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http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/d880d4ff5b64fb61dc61a4703ea13293
逝きし世の面影

 

(見出し)
アメリカが抱える『文明化の使命』。マニフェスト・デスティニーの呪縛。

(私のコメント)
もう一度アメリカという国を研究してみよう。
少し古いが下記のブログは短くよくまとまっている。
キーワードはマニフェストディスティニーだ。
このアメリカ合衆国の領土拡大の合言葉は次の二つの思想に裏打ちされている。
一つはプロテスタンティズムで、アメリカという国は宗教国家なのだ。
アメリカの独立宣言は神との関係で自分たちを規定しているからイランのホメイニイスラム革命と同じなのだ。
そして、同じく神により最も新しい進んだ国として認められている、と考える。
ということは、他のすべての国は遅れた野蛮な国でアメリカが教化すべきと神が命じているということになり、始めに書いたキーワードになるわけだ。
もう一つはアングロサクソン文明で進化論で科学的(神でなく)に証明された最新最高の文明と考えている。
アングロサクソン文明に滅ばされたり、植民地化される文明は遅れた淘汰されるべき文明だ、ということになる。
だから、南アメリカで原住民を虐殺しても、進化論という科学で証明される自然の摂理だから止むおえないものと考える。
そういう歴史的背景はポリコレの激しさに逆作用しているのではないか。
この記事の卓見は次の部分だ。
「アメリカは『共通の過去』を持っていないために『共通の未来』についての意志を欠くと『昔の民族的アイデンティティ』へと突然、
逆行してしまう。」
共通の未来とは要するに敵がいないとまとまらない、ということだ。
ポリコレは外敵でなく、アレルギーや膠原病のように自己の中に敵を作ってしまっているのではないか。


(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)
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逝きし世の面影
政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る
拡大するアメリカ、マニフェスト・デスティニーの呪縛
2009年02月01日 | 宗教
アメリカが抱える『文明化の使命』。マニフェスト・デスティニーの呪縛。

アメリカが何故アフガニスタンイラクに介入するのか。?
9・11事件や対テロ戦争だけから今日のアメリカ流の事件や物事が出発するのではなく、そ
の底流に有るブッシュ・ジュニアの文明観にまで迫ってみよう。
マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)とは、アメリカ合衆国の持つ、有る特徴的な傾向を典型的に表す標語。
一般的には西部開拓を正当化する為に作られたとされる。
「明白な使命」や「明白な運命」あるいは『明白な天命』などと訳出される。
簡単に言えば19世紀中葉以降のアメリカ合衆国で流行した膨張主義を示す語。

『西へ西へ』

1845年、『デモクラティック・レビュー』という雑誌の7月号にニューヨークのジャーナリスト、
ジョン・オサリヴァンが『併合』(アネストぜーション)と題する論文が掲載された。
この論文には、
『年々増加していく幾百万の我が国民の自由と発展のために、神によって与えられたこの大陸に我々が拡大するという、
明白な天命(マニフェスト・デスティニー)の偉大さ・・・』
論文は、合衆国のテキサス共和国の併合を支持する目的で書かれたものだった。
しかしその後に合衆国の膨張を「文明化」・「天命」とみなして西部侵略を正当化する標語となっていった。
19世紀末に「フロンティア」が事実上消滅すると、
合衆国の帝国主義的な領土拡大(米西戦争や対メキシコ戦争、ハワイ併合など)を正当化するための言葉となった。
特に論文中の、『自由と発展』や『神によって与えられ』や『明白な天命』などの何気ない言葉が重要な意味を持つ。
アメリカ合衆国は長い歴史の末にこの地上に建設された人民主権を体現した理想国家で、
『世界へのアメリカの拡大は神から与えられた使命』として西漸運動や帝国主義的膨張を正当化していて、
マニフェスト・デスティニー』の呪縛はアメリカ人一般に広く定着していった。

『アメリカ思想の底流』『アングロ・サクソン文明とは何か』

当時の欧米社会で主流であった世界の歴史と文明を進化論的に解釈する『社会進化思想』(社会ダーウィニズム)の影響を受けていて、
アングロ・サクソン文明』こそが最高であり、その最高峰である『アメリカ文明』に世界を同化する事が進化であり、文明化と考える。
『社会進化論』とは、進化論の中の適者生存や自然淘汰の考え方を『文明』にも無理やり拡大解釈して、
遅れた劣った文明(アジア・アフリカの文化、文明)は、進化した優れた文明(西欧)に滅ぼされる事は科学的に正しい自然な事で、
アジアやアフリカの『植民地化』とは『文明化』の事であるとされていた。

アメリカ文明の基本は、聖書とキリスト教プロテスタンティズム)と共和制(民主制)で有り、
アメリカのキリスト教は『巡礼父祖』(ピルグリム・ファーザーズ)によって、
共和制は『建国父祖』(ファウンデイング・ファーザーズ)たちによる啓蒙思想による政治体制である。
アメリカで、宗教的な用語である『父祖』(ファーザーズ)はこの二組以外には使わない。
アメリカにとっては『文明化』(アングロ・サクソン文明)と『アメリカ化』と『キリスト教化』とは全くの同義語であり、
『巡礼父祖』とその影響とは『自分たちの国家を『神』との関係で理解しようとする』宗教的な伝統である。

『アメリカ革命』(アメリカ独立)

アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)はイギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争で、
日本でアメリカ独立戦争と呼んでいるものは、米国では 『アメリカ革命』(The American Revolution)と呼ばれている。
或いは、『革命戦争』(the Revolutionary War)と呼ばれている。
しかし何故か日本では、The Revolutionary Warや、American Revolutionを独立戦争と訳し、「革命戦争」や「アメリカ革命」にしない。

此れはフランス革命を『パリ祭』と意味不明(イデオロギー的に曖昧にする)に訳す、日本的な意識的誤訳の典型例のようにも思うが、
しかし、立場が反対の英国では、American War of Independence『アメリカ独立戦争』と呼ばれているらしいので、
日本側の呼称はイギリス読みということになる。

『アメリカ革命の特殊性』

アメリカ革命の特徴は、フランス革命や後のロシア革命の様な『反宗教的な革命』とは全く異なり、
1979年のアヤトラ・ホメイニ師を戴いたイランのイスラム革命と同程度に宗教的な動機付けの有る社会変革運動(革命)としての一面があり、
極めて宗教との親和性の有る革命であった。

それが最も端的に表現されているのがアメリカの『独立宣言』である。
独立宣言では、『譲り渡すことの出来ない権利』として自由と幸福追求の権利を明記するが、
その理由は『すべての人間は神によって平等に創られ』ているからなのです。
これ等の原理や表現はすべて聖書から引用されている。
神との関係でアメリカのナショナル・アイデンティティを理解し表現することこそアメリカ国民が最も『相応しい』と考えている。
そして進化の過程に有る各文明はこの物差しで計られ、
ピュリータンによって新しく建国された『アメリカン・イノセント』(アメリカの無垢)こそが最高であると判断される。

『宗教国家アメリカ』

アメリカ合衆国という国家は極めて宗教的意志を持った国で、
『歴史におけるアメリカの存在意義は何か?』という根元的な問いに答えない思想が、アメリカ国民に支持された事はない。
そして、その『存在意義』は極めて宗教的な価値観で語られる。
アメリカは『共通の過去』を持っていないために『共通の未来』についての意志を欠くと『昔の民族的アイデンティティ』へと突然、
逆行してしまう。

