1710-24-1378-10/29メルマガブログ転送神の存在リベラル予定説

(優秀メルマガブログ紹介)
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親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
(見出し)

パスカルと「クレオパトラの鼻」
(私のコメント)
このブログは非常に内容が濃いのだが、色々なことが書いてあって、読むのが大変だ。
その為、あまり紹介できないが、元記事をよむと相当勉強になる。
特にユダヤ教関連はとても勉強になりました。
この記事でも色々な面白いことが書かれている。
(要約)
始めのクレオパトラに関する話は省略した。
1.神様がいるかどうかについて、パスカルの見解が紹介されているが、これは渡部昇一先生の本から転載している。
天台宗では神や仏は人間が必要だから作ったので、死んだら神も仏も一緒に死ぬのだ、という。
死んだらどうなるかは誰も知らないのだから極楽浄土を信じて生きた方が幸せならそうした方が良い。
極楽浄土がなかったとしても幸せに生きたのだから良いではないか、という。
2.孔子という男は生前は全然ダメな男だった。ただ、祖先を大切にする、ということで葬式の儀式が立派で葬式に伴ってその流派が生き残った。
前漢の終末滅亡前紀元0年ころ、皇帝に儒教を売り込んでから大きくなった。
その後の後漢でも一定の権力を得てから整備されたものだ。
日本は儒教徳川幕府が採用して盛んになったが、日本の文化に合うものだけ取り入れたので、本来のシナ儒教と異なる。
3.プロテスタントの予定説は奇妙な考え方だ。だが、欧米人の行動の背景になっているから概略でも知っておいた王が良い。
キリスト教というのはたまたま大きくなった新興宗教(被害者クラブ的なもの)だから、つじつま合わせが大変で「スコラ哲学」なんて何世紀もやっている。
4.リベラル、リベラリズムはよく使われる言葉だが、中身が変質してきている。
マスゴミなどは逆にそれをあいまいにしてごまかしているから、そういう言葉が出てきたら定義を確認した方が良い。

 


(私のコメント終)
(引用開始)

(前略)

(画像あり)

『 そもそも私たち【人間】は、他の生物と同じように【ただ存在し、飲み、食べ、寝て、老いて死ぬだけの存在だったのか】どうか。【肉体の死は、すべての終わりを意味するのか】どうか、と。

じつは、この【死を考えること】は、【魂の存在についても考えること】につながります。【古来、人間は肉体と魂によって成り立っていると考えられてきた】からです。そうならば、肉体の死で魂も死ぬのかどうか、死は、すべての消滅を意味するのかどうかも問わなければなりません。【死と魂との問題は、人間そのもののあり方について問うこと】なのです。

私は、【魂は実在する】、と考えています。【死後の世界もある】。じつは、あの孔子も霊魂というか死の世界の存在を信じていたようなのです。『論語』に「未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん」という言葉を残している。まだ生きている人間の道さえわからないのに死のことなどわかるはずがない、というような意味で、死を知る前にまず生について知りなさいということです。

 一見、死後の世界や霊魂を突っぱねているように見えますが、そういう世界があることを信じていなければ、このような言葉は出てこないと思います。死後の世界や霊魂が存在するからこそ、すぐそこに飛びつこうとする人間の愚かさに、警鐘を発しているのです。…

今考えると、たぶんそのことについてしばらく悩んでいたのではないかと思う。悩みを忘れるために【いろいろな本を読んだ】。読んでいるときには魂の存在や死後の世界について考えなくてもいいからです。そんな読書体験を繰り返しているときに出会ったのが、【パスカルの『パンセ』】でした。
パスカルはフランスの哲学者、実験物理学者であり、数学者、思想家、そして宗教家でもあった【天才】です。
【「人間は考える葦(あし)である」】という有名な言葉は彼の『パンセ』の中の言葉だし、また、【「クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、大地の全表面は変わっていただろう」】と、思わず納得してしまうような面白い言葉もその中に残しています。

