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Scarecrow in the Strawberry Field
(見出し)
差別をする自由は尊重されるべきか?

 

(私のコメント)
記事の結論はつぎのとおり。
「彼らの目的は自由社会を破壊することだ。」
左翼はその背後には破壊願望を持っている。
その破壊願望を利用してて社会を混乱させて権力を握りたい、そういう勢力が背後にある。
だから「差別」をなくそう、というのも道具に使っているだけだ。
注意しないといけないが、「差別撤廃」は良いことなのだ。
一般に皆が反対しづらい問題を捉えてそれを錦の御旗にするのが左翼の常とう手段で、それで破壊願望をごまかすのだ。
これは戦前の共産主義も同じで、「貧富の差を無くす」「国民が平等に豊かに幸せになる」というのが錦の御旗だった。
これには誰も反対しづらい。
天皇陛下だって同じ考えだろう。
だから、戦前日本の隠れ共産主義者はみな右翼全体主義を装っていた。
戦前の中国戦線では毛沢東のシナ共産党八路軍に捕まった大量の日本人捕虜が出たが、これが洗脳によって皆共産党員になった。
中国人の日本留学生の中には共産主義を信奉する人も沢山いたから、それらを取り込んで日本人教育に当たらせた。
シナ共産党八路軍は将校と兵士の階級の差がなく、又捕虜と同じものを食べ、「我々は同志だ、悪いのは資本家とその走狗の政府だ」と教えた。
そして、目的は農民をはじめとする国民が豊かに幸せに暮らすことで、その為には共産主義が一番だと説得した。
実際に捕虜の前では芝居で農民を保護していたから、日本人捕虜は騙された。
日本人捕虜は大体農民出身だから、「貧富の差を無くして皆が幸せに暮らす」と言われれば信じてしまう。
本当の共産主義を勉強して共産主義者になったわけではない。
左翼というのは理論を装っているが、実はイメージなのだ。
こういう日本人捕虜が戦後帰国して革命を起こそうと色々な騒擾事件を起こしたのだ。
このように始まりの「国民平等」という考えは正しいから、毒キノコのように外見に騙されて、隠された破壊願望という毒も一緒に食べてしまう。
ところが、共産主義者はこういう正しい目標を道具に使うだけで、実際は自分たちが権力を握るのが目的なのだ。
今のシナ共産党を見ても分かる通り、国民や庶民の幸せなど実は考えていないのだ。
結局共産主義は二十世紀に一億人の命を奪って失敗に終わった。
これと同じ構図が「差別」だ。
「差別」のどこが良くないか吟味したうえで、そういう破壊願望の連中を排除しないといけない。
「差別」が撤廃されたら具体的にどんなメリットが社会にもたらされるのか、今よりより良い社会になるのか、考えるべきだ。
「人種差別」は国家において、門閥や階級性別などで差別すると、良い人材が出られず社会が衰退するからいけない。
社会は有能な人材が活躍できる競争がある社会でないと活性化しない。
但し、人間の長い歴史では人というものは、階級や門閥、一定範囲の排他的な集団の中で暮らしてきた。
「差別」「区別」した方が人間は暮らしやすい一面もある。
そういうことも踏まえたうえで「差別」を考えないとサヨクの思うつぼにはまってしまう。

(私のコメント終)
(引用開始)

先日ネットでとある女性と同性婚について話をしていた。彼女のツイッターを読む限り、彼女は離婚専門の弁護士であり共同親権に反対する立場の人であると推測される。ま、それはいいのだが、私の主張は同性婚が合法になったら、宗教上の理由から同性婚にサービス提供を拒否する人が訴えられる可能性があるという話をしたら、彼女は「誰にも差別をする自由などない」と断言した。

これは非常に興味深い宣言だ。人権屋の皆さまは、やたらにこの「差別」という言葉を使いたがる。
なんでもかんでも「差別だあ~」と言えば相手を黙らさせることが出来る魔法の呪文ででもあるかのように。だが私は差別も自由人の大事な権利だと考えている。