『普遍性(universal)、世界性(global)』

アメリカは元々、特殊性よりも普遍性を、地域性よりも世界性を評価する姿勢持っていたしアメリカ自身も其れを目標とし誇りにもしている、
と言われていた。
対して日本は『その逆の姿勢である』と言われ日本のアメリカ化(民主化グローバル化)が「良いこと」と何の疑いも無く信じられていた。
しかし「普遍」と呼ばれるものの多くは「大きめの特殊」に過ぎず、「世界」もまた「大きめの地域」に過ぎないケースが多い。
例えば、経済におけるグローバルスタンダードや新自由主義の様に、
大きめの特殊が、自らを「普遍」と称して小さい特殊を虐め排除し支配しているだけではないのか。

メイド・インUSAでしかないユニバーサルモデルやグローバル経済を世界中に押し付けている現在のアメリカ合衆国自身は、
決して普遍的(universal)でも世界的(global)でもない。
それらは単にアメリカ自身が描く自己宣伝、自己欺瞞に過ぎない。
真実の姿からは程遠い。
真実のアメリカ合衆国という国家は、人類史上稀にみる宗教国家(Theocracy=神権政治)で、普遍的でもなければ世界的でもなく、
偏狭で狂信的で特殊な、そして狭い地域エゴの国である
例えるならアフガニスタンを支配していた偏狭なタリバン政権の、
キリスト教バージョンの『相似形の国家である』と言われても仕方が無い側面を持っている。

 

 


(引用終了)

 

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すめらぎいやさか


二〇一六年霜月廿九日
宗教原理主義国家アメリカのポリティカル・コレクトネス真理教

(見出し)

(私のコメント)
今はキャビンアテンダントと言葉を変えたが、昔はスチュワードとスチュワーデスと言っていた。
ポリティカルコレクトネスも可愛いものだったが、今は異端審問のように猛威を振るっている。
対応を誤ると大企業も訴訟を起こされ、数十億円の賠償金を払わせられる。
上記の航空会社の呼称変更は会社防衛としてはとても大事なことだったのだ。
こういうことにアメリカの司法は容赦なく加担しているから、大変だ。
名前が変わったからと言って内容は同じだし、意味がないのにどうしてこんなことするんだろう、と思っていたが、訴訟対策だったのだ。
下記の記事にある通り、ポリコレは一神教的な異端審問となっている。
ユダヤ教一神教原理主義」同士の戦いになっているようだ。
この見方はブログ主の卓見だと思うが、つまり、アメリカの現状は宗教戦争だ、ということだろう。
南軍のリー将軍銅像が引き倒されているばかりでなく、今日のニュースではコロンブスの像も倒されている。
これは、アメリカ建国の原理原則つまり、ピューリタンの「マニフェストディスティニー」(明白なる運命)否定にもつながってくる。
この言葉は西部開拓を正当化するために使われたもので、神様が「この土地はお前のものだ」と言った、というのを根拠にしている。
これを否定するとなると、アメリカの否定だから大変なことだ。
もっとも、今のところ表だってそこまでは行っていないようだけど。
マニフェストディスティニーの先頭に立つのが白人ピューリタンだったわけで、本来これこそがユダヤ教一神教に繋がっている。
それを、今度はポリコレのユダヤ教一神教が戦いを挑んでいる構図だ。
下記のニュースにある通り、地方の行政組織や司法がこれに加担しているから、破壊力は抜群だ。
スチュワーデスを別の言葉に言い換えて平等になったような気分になっているのとはだいぶ違う深刻な事態になってきた。

(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)
すめらぎいやさか


二〇一六年霜月廿九日
宗教原理主義国家アメリカのポリティカル・コレクトネス真理教

 

***

米国の保守系の人々はオバマ政権の州の自治を連邦政府が犯して価値観を押し付けて来るやり方に不満を持っていました。

権力が、この様に考えよと押し付けて来る、本来ならリベラルが一番嫌うべき事をリベラルなオバマ政権は推し進めていました。

自由な論議をする機会すら与えず、議会で自由に論議して決めた法でもないのに、異端者とみなされたら社会的に抹殺されるのは中世の魔女狩りと同じです。

聖書に書いてある(魔女の事なんか書いてないわけですが)から火あぶり、心の中で悪い事を考えたから(どうやって知った?)異端と決めつけて拷問と言う思考パターンと変わりません。

 

過激な政教分離ポリティカル・コレクトネスの乱用による言葉狩り思想統制は、やっている本人達は自覚はありませんが、
キリスト教原理主義者と同じ思考パターンで結論が裏返っただけと言うことです。

共産主義が宗教を否定する宗教なのと同じです。

 

アメリカの場合、本国にはいられなかったような過激なカルト集団が渡って来て建国された経緯から、
神の御意志に叶う為に異教徒や黒人やLGBTなどのマイノリティを善意で全否定するガチに狂信的なキリスト教原理主義が力を持っています。

その命の危険レベルのマジ基地差別に対抗するために、米国の人権運動、公民権運動は過激にならざるを得ませんでした。

現代米国のポリティカル・コレクトネスのファシズムが過激なのは過激なキリスト教原理主義の双子の裏返しです。

だから他の要素は全て無視して、ポリコレと言う教義に違反して者は全否定、ポリコレと言う唯一神と違うものを信じる事は許さないのです。

過激なポリコレや潔癖症政教分離ユダヤ教一神教原理主義の亜種の宗教だと見れば、だいたいの彼等の行動の説明が付きます。

トランプ次期大統領は、差別的「であるにもかかわらず」大統領になったのであって、差別的「だから」大統領になったわけではありません。

トランプ次期大統領の発言は、マスメディアが前後を切り取って煽った面も多々ありますが、それだけでは説明が付かないものもあり、マスコミが煽るほど差別的ではありませんが、差別的である事は否定できません。

しかしながら、差別的「であるにもかかわらず」大統領になれた事のインパクトは差別的「ではない」から大統領になれた場合よりも大きいのです。

ポリティカルコレクトネスは数ある諸問題のうちの一つに過ぎないと相対化してしまったからです。

相対化される事は一神教原理主義者にとっては許しがたい事です。

だから米国の法や投票結果を全く尊重しないNot my presidentと言う民主主義否定を絶叫してデモをしています。

法治主義よりも民主主義よりも優先すべきものがあると考えているのはアメリカを宗教原理主義国家に戻したいと言う事です。

 

 

(引用終了)


(要約引用開始)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3137084.htm
tbsnews

白人至上主義への抗議、各地のコロンブス像も矛先に
 アメリカでは、白人至上主義への抗議から南北戦争奴隷制を擁護した南軍の記念碑を撤去する動きがあの人物にまで波及しています。
 「こちらはセントラルパークの近くの広場なんですけれども、あちらの柱の上に立っているあの像、あれがコロンブスです。マンハッタンのシンボルの1つですが、こちらにも記念碑撤去の波が押し寄せようとしています」(記者)
 全米では、バージニア州の白人至上主義者などの集会で衝突が起きたあと、南北戦争奴隷制度の存続を訴えた南軍の指導者の銅像などを自治体が撤去する動きが広がっています。
 さらに最近は、先住民の土地を奪い虐殺したなどとして、歴史的評価が分かれるコロンブスにも矛先が向かっています。メリーランド州コロンブスの記念碑が何者かによってハンマーで破壊される様子の動画が公開されたほか、テキサス州ではコロンブス像に赤い塗料がかけられる事件が起きています。
 そんな中、ニューヨークでは、市の当局者が記者会見で、コロンブス像を撤去すべきかどうかを検討する必要があるとの考えを示したのです。
 「彼は残虐なのに通りや広場に名前がある。撤去すべき」(広場を訪れた人)
 「どの銅像も誰かを怒らせる。全部壊すことになる。きりがない」(広場を訪れた人)
 人種差別などの象徴として像を排除するのか、それとも歴史の一部として捉えるのか、一連の記念碑撤去の動きは古くて新しいコロンブス論争にも火をつけた形です。