(画像あり)
『パンセ』は『瞑想録』と訳されているのですが、この『パンセ』を読んだとき、私は、目の前にあった暗闇が明るい日差しにパッと吹き払われたように感じたのです。それは、【「賭(か)けの精神」の必要性】について、彼が述べていたからです。

 例えば、【神が存在するかどうか】という点については、【あるかないか、どちらか賭けること】だ、と言っている。そしてこの賭けは、【人間にとって避けることのできない賭けである】、と彼は言うのです。

どちらにも賭けないことだってできるではないか、と言うかもしれません。しかしそれはもう、できないのです。なぜなら、【「神は、あるいは死後の世界はあるかないか」】と問いかけられたとき、【すでに「あるかないか」を決める「船に乗り込んでしまっている」】のです。だから、【どうしてもどちらかに賭けなければならない】。

パスカルはこの選択をするとき、非常にわかりやすく現実的な問いかけをしてくれます。それは、【「あるのかないのか」選ばなければならないのなら、どちらのほうが私たちにとって利益が多いかを考えてみよう】、というものです。
【「神はない」のほうに賭け】て死んでみて、神も死後の世界もないとしたらそれだけの話です。しかし、【死んでみたら神も死後の世界もあったとしたら、賭けに負けたことになる】し、大変です。

 それに対し、【「神がある」のほうに賭けて勝負に勝ったら、私たちはまるもうけ】をする。もし【負けたとしても、つまり神と死後の世界がなかったとしても何も損はしない】。ならば、【ためらわずに神があるほうに賭ければいい、とパスカルは言う】のです。【魂の存在や死後の世界を信じるかどうかも同じ】です。

 私は、このパスカルの賭けの精神を知ったとき、文字通り目から鱗が落ちる思いでした…

 【信仰】というものは、【最終的には賭けに繋がる】、ということが実感としてわかったのです。残りの一歩、最後の一歩は賭けでしかないのです。そして【この賭けは、損することの絶対にない賭け】だったのです。』

いかがでしょうか?

今回ご紹介させていただく書物は、「死」に対する心の在り方を、キリスト教徒である著者が、著者なりの考え方でまとめられている書物になります。参考になるのは、中世から近世・近代へと移り変わる西洋社会において、哲学的な面から、「神さま」あるいは「人間」といった存在の捉え方が変化していく様子が書かれている点です。私たち日本人の発想とは全く異なる、キリスト教を根幹とした西洋社会というものを考えるとき、この「神さま」あるいは「人間」といった存在の捉え方の変化は、押さえておきたい重要なポイントです。
本文中に「孔子」の名前が出てきましたが、間違ったイメージをお持ちの方々が、依然として多いように思われますので、確認しておきましょう。

「 日本人はよく「中国人は礼節を重んじる国だ。なぜなら釈迦、キリスト、ムハンマドと並ぶ聖人である孔子のつくった儒教儒学)があるからだ」という甚だしい勘違いをしています。

 どうして、そんなに騙されるのが好きなんでしょうか。少なくとも現代中国において本気で孔子を敬う人など、どの程度いるかわかったものではありません。

たとえば、二十世紀初頭に蒋介石のスポンサーとなった孔子の子孫・孔祥煕は、賄賂と収奪と権力亡者ぶりで当時から知られています。孔祥煕のように真偽あやふやな「孔子の子孫の一族」を名乗ってビジネスをする輩は古代より後を絶ちません。
大陸では、毛沢東が突如として「孔子は封建的だから否定せよ」と言いだしてから儒学は肩身が狭くなります。そうかと思うと、2010年に「ノーベル賞に対抗して孔子平和賞を」と孔子の名を持ち出したものの、世界中の誰からも相手にされないとわかるや、一年で賞そのものをなかったことにしてしまうという軽い扱いです。
お人よしの日本人や事情をよく知らない白人が「孔子ブランド」に幻惑されるので、中国人がご都合主義的に持ち出すのが孔子なのです。

 そもそも、今に伝わる孔子は、生涯成功しなかった経営コンサルタントのようなものです。孔子春秋時代(紀元前551年~紀元前479年没)の人ですが、生涯つき従った弟子はわずか70人という、決して成功者とは言えない人生を送りました。この時代のコンサルタント諸子百家と言われるほど多くの競合者がいました)は、成功すると大国の宰相に抜擢されます。・・・

