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ばんちゃんの読書日記~新書・文庫篇~

(私のコメント)

このブログは本の要約と感想を書いているのだが、とても読みやすくて分かりやすい文章だ。
これを読めば本一冊読んだ気分になれる。
所詮その本を読んだとしても、あまり頭には残らないからこういう要約を読むのと同じことでカネと時間が節約できてありがたい。
分からないところや、もう少し詳しく知りたいときは、検索をかけるかアマゾンの書評を見れば大概分かる。
エドマンドバークの「フランス革命省察」という有名な本は、私は本文より色々な人の書評の方が頭に残っている。
特に外国の本は分厚い本が多くて、1000ページもあったら何か月もかかる。
読み終わる頃には最初の処は忘れている。
だから、そういう本は書評や要約をネットで検索して読んだ方が良い。
ところで、おかげさまでケータイをスマホに変えたが、それでありがたいのは電子本(Kindle)が読めるようになったことだ。
新書版の半ページの大きさで片手で本が読めるし、新書版より軽い。
歩きながら読んでもケータイだと皆がやっているからあまり文句を言われない。
勿論、危ないから公園など人気のない所だけだが、皆スマホを見ながら歩く気持ちもわかる。
スマホと電子本はとても相性が良いし、本箱がいらないし、普通の本に比べて少し安い。
これからは主流になってゆくのではないか。
この書評のアルベールカミュという人はフランスの小説家で「異邦人」などが有名だ。
ウィキペディアによれば、
カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。
カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。
カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。
それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。
カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義マルクス主義と対立した。
ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。
彼の著作のヒューマニズムは、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである[1]。
(引用終)

私なりに解釈すると、人は先のことは分からん、理屈では解決できないことがある、それでも「立ち向かえ」ということだろう。
出来れば上機嫌に失敗OKで立ち向かうなら更に上等だ。
あらゆるイデオロギーには不条理が付きまとうから上機嫌に立ち向かう、というイデオロギーにもそれがある。
それを知りながらあるイデオロギーに価値観を付与して不条理に立ち向かうわけだ。
私の考えでは、カミュは人間の理性がつくり出すイデオロギーを疑う、というイデオロギーだから保守主義に近いのではないか。
保守主義は「漸進主義」「共同体主義」「懐疑主義」「自由主義」から構成されるが、いずれも人間には分からないことがあることが前提だ。
だが、これだけではあいまいでいわゆるリベラルの「頭の良い人」は受け入れられないだろう。
彼らは数学のように必ず一つの答えがある、又はあるべきだ、と思っているから不条理などあっても見たくないのだ。
日本人は分からないことがあるなんて当たり前の話だが、西欧は厳しい一神教キリスト教ユダヤ教がバックにある。
このカミュにしてもキリスト教徒に向かって書いているので、キリスト教が前提にあることをわきまえて、日本人的に解釈すると間違うだろう。

これから日本も大乱が来る。
日本の歴史を見ても平和がこんなに長く続いたことはない。
大乱とは、不条理に100万人くらいは殺される時代のことだ。
庶民は「津波てんでんこ」で立ち向かって生き延びるしかない。


これに関連してもう一つブログを紹介したいが、この便では長くなるので別便にします。


(私のコメント終)

(引用開始)

〈本書の内容〉

2017-08-17
不条理との闘い 『ペスト』を読む。

(前略)
カミュの大作『ペスト』を読んだ。ペストという悪に圧倒され、絶望していく人々が、この不条理の中で必死でもがいていく姿がとても印象的だった。

 

あらすじ

アルジェリアのオラン市で原因不明の熱病が流行した。医師であるリウーは、熱病の症状がかつてヨーロッパで猛威をふるったペストであるという疑いを持つ。市政府はパニックを恐れるあまり、本当にペストであるという確証がないかぎり動かないという。そうしている間にペスト感染が拡大し毎日死者数が雪だるま式に増えていった。

 

ペストであることを認めた市政府は、感染拡大を防ぐため市を封鎖。感染の疑いのある人々は収容所へ移され、家族とも離れ離れになった。人々のペストへの怒りの矛先は、厳格に締め付けを行う市政府に向けられ、市民と市警への衝突に発展していく。

 

医師リウーは、他の街で療養している妻を案じながらも、不条理に命を奪うペストの進行を食い止めるべく、市役所や仲間とともに保健団を結成して患者の治療にあたる。しかし、ペストの勢いは止められず、人々は絶望を通り越して諦めの境地に向かっていった。

 

勝ち目のない戦いを繰り広げながら、人々はやがて団結し始める。神父、子供、金持ち、犯罪者…どんな立場の人にも平等に訪れる死を前に、必死でもがき続けるのであった。

 