 

(要約引用終了)

 

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今はキャビンアテンダントと言葉を変えたが、昔はスチュワードとスチュワーデスと言っていた。
ポリティカルコレクトネスも可愛いものだったが、今は異端審問のように猛威を振るっている。
対応を誤ると大企業も訴訟を起こされ、数十億円の賠償金を払わせられる。
上記の航空会社の呼称変更は会社防衛としてはとても大事なことだったのだ。
こういうことにアメリカの司法は容赦なく加担しているから、大変だ。
名前が変わったからと言って内容は同じだし、意味がないのにどうしてこんなことするんだろう、と思っていたが、訴訟対策だったのだ。
下記の記事にある通り、ポリコレは一神教的な異端審問となっている。
ユダヤ教一神教原理主義」同士の戦いになっているようだ。
この見方はブログ主の卓見だと思うが、つまり、アメリカの現状は宗教戦争だ、ということだろう。
南軍のリー将軍銅像が引き倒されているばかりでなく、今日のニュースではコロンブスの像も倒されている。
これは、アメリカ建国の原理原則つまり、ピューリタンの「マニフェストディスティニー」(明白なる運命)否定にもつながってくる。
この言葉は西部開拓を正当化するために使われたもので、神様が「この土地はお前のものだ」と言った、というのを根拠にしている。
これを否定するとなると、アメリカの否定だから大変なことだ。
もっとも、今のところ表だってそこまでは行っていないようだけど。
マニフェストディスティニーの先頭に立つのが白人ピューリタンだったわけで、本来これこそがユダヤ教一神教に繋がっている。
それを、今度はポリコレのユダヤ教一神教が戦いを挑んでいる構図だ。
下記のニュースにある通り、地方の行政組織や司法がこれに加担しているから、破壊力は抜群だ。
スチュワーデスを別の言葉に言い換えて平等になったような気分になっているのとはだいぶ違う深刻な事態になってきた。

(私のコメント終)


(引用開始)


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二〇一六年霜月廿九日
宗教原理主義国家アメリカのポリティカル・コレクトネス真理教

 

***

米国の保守系の人々はオバマ政権の州の自治を連邦政府が犯して価値観を押し付けて来るやり方に不満を持っていました。

権力が、この様に考えよと押し付けて来る、本来ならリベラルが一番嫌うべき事をリベラルなオバマ政権は推し進めていました。

自由な論議をする機会すら与えず、議会で自由に論議して決めた法でもないのに、異端者とみなされたら社会的に抹殺されるのは中世の魔女狩りと同じです。

聖書に書いてある(魔女の事なんか書いてないわけですが)から火あぶり、心の中で悪い事を考えたから(どうやって知った?)異端と決めつけて拷問と言う思考パターンと変わりません。

 

過激な政教分離ポリティカル・コレクトネスの乱用による言葉狩り思想統制は、やっている本人達は自覚はありませんが、
キリスト教原理主義者と同じ思考パターンで結論が裏返っただけと言うことです。

共産主義が宗教を否定する宗教なのと同じです。

 

アメリカの場合、本国にはいられなかったような過激なカルト集団が渡って来て建国された経緯から、
神の御意志に叶う為に異教徒や黒人やLGBTなどのマイノリティを善意で全否定するガチに狂信的なキリスト教原理主義が力を持っています。

その命の危険レベルのマジ基地差別に対抗するために、米国の人権運動、公民権運動は過激にならざるを得ませんでした。

現代米国のポリティカル・コレクトネスのファシズムが過激なのは過激なキリスト教原理主義の双子の裏返しです。

だから他の要素は全て無視して、ポリコレと言う教義に違反して者は全否定、ポリコレと言う唯一神と違うものを信じる事は許さないのです。

過激なポリコレや潔癖症政教分離ユダヤ教一神教原理主義の亜種の宗教だと見れば、だいたいの彼等の行動の説明が付きます。

トランプ次期大統領は、差別的「であるにもかかわらず」大統領になったのであって、差別的「だから」大統領になったわけではありません。

トランプ次期大統領の発言は、マスメディアが前後を切り取って煽った面も多々ありますが、それだけでは説明が付かないものもあり、マスコミが煽るほど差別的ではありませんが、差別的である事は否定できません。

しかしながら、差別的「であるにもかかわらず」大統領になれた事のインパクトは差別的「ではない」から大統領になれた場合よりも大きいのです。

ポリティカルコレクトネスは数ある諸問題のうちの一つに過ぎないと相対化してしまったからです。

相対化される事は一神教原理主義者にとっては許しがたい事です。

だから米国の法や投票結果を全く尊重しないNot my presidentと言う民主主義否定を絶叫してデモをしています。

法治主義よりも民主主義よりも優先すべきものがあると考えているのはアメリカを宗教原理主義国家に戻したいと言う事です。

 

 

(引用終了)


(要約引用開始)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3137084.htm
tbsnews

白人至上主義への抗議、各地のコロンブス像も矛先に
 アメリカでは、白人至上主義への抗議から南北戦争奴隷制を擁護した南軍の記念碑を撤去する動きがあの人物にまで波及しています。
 「こちらはセントラルパークの近くの広場なんですけれども、あちらの柱の上に立っているあの像、あれがコロンブスです。マンハッタンのシンボルの1つですが、こちらにも記念碑撤去の波が押し寄せようとしています」(記者)
 全米では、バージニア州の白人至上主義者などの集会で衝突が起きたあと、南北戦争奴隷制度の存続を訴えた南軍の指導者の銅像などを自治体が撤去する動きが広がっています。
 さらに最近は、先住民の土地を奪い虐殺したなどとして、歴史的評価が分かれるコロンブスにも矛先が向かっています。メリーランド州コロンブスの記念碑が何者かによってハンマーで破壊される様子の動画が公開されたほか、テキサス州ではコロンブス像に赤い塗料がかけられる事件が起きています。
 そんな中、ニューヨークでは、市の当局者が記者会見で、コロンブス像を撤去すべきかどうかを検討する必要があるとの考えを示したのです。
 「彼は残虐なのに通りや広場に名前がある。撤去すべき」(広場を訪れた人)
 「どの銅像も誰かを怒らせる。全部壊すことになる。きりがない」(広場を訪れた人)
 人種差別などの象徴として像を排除するのか、それとも歴史の一部として捉えるのか、一連の記念碑撤去の動きは古くて新しいコロンブス論争にも火をつけた形です。

 

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  Newsletter China 通信 [ 2017年8月23日 ] 
青木直人


(見出し)
NLC通信8月号
『我らがパラダイス』=平成の「姥捨て山」事情

(私のコメント)