 コンサルタントとしてもロビイストとしても、孔子はハッキリ言って負け組でした。孔子の主張は要するに「人間関係には礼節が大切である」という建前なのですが、中国人にとってこんな教えは「他人を騙すときに使えるな」といった程度で、中国人同士だと全員が同じように考えるのであまり実用性がありません。しかも孔子の教えは一歩間違えれば「生きている人間よりも死んだご先祖さまを大切にしろ」という方向に暴走しかねないので、現世利益しか考えない中国人には合わないのです。」

ちなみに、こんな(↓)写真も残っていて、孔祥熙と一緒に仲良く写っているのが、あのヒトラーです。

「現世利益しか考えない中国人には合わない」と書かれていましたが、これが「共産主義」と非常に相性の良い考え方になります。

昨日までのところで、繰り返し確認しておりますが、キリスト教を基盤とする西洋社会において、神さまは唯一絶対の存在です。すべてのことは神さまだけが決定します。人間が、たとえどれほど神さまを信じ、祈ろうとも、その結果がどうなるのかは人間には分かりません。

しかし、どうなるかも分からないのに、神さまを信じ続けなければなりません。それがキリスト教です。

やがて、キリスト教カトリックに対する抗議運動から始まる凶暴なキリスト教信者である「プロテスタント」が出現します。
彼らは、教会ではなく「聖書」を重視します。

プロテスタントの一つ、「カルヴァン主義」の考え方の特徴は、『予定説』です。

さきほど、どうなるかも分からないというのがキリスト教の考え方だと書かせて頂きましたが、「カルヴァン主義」の『予定説』は、すべて神さまによって予め決められている、と考えます。「聖書」に書かれている通り、罪を犯さないで生きている人間は、すでに救われる予定の人間であり、天国へ行ける、という考え方です。
「 ただ、いくらそういわれても、人々は自分が救われると決められた人間か否かがわからないと不安になる。もしも何かの間違いでたった一度の罪を犯し、奈落の底に落とされてしまったらどうしようと、皆が怯えることになった。いくらすべては神によって決められているとはいえ、地獄行きが自分の定められた運命だったと諦め切れるかというと、それはなかなか難しい。

 こうなると、人は自ずと、罪を犯さないよう自分にプレッシャーをかけ始める。罪を犯さなければ、自分はおそらく救われる予定の人間なのである。つまり、天国に行ける。こうして、罪を犯さないための懸命な罪探しが始まった。

 食欲、性欲、物欲はすべて罪であるから、まずそれらをあらかじめ断つ。仕事は神から与えられたものなので、懸命に働く。セックスは生殖のために限る。要は、質素に、勤勉に、そして禁欲的に暮らすことだ。それがカルヴァンのいうキリスト教徒の務めとなった。

 カルヴァンはこの教義により、1541年から20年以上、ジュネーヴの町を支配することになる。そして、それは次第にエスカレートし、凄まじい恐怖政治となっていった。」
このスイス・ジュネーヴの「カルヴァン主義」が飛び火して、スコットランドカルヴァン主義者がプレスビテリアン(長老派)と呼ばれ、オランダでは「フーゼン(ドイツ語でゴイセン、ゴイゼン)」、フランスでは「ユグノー」と呼ばれるようになり、特に有名なのが、イングランドの「ピューリタン」です。

イギリスで「リベラーズ」と呼ばれていたピューリタン清教徒)が、移民をして作った国がアメリカです。

アメリカという国の「伝統的な考え方」、つまり、共和党の保守派の考え方は、ここにあります。アメリカの民主党はリベラルだって言われますが、本来のリベラルの意味が、ある時を境に、全く異なったものに変化して、現在に至っています。
『 アメリカを中心とした民主主義国家におけるリベラルの人々の基本的思想の中に、キリスト教の「予定説」があることを見抜いたのは、評論家の小室直樹氏でした。