差別という言葉を使うから語弊があるが、これが区別であれば、特に問題はないはず。我々は日常生活において色々なものを区別している。
私は甘いものは好きだが塩辛いものは好きではない、ズボンは好きだがスカートは嫌い、
Aさんは好きだがBさんは嫌い、といったように。そして私たちは皆、その好き嫌いを基本にして自分らの行動を決めている。
これはれっきとした差別だ。だが、何を好み、誰と付き合うか、それは個人の自由であるはず。

無論これが個人単位ではなく企業など商売になったらどうなるかという問題はある。
例えば私がキリスト教の神父だとして、自分の協会に同性婚の結婚式を挙げてくれという依頼が来たら、私は宗教上の理由からお断りするしかない。だが私には法律上この依頼を断る権利があるのだろうか? いや、宗教の自由が保証されている日本では、断る権利を守る必要があるのでは?

私は「~は差別されなければならない」という差別的な法律さえ取り除けば、
個人や民営の企業が誰をどのように差別しようと認められるべきだと考えている。
アメリカで黒人と白人が一緒の施設で行動することを違法としたジム・クロー法などは、
例えレストランの経営者が黒人客にも入ってほしいと思ったとしても、経営者にはその自由はなかったのである。
つまり、法律が差別を強制していたのだ。だからこのような悪法は撤廃されて正しかった。

しかし、差別法を撤去することと、差別をしてはいけない、という法律を通すことは違う。
私は差別を撤廃するのは法律ではなく市場だと考えている。例えば黒人の多い地域でレストランを営む経営者が黒人客を拒否したとする。
こういう行為は店の客数を減らすことになり不経済だ。
それに黒人の友達や家族の居る客や、差別者の店を好まない客など、客数は極端に減るだろう。だから経営者もこんな不経済な差別はやらなくなる。

反対に○○人は行儀が悪く、大して物も頼まないのに長居をするため不経済だと思えば、
経営者が「○○人はお断り」と言っても構わないと私は思う。
そうなれば、今度はまた別の経営者が「○○人大歓迎」という店を始めればいい。そうすれば、それなりに儲かるだろう。

だから私は本当に差別をなくしたいなら、法律を通すのではなく市場に任せておけば自然と是正されると考えている。
資本主義がきちんと機能していればそういうことになる。(残念ながら現状のアメリカではそのような差別は許されていないが。)

ただし、誰もが必要な公共施設の場合はこういう差別は許容できない。
水道局とか市役所とか銀行とか、一般人にとってなくてはならない組織での差別は人権迫害であるから、
そういう企業に限っては、個人の好き嫌いによる差別はあってはならない。

しかし、「~を差別してはいけない」という法律はいったい何をして「差別した」ということになるのか、それをはっきりさせる必要がある。
これがはっきりしないと左翼活動家によってなんでもかんでも差別だと騒がれて訴えられたり、
政府によって罰せられたりする可能性は出てくるからだ。

しかし、同性婚推進者にしろLGBT活動家にしろ、この差別の定義をはっきりっせようとする人はない。

たとえば、LGBT差別解消法なるものが通過した場合、男性性器のある女性自認の人物を女湯に入れないのはトランス差別とみなされるのか、
といったことは、事前にはっきりさせる必要があるが、活動家の方々は、そんな心配はいらない、そんな問題は起きない、というだけで、
我々が聞いている差別の定義をはっきり示すことは絶対にしない。
それだけ強く変化を要求するのであれば、何故変化が必要なのかしっかり説明する義務が彼らにはあるのではないか?

彼らは知っているのだ。同性婚LGBT法も、当事者たちの人権を向上させるためなどというのは表向きで、
本当の理由は一般人の自由を迫害することにあると。
左翼は特に宗教家が嫌いなので、宗教の自由が迫害されることは弊害ではなく計画的だ。

だから我々は騙されてはいけない。彼らの目的は差別撤廃などというものではない。彼らの目的は自由社会を破壊することだ。
よって、差別する自由は守られなければならないのだ。

 

 

(引用終了)