今後も貧富の差の広がり、社会的階層格差は大きくなってゆくだろう。
なぜなら政府がそういう政策を取っているからだ。
安倍内閣の政策がことごとく弱肉強食の自由化で、それに加えて移民と消費税で追い打ちをかける。
非常に悪い政治なのだが、不思議なことに支持率は高い。
日本人は馬鹿ではないから、どこかで反乱がおきるだろうが、まだその兆候はない。
我々は残念ながらそういう失政を与件として行動するしかないだろう。
格差が広がった社会はどんなものか。
この記事にある通り、高級介護施設のようにゲート社会になってゆくのだ。
上の階層に属する人たちは自分たちだけの社会を作り、国民から離れてゆく。
彼らにとって日本国民がどうなろうと関係なくなってゆく。
一足先を行くアメリカがこの状況を証明している。
今の大企業は株主だけに責任を持つ、と考えていて、国民は政府の考える事、と割り切っている。
これは上流階級と同じ考え方なのだが、つまり国民の同胞意識がなくなり、バラバラになることだ。
こういう社会で生き残るにはどうしても上流階級の端くれにぶら下がるしかない。
可哀そうなのだが、自分が生き残るためには、下流階級を相手にしていられないのだ。
人の役に立ちたい、人を助けてやりたい、というような良心的な人は淘汰される時代だ、ということを確認すべきなのだ。
弱肉強食、ジャングルの掟だがら仕方がない。
この記事では良心の搾取という言葉を使っている。
先に書いた大企業は日本国民を切り捨てることによって良心の搾取から逃れた、ともいえる。
そして批判から逃れる為に社会的貢献と称して、アフリカの子供に寄付したりしている。
繰り返すがそういう社会を安倍内閣が作っているのだから、庶民としては対応せざるを得ない。
さて、個人として、上流階級で生き残るためにはどうするか。
この記事にある通り、「金持ちとはカネを持っている人のことでない。カネのなる木を持っている人のことだ」
カネのなる木とは不動産賃貸業や株式収入、等の資産運用だ。
商売なんかもマンション販売のように金持ち相手が良く、下流階級相手の商売はダメだ。
老人介護もこの記事の通り、金持ち相手なら良いが貧乏人相手では地獄だ。
殺伐とした悪い世の中で、中世なら「世は末世だ」というだろう。
中世の「末世思想」はその後戦国時代につながったのだから予想としては正しかった。
現代も戦国の世につながるのだろうか。


(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)
『我らがパラダイス』=平成の「姥捨て山」事情
林真理子が拡大する一方の「日本国民の経済社会格差」を描き出した『下流の宴』を世に問うたのは7年前のことだった。

(有料省略)

1708-15-1323-8/22メルマガブログ転送コロッケ著あおいくま

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http://oyakochoco.jp/blog-entry-1891.html
親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
パヨクと名無しの「あおいくま」 (2017/07/06)

(見出し)
パヨクと名無しの「あおいくま」 (2017/07/06)

(私のコメント)
世の中を渡るうえで、必要な注意事項は次の五つだ、という。

「あせるな」「おこるな」「いばるな」「くさるな」「まけるな」

人間が失敗するときのパターンはこの五項目に起因することが多い。
他の人を観察して上記のような状態の人がいたら、離れたくなるし、そうでない人だったら近づきたい。

進化心理学から言うと、焦る、怒る、などの感情は、人間の本性である、生命保存つまり遺伝子保存から発生するものだ、という。
だから、普通に人の世の中で暮らせば、こういう感情は当然自然に湧いて出る。
では、なぜそれを抑えることが必要なのか、というと、そういう感情はコントロールできずに暴走するからだ。
生命の危険を感じると、焦りや恐怖(怒り)で逃げ回ったり戦いに向かったりする。
これは当然のことで、命に係わるから、なりふり構っていられない。
そういう場合は暴走することが生存につながる。
そうやって窮地をまぬかれたことが、長い遺伝子の記憶の中にあるわけだ。
なにしろ、そういう風にして生き残った遺伝子だけが今現在存在できているのだから強い記憶なのだ。
だが、何時も遺伝子の指示通り「騒ぎまわる」一手だけで解決できるだろうか。
それをやっているのが子供だが、大人の我々はそれじゃ困るだろう。
大人と子供の違いは何か、というと、経験と知恵、学びがあることだ。
世の中を渡ってゆく上で、人とのせめぎあいの中で、知恵と経験を最大限発揮させるためには頭が回転してくれないと困る。
知恵と経験は脳の前頭葉をはじめとする大脳が活発に動くことが必要だ。
ところが、遺伝子的記憶がある小脳は怒ってドキドキしたり、焦って汗をかいたり体にまで影響力を持つ。
小脳が暴走で知恵と経験を司る(つかさどる)大脳もマヒさせてしまうと大変だ。
そうなると遺伝子が要求するように「騒ぎまわる」一手しかなくなる。
気持ちを落ち着かせる、つまり遺伝子からくる感情行動は程々に収めて、大脳を楽に柔軟に解放させてやると活発に動いてくれるのだ。
そこで、落ち着かせるために感情に向かって言い聞かせるのが上記の「あおいくま」(頭文字)となる。
先日記事に書いた「笑って受け流す」「はぐらかす」なんかも感情に支配されないテクニックの一つだろう。
普段からそういう場合の準備として、「上機嫌」の技術を訓練しておくのもいいだろう。
般若心経のように難しい話は抜きにして何かおまじないの言葉を言ってけじめをつけたりするのもありだ。
「笑い」を練習しておいて、上記のような状況、焦ったり怒ったりしたときはまず「笑ってしまう」なんてのもいいかもしれない。
昔会社で何時もへらへら笑って居る奴がいたが、あれも処世術の一つだったのかもしれない。
何か、バカにされているみたいできらいだったが。
また、私が現役のころ、会社で問題が出たときは、「それがどうした」「だからどうなんだ」と唱えろ、と言われたことがある。
この言葉は、失敗したりして、パニックになったりしたとき、気持ちを落ち着かせるためには有効だった。
話が逆になるが、大脳が活躍する、と言っても暴走気味に妄想が湧いたりすると、却って厄介だ。
そういう時は、あまり一生懸命にならず、放り出してしまって心を空っぽにしてしまうほうがいいかもしれない。
そうなると、時と場所と人によるから出たとこ勝負で日ごろの訓練が物を言う。

昔は子供たちにまだ意味も知らないうちから、こういう徳目を覚えさせた。
会津の「什の掟」(ならぬものはならぬものです)や「教育勅語」を教えたのは、遺伝子から来る判断情報を修正するためだ。
なにしろ、遺伝子は何万年も前から変わらない情報だから、大脳の発達した現代人とずれが生じるのは止むおえないのだ。
現代の社会組織や構造、生活様式などは遺伝子は全く関係なしで、早くて縄文時代の森の中で得た生き残りのノウハウが基準なのだ。
現代に合わせて、感情を落ち着かせ、知恵で窮地を切り抜けてゆく、そのためには上記の五項目は有効だろう。
こういうことを子供に教えないのは却って子供に可哀そうだ。
感情に支配され、現代に適用できず、非常に苦労する。
つまり、子供から大人になれないのだ。
「騒ぎたてる」一手しかない可哀そうな大人になってしまう。
それで思い出すのは、このブログにも書かれているように民進党などのサヨクだ。
サヨクと同じなのが朝鮮人(韓国人)で「騒ぎ立てる」一手だ。
そしてその騒ぎ立てるのに後から理屈をつけたのが左翼知識人ということになる。
所がサヨクは自分たちは理性で動いている、と逆に考えている。
片や保守は伝統文化を理屈抜きに尊重するから「古い因習の虜」などと馬鹿にする。
ところが、その理性的な左翼、というのは実は人間が本来持つ生の感情(主観)に支配され、理屈はその後につけられているだけなのだ。

ところで、脱線になるが、会津のじゅうの掟は次の通りだ。
什の掟
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

