒られていた。

でも、僕がいじめにあっていると知ると、小さい体で相手の家や学校に、何度も乗り込んでいってくれた。

 僕と姉のためには、文字通り、体を張ってくれていたと思う。

 こう書くと、行い正しき理想の母のように思えてくるのだが、僕が今やっているものまね。そのルーツも、実は母にあるといってもいい。

 とにかく「笑い」のツボがズレているというか、独特なのだ。なんでそういう発想をするのだろう、と思うことばかり。

 おかげで僕の家にはいつも、笑いがあった。笑い声がしない日なんてなかった。
反抗期もなかった僕が、人生で一度だけ、母の言うことに逆らったのは「芸能人になる」といって東京へ出て行ったとき。

 母が言ったように、芸能界は決して楽な世界ではなかった。楽しいこともあるけれど、つらいことやいやなこともたくさんあった。

 そんなとき、僕にはいつも思い出す言葉があった。

「あおいくま」

 母に教えられ、小さい頃からつねに僕の胸の中にある言葉だ。

 あせるな

 おこるな

 いばるな

 くさるな

 まけるな

この五つの言葉の頭の文字をとって、「あおいくま」。

 母はいつも言っていた。

「人生は、この五つの言葉たい」

いったいどんな母親だったのか。それはこの本を読んで知ってもらいたい。とにかく、いろいろな意味で「すごい」人だ。

おかげさまで僕も、2010年で芸能生活30周年を迎えることができた。

デビューこそ順調だったが、決して順風満帆な日々だったわけではない。特に人間関係ではいろんなことがあった。

 そんなとき、何度も思い出したのが「あおいくま」だった。そしてそのつど、「あおいくま」に助けられてきた。

 東日本大震災や長引く不況も重なり、新聞やテレビのニュースでは何かと暗い話題ばかりが先行している。

 仕事場の人間関係で悩んでいる人。

 親子や家庭の関係で悩んでいる人。

 友だちとうまくいかなくて悩んでいる人。

 こんな時代だからこそ、ポジティブに、そして明るく前を向いて進めるように、ひとりでも多くの人に、この「あおいくま」を知ってもらえたらうれしい。』


(中略)

さて、私たち日本人は、元々用いていた言葉の「和語(やまとことば)」、そこに、あとから持ち込まれた「漢語(もろこしのことば)」やカタカナを充てる「外来語」、あるいは新しくつくられた「和製漢語」、そして「ひらがな」など、これらを自由自材に駆使して生活をしている高度な文明であることは世界的にも知られています。

さきほどの、「躾」という文字も、私たち日本人が造り出したものです。

しつけ

支那人に「しつけ」の概念なんて存在していませんので、それを表現する「漢字」が無かったという、とても分かりやすいお話ですね♥


(中略)

 

 

ちなみに、当ブログでは「な」無しの「あおいくま」という言葉もご紹介させて頂きますが、さきほどの5つの言葉から「な」を削除して、

 あせる

 おこる

 いばる

 くさる

 まける

という言葉を実際に実践されているのが、現在、何をやっても負けっぱなしの「パヨク連中」です(笑)


(後略)

 

 

 

 


(引用終了)