人間は自分が第一である。

集中豪雨でも北朝鮮のミサイルでも、我々は危機に対して鈍感である。その脅威は知っている。しかし、どこかで自分には起こりえないと思うのである。そして、政府から出される避難指示などに対して、大げさだとか面倒だとか愚痴るのだ。自分や自分の家族が危険に身をさらされて初めて、恐怖や怒りの感情が生まれる。

 

ペストの兆候が見られ死者の数が増加していく中でも、市井の人々はどこか他人事。悪いことや想定外の事象は起きないと信じている。たとえそれが起きたとしても、いずれは過ぎ去っていく、長く続きはしないと高を括っている。カミュはそれを人間中心主義の考え方と評した。では、ペストの正体が明らかになったとき、人々は恐怖や悲しみとう感情を持っただろうか。否。それよりも、政府による習慣や利益への妨げを気にするのだ。隔離され政府の支配下に置かれたオラン市の人々にとって、ペスト対策がもたらす不都合への憤りが最初なのだ。

 

次第に、ペストが蔓延し自らがペストにかかり、また家族がかかり隔離されるようになってはじめて、人間は恐怖や離別を感じ、個人的な事象から社会的な事象へと昇華していくのである。

 

 

善意を過大評価すべきでない。

善意は必ずしも役に立つものではない。時としてそれは邪魔者になりうる美徳である。ましてや自分の行為を、「素晴らしいことをしている」と勘違いすることは危険である。

 

リウー達が政府とは別の保健隊を組織し、ペストの予防対策を行ったとき、著者は決して善意をひけらかすものではないと釘をさしている。

 

美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたいのである。(p.193)
世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意思も豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。(p.193)

東日本大震災においても、九州豪雨においても、市民の自発的な活動が大きな役割を果たしてきた。ボランティアによって多くの人が助かっているのも事実である。しかし、それを過大に評価したり、その行為自体に酔いしれたりすべきではない。専門の集団に任せたほうが、より多くの人を救えるかもしれないのだ。

 

不条理に対して論理は役に立たない

 

物語の中ではペストによって、自分の持つ論理を大きく狂わされた人物がいる。社会的な正義を生業とする新聞記者のランベールと、宗教的指導者である神父パルヌーだ。

 

ペストへの対応をめぐるランベールの主張はこうだ。「公共の幸福は一人ひとりの幸福によって成り立つ」ものであり、隔離や、他国への渡航禁止などは、一人ひとりの人間の幸せになる権利を奪っている。ランベール自身、オラン市にたまたま居合わせた人間として、フランスに残してきた細君に会えない怒りに苛まれていた。

 

人権を盾にとって至極まっとうな論理を振りかざすものの、誰一人として外へ出すことはできないという政府の主張は変えられなかった。結局、彼は密輸業者の手助けによってオラン市脱出を試みる。ところが、彼と同じ境遇で、病気の妻を市外に残しながら、患者の看病にあたり、ペストと対峙する医師・リウーの姿をみて彼の論理は逆転する。

 

自分ひとりが幸せになったところで、全体が不幸であるならば意味がない。公共の幸せを優先的に感がるようになったのである。結局、彼は国外への脱出するチャンスを逃し、リウーらとともにペストと戦う。

 

神父・パルヌーはどうか。ペストは神が与えた試練であり、ペストによる苦しみ、悲しみは我々の罪を見つめなおす良い機会である。これが神父の論理であった。絶望の中で生きる人々にとって、パルヌーの祈りは崇高なものになった。群衆がパルヌーの説教を聞くために殺到するほどに支持された。

 

ところが、ペストに侵され、苦しみ悶えながら死んでいく少年の看病に立ち会うことで、彼の論理はもろくも崩れる。罪のない少年へのむごたらしい神の仕打ちに対し、「我々人間の理解を超えた存在」として、この現実を受け入れるしかできなくなるのであった。

 

どうしようもない状態の中では、理屈や論理などに意味はなく、リウーのように黙々と不条理に抗い続けるしかないのである。しかし、この必死の抵抗こそが、自分中心の考え方を、社会の連帯へと昇華させる。最初は、自分や家族のことしか気にならなかった人々が、絶望の中でもがく人と共感しあい一緒に立ち向かっていく。これが人間のすごいところなのではなかろうか。

 

東日本大震災で唱えられた”絆”がそうであるように。戦後の復興がそうであるように。

 

「なんで自分がこんな目に」そう思ったとき、必死であがいてみよう。やるべきことを淡々とやり続けよう。いつか事態が打開できるかもしれない。そんな気持ちにさせられた。


(引用終了)