これは6歳から十歳までの子供に言っていることで大人が対象でない。
だからサヨクの人間がこの「ならぬものはならぬ」を使って、「反原発、護憲、ダメなものはダメ」というのとは違うのだ。
サヨクの人間は子供のまま遺伝子感情そのままに言うからこのように混同する。
「ならぬものはならぬものです」とはまだ子供も理由が分からないうちに自制心を養う意味で言っているのだ。
自制心は遺伝子心理学からすれば子供のころから訓練しておいた方が良い。
大人になったら意味が分かるのだ。
例えば、「戸外でものを食べるな」「戸外で夫人としゃべるな」という項目がある。
これの反対に物を食べたり女としゃべったりするとどうなるか。
フランスの有名な画家のマネという人の絵に「草上の昼食」という誰でも一度は見た絵がある。
教科書にも載っている物凄く有名な絵だ。
裸の女が男二人と森で食べ物の脇でくつろいでいる絵で、19世紀にスキャンダルになった絵だ。
この女は売春婦で、当時フランスは女の地位は低かった。
フランスの上流階級が何をしているか、女のこちらを向いた目つきが「何を驚いているの」という表情で有名だ。
つまり、簡単に言えば、戸外で女とものを食べるのは遺伝子レベルからしても快楽で皆やりたいことなのだ。
でもそれは社会を維持するうえでは当時のフランスのように内緒でやることだった。
落語で吉原で放蕩して親から勘当される若旦那が出てくるが、子供がそうなっては可哀そうだ。
それが、最後の項目である「ならぬものはならぬ」という言葉になっている。
「意味なんか大きくなったら自然に分かるし、適当にやるさ、でも自制心は子供の時に訓練しておいた方が良い」
というのが大人の教育方針だろう。
これをサヨク日教組は「押しつけるのはいけない」「不合理なことも守るのか」「時代錯誤だ」「問答無用につながる」
「思考停止」「封建時代の教育思想」「体罰容認だ」などと批判する。
特に戦後は「教育とは色々な可能性を提示して自身の考えを形成させること、押し付けは教育でない」などという。
自身の考えというが、大部分の普通の人は自身の考えなんて独自で作れない。
教えられずに自分の考えを形成させるなんて、ソクラテスからヴィトゲンシュタインまで自分でやるなんてまったく不可能だ。
だから学ぶのだ。学ぶとはまねる(過去の人間の行動判断をまねる)ことでもある。
その学ぶことの積み重ねの結果、大人になって初めて独自の考えを少しなりとも形成できるわけだ。
普通の子供にそんなことは出来るわけがない。
子供に「自身の考え」でやれ、といったら、遺伝子心理学の遺伝子レベルの判断が幅を聞かせる事になる。
一つ例を挙げると、遺伝子レベルでは、弱い者いじめは正しいのだ。
同類に弱いものを作っておくと敵に襲われたとき弱いものが犠牲になり、自分は生き延びれるからだ。
しかし、遺伝子の組み込まれている弱いものいじめは現代の外敵の少ない世の中ではそぐわないのだ。
什の掟のなかに弱い者いじめをするな、とあるのは子供を自然のままにしたら弱い者いじめをする、と知っているのだ。
「可能性を提示して子供に選ばせる」なんて言っていたら弱い者いじめはなくならないのだ。
遺伝子レベルの問題だから、子供には押しつけが正しいし、不合理でも構わない。
問答無用、思考停止、体罰容認(程度問題)、封建時代でも正しいものは正しいので現代が間違いだ。
(サヨクマルクスの発展段階説だから、新しければ新しいほど正しい、という先入観を持つ)
問題なのは、「自身の考え」と思わせて日教組教師の言いなりのサヨク思想を叩きこまれたりすることだ。

また、いろいろな可能性を教えたとして、その価値判断が的確にできるのも普通の人には無理で、出来るのは天才だ。
サヨク日教組のいう押しつけ教育は嘘と欺瞞でサヨク思想を押しつける為にサヨク思想以外は押し付けと言って排除しようとしているだけだ。
日教組教師の主観だから、押しつけはいけない、という押しつけをやっていることに気づかない。
子供に選ばせる、なんて本当にやるなら教育の放棄で無責任だが、実際は教師の主観を押しつけて日教組教師の主観的な好む方向に選ばせている。

コロッケさんの母親が子供に対して行った教育は正しい教育だろう。
教育とは親の価値観の押しつけだし、不合理でもいいし、時代錯誤でも封建時代でも正しいことは正しいのだ。
母親の教育は問答無用だし、思考停止だし、体罰容認ではないが厳しいし、戦後サヨク日教組教師がいかに馬鹿げているか、分かる。
時が来れば、コロッケさんのように自分の選択で世の中に飛び出してゆく。
それまでは笑いと愛情に包まれて「しつけ」を受けて一人前になるのだ。
アメリカで「しつけ」を受けた人の方が生涯賃金が多い、というデータもある。
「しつけ」は遺伝子レベルの感情とうまく折り合いをつけてゆく技術でもある。
世の中に適合するから、当然生涯賃金も多いだろう。
しつけという言葉はシナにないそうだが、シナ人朝鮮韓国人は遺伝子レベル、子供レベルで生きている、ということになる。
いじめは当然、草上の昼食は目指す世界、そんな人々なんだろう。
よく合っている。


(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)
パヨクと名無しの「あおいくま」 (2017/07/06)

(前略)

コロッケ著「母さんのあおいくま」の紹介書評
それでは、この書物を見ていきましょう!


『 僕には母と姉がいる。

 物心ついたときから、父親はいない。母子家庭である。

 当然、生活は楽ではなかった。おかずが三食、もやしだったことがある。
そのうち、もやしも出なくなって、ごはんだけになり、やがてごはんもなくなり、米のかわりにあられが食卓に出たこともある。
そんなとき、母は、

「今日のごはんは、あられたい!」

と明るく言い、僕と姉も喜んで食べた。

 貧乏だなぁ…とか、惨(みじ)めだなぁ…とか思ったことはない。

当時の近所の人たちも、僕ら家族がそれほど貧乏だとは思っていなかったという。

 なぜか?

 母が無類のきれい好きで、僕たちを毎日、必ず銭湯に行かせたからだ。お金がないときは、

「持ってくっとば忘れました」

と言わせて入らせた。

 たとえ着ている服がボロボロでも、清潔にしていれば大丈夫――母の知恵だ。

人の悪口は言わない。別れた夫(僕の父)への文句や愚痴も言わない。たとえ身内でも金の無心はしない。

そして、あいさつや片付け、食事のマナーなど、しつけにもうるさかった。幼少の頃は、とにかくよく怒られていた。

でも、僕がいじめにあっていると知ると、小さい体で相手の家や学校に、何度も乗り込んでいってくれた。

 僕と姉のためには、文字通り、体を張ってくれていたと思う。

 こう書くと、行い正しき理想の母のように思えてくるのだが、僕が今やっているものまね。そのルーツも、実は母にあるといってもいい。

 とにかく「笑い」のツボがズレているというか、独特なのだ。なんでそういう発想をするのだろう、と思うことばかり。

 おかげで僕の家にはいつも、笑いがあった。笑い声がしない日なんてなかった。
反抗期もなかった僕が、人生で一度だけ、母の言うことに逆らったのは「芸能人になる」といって東京へ出て行ったとき。

 母が言ったように、芸能界は決して楽な世界ではなかった。楽しいこともあるけれど、つらいことやいやなこともたくさんあった。

 そんなとき、僕にはいつも思い出す言葉があった。

「あおいくま」

 母に教えられ、小さい頃からつねに僕の胸の中にある言葉だ。

 あせるな

 おこるな

 いばるな

 くさるな

 まけるな

この五つの言葉の頭の文字をとって、「あおいくま」。

 母はいつも言っていた。

「人生は、この五つの言葉たい」

いったいどんな母親だったのか。それはこの本を読んで知ってもらいたい。とにかく、いろいろな意味で「すごい」人だ。

おかげさまで僕も、2010年で芸能生活30周年を迎えることができた。

デビューこそ順調だったが、決して順風満帆な日々だったわけではない。特に人間関係ではいろんなことがあった。

 そんなとき、何度も思い出したのが「あおいくま」だった。そしてそのつど、「あおいくま」に助けられてきた。

 東日本大震災や長引く不況も重なり、新聞やテレビのニュースでは何かと暗い話題ばかりが先行している。

 仕事場の人間関係で悩んでいる人。

 親子や家庭の関係で悩んでいる人。

 友だちとうまくいかなくて悩んでいる人。

 こんな時代だからこそ、ポジティブに、そして明るく前を向いて進めるように、ひとりでも多くの人に、この「あおいくま」を知ってもらえたらうれしい。』


(中略)

さて、私たち日本人は、元々用いていた言葉の「和語(やまとことば)」、そこに、あとから持ち込まれた「漢語(もろこしのことば)」やカタカナを充てる「外来語」、あるいは新しくつくられた「和製漢語」、そして「ひらがな」など、これらを自由自材に駆使して生活をしている高度な文明であることは世界的にも知られています。

さきほどの、「躾」という文字も、私たち日本人が造り出したものです。

しつけ

支那人に「しつけ」の概念なんて存在していませんので、それを表現する「漢字」が無かったという、とても分かりやすいお話ですね♥


(中略)

 

 

ちなみに、当ブログでは「な」無しの「あおいくま」という言葉もご紹介させて頂きますが、さきほどの5つの言葉から「な」を削除して、

 あせる

 おこる

 いばる

 くさる

 まける

という言葉を実際に実践されているのが、現在、何をやっても負けっぱなしの「パヨク連中」です(笑)


(後略)

 

 

 

 


(引用終了)

 

1708-10-1318-8/15メルマガブログ転送男女平等グーグル社員解雇

中身が濃くて面白い備忘メルマガブログ紹介
http://biglizards.net/strawberryblog/archives/cat-198/
苺畑より

(見出し)
August 11, 2017

グーグル社員による異見弾圧社風批判メモが炎上、社員は即刻首

(私のコメント)
サヨクリベラル勢力の劣化が激しい。
この記事もガリレオの宗教裁判と同じようなものだ。
これではサヨクリベラルから人は離れてゆくのではないか。
トランプ大統領はポリティカルコレクトネスが嫌われて当選した。
日本もだんだんそういう傾向になってゆくのではないか。

サヨクリベラルが信奉する神よりも人間の理性や合理性が上だ、と言う考え方は単なる個人の感情を理屈付けただけ、ということだ。
テレビのコメント屋などを見てもわかるように、嘘でもねつ造でも全然平気なのは神と同等か、神より偉い、と思っているからだ。
神、というのは別に神様がいるとかいないとか、聖書に従え、という意味でなく、謙虚さや物の道理、お天道様はお見通しだ、というような意味だ。
イギリス経験論のように、実際の社会から得られた知見が観念的な正義より優先されないといけないと思われる事例だ。
平等という正義の剣を振りかざす俺様は偉いのだ、神様よりえらい、というのがリベラルサヨクの本質でないか。
このグーグル社員は首になったそうだが、首にしたグーグルの社長は事実より「俺様はえらい」に理屈をつけただけじゃなかろうか。
俺様は偉いがお前も偉い、という考えでなく、俺は神、お前は悪魔、というのがリベラルになっているのだからゾロアスター教に退化したみたいなもんだ。
本当の悪魔を倒せばえらいのだが、ドン・キホーテのように風車に突撃したりして、滑稽だ。
風車ならまだいいが、バンデ地方のカトリック虐殺やポルポトのように皆殺しではかなわない。


(私のコメント終)


(引用開始)


(見出し)

August 11, 2017

グーグル社員による異見弾圧社風批判メモが炎上、社員は即刻首

フェミニズム
先日米グーグルの社員が同社による行き過ぎたポリコレを批判する内部メモを書いたが、それが社外に流出してネットなどで大炎上。メディアはメモの内容を全く読みもせず、それがあたかも極度な女性蔑視のメモであるかのように報道。メモの著者である男性社員は即刻グーグル社を解雇された。下記はメディアによる典型的な偏向報道。強調は記事による歪曲部分である。

女性差別文書で男性社員を解雇 米グーグル 解雇男性は反発

米IT大手グーグルは8日までに、ハイテク業界に女性が少ないのは生まれつき技術職に向いていないのが要因だ、とする社内文書を作成した男性社員を解雇した。文書は社外にも広まり、性差別的として社内外から批判の声が出ていた。欧米メディアが伝えた。

 グーグルのスンダル・ピチャイ最高経営責任者(CEO)は従業員向けのメールで「われわれの行動規範に違反し、一線を越えている」と批判。ピチャイ氏は夏期休暇を切り上げ、この問題に関する社員集会を開くという。男性社員は解雇に反発しており、訴訟となる可能性がある。

 男性社員は文書で、男女の好みと能力に違いがあるのは「生物学的な理由」と主張し「ハイテク業界と指導者層で、女性が男性と平等な立場を実現できていない理由を説明できるかもしれない」と記していた。(共同)

グーグルのスンダル・ピチャイ最高経営責任者(CEO)はこのメモについて、「我々の職場で性別における有害なステレオタイプを促進するような言葉によって(略)我々の特定の同僚が生物学的に職種に適さない傾向があるなどと言うのは無礼でありオッケーではない。」と語った。

デイリーワイヤー誌のベン・シャピーロによると、この”not OK"「オーケーではない」という言い方は暗号で、実は「そとに連れ出し貼り付けにして明け方火あぶりの刑に処せ」というに等しいぐらいの厳しい糾弾である。

このメモの著者はジェイムス・ダモアー(James Damore)という白人男性で、グーグルでエンジニアとして働いていた。ダモアーはグーグル社における右翼保守思想弾圧や、不効率な女性及び少数派への特別扱いについて批判したのであり、女性が男性に比べて劣るなどとは一言も言っていない。特にグーグルに努める女性社員が男性社員に比べて不能だなどとは一切言っていない。

彼はIT系や管理職に女性の数が少ないのは、生物学的な男女差に起因するものがあり、必ずしも女性差別によるものではないと説明した。さらにダモアーは統計的に女性と男性が仕事に求めるものは違うことを示し、グーグルが女性社員を増やしたいなら、女性の入社志望者の基準を下げるのではなく、パートの仕事を増やすなど、女性に魅力ある職場を作ることに努力すべきだと提案したのだ。

男女の賃金の差や管理職における女性の数の少なさについてはアメリカだけでなく、最近は日本のフェミニストからも多く苦情が出ているようだが、完全な男女平等社会であればどんな職種でも男女が半々になるはずだという考えは、男女の差を全く無視した考えから来るものだ。

女性は人間関係の円満さを求める傾向があるので、ストレスが高く競争が激しい分野より和気あいあいな職場を求める。また家庭を優先させるため勤務時間が長い管理職も自ら敬遠する傾向がある。それで必然的に女性の平均賃金はこうした職種に就く男性よりは低くなる。が、もし女性でも家庭をある程度犠牲にしても男性社員との激しい競争に打ち勝てる人は、それなりの地位についている。

カカシは大学は工学部出身だが、機械にしろ電気に建築しろ工学部における女生徒の割合は一割程度だった。しかし女性が理系に向かないのかといえばそれは違って、科学でも化学や生物学および医学系、そしてわが母校が誇る酪農・農業科学などには女生徒が非常に多かった。つまり女性は機械よりも生きたものに興味があるということだ。

大学がこうなので、機械及び電気工学専門の職場であるカカシの職場では必然的に女性エンジニアの数は一割程度。わが社の女性社員は圧倒的に人事課とか総務課の仕事についている。カカシがこの一割のエンジニアに含まれることは言うまでもない。

平均的な女性と平均的な男性の違いを指摘することは決して一個人の女性の能力を軽視するものではない。ダモアーはグーグルから「男女差のステレオタイプを促進している」として解雇されたが、シャピーロ曰く、グーグルの「多様性方針」こそが男女差のステレオタイプに基づいたものだという。

職場の文化を豊かにするためにもっと多くの女性を雇わなければならないという考え方そのものが、女性は男性と違うという思想に基づくものだ。ザ・ブレーズ誌のマット・ウォルシも、もし男と女が同じなら、女性が特に職場に貢献するものはないはずだと指摘する。

もっと女性社員の数を増やすべきだという考えは、女性が男性と違った特有な才能を持っているからでなければ成り立たない。女性と男性が全く同じなら職場の男女の比率が同率でないからと言って特に問題はないはずだ。だがもし、女性には男性とまったく違った特性があると主張するなら、その特性が女性をある種の職場から遠ざけている可能性も考えなければならない。女性には特性があると言っておきながら、その特性が男性とは違うのだと指摘することを差別だと言い張るのはおかしい。女性が男性と同じなら女性は特別ではない。女性が特別なら男性とは違う。どっちなのか?

グーグルは民間企業なのでどんな理由で社員を解雇しようとグーグル社の勝手ではあるが、常に多様な意見の交換を促進していると掲げている同社が、社風の保守派弾圧思想を批判した社員を即解雇したというのは、いかにダモアーの指摘が正しかったかを証明するものだ。これで同社においてダモアーの意見に賛成している社員は口をつぐまざる負えなくなっただろう。

しかし、ダモアーのような賢い男性が、このメモが炎上することに全く気が付かなかったとは思えない。はっきり言ってダモアーは確信犯だと思う。ダモアーはこのメモが社内内部で収まるなどとは考えていなかったはず。このソーシャルメディアの時代、しかもグーグルというネット情報検索エンジンの会社の第一線で働く彼が、自分のメモがソーシャルメディアで拡散されないと考える方がおかしい。そうなればフェミニスト連中が女性蔑視だと言って騒ぎ立て、後退派メディアが歪曲報道をやって、会社に恥をかかせたと怒ったグーグルがダモアー解雇、、となることは最初からわかりきっていたことだ。

ダモアーはグーグルを訴える覚悟があると言っているが、最初からそのつもりでグーグルを挑発したことは明らかだ。グーグルはダモアーが言った通りの反応を示した。実際ダモアーが勝訴する可能性があるかどうかはわからない。だが今後彼はこのことを利用して保守系メディアで活躍できるはずだし、すでに採用の依頼が来ているという話もある。なんにしても今後の彼の人生は結構明るいのかもしれない。August 11, 2017

グーグル社員による異見弾圧社風批判メモが炎上、社員は即刻首

フェミニズム
先日米グーグルの社員が同社による行き過ぎたポリコレを批判する内部メモを書いたが、それが社外に流出してネットなどで大炎上。メディアはメモの内容を全く読みもせず、それがあたかも極度な女性蔑視のメモであるかのように報道。メモの著者である男性社員は即刻グーグル社を解雇された。下記はメディアによる典型的な偏向報道。強調は記事による歪曲部分である。

女性差別文書で男性社員を解雇 米グーグル 解雇男性は反発

米IT大手グーグルは8日までに、ハイテク業界に女性が少ないのは生まれつき技術職に向いていないのが要因だ、とする社内文書を作成した男性社員を解雇した。文書は社外にも広まり、性差別的として社内外から批判の声が出ていた。欧米メディアが伝えた。

 グーグルのスンダル・ピチャイ最高経営責任者(CEO)は従業員向けのメールで「われわれの行動規範に違反し、一線を越えている」と批判。ピチャイ氏は夏期休暇を切り上げ、この問題に関する社員集会を開くという。男性社員は解雇に反発しており、訴訟となる可能性がある。

 男性社員は文書で、男女の好みと能力に違いがあるのは「生物学的な理由」と主張し「ハイテク業界と指導者層で、女性が男性と平等な立場を実現できていない理由を説明できるかもしれない」と記していた。(共同)

グーグルのスンダル・ピチャイ最高経営責任者(CEO)はこのメモについて、「我々の職場で性別における有害なステレオタイプを促進するような言葉によって(略)我々の特定の同僚が生物学的に職種に適さない傾向があるなどと言うのは無礼でありオッケーではない。」と語った。

デイリーワイヤー誌のベン・シャピーロによると、この”not OK"「オーケーではない」という言い方は暗号で、実は「そとに連れ出し貼り付けにして明け方火あぶりの刑に処せ」というに等しいぐらいの厳しい糾弾である。

このメモの著者はジェイムス・ダモアー(James Damore)という白人男性で、グーグルでエンジニアとして働いていた。ダモアーはグーグル社における右翼保守思想弾圧や、不効率な女性及び少数派への特別扱いについて批判したのであり、女性が男性に比べて劣るなどとは一言も言っていない。特にグーグルに努める女性社員が男性社員に比べて不能だなどとは一切言っていない。

彼はIT系や管理職に女性の数が少ないのは、生物学的な男女差に起因するものがあり、必ずしも女性差別によるものではないと説明した。さらにダモアーは統計的に女性と男性が仕事に求めるものは違うことを示し、グーグルが女性社員を増やしたいなら、女性の入社志望者の基準を下げるのではなく、パートの仕事を増やすなど、女性に魅力ある職場を作ることに努力すべきだと提案したのだ。

男女の賃金の差や管理職における女性の数の少なさについてはアメリカだけでなく、最近は日本のフェミニストからも多く苦情が出ているようだが、完全な男女平等社会であればどんな職種でも男女が半々になるはずだという考えは、男女の差を全く無視した考えから来るものだ。

女性は人間関係の円満さを求める傾向があるので、ストレスが高く競争が激しい分野より和気あいあいな職場を求める。また家庭を優先させるため勤務時間が長い管理職も自ら敬遠する傾向がある。それで必然的に女性の平均賃金はこうした職種に就く男性よりは低くなる。が、もし女性でも家庭をある程度犠牲にしても男性社員との激しい競争に打ち勝てる人は、それなりの地位についている。

カカシは大学は工学部出身だが、機械にしろ電気に建築しろ工学部における女生徒の割合は一割程度だった。しかし女性が理系に向かないのかといえばそれは違って、科学でも化学や生物学および医学系、そしてわが母校が誇る酪農・農業科学などには女生徒が非常に多かった。つまり女性は機械よりも生きたものに興味があるということだ。

大学がこうなので、機械及び電気工学専門の職場であるカカシの職場では必然的に女性エンジニアの数は一割程度。わが社の女性社員は圧倒的に人事課とか総務課の仕事についている。カカシがこの一割のエンジニアに含まれることは言うまでもない。

平均的な女性と平均的な男性の違いを指摘することは決して一個人の女性の能力を軽視するものではない。ダモアーはグーグルから「男女差のステレオタイプを促進している」として解雇されたが、シャピーロ曰く、グーグルの「多様性方針」こそが男女差のステレオタイプに基づいたものだという。

職場の文化を豊かにするためにもっと多くの女性を雇わなければならないという考え方そのものが、女性は男性と違うという思想に基づくものだ。
ザ・ブレーズ誌のマット・ウォルシも、もし男と女が同じなら、女性が特に職場に貢献するものはないはずだと指摘する。

もっと女性社員の数を増やすべきだという考えは、女性が男性と違った特有な才能を持っているからでなければ成り立たない。
女性と男性が全く同じなら職場の男女の比率が同率でないからと言って特に問題はないはずだ。
だがもし、女性には男性とまったく違った特性があると主張するなら、その特性が女性をある種の職場から遠ざけている可能性も考えなければならない。女性には特性があると言っておきながら、その特性が男性とは違うのだと指摘することを差別だと言い張るのはおかしい。女性が男性と同じなら女性は特別ではない。女性が特別なら男性とは違う。どっちなのか?

グーグルは民間企業なのでどんな理由で社員を解雇しようとグーグル社の勝手ではあるが、常に多様な意見の交換を促進していると掲げている同社が、社風の保守派弾圧思想を批判した社員を即解雇したというのは、いかにダモアーの指摘が正しかったかを証明するものだ。これで同社においてダモアーの意見に賛成している社員は口をつぐまざる負えなくなっただろう。

しかし、ダモアーのような賢い男性が、このメモが炎上することに全く気が付かなかったとは思えない。はっきり言ってダモアーは確信犯だと思う。ダモアーはこのメモが社内内部で収まるなどとは考えていなかったはず。このソーシャルメディアの時代、しかもグーグルというネット情報検索エンジンの会社の第一線で働く彼が、自分のメモがソーシャルメディアで拡散されないと考える方がおかしい。そうなればフェミニスト連中が女性蔑視だと言って騒ぎ立て、後退派メディアが歪曲報道をやって、会社に恥をかかせたと怒ったグーグルがダモアー解雇、、となることは最初からわかりきっていたことだ。

ダモアーはグーグルを訴える覚悟があると言っているが、最初からそのつもりでグーグルを挑発したことは明らかだ。グーグルはダモアーが言った通りの反応を示した。実際ダモアーが勝訴する可能性があるかどうかはわからない。だが今後彼はこのことを利用して保守系メディアで活躍できるはずだし、すでに採用の依頼が来ているという話もある。なんにしても今後の彼の人生は結構明るいのかもしれない。
(引用終了)


(要約引用開始)
http://totb.hatenablog.com/
Think outside the box
MAKE JAPAN GREAT AGAIN
2017-08-10
Googleを解雇されたエンジニアの主張はニセ科学か?


(前略)

要するに、こういうことです。
その他
【戦後70年特別企画 遺言 日本の未来へ】【坂本フジヱ】「男と女が同じなら、そらセックスもせん」
男性と女性は本来、全く違うんです。同じようにしたら歪みが出てくるんは当たり前です。

(中略)

進化心理学者のジェフリー・ミラーは極めて肯定的です。

 

(中略)
ずいぶん皮肉な話だが、社会が平等になるほど、先天的な要因が重要になる。だれもが同じ食料を手に入れられる世界では、背丈や体重の遺伝性が高くなる。・・・・・・同様に、だれもが同じ教育を受けられる世界では、最高の仕事は、生得的な才能が最も高い人のものになる。これがつまり、実力社会という言葉の意味するところなのである。*9
教訓:公平な社会では「生まれ」が強調され、不公平な社会では「育ち」が強調される*10

(中略)
仮に数学的才能に男女差がないとしても、興味の差の存在を否定することは困難です。社会の影響を受けていない幼少時から興味の対象に男女差が存在することには強力なエビテンスが積み重なっています。*12
*12:多人数の子供を観察してきたベテランの幼稚園教諭や保育士にとっては常識。

ドリーン・キムラは次のように指摘していますが、男における看護や教育に相当するのが女ではITだとすれば、すべては合理的に説明できます。

***

興味深いのは、女が少ない仕事には土木作業員や配管工、炭鉱夫、自動車修理工、トラック運転手、漁師、さらには金融機関のトレーダーやクォンツなど他にもあるにもかかわらず、なぜかITばかりが男女差別と騒がれることです。このことは、リベラルがITを特別視していることを示唆しますが、これについては分析する価値があるでしょう。

保育や看護、教育に女が多い→無問題
土建や漁師に男が多い→無問題
短距離走は西アフリカ系黒人が強い→無問題
長距離走は東アフリカ系黒人が強い→無問題
アメフトはポリネシア人が多い→無問題
読解力の平均点が女>男→無問題
数学の平均点が男>女→深刻な性差別
ITエンジニアは白人の男が多い→深刻な人種差別・性差別

***

科学よりもイデオロギーを優先した今回の解雇騒動は、地動説を否定したガリレオ裁判のようなものです。リベラルの知的退行が進んでいます。
(後略)
http://totb.hatenablog.com/entry/2017/08/07/220158

Think outside the box
MAKE JAPAN GREAT AGAIN
2017-08-07
Google社員の多様性イデオロギー批判

(前略)

子育ては他の類人猿や霊長類でも雌の役割なので、男女構成比の違いは生まれつきの性差の反映と考えるのが自然です。ならば、テクノロジー業界の男女構成比が生まれつきの性差によるものであっても何の不思議もありません。

花形のテクノロジー業界に女が少ないと「女を増やせ」と騒ぐが、「保育士の半数を男にしろ」「土木作業員の半数を女にしろ」「労災死の半数が女になるまで平等化を進めろ」とは騒がないことに、リベラルの欺瞞が表れています。男がやってきた危険な汚れ仕事を引き受ける気はさらさらないが、勝ち組男のポジションの半分は女に譲れという異常な欲深さが現代フェミニズムの本質です。

(後略)


(要約引用終了)

1708-8-1316-8/12メルマガブログ転送徳島阿波踊り

中身が濃くて面白い備忘メルマガブログ紹介
https://www.youtube.com/watch?v=5R1Dv2-25Kc

阿波踊り2016 総集編 Awaodori Festival in Tokushima, Japan
https://www.youtube.com/watch?v=eSyw9PzGRwg
阿波踊り前夜祭(何年か分の良い場面だけを凝縮しました
(見出し)

(私のコメント)
行ってみると分かるが、徳島はかなり豊かなところだ。
徳島名物阿波おどりはそういう豊かさの賜物だ。
徳島が豊かだ、という理由は京都や大阪の向かい側にあって、それらの消費需要に答えられるからだ。
船で物資を送れる側にあるからゆたかなのだ。
経済を見るとき、重要なのは、供給能力より需要だ。
物資が右に動いた時、必ずカネが左に動いている。
需要の反対側にカネが動くのだ。
当たり前の話だが、これを押さえておくと経済が分かりやすい。
落語の郭話(くるわばなし)吉原遊郭のネタでは野田の醬油問屋の若旦那、野暮な田舎言葉のお大人が出てくる。
彼らは今の千葉県や茨城県の供給側の金持ちで、案外もてている。
これと同じ立場なのが徳島県というわけだ。
それで、経済力があるから夏の数晩を踊って過ごせる、というわけだ。
尚、余談だが野田のお大人は吉原で散財するが、これは経済的に正しい行為だ。
カネというのは物資の動きの借用証書だから都会で使って都会にかえさないといけない。
左から右に動いたものを右から左に動かして借用証書を戻してやる必要があるのだ。
そうしないと需要側にカネが無くなってしまい、結果的に供給側もこまるからだ。
今の日本で言えば国民特に若い人の実質賃金が下がっている。
この国民が都会の吉原で、野田のお大人が遊んでくれない状況です。
では野田のお大人は誰か、それは供給側の大企業であり、政府でもある。
大企業と政府が国民に対しカネを使わないと全体が干上がってしまうということです。
余談が長くなるので、又別の時にしますが、カネとモノの逆の動きは経済を知るうえで重要ということです。

(私のコメント終)