 この小室氏は世界の思想を読み解く評論家としては一流の人物でしたが、小室氏は20年前にアメリカが推進してきた民主主義とリベラルの原点をこう指摘しています。

「聖書には、明確に予定説が記されている」

「 予定説によれば、人間は“救われる者”と“救われない者”とに、このうえなく不平等に創造されている。この差別は、天地創造以前になされ、すべて神の自由な意思だけによって決定されたのである」

 このキリスト教の解釈について、小室氏はこう断言していました。

「 人間は生まれながらにして平等なのではない。人間は生まれながらにして不平等なのである」。』

(画像あり)
キリスト教の「予定説」を突き詰めていくと、「人間は生まれながらにして平等なのではない。人間は生まれながらにして不平等なのである」という答えに辿り着きます。
人間は生まれながらにして不平等だというのは、当然の話で、キリスト教とは無関係に、最先端の科学が次々に証明していっていますね❤

「 なんでこんなタイトルの本を書いたのか。それは、みなさんがうすうす当たり前と感じながら、それに科学的な根拠があることがあまり知られていないので、それがほんとうに科学的に当たり前であることを伝えたかったから。

 それはたとえばこんなことです。

 才能には遺伝がかかわっていること、収入にも遺伝がかかわっていること、才能に気づき育てるには経験と教育が必要であること、しかしそれはいまの学校教育の中で必ずしもできるわけではないこと、それは知能や学力に遺伝の影響が大きいからだということ、学校は遺伝的な能力の個人差を顕在化させるところだということ、でもこの世の中は学力がすべてではないこと、学力とは異なる遺伝的才能を生かした人たちでこの世界は成り立っていること、才能のないところで努力してもムダだということ…」
で、さきほどアメリカの民主党などのリベラルが、本来のリベラルの意味とは、ある時を境に、全く異なったものに変化して、現在に至っていると書かせて頂きましたが、それが20世紀の前半の出来事です。

『 もともと「リベラル」という言葉は、ヨーロッパとアメリカでは、受けとり方が大きく違う。

 ヨーロッパでは、王権に対して、市民が血を流しながら自由の権利を獲得し、民主主義の制度をつくりあげてきた歴史をもつことから、同じ「リベラル」でも、他者の介入を許さないという「個人主義」にちかい意味合いで使われる。

 これに対して、アメリカにおける「リベラル」は、社会的平等や公正の実現には政府が積極的に介入すべき考えであるとえる、いわゆる「大きな政府」を支持する立場だ。・・・

 建国から150年余り後、1929年に始まった世界大恐慌は、アメリカに1300万人の失業者を生み出すことになった。このときF・D・ルーズベルト大統領のとったのが、ニューディールと呼ばれる、政府が経済に積極的に介入する政策である。それは社会主義的な性格をもつ政策だったために、結果として大きな政府へと向かうことになった。

 このときニューディール政策を唱えた人たちが自らを「リベラル」と呼び始めたことから、社会主義、あるいは、それにちかい考えをもつ人のことをリベラリストと呼ぶようになった。革命主義や左翼もこの範疇にはいる。

 いうなれば「リベラル」とは、ヨーロッパとアメリカでは、むしろ対立する概念だったのである。

 日本でしばしば用語の混乱がみられるのは、このことがよく理解されていないためだ。』
つまり、「社会主義者」「共産主義者」が「リベラル」と名乗り始めたわけです。

マルクス主義というものは、本来、人間は不平等であるものなのに、それを無理やり「平等になるように既存の社会を破壊する」ということをします。それも、暴力を使って。現在のアメリカの「リベラル」も同じです。

このように、西洋キリスト教社会を基として、一連の歴史の流れの中で、「リベラル」や「リベラリズム」とか、「共産主義」や「マルクス主義」が生じてくるんです。
現代の私たち日本において、そこに連なるのが、日本共産党や、立憲民主党であり、宗教的性格を帯びた「カルト集団」です。

これらのことを、キチンと理解できるようになるためには、現在の学校では教えられていない正しい歴史を学ぶ必要があります。

 

 

 

(引